2018年11月16日

不死身の特攻・佐々木友次   鴻上尚史著


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  毎年夏になると「戦記もの」の出版が多く書店で目にします。気になっていた書物「不死身の特攻」を遅まきながら11月に購入。一気に読みました。

 陸軍の最初の特攻には「命令」により優秀な飛行乗務員が集められて決行されました。 その一人に佐々木友次伍長が選ばれて、結果的に9回出撃して戦後まで生き延びました。
彼が亡くなる前に作者が彼をインタビュ−して、それがこの本に記されています。


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 特攻前に乾杯する万朶隊員、左から佐々木友次、生田留夫、田中逸男、久保昌昭、奥原英彦


 この本の中には余り知られていなかった特攻にまつわることも書かれています。 

1. 特攻から生還した人を福岡に収容した振武寮が設置される。この管理将校に倉沢清忠少佐がいた。 彼は陸軍大学卒の航空将校である。 泥酔している倉沢が食堂に来てクズだ,卑怯者と収容者を罵倒した。ノモンハンでの敗戦の後に参謀が現地指揮官に自決を強要したことと同じように彼がしたという。その倉沢は戦後に一橋大学を卒業して印刷会社の社長に栄進する。彼は復讐を恐れて1996年まで51年間軍刀と実弾を込めたピストルを手放すことはなかった。

2. 特攻を始めた大西瀧次郎中将は「もう戦争は続けるべきでない」と言った。「特攻によるレイテ防衛は九分九厘成功の見込みは無い」。なぜ特攻をするかと云えば、天皇陛下が特攻のことを知れば戦争を止めろと仰せられるであろうこと、いかなる講和になろうとも、身をもって民族の滅びるのを防ぐ若者たちがいて、陛下の御心によって戦を止めさせられた事実が民族の再興するであろうと大西は述べたという。
 大西は終戦のとき自決した。

3. 南ス−ダンの駆け付け警護に対するアンケ−トが自衛隊で行われました。3択で「熱望する」「命令とあらば行く」「行かない」であった。「行かない」を選ぶと、上司に呼ばれて「なんで行けないのだ」とえんえんと問い詰めらたと匿名の自衛隊員は語った。結局「命令で行く」と答えた。 駆け付け警護は特攻とは違い必死の作戦ではないが、どこかで聞いたようなエピソ−ドではある。

4. 戦後になり、特攻隊員の遺族2000人を訪ねて遺書1000通を集めた。特務機関の一員と詐称し口外を禁じてこれを行う。不都合な証拠隠滅のためでしょうか?

5. 陸軍の爆弾には徹甲弾がなく、開発もせず、海軍からの提供も受けずに艦船沈没を企んだ特攻作戦を実行した。 映画などで特攻の映像を見ると、よく艦船の横腹をめがけて特攻機が突入しているのをお目にかかる。 実はこの戦法は、艦船のもつ防空火力の全部を受けることになることと、接敵時間の短いことからマズイ攻撃戦法である。    ベストの戦法は艦の後方から同一方向に同航することにより接敵時間の長きことを利用して命中率を高め、おまけに敵艦からの防空火力の少ない恩恵がある戦術である。

 1日ちょっとで読めてしまう本ですので、皆様もお読みになることをオススメいたします。

 ウイキペデイアに振武寮のことがあります。 ウイキは辞典的なもので面白みに欠けることが多いのですが、振武寮については、さまざまなエピソ−ドがのっており、ウイキとは言えない楽しめる読み物になっています。

振武寮のウイキペデイア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%AF%E6%AD%A6%E5%AF%AE

特攻まとめ
http://hayame.net/custom6.html#spb-bookmark-27


  2018-11-14


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2018年11月12日

五日市城(幸崎城・光明寺城)


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 五日市付近地図


 携帯のマップを使って不案内の地を散策していた。 その画面に五日市城跡があったので探してみる。 携帯を見ながらウロウロとしていると、そこは道の突き当りであった、買い物帰りの女性が「どうしましたか?」と声をかけてくれる。五日市城跡のことを尋ねました。近くに急傾斜地になっている小山があり、家も建っていて住んでいる人もいるようでだが、そこではないかと教わりました。


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 奥の小山で家が建っている城跡

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 急傾斜地駆の立札案内


 調べてみると、この地に亀山と小亀山と呼ばれた小高い場所があり、西側に江戸時代まであった八幡川があり二つの並んだ小山を利用した五日市城であったという。 亀山はすでに壊されて宅地になり、現在、日本アライアンス教団の教会がある。教えて頂いた女性は今考えてみると、この宅地に住まわれており、灯台下暮らし、御当人もお気が付きでなかったようです。

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 日本アライアンス教団教会

 この地は厳島神社領であり隣接した武田氏、後には大内・陶と毛利との対立で重要視された。宍戸氏の居城あった。近くの海老山城を支城として持つ。毛利氏がこの地を抑えてからは城の重要性が無くなる。


   2018-11-7


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2018年11月09日

CPUファン交換


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 ノートパソコンと交換したCPUファン

 ヨットで使用していた、東芝ノ−トパソコンが熱くなって停止するようになり、裏フタを空けてCPUファンの清掃をする。 その時驚くほどワタほこりがついていて掃除機で取り除く。 しばらくそれを使用したが、小時間しか使えなかったので、ファンの交換をしました。 今度は前のように完全復活です。 

 価格は千円ほどの費用でしたので皆様もトライしてみたらどうでしょうか? 丁寧にその交換方法を教えてくれるサイトがあり、ミシン用の小さなプラスドライバ−1本の工具でやることができます。

  http://dynabook.biz/reduce_pc/4359

 マザ−ボ−ドからファンの電源をとるプラグの差し込みがあり、それを差し込む際にピンが折れたり曲がったりすることがあるそうです。 注意が必要とのこと。

   2018-11-9


  
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2018年11月05日

幕末芸州藩 まとめ

 
 明治になり薩長芸の主導となるべき、芸州藩がなぜか忘れられてしまいました。

  幕末芸州藩 まとめ

http://www.hayame.sakura.ne.jp/index.html

   2018-11-5
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2018年11月04日

八条原城


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八条原城(志和神社)と志和盆地の閉塞予想箇所 赤☆5か所


 神機隊の本陣跡・西連寺から徒歩で八条原城跡(志和神社)に向かいました。今夏の集中豪雨の影響を受けて名前を知らない小河川の屈曲部には土嚢が積まれて改修が待たれている場所も見受けられます。 芸備線と山陽線に挟まれた盆地です。この地は駅から徒歩では利用できず、日に5-6便程度のバスしかなく、車が無いと生活は不便でしょう。

 幕末に外国との脅威が意識されると、海沿いの街は脅威を感じていました。幕府による江戸の台場、佐賀藩の長崎外海の砲台、福岡藩の犬鳴御別館、長州藩の勝山御殿などがその対策に設営されました。同様に広島藩は海に近い広島城に不安を覚え、広島より20kmばかり北東にある志和盆地に城を築きました。経済的に恵まれた雄藩にしかできませんでしたが。

 志和盆地は700m級の山に囲まれ、内村越・小原峠・御堂原・榎山峠・湯坂峠・関川(地点を地図で特定することはできませんでした)を封鎖することによって、志和盆地全体を一大拠点として要塞化できることや、この地で8000石が収穫できて自給体制に不安が少ないことからこの地が選ばれる。実際に幕末には神機隊から残存部隊が封鎖個所を警備する。

 藩主邸宅、政事堂、米蔵、練兵場、文武塾が作られた。明治2年12月になり明治が安定すると工事は中止される。

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 志和神社


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 八条原城跡 石碑と碑文


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 図面


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 この麓にあり



   2018-11-4




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2018年10月31日

BACH 全集が届いた


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 昨日アマゾンで注文した、「J.S.BACH Complete Edition」 142枚CD版
10.623円 先ほど届きました。 さっそくブランデンブルグ協奏曲から聞いています。

 何年か前に1度注文したが、数か月待っても届かなくてキャンセルしたことがある。その時は1万6千円程度であったと思う。 今回は2014年版でしかも驚くほどの格安である。 半世紀ほど前のレコ−ドでのバッハ全集が30万して涙をのんだこよを思いだされます。

 https://www.brilliantclassics.com/articles/j/js-bach-complete-edition/

 我が 「はやめの新バッハ全集」にどのように反映できるか期待してもらえますでしょうか?
     最新の更新は下記で行っています。

     http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank022.html


  2018-10-31





 
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2018年10月30日

神機隊 駐屯地を訪ねて

 
 神機隊の駐屯地を訪ねて東広島市の志和にある西連寺に行きました。 広島からJR山陽線で八本松駅で下車、タクシ−にて1800円の距離です。 路線バスは日に5−6便あり,西条駅より1000円弱です。事前に芸備バスの時刻表を確認しておくとよい。西連寺バス停で下車すぐ前です。

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 西連寺 神機隊本陣跡の石碑

 境内には隊員の10基ほどの墓地があります。

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 隊員墓地

 薩長芸軍事同盟で上洛した芸州藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは芸州藩の正規軍は参戦しなかった。 これ以降に芸州藩は戊辰戦争の主導権を失うことになる。

 京都で芸州は戦いもせずに笑いものになっていると聞かされて、神機隊は創設されるのである。藩主の積極的な協力も無く、それ以後の戊辰戦争では、自費で神機隊は戦うことになった。上野戦争から仙台入城まで、この度の震災で有名になった浪江や相馬で戦う。先陣を仰せつかって200名の隊員は80名になった厳しい戦いを勝ち抜いた。 

 浄土真宗のお寺でさほど広くは無く、この地特有のあちこちでよく見かける茶色瓦が印象的であった。この地から徒歩で八条原城へ向かう。

    2018-10-30




 

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2018年10月20日

映画 チュ−リップ・フィ−バ−


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 田舎の映画館の封切りと同時に観てくる。予告編を見て大いに期待していた。
小生の個人的な意見かもしれませんが、期待を裏切った作品であった。

 それは、

 1.フェルメ−ルの画像を期待したが、映像画面では彷彿させるものがとぼし
   かった。

 2.バブルの発生で歴史的にオランダのチュ−リップバブルがその事象として
   語られるのだけれど、よく表現されていたとは思えない。

 3.あの時代を描くのに町の雑踏が描かれなければならない、そうでなければ
   時代考証が疎かといわれるのであろうが、それにしても耳障りで過剰な
   演出と思われた。 ウザイとはこのことか。

 4.音楽はモダンの音楽がながれていた。その時代の映像にそぐわない気が
  した。ここは当時の フランドルの音楽がかなでられるべきであろう。
  こういう時に古楽があるのに。

  個人的に偏った趣向の爺ゆえの感想かもしれませんが、残念な作品で
   あった。

    2018-10-20




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2018年10月15日

ラサへの途  大幡


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 映画 ラサへの歩き方

 大幡ブログに「ラサへの途」 1-3 をアップしました。

  http://oflag.sblo.jp/article/184673341.html

  2018-10-15
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2018年10月13日

高杉晋作まとめ


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    1839-1867

 ブログにある高杉晋作をまとめてHPにアップしました。

 http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank039.html


   2018-10-13
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2018年10月12日

隠岐正義党


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 島津久光が上京するときに率いた兵数は1000名程度です。第二次長州征討での長州の兵数は5000名程です。 諸隊の事を調べていて知りました、隠岐正義党に参集した兵数は3000名という、他の諸隊は200−300名、神機隊で1200名、あの伏見の戦いでも薩長の兵数は5000名です。隠岐正義党の数の多さに驚く。

 隠岐の島は上図のように島前と島後の2つの大きな部分より成り、幕府の天領で島根藩の預かりとなっていて、郡代を置いて統治されていました。

鳥羽伏見の戦いの後、1868・慶応4年 隠岐正義党は3月に郡代を退去させ島民自治を実現した。新政府はこれを認めずに、5月に島根・松江藩兵を派遣して弾圧して解体させる。5月に上野戦争が起こり、このあと正義党は鳥取・長州・薩摩藩らの調停を受けて6月には再建された。9月に明治と改元となる。自治政府は1869年2月まで存続し隠岐県となるまで短い間であるが続いた。

 詳しくは 三宅さんのペ−ジをごらんください
  http://www.k-miyake.com/oki.html

 徳川幕府の初めての自治政府であり、パリコンミュ−ンより早いと云う人もいます。 しかし徳川幕府には塩飽諸島に人名政という船乗りによる自治政府が存在しました。

  http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-412

 長州や他の諸藩は外国からの脅威が高まると、今までの武士だけでは対処ができずに、農民からの自発的に、また強制的に募兵するようになる。松江藩のように利用したり止めたり恣意的な運用をすると反発が強くなり、寝た子を起こしてしまったのかもしれない。
秀吉の「刀狩り」以来、兵農分離が続いていた。武士の存在は武力行使唯一の主体であったことが権力の源であり、それが揺らいで農兵ということになれば、武士の没落・否定となっていく。

 隠岐正義隊は人数が多いが釜や槍程度の武装で奇兵隊のような最新の鉄砲を持つようなものではなかった。奇兵隊のように半日は勉学をして思想的にも強い個人により構成された正義隊ではなかった。 農民の一揆のようなものであったのでしょう。


 愛艇「速魚U」に隠岐の島へ訪ねてみたいものです。
 


    2018-10-12


 
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2018年10月07日

赤松小三郎  惜しまれる暗殺



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 1831-1867 上田市立博物館蔵

 磯田道史氏は「今日、政治思想家が、この赤松を斬っちゃったことをすごい惜しむんですよ。ものすごく緻密な日本における議会の作り方を政治思想として知っていたのはこの人だった」と。。 こう述べられる人が赤松小三郎です。彼の言う議会制度が実現するは25年後のことである。


赤松小三郎による「御改正之一二端奏申上候口上書」 明治文献資料刊行会より
http://kjmn.net/index_qhm.php?akamatsu

この「御改正口上書」が、おそらくは福井藩士の手を経由して京都に潜伏中の坂本龍馬に見せられ、「船中八策」および「新政府綱領八策」となった。また、「五箇条の御誓文」の起草した由利公正も、福井藩士であるから、当然、赤松の「口上書」を読んでいたものと思われる。由利公正が御誓文の原案を考える際にも、赤松の文書が影響を与えたのであろう。

坂本龍馬に影響を与えた先見の明を持った小三郎であったが、勤皇派の志士たちの考えとは違い、その口上書には天皇に対して神聖な絶対的権威を認めていないという。

 近代兵学者には赤松小三郎と長州の大村益次郎がいます。 彼らの違いは何でしょうか。暗殺された時期にも両者は違いがあります。 個人的な考えですが、赤松には「志士」としての活躍が少ないように見えます。 単なる兵学の師範に終わったのではないでしょうか。。アイデアだけでは政治的な実現は望めませんから。
 赤松は請われて、薩摩「藩士」として維新に参加した薩摩藩に軍事調練をします。あくまで「藩士」への教育であった。その中に東郷平八郎や上村彦之亟がいます。

一方、大村は「藩士」のみならず庶民の諸隊を教育し、奇兵隊を指導して石州口の戦いに浜田城を陥落させ、「志士」として勝利へ導きます。また、明治になり徴兵制を推し進め、武士社会を終焉させた人です。

 赤松は、議会制を創成する前段階として必用な、武士を終えさせる方策には考えが及んでいなかったのかもしれません。歴史的な成り立ちの違う英国の議会制度を頭の中で考えていたのでしょう。暗殺されてしまったので後の事・展開は分かりませんが。

慶応3年8月に薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固める中、赤松は内戦の危機を回避しようと、慶応3年8月まで「幕薩一和」を求めて、薩摩の西郷隆盛や小松清廉、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえます。 西郷らの武力討伐路線とは違っていました。 龍馬暗殺もその違いから薩摩陰謀説があります。赤松は教え子だった中村半次郎・桐野利秋に暗殺されます。中村にその指示を出せるのは西郷しかいませんので黒幕は西郷だったのでしょう。維新の前に暗殺されました。

 暗殺されることにより、その後の大きな影響を消されたことには間違いありません。 しかし「維新の偉業」を成し遂げた「志士」に、そのプラン・理想が確固として持っていたわけではありません。 後からいろいろ述べるのは容易ですけれども。


 略歴

1831・天保2年 上田藩士・芦田勘兵衛の次男として誕生
         赤松弘の養子となり小三郎と改名
1848・嘉英元年  幕臣数学者の内田五観・弥太郎に学ぶ
1852・嘉永5年  西洋兵学者の下曽根信敦に入門
1855・安政5年  勝海舟に入門、従者として長崎海軍伝習所に行き、蘭人より語学、航海、測量、騎兵学等を学ぶ。
1858・安政5年  蘭兵書「矢ごろのかね、小銃彀率」を翻訳し出版
1860・万延元年  赤松家を相続
1862・文久2年  上田藩で調練調法御用掛、翌年に砲術道具製作御掛になる
1864・元治元年  横浜駐屯英騎兵士官アプリン大尉より騎兵術、英語を学ぶ
1866・慶応2年  「英国歩兵練法」を翻訳、藩主松平忠礼に藩内の身分制撤廃と言論の自由を求める建白書提出、薩摩藩から求められ京都薩摩藩邸で開塾
1867・慶応3年  5月、松平春嶽に対して「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出。島津久光と幕府にも、春嶽宛のものと同様の建白書を提出。 9/3 中村半次郎らに暗殺される


   2018-10-7


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2018年10月05日

長崎と五島を結ぶ定期船の突然運休



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長崎市と上五島(鯛ノ浦港)、佐世保市と上五島(有川港)、佐世保市と下五島(福江港)、長崎市と天草市(崎津漁港)の4航路でフェリーや高速船を運行

 朝日新聞デジタルによる記事
 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181002-00000069-asahi-soci


 今年の初夏に上五島島の有川港で1週間程ヨット停泊滞在したことがあり、そこから世界遺産になった教会を訪ねました。

 今回報道の船会社のフェリ−や高速船にはヨットで訪れたこともあり利用しませんでした。 しかしその会社の企画ツア−で旧五輪教会や江上天主堂を訪れるものに参加しました。半日で1万円弱の費用で有川からタクシ-に乗り、途中で海上タクシ−で辺鄙な島々の孤立したような世界遺産の教会を見るツア−です。 ヨットでそこを訪れるのには日程・気象の都合があり断念した小生にはありがたい企画でした。困ったことは福江が終点でヨットのある有川へ帰ることでした。 フェリ−とタクシ−で帰るはめになり金銭的にも時間的にもつらいものになりました。


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 ツア−利用の海上タクシ-  若松島着岸


 五島列島に行って知ったことですが、それぞれの島には九州への航路とそのスケジュ−ルが思ったより充実していたことでした。おまけに島民には5割引きの運賃が適用され恩恵にあずかれます。 島内バスは料金が高いけれど多くの路線があります。これは自動車社会なので少ない利用のようです。部外者のヨット乗りには利用せざるおえませんでしたが。


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 有川旅客船岸壁より見た 我がヨット


 有川よりレンタルバイクで鯛の浦へ行きました。そこには予想外でしたが長崎行の高速船がありました。 今回運休した航路ですが、有川より自転車で15分程で行ける距離です。地理的には長崎への好立地ではあるけれど、そこの住民は少なく、採算的には厳しいものではと思われました。 この船は町からの無償貸与ということです。


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 鯛の浦−長崎 カタマラン高速船乗り場


 これから世界遺産でのにぎわいが予想されますが、それも数年のことかもしれません。今回訪れた宗像大島の中津宮も数年まえに登録されましたが、そこへ訪ねたときには観光客と思われる人はいませんでした。

 上五島島の奈良尾から長崎へのフェリ−と高速船もあります。 それらを想定して航路の再編がなされなければなりません。 部外者のおせっかいですが。

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 宗像大島 中津宮



   2018-10-5





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2018年10月03日

上関 その2 長島


 テレビで大阪の拘置所より脱走した男が上関の陸の駅で万引きする場面が放映されました。 自転車旅行・日本一周を掲げていたようです。

 ここで「上関 その1 室津」が見られますが、今回の九州クル−ズでも上関に2度立ち寄りお世話になりました。 その続編となります。

 室津の防長バスの停留所から終点まで乗る。 しかしそこは何もないところで、来た道を徒歩で戻りながら番所跡を捜した。なんのことはない橋を渡ってすぐの場所であった。
室津から徒歩でも行くことができる。昔の上関の面影を期待しましたが、瀬戸内の漁師町のひとつであった。

 上関大橋で繋がらない昔は長島が上関の中心です。 長州藩の三関、上関・中関・下関の一つで海の重要な拠点であった。上関番所やお茶屋で朝鮮通信使を迎えた。

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 旧上関番所(県指定文化財) 海岸沿いにあったものが移築された


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 お茶屋跡  


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 朝鮮通信使来航図  往時の上関がうかがえる


 ここは海の要地であることから村上水軍の能島水軍の上関城があり、そこへは訪ねることができませんでした。公園となっているようです。

 ヨットの停泊地としては長島地区はスペ−スも狭く、室津地区のほうがふさわしいでしょう。


   2018-10-3


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2018年09月28日

溝渕広之允


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1824 or 1828-1909


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 左から2番目が溝渕でその隣が龍馬

 溝渕広之允は海援隊士と共に写っている写真を見て、隊員でないのが不思議であった。

彼は龍馬と共に江戸に行き、それよりも彼が龍馬を江戸へ引導したとも言われている。 龍馬と同じように佐久間象山と千葉道場で学ぶ。1866・慶応2年に藩命で長崎に行き砲術を学び龍馬と再会する。 それまで余り彼は龍馬の中で登場してきていない、彼は下士の出であったが長崎で龍馬と会うまで、藩士として行動してきた故からかもしれない。 彼はその地で後藤象二郎を介して龍馬の土佐藩復帰を援助した。 そのせいで亀山社中が海援隊になる。海援隊は土佐藩に属するようになった。
 
 龍馬の紹介で桂小五郎と会い交流を深める。 藩の許可を得たかどうか不明ながら第2次長州征討で小倉口の戦いで龍馬と共に参戦して、合作で下関戦図を書いている。これは他に龍馬が手紙に書いた海戦図も存在する。 このことから、幕府との討幕戦いにも土佐藩兵として従軍したと思われるが、その詳細は不明である。

 これまでの経歴により新政府の要職にも就けたであろう、維新後の明治2年10月に隠居すると、その後は新政府に仕えることはありませんでした。

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 彼の資料は先の大戦で焼けてしまい、早く引退したことも加わって、我々庶民には知られることも少なかった。


   2018-9-28


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2018年09月24日

出島ワ−フ・長崎


 長崎のヨット泊地には出島ワ−フマリ−ナがある。 そこは町の中心にあり観光に出かけるのには便利です。1泊5000円近い係留費,この料金は電気代と水道代を含む。

係留ポンツ−ンの目と鼻の先に咸臨丸のような外輪船の姿をした港内クル−ズ船が見える。その隣は大型商業施設の「ゆめタウン」です。
 下記地図にお風呂屋「日栄湯」と「コインランドリ−」を印し。 ここで小生が興味を持って訪ねた場所も表示しました。
 銭湯については長崎駅から送迎バスのあるス−パ−銭湯もあり。観光案内所で時刻表がもらうことができます。

 出島ワ−フは戦前には中国との玄関で往来する客船のワ−フ・船着き場であった。現在はレストランが立ち並びヨットを眺めながら食事をとるオシャレなパッセ−ジとなっています。


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 「ゆめタウン」と外輪船

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 出島ワ−フ地図

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 入り口にある女神大橋 ここを抜けて1時間ほどでマリ−ナへ

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 大型客船が係留


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 三菱造船所で修理中の自衛艦  かって戦艦「武蔵」も建造される



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 出島オランダ商館跡 入り口


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 オランダ商館を望む


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 マリ−ナから見た夜景


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 外輪船の夜景


    2018-9-24



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2018年09月22日

宗像大島を訪ねて


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 沖ノ島と関連遺産群は世界遺産になっています。 ヨットで沖ノ島へ行った猛者もいるようですが、そこへ上陸する許可は普通ではおりないようです。天気の良い日に接近することは出来ると思います、そこへは対馬へ行く途中のプランとなるでしょう。

 関門海峡を抜けて福岡に向かうには大島は良い中継地になる。 「うみんぐ大島・海の駅」もあります。31fで4000円の係留代は高いようにも思えますけれど、そこで他の係留場所をさがすのも大変です。艇長の判断になりますね。「うみんぐ」では電気はとれます。 買い物は農協で可能ですが、品数も少なく弁当も無かったので、無理と思い事前に用意しておいた方が良いでしょう。

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 うみんぐ大島海の駅 桟橋


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 フェリ-乗り場  宗像市神湊−大島

 この島では宗像神社中津宮と沖津宮遙拝所が世界遺産になっています。中津宮には行きましたが、静かなもので他の参詣者はおりませんでした。


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 宗像神社 中津宮


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 宗像三女神の次女神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る神社


 散歩がてらに買い物できる場所をさがしていると、夢の小夜島を見つけました。
連歌に歌われた島で恋人たちに何かありそう。
 
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 夢の小夜島  干潮時に陸と続がる


 道を尋ねた子供たちが農協まで私達を連れて行ってくれました。途中で「休みますか?」と、こちら・爺婆へ気を使ったお声がけ。自転車に乗ったばかりなのか左右に揺れながらも先導をして案内する。春前には幼稚園生だったに違いない子どもたちであるのに、やさしい気の使いよう! さすが神の島の子供です。 この島に訪ねて良かったと思えました。

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 神の子たち


   2018-9-22
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2018年09月19日

西郷隆盛


  磯田道史さんによる


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1828-1877 西郷肖像画 床次正精作


 磯田さんの「素顔の西郷隆盛」を読みました。爺のお気に入りの歴史学者です。 倉に眠っているような古文書を読みまくり、そこから一次資料によって歴史をくみ上げています。 
  明治時代の候文ですら読めない小生にとっては、あの草書体の古文書なんて想像もつきません。 せっかく高校で古文を習うのだから家の蔵にある先祖の残した文書を分かるような教育があっても良いのではと思います。自宅に蔵のあるような育ちではありませんが。  歴史好きの田舎爺さんですが、英語もろくにできないので、欧米の歴史にも問題外であり、自分の国のものですら古資料を読むことができません。ウイキとか人が書いた本とかの受け売りをするばかりです。

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 西郷無くして維新を迎えることはできません。 対幕戦争の軍議で新政府会議のなかでも、西郷の出席なくしては何も決められませんでした。 他に、

  西郷無くしては出来なかった事

1. 長州をつぶすことを防ぎ、薩長同盟
2. 大政奉還後の王政復古のク−デタ−
3. 慶喜の助命
4. 武力討幕、 討幕の大義を得るための謀略、 鳥羽伏見の戦い勝利
5. 戊辰戦争、 江戸城無血開城、東北戦争へ参陣
6. 廃藩置県、府県の統廃合(3府72県)
7. 陸軍省・海軍省の設置
8. 学制の制定
9. 国立銀行条例公布
10. 太陽暦の採用
11. 徴兵令の布告
12. キリスト教禁制の高札の撤廃
13. 地租改正条例の布告

 西欧岩倉使節団が正当政府で西郷らの在日政府を留守政府と今では言っていますが、留守政府が決めた徴兵令や地租改正など大きな枠組みは西郷が決めています。
とても留守政府がやることではありません。

 維新の功業とは鎌倉幕府以来の武士による政治の枠組みを終らせた、明治・新政府による廃藩置県、徴兵令、廃刀令、最後の武士による反乱・西南戦争(西郷の死をもって)にとどめを刺すことによる完結です。 それを為すには命を惜しまぬ西郷の武力討幕の方針を持ってしかなし得ませんでした。

 大河ドラマ「西郷どん」で王政復古のところまでスト−リ−がすすみました。 江戸薩摩屋敷焼き討ちを誘発させるための謀略に相楽総三、伊牟田尚平、益満休之助を派遣して放火・略奪・暴行して挑発させます。西郷のキャラ変だと巷で騒ぐ動きも見られます。「戦闘に成ったら策謀はしなければならないが、そのためには普段はまともな道を歩むべきだ」正しい目的を踏まえれば、戦時は汚いことをしてOKという西郷の思想です。西郷の陰のある横顔がなければ維新は起きなかったでしょう。汚いことをなすためには普段は公正・まっとうな人生を送らなければならないことを忘れてはいけない。

 年表を見てみると二回目の遠島・沖永良部で死にかけて、外交の能力を買われて再び許されて京都工作に当たってからわずか四年で明治になる。想像以上に短い期間のことであったことが分かる。


   西郷隆盛関連年表

1828・文政10  下加治屋町で誕生
1847・弘化4  郷中二才頭となる 19歳
1850・嘉永3   お由良騒動で赤山靱負(あかやまゆきえ)が切腹
1851・嘉永4  島津斉彬が藩主となる 23歳
1853・嘉永6  ペリ−来航
1854・安政元年  江戸詰めとなる  26歳
1855・安政2  橋本佐内と政治活動
1856・安政3  篤姫が将軍輿入れ、 一橋派として活動
1858・安政5  日米修好通商条約、斉彬死亡、安政の大獄 月照と心中 30歳
1859・安政6  奄美大島に潜居、愛加那と結婚
1861・文久元年  召喚状来る
1862・文久2  久光へ「地ゴロ」発言、沖永良部島へ遠島  34歳
1864・元治元年 公武周旋と京都工作のため召喚、軍賦役となる。禁門の変で長州撃退、第1次長州征討を収拾、36歳
1865・元治2年  糸子と再婚  37歳
1866・慶応2  薩長同盟成る、第2次長州征討、功明天皇崩御
1867・慶応3  薩土盟約、 伊牟田尚平と益満休之助を江戸破壊工作に派遣、大政奉還、王政復古、
1868・慶応4 鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城、上野戦争、北陸戦線に出馬、弟・吉二郎戦死、40歳
1869・明治2  函館戦争終結、栄典禄2000石と位階を返上、薩摩藩藩政改革にあたる
1871・明治4  政府改革案を持って上京、常備兵5000人を率いて再上京、廃藩置県、留守政府始まる
1873・明治6  朝鮮問題の政変で下野、 45歳
1876・明治9  廃刀令
1877・明治10 西南戦争で自決  49歳


   2018-9-19






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2018年09月14日

神機隊と芸州の諸隊


 広島県廿日市に第二次長州征討で焼けた町屋跡の碑があります。 芸州口の戦いで和木を訪ねたことがあり、ここに載せています。

 芸州藩と長州藩の国境は和木近くの小瀬川にある。正確には支藩の岩国藩と芸州藩の境です。ここで四境の役(第2次長州征討)芸州口の戦いの戦端が開かれました。

 芸州藩は第一次長州征討では家老の辻将曹が仲立ちにより、西郷隆盛が岩国藩へ行き藩主と会談し、また長州へ乗り込み長州諸隊の幹部を説得したことにより、まとめたことで実戦が回避された。
 しかし、第二次長州征討では芸州藩は大義の無い戦いであると訴えたが幕府に先鋒を命じられる。老中小笠原長行(おがさわらながみち)はこれに対して家老の辻将曹らを謹慎処分に命じた。それに藩士が激昂し暗殺を計画した。小笠原を呼出し藩主浅野長訓(あさのながみち)が退去と不参戦を通告した。

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 廿日市町屋跡  第2次長州征討で炎上

 芸州口の戦いが起こると芸州藩内の戦闘であったので中立を保つが、廿日市町屋の焼失のような被害を受ける。芸州と長州の間では藩外への撤退を長州と交渉をおこなった記録は残っている。2か月に及ぶ戦いで大きな被害を受けた。従来の藩兵だけでは守れないと精鋭部隊が必要だと認識された。

芸州口の戦い・四境の役・第二次長州征討 周防の国の海道・古道一人旅より 詳しい地図があります。
http://www.sakura64.sakura.ne.jp/contents10geishuuguchinotatakai.html

 士庶による神機隊の建白を木原秀三郎は義弟河合三十郎と提出。神機隊が創設された。隊内では身分、地位、格差をもちこまずに学問所などで学ばせる。募兵にあたって高い教養をもった人材を優先した。訓練に英語を取り入れて知識と意欲がなければ適応できなかった。軍律は厳しく違反者には容赦なく切腹を命じた。

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 木原秀三郎 檜山村の庄屋出身、勝海舟の海軍塾で学び、芸州藩に登用。

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 薩長芸三藩盟約書草稿

 薩長芸軍事同盟で上洛した芸州藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは芸州藩の正規軍は参戦しなかった。 これ以降に芸州藩は戊辰戦争の主導権を失うことになる。よく口にする「薩長土肥」には入れてもらえないことになった。

 神機隊は備中・備後の鎮撫に出動した。京都では芸州藩は鳥羽伏見での戦いで笑いものになっていた。神機隊は関東出兵を決めたが、藩は財政赤字を理由に拒否した。神機隊は自費で出陣する。上野戦争と奥州戦争で先鋒として大きく貢献した。高間省三は敵陣一番乗りで戦死して有名になる。324名で故郷を出たが仙台では、まともに歩ける隊兵は80名程であったという。

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 高間省三 1848-1868 藩中きっての文武のエリ−ト、老中小笠原の暗殺を謀る。神機隊の砲隊長、戦前の武勇に優れた軍人の代表として紹介されている。


 芸州藩の諸隊

晴雲隊 1863・文久3年編成、柔述の心得200名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、

同仇隊 1863・文久3年学問所詰め藩士子弟で編成、54名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、諸隊の士官として活躍が多い

一心隊 1864・元治元年八月編成、周辺農町民有志100名、広島城下と周辺警備のため、

遊撃隊 1865・慶応元年春編成、38名、北陸道鎮撫総督の先鋒、

1866・慶応3年 6月 芸州口の戦い(第2次長州征討)

捷神隊(しょうしんたい) 1866・慶応2年8月編成、60名、民兵、神機隊と合併、戦歴不詳

神機隊 1866・慶応2年 9月 藩士と農商民で編成、1200名

1867・慶応3年 9月 薩長芸軍事同盟

1867・慶応3年 10月14日 大政奉還

献力隊 1867・慶応3年10月編成、300名、農商子弟300名、一部は戊辰戦争に従軍、大半は予備隊として待機

衆合隊 1867・慶応3年11月徴募編成、藩士を中心に民間を加えた300名、幹部は参戦、残りは後尾として残る

推誠隊 1867・慶応3年11月編成、草莽有志200名、藩軍事奉行の付属、一部は東北遊撃軍の傘下に、瀬戸内当初警備に

応変隊 1867・慶応3年秋編成、220名,士庶混成、鳥羽伏見120名参戦、北陸道100名、日光会津口と東北遊撃隊に分かれて参戦

新隊 1867・慶応3年秋編成、124名、八幡山方面に参戦、以後各地転戦

1867・慶応3年 12月9日  王政復古

1868・慶応4年 1月27日 鳥羽伏見の戦い

輔正隊 1868・慶応4年1月編成、豪商農の指導で組織200名、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦

奏勇隊 1868・慶応4年1月編成、藩士及び農町民の混成150名、領内治安警備

神速隊 1868・慶応4年2月編成、士農混成100名、戦歴不詳

司箭隊(しせんたい)1868・慶応4年2月編成、士農混成の銃隊、250名。装備旧式、戦歴不詳、

1868・慶応4年 4月11日 江戸城無血開城



   2018-9-14


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2018年09月09日

長府の街と藩・人


 今度の九州クル−ズで住んでみたいなと思った街は、先に書いた平戸とこの長府の街です。下関は既知であっても長府はボイラーの名でしか知りませんでした。功山寺を訪ねるのに訪れましたが、落ち着いた街並みには魅力を感じます。

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 長府地図  下関駅からバス23分

 長府藩は、1600年・関ケ原の役後に、毛利秀元が長府5万石に入府した。 現在は、高杉晋作の功山寺挙兵・回天義挙により「明治維新発祥の地」となったと街の入り口に記念碑を掲げている。 長府藩は長州藩の支藩であり、長府藩の支藩に清末藩・1万石がある。 維新後に豊浦藩,豊浦県を経て山口県に編入された。下関市の一部となっている。

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 維新発祥の地記念碑

 成人するまで名古屋に育った小生であるが、尾張藩の支藩に高須藩があるとは最近まで知りませんでした。支藩の大事な使命の一つは親藩の血が絶えた時に養子を出すことで、高須藩も長府藩も何人も差し出しています。

 坂本龍馬の護衛に三吉慎蔵が活躍しますが、彼は長州藩ではなく長府藩の侍であった。彼の墓は功山寺にある。

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 功山寺

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 忌宮神社


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 長府の町並み 写真3枚


 藩校「敬業館」の他に長府藩の松下村塾というべき藩校「集童場」があった。集童場は15歳以下の少年で、身分の別なく人材を育成しようとした。福田扇馬が自宅で開いていた私塾・「桜柳亭」を母体に熊野則之が福田扇馬や福原和勝らとともに創設した。そこでは乃木神希典などを輩出した。

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 集童場設立の地


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 私塾 「桜柳亭」跡 福田扇馬による設立



 主な長府藩の人物


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三吉慎蔵 1831-1901 小坂家の次男として誕生、三吉家の養子となる。 印藤聿の紹介で龍馬を知る。長府藩報国隊軍監になり第2次長州征討に活躍する。宮内省御用掛として北白川家の家令となる。

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 三吉周亮(みよしかねすけ)1842-1903 家老三吉家に誕生、5卿を功山寺にかくまう。功山寺挙兵で切腹を命ぜられるが、加藤司書のとりなしで中止、龍馬の理解者、維新後県参事・権令を歴任。

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 熊野直介 1847-1868 熊野家長男として誕生、福田扇馬と集童場を開き場長、報国隊参謀、龍馬と知り合い、小倉口に戦い北越戦争長岡軍の逆襲により戦死。 

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 印藤聿(いんどうのぼる)1831-1911 下村家の3男として誕生、印藤家の養子となる、報国隊軍監、龍馬と藩とのパイプ役、
維新後は製塩業を営み、衆議院議員となる。

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 乃木希典 1849-18   乃木家3男として誕生、報国隊で小倉口に戦う、西南の役歩兵連隊長、旅団長、台湾総督、第3軍司令、
 妻と殉死。

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右・福原和勝、左・山県有朋
福原和勝 1846-1877 村上家の3男として誕生、福原家に養子、報国隊結成を願い出る、初代軍監、小倉口で戦う、戊申戦争参戦、明治2年英国留学、陸軍教導団司令長官心得、西南戦争に別働第3旅団参謀、熊本で戦死。

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 福田扇馬 1846-1892 私塾「桜柳亭」を設立、龍馬の協力で若者を長崎に率いて英語を学ぶ。

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 瀧川辨三 たきがわべんぞう 1851-1925 集童場に入学、報国隊、北越戦争や会津戦争に参戦、マッチ製造会社を興し日本のマッチ王と呼ばれる。

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 服部潜蔵 1850-1886 江本家の次男として誕生、服部家の養子となる、集童場に学び、1867年第2次長州留学生として英国へ。
テムズ航海学校に入学、英国海軍見習士官となる。同郷の福原和勝が英国に留学しており英国から引き抜かれて官費留学生となる。岩倉使節団の渡英中の伊藤博文の説得により帰国、海軍に勤め海軍大佐。

  2018-9-9

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2018年09月07日

海援隊士・亀山社中


龍馬・亀山社中・海援隊年表

元治元年・1864 
2/24-4/4 龍馬は勝海舟の長崎出張に同行し、長崎滞在
慶応元年・1865
 夏頃 亀山社中結成
  7月−10月 薩摩名義でグラバ−から小銃や艦船を購入長州へ輸送 
慶応2年・1866
 1/21(22) 薩長同盟締結
  1/23  龍馬は寺田屋で負傷、近藤長次郎は小曾根邸で自刃
  3/8 薩摩船で鹿児島に向かう途中に長崎に立ち寄る
   5/2 ワイル・ウエフ号が五島で遭難、池内蔵太・黒木小太郎ら死亡
  6月上旬 妻・お龍を小曾根家に預ける
   6/17 下関で長幕海戦に参加
慶応3年・1867 
1月上旬−2月下旬 後藤象二郎と会談 、脱藩許されてる。     
   2/10 お龍を下関伊藤家に預ける
    2月頃 土佐商会開設
   3月 岩崎弥太郎が長崎に来る
    4月上旬 海援隊発足 
    4/23 いろは丸が紀州藩船と衝突沈没
   5/29 いろは丸賠償決着
    7/6  イカルス号水夫殺害
    9/10 イカルス事件 おかまいなしの裁定
    9/14 オランダ商人から小銃1300挺購入
    10月 大政奉還
    11/15 近江屋にて龍馬死亡
慶応4年・1868 
1/14 長崎奉行が脱走、海援隊奉行所西役所を占拠
       沢村惣之丞自刃
    4月 土佐商会閉鎖
    閏4/27  海援隊解散


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 左から長岡謙吉、溝渕広之允、龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬

• 1. 土佐

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o 坂本龍馬 1836-1867 海援隊隊長


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o 沢村惣之丞 1843-1868 土佐勤皇党、勝海舟門下、天満屋事件、長崎奉行所占拠の時薩摩藩士を誤殺して切腹


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 o 佐々木高行 1830-1910 上士。、戊辰戦争において海援隊の指揮を執った。龍馬死後は戦闘面では実質的に二代目の隊長であった。長崎奉行所占拠、浦上四番崩れに関わる、法務関係に携わる。天皇親政運動に動く、工部卿、宮中顧問、侯爵

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o 長岡謙吉 1834-1872 海援隊の事務全般を執り行い、龍馬の死後は二代目の隊長となる。土佐藩の医者の家出身で鳴滝塾にてシーボルトに医学を学んだ経歴を持つ。小豆島を占拠、維新後は三河県知事。

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o 石田英吉 1839-1901医師の家に生まれ緒方洪庵に師事し、医術を学んだ経歴を持つ。天誅組、禁門の変、七卿落ち、奇兵隊創設に貢献、ユニオン号指揮で小倉口の戦い、維新後は秋田県令・千葉県知事はじめ、多くの県知事職を歴任。海援隊時代の同士であった陸奥宗光が農商務大臣になったとき次官に招かれ、陸奥を補佐した。長岡とともに逸材とされ、「二吉」と賞される。男爵

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o 坂本直(高松太郎) 1842-1898 龍馬の甥であり、子のなかった龍馬の家を継ぎ坂本直と改名した。海軍操練所、クリスチャン、

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o 菅野覚兵衛 1842-1893 土佐で庄屋業をしていた。土佐勤皇党、神戸海軍操練所、ユニオン号艦長で小倉口に参戦、維新後に米国留学、お龍の妹が妻、維新後海軍少佐。西南戦争時には薩摩に滞在していた。北海道開拓移住。

o 新宮馬之助 1836-1886 龍馬の近所で生まれ、幼馴染。龍馬の姉乙女宛ての手紙に頻繁に名前が出てくる。維新後は海兵団に所属、海軍大尉。

o 池内蔵太[1] 1841-1866 土佐勤皇党、長州遊撃隊参謀、天誅組、禁門の変、ワイルウエフ号遭難で死亡、龍馬が後継者として期待した。
         
o 安岡金馬  生没不明、
           
o 野村維章(野村辰太郎) 1844-1903 土佐藩白札格出身で砲術教授役をしていた。太極丸船長、長崎奉行所占拠、振遠隊として戊辰戦争に従軍、明治維新後は佐賀県権参事・参事を歴任後、初代茨城県令に就任。その後、控訴院検事を歴任し、東京控訴院検事長・大阪控訴院検事長。男爵

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o 中島信行(中島作太郎) 1846-1899  土佐の郷士。土佐勤皇、長州遊撃隊、維新後、板垣退助とともに自由民権運動を指導した。初代衆議院議長。男爵

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o 近藤長次郎 1838-1866 生家は龍馬の家の近くで饅頭屋をやっていた。薩長同盟の時には伊藤博文・井上馨とともに長州藩の軍艦兵器の買い付けに多大な功績があった。長州藩の勧めで英国留学する予定であったが他の同士から脱退をとがめられ、自刃した。

o 吉井源馬  生没不明、

o 坂本清次郎(三好清明) 1842-1903 龍馬の親戚。龍馬の妹・春猪と結婚、維新後鎌田家を継ぐ、自由民権運動に参加。三好に改名

• 2. 越前

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o 関義臣(山本龍二) 1839-1918 福井藩士。維新後、大阪府権判事、鳥取県権令、大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院議員等を歴任。男爵

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o 渡辺剛八(越前藩) 生没不明、 いろは丸機関方、振遠隊で奥羽転戦

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o 山本洪堂(復輔、洪輔) 1842-1899 福井藩医師山本宗平の次男。松本良順門下。長崎奉行所占拠、開拓使医官、大阪精神病院の院長を務めた。息子宗一の後を継いだ、親戚の子供友香は山本病院の初代院長となった。

o 三上太郎  生没不明

o 小谷耕蔵  生没不明、 いろは丸船長 隊内で佐幕派

o 腰越次郎  生没不明、
o 佐々木栄  生没不明、


• 3. 越後

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o 白峰駿馬 - 長岡藩士。太極丸船将、維新後、留学し造船術を学ぶ。帰国後、造船所を経営。

o 橋本久太夫  生没不明、元幕府船員、桜島丸水夫頭、

• 4. 讃岐

o 佐柳高次 1835-1891 人名政の塩飽佐柳島出身水夫、咸臨丸渡米、ワイルウエフ号遭難生還、いろは丸衝突時当番士官、長崎奉行所占拠、函館戦争,帰島して世話役や船頭頭、

5. 紀伊


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o 陸奥宗光 1844-1897 紀州藩士。神戸海軍操練所、天満屋事件、スト−ンウオ−ル号引き取り、維新後、知事・県令等歴任。西南戦争で禁固5年、明治16年出獄、欧州留学、その後、外務大臣として、条約改正・日清戦争講和・三国干渉などにつきすぐれた手腕を発揮した。伯爵

• 6. 下関

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o 伊藤助太夫 1830-1872 下関の商人。海援隊の活動を支える。お龍を預かる

7. 長崎

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o 小曽根英四郎 1840-1890 長崎の商人でもあり、海援隊の活動を支える。いろは丸会計官、豪商小曽根乾堂の弟。お龍をあずかる

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o 大浦慶 1828-1884 長崎の商人で日本茶輸出貿易の先駆者。海援隊の活動を支える。

  2018-9-7


 亀山社中
 http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-476

 龍馬の船
 http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-493










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2018年09月04日

高杉晋作終焉の地・下関を訪ねる



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 高杉晋作 1839-1867

 ここでは、すでに功山寺挙兵のこと、また、その地を訪ねたことを述べています。

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 功山寺にある高杉晋作像


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 下関駅より 高杉晋作関連地図

 JR下関駅から徒歩3分位で白石正一郎宅(中国電力ビル)に行ける。そこは奇兵隊結成の地でもある。残念ながら碑のみである。



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 奇兵隊結成の地  白石正一郎宅跡

 そこから徒歩5分位で高杉晋作終焉の地へ向かう。これも小さな公園に碑があるのみである。

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 高杉晋作の終焉の地

 今までほぼ駅より北に向かって歩いてきたのだが、続いて山陽本線に沿う形で厳島神社に出る。 ここにはかって小倉城内にあったが第2次長州征討での小倉口の戦いの戦利品として晋作が持ち帰り奉納した太鼓が鐘楼にある。


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 厳島神社の鐘楼


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 萩藩新地会所跡碑 左に晋作療養地220mの案内板


 この神社の脇に萩藩新地御用所跡の木碑がある。すぐ横の細道を歩き山陽本線のガ−ドを抜けて数分で高杉晋作療養の地跡に行ける。ごく普通の民家の塀にその碑があるので、気が付くのに遅れるかもしれません。 ここで芸妓を見受けした「おうの」や野村望東尼に晋作は看病された。正室「雅子」も訪れたという。


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 高杉晋作療養の地碑


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 長州砲(80斤カノン砲)レプリカ、壇ノ浦砲台



 晋作の墓は東行庵(下関市吉田町1184)にあり長府の先になり、今回は訪れておりません。

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  高杉晋作の墓

 「おうの」は死後に出家して東行庵で弔ったという。彼女の墓もここにある。

    2018-9-4


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2018年09月02日

早川養敬・勇




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1832-1899

 先週の大河ドラマ「西郷どん」において薩長同盟の締結の編が放映されました。坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤博文が登場している。そこでは西郷の長州行のすつぽかしや、また、英国での薩長留学生の交流が描かれた。そこで、薩摩の留学生が長州の留学生を援助する。このことを日本へ持たされた手紙により、桂が知ることになる。そのような薩長の交流が同盟締結の大事な要因であったごとく取り扱われている。次の事の方がより重要で、それは亀山社中の仲介で、長州が幕府との第2次征討戦争に備えるために、薩摩名義によるミニエ−銃の購入のほうがより締結には大事なことであったと思われます。

 薩長同盟は龍馬と中岡によって成し遂げられたと伝わっているが、早川養敬が「発意」、月形洗蔵が「一藩の論」に高め、西郷、高杉会談につながり、後継者である坂本によって木戸孝允・坂本で局を結んだといわれる。

 早川は福岡藩・遠駕(宗像)の庄屋に生まれて、月形洗蔵の父君に共に学び、医師を志して江戸に学んだ。医師の早川家の養子となる。筑前勤皇党の運動に参加する。
 禁門の変後,七卿落ちに髄従していた土佐の中岡慎太郎と長州で知り合い、彼の仲介で元治元年12/4に西郷隆盛と中岡の会談をする。12/24彼と月形洗蔵のあっせんで西郷、高杉晋作の会談が実現した。第1次長州征討に際して長州藩に謝罪恭順と薩長和解を求める周旋活動を行った。五卿動座、征長中止、これらを成功に導いた。 
 再長征が決まると、福岡藩の先の周旋活動にあたった立場が危うくなり、藩論が変わり乙丑の獄が起こる。それで筑前尊皇党が根絶やしにされてしまう。彼は医師であったことから死ぬことから免れて幽閉された。 王政復古後に幽閉から許されて、三条実美の知遇により新政府に出仕して、元老院大書記官に進んだ。 筑前勤皇党の数少ない生き残りゆえに明治になって活躍した福岡藩の志士は極めて少ない。余り知られていないが、早川養敬は稀有なひとりの例となった。 苛酷な政敵への弾圧は歴史に後を残すことはできない事例です。遠島なり改名して謹慎させるような穏便な処置も必要でしょう。

   2018-9-2

加藤司書と月形洗蔵
http://hayame.sblo.jp/article/184078222.html






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2018年08月31日

幕末・明治の殉教  「浦上四番崩れ」


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 幕末・明治キリシタン殉教地図、 頭が島,鯛の浦、久賀島牢屋の窄殉教会


 ヨットで上五島を訪ねた時に、明治になってからのキリスト教徒の弾圧の跡を目にし、その事実を聞き及んだ。 帰航して調べてみると、明治6年にやっと解禁になったのであった。

 明治政府は明治元年・1868年5月17日に大阪で御前会議を開き、幕府の禁教政策を受け継ぎ「キリスト教徒の流罪」を決定した。信徒は流刑先で棄教を迫り江戸時代と同様以上の厳しい拷問をした。

 明治元年、世界遺産の「頭ヶ島」教会のある地では、訪ねてみると極めて少数の人が住む地である、そこで戸主十数人が逮捕拷問されたという。 

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 頭が島教会 世界遺産

「久賀島」では世界遺産の「旧五輪教会」を訪れたのですが、その島では同年に、6坪の信徒囚獄に200名の信徒が収監された(畳1枚で17人)。棄教させるために拷問が行われ劣悪な環境により8か月余りで42人の殉教者をだした。アウシュビッツにある収容施設より狭いところに押し込められて、座ることも出来ずに、人の圧力で皆が持ち上がる状態で、垂れ流しのありさまであった。現在その地に「牢屋の窄殉教記念教会」がある。

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 旧五輪教会  世界遺産・重要文化財


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 牢屋の窄殉教記念教会(ろうやのさこじゅん)

明治3年には中通島・鯛の浦教会近く「鷹の巣」では池川郷士による信徒6人の斬殺事件が起こる。 その地は有川から鯛の浦教会へ行く手前にあった。

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 旧鯛の浦教会


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 鷹の巣(鯛の浦) キリシタン受難の碑 信徒六人が斬殺された

 「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年(天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。


 幕末・明治のキリシタン年表

1840(天保11) 浦上のキリシタン5人発覚。
1853(嘉永6) ペリー軍艦4隻を率いて浦賀に来航。
1856(安政3) 浦上キリシタン80人発覚。
1858(安政5) 日米修好通商条約締結。
1865(慶応1) 大浦天主堂竣工。プチジャン神父と浦上の潜伏キリシタンが出会う(信徒発見)。
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 大浦天主堂・創建時
外海、出津海岸にプチジャン神父ら上陸し、潜伏キリシタンと出会いキリスト教復活。
1866(慶応2)
五島列島に74のキリシタン集落があった。長崎港外伊王島のキリシタン長崎から帰島する。帰島しなかった吉富卯太郎外12人、和歌山、松山、伊勢、岡山に配流。
1867(慶応3)
 今村地区の潜伏キリシタン、浦上の信徒深堀徳三郎らと交流。当時今村地区のキリシタン500人、今村近隣のキリシタン868人。 今村の弥吉、大浦天主堂に行き、教理を学び受洗。後今村の9人長崎で受洗。キリスト教復活。 五島、水の浦の帳方久三郎、長崎に行き、クーザン神父と会う。
1868(明治1)
5/17 「五榜の掲示」の第3条で再びキリスト教の禁止が確認される、御前会議で 信徒の流罪が決定、 以後明治3年まで信徒は捕縛され流罪となった。流刑先で旧幕以上の苛酷な拷問・私刑が行われた。(浦上4番崩れといい明治6年まで続く)

五島、水の浦のキリシタン農民32人投獄。 五島、久賀島のキリシタン農民200人逮捕。うち42人牢死。 伊王島のキリシタン21名佐賀に護送され入牢。五島、頭カ島の住民が十数人の戸主が全員逮捕され拷問。ド・ロ神父長崎に上陸。
1869(明治2)
浦上のキリシタン3400人余全国年各地に配流。
1870(明治3)
1/27 五島、鯛の浦の鷹の巣キリシタン6人惨殺される。
1871(明治4)
戸籍法改正。 宗門人別改を廃止。馬渡島のキリシタン宣教師と接触。トーマス勘兵衛受洗。
1873(明治6)
 切支丹宗禁制の高札撤去。 長崎、神ノ島の漁師、海路天草下島の大江に上陸、 キリスト教を説き、道田嘉吉外長崎にて受洗。キリスト教復活。 九州各地の切支丹宗禁制の高札撤去。 浦上キリシタン釈放される。(流罪3394名のうち662名死亡)

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 津和野に流されていた信徒の浦上天主堂での帰郷記念写真

 迂闊にも、これらの事実を五島に訪ねるまで知らなかった。私が浅学なだけでは無いと思うけれど、後世にはよく知られていない。 なぜ、幕府以上の苛酷な弾圧をしたのか分らない。その廃止も欧米に渡欧した新政府の要人が非難を浴びて、不平等条約の解消にためにならないと知った故であるという。廃仏毀釈も起こるので、尊皇は神道の精神であり、他を排する思想であった故なのでしょうか?


  2018-8-31



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2018年08月29日

「根井三郎」 「大迫辰雄」(JTB) 「小辻節三」


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 杉原千畝 1900-1986


 「杉原千畝」の命のビザは世間でよく知られてきました。ユダヤ難民たちはリトアニアからシベリア鉄道を経由してウラジオストックに着きました。ここから日本へ船で入国するために問題がありました。
 外務省はウラジオの日本領事館に、難民たちの渡航を許可しない通達を出していたのです。しかしウラジオ駐在領事の「根井三郎」は外務省と交渉しその問題を解決して、続々とユダヤ難民を日本へ送り出しました。 また、新しい事実ですが、 根井はビザを持たないユダヤ難民を数百人に独断で発給したビザ(渡航証明)を持たせて日へ渡らせた。ロシアの公文書にそれは保管されているという。また、イスラエル国立公文書館に根井のサインがあるビザが存在する。

 宮崎日日新聞より
 http://the-miyanichi.co.jp/kennai/_27506.html

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 根井三郎 1902-1992

昭和15年9/10より独ソ戦の始まる16年6月まで毎週1往復の天草丸と河南丸で1万5千人に及ぶユダヤ人の輸送をした。6000人とも言われていたが、「大迫辰雄」の回想記にはもっと多くの数字があるのでシベリアに多くのユダヤ人が集まっていたのであろう。

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 大迫辰雄 1917-2003

 JTBから派遣された大迫は半端ない活動、それはユダヤ難民が米国ユダヤ教会から送られてきた支援金の確認作業や慣れない船旅のお世話に活躍した。感謝を込めて写真を託されたほどである。後に彼の名がユダヤの人から挙げられるほどです。

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 天草丸 2345トン 、日露戦争で拿捕されたロシア船であった


 大迫辰雄・JTB職員 の回想録 ユダヤ人輸送の思い出
 https://www.jtbcorp.jp/jp/colors/special/focus/memoirs/

 
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 ソニア・リ−ドさんから大迫に渡された写真



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 小辻節三博士 1899-1973

 「小辻節三」はユダヤ学の専門家である。神戸ユダヤ教会から協力の要請を受けて、政府との交渉を引き受けた。10日間の滞在しか許されなかったが、政府や自治体に働き掛けて出国先を見つけられるまでのビザの延長許可を得た。また、内地でユダヤ人が生活習慣・宗教・価値観などの違いで起こすトラブルの解決に尽力した。
 ビザの有る者はアメリカやカナダへ、有しないものは上海へと旅立った。 その後、小林は特高から拷問を受けた。戦後は改宗してイスラエルに向う、彼の墓はそこにある。

 杉原に命のビザから根井・大迫・小林との連携が無ければ成し得なかったといえるでしょう。

  2018-8-29

 杉原千畝
 http://www.hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#杉原千畝
 映画 杉原千畝
 http://www.hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#映画 杉原千畝









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2018年08月27日

福岡城


 豊前中津16万石に構えた中津城より関ケ原の戦功により筑前52万石に転封になり、黒田長政が福岡城を1607年に竣工した。 はじめは名取城に入城したが、手狭なためにそれを廃し福岡城を築城する。


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 CGによる本丸再現(類推)

 天守の存在は議論されているようだが、最初はそれを作り幕府に遠慮して天守を取り壊したようです。 天守跡の石垣は残っている。

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 天守台


 城遺跡はあちこち広大な敷地に点在していて、見学していても、まとまりを感じられずであった。確かに50万石にふさわしい規模の大きなお城であったと思います。 行政による復元計画があるようで、角櫓や塀ができると、その規模から立派なお城になる予感がします。 下調べに留意してオリジナルなものを復元していただきたいものです。


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 多聞櫓 城内より  内部非公開 


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 本丸表御門  崇福寺へ移築された


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 下之橋御門(右)  潮見櫓(左)


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 潮見櫓(伝)


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 旧母里太兵衛邸 長屋門  移築されたもの


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 祈念櫓  鬼門の位置に建てられ僧が詰めていたという


   2018-8-25




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2018年08月25日

楢崎頼三 と 飯沼貞吉 


 会津の白虎隊は全員が死亡したと思っていましたが、長州藩士の楢崎頼三が少年のひとり飯沼貞吉を助けて、故郷に連れ帰り養育しました。この事実は密かに語り継がれていたが、世間では知られることなく、2000年になって両家が交流した。

 島柊二さんによる
 https://shima-syuji.com/2011/09/20/post-309/


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 楢崎頼三 1845-1875
 
 長州藩大組士林源八の二男として生まれ、同大組士楢崎殿衛93石の養子となる。
幕長戦争では、芸州戦争に従軍し、戊辰戦争でも甲州勝沼、宇都宮、白河、会津と転戦。
維新後にフランスへ留学したが、結核に罹り、明治8年に客死しています。



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 飯沼貞吉・貞雄 1854-1931

 会津藩士・飯沼時衛一正450石の2男として誕生、10歳で日新館に入学、白虎隊には15歳であったが、1歳年齢を偽って16歳であるとして入隊した。 一同、自刃のときには喉を突いたが、飯森山に息子を捜しにきた女性に助けられる。
 新政府軍に捕らわれ、楢崎に引き取られる。 長州へ連れて行れて養育された。 大きくなり電信技士になる。日清戦争では歩兵大尉として出征した。 日本の電信電話事事業の育成発展に貢献した。

2018-8-25



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2018年08月23日

門司港レトロ地区


 天候待ちでマリ−ナ停泊が3日目になります、マリ−ナからの市内までの交通が不便なので、タクシ−代が毎日6000円余りかかり合わせて高めのマリ−ナ代の支払いは、年金ヨットマンには痛いところです。

 今日はすでに下関と小倉へ行ってきましたので、門司港にあるレトロが売りの場所に来てみました。 今はJR門司港は終着駅になっており、関門トンネルができるまでは、本土から九州への始発駅でした。現在は門司駅から下関方面への直通運転又は乗り継ぎになっています。

 幕末の馬関・維新戦争の華やかしころには門司港はありませんでした。NHKの朝ドラ「あさが来た」の女主人公・あさが炭鉱を買い、その積み出しに門司港を開発したのだといいます。それまでは下関の方が圧倒的に発展していた。 明治22年に国の特別輸出港に指定されて以来急速に発展する。 昭和17年にトンネルが開通したことや大陸貿易が途絶えたこと、荷物のコンテナ化が進んだことで、港がさびれてレトロな建物が残ったのです。

 バナナの叩き売りはドラマの世界でしか見かけませんが発祥の地です。労務者が好んで飲む、酒屋で飲む角打ち商法が今でも繁盛しているといいます。

 観光案内所は駅近くの旧三井倶楽部にあります。そこで地図をもらえば、徒歩1時間ほどで見てまわることができます。

 ヨットマンにはありがたいことに旧JR九州本社ビルに海事広報展示室があり、関門海峡の通狭の相談ができます。潮流速や転流時など航法も教えてもらえます。

 残念なことはレトロなことが点在する建物に限られ、町の一体感が乏しいことです。さらに跳ね橋を抜けると良い泊地があるのだけれど、長崎の出島ワ−フのようにヨットが着けられれば、レトロな建物とヨットとの風景になり、より風情がでるのでは。 ヨットマンには町に近くて便利な潮待の泊地となるのではないかと思います。


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 門司港レトロ地図


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 門司港駅


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 関門海峡と大橋


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 旧門司三井倶楽部


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 旧大阪商船


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 旧門司税関


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 九州鉄道記念館


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 国際友好記念館


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 三宣楼


    2018-8-23


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2018年08月21日

龍馬の船  晩年龍馬年表付


 坂本龍馬が亀山社中・海援隊において所有・運航した船と他藩の船でも乗船した船をとりあげます。

  龍馬関連年表(旧暦)

文久2年・1863
     12/21 千葉重太郎、小笠原長行らと「順動丸」で兵庫着
     12/29  勝海舟と会う
文久4年・1864
      1/8  勝海舟と「翔鶴丸」で大阪着
     2/16  勝と「翔鶴丸」で佐賀関に入港、陸路長崎にむかう 
元治元年・1864
      2/23 龍馬は近藤長次郎、望月亀弥太、千屋寅之助、高松太郎らと長崎を初めて訪れる。
      4/4 神戸海軍操練所建設のため勝海舟と共に陸路兵庫にむけ出立。
    5月某日 京都でお龍に出会う。
      6/5 池田屋事件。望月亀弥太死亡
      6/7 「黒龍丸」に大阪で乗船
      6/17 「黒龍丸」で下田入港
      6/20 「翔鶴丸」で勝と大阪着
      7/19 禁門の変 
      7/23 第1次長州征討
      8/1  お龍と内祝言
      8/5 4国艦隊下関砲撃開始
     8月某日 勝の使者として西郷と面会
      11/10 勝海舟、軍艦奉行罷免される
    12月某日 薩摩は龍馬らを「船の手先」として雇い入れる
      12/16 高杉晋作の功山寺挙兵 
慶応元年・1865 
      3/12 神戸海軍操練所廃止
    4月某日 中岡慎太郎と薩長和解を策す
      4/12 幕府、第2次征長令を発す 
      4/22 西郷、小松帯刀に同行して「胡蝶丸」薩摩へ
      4/29 「胡蝶丸」 長崎寄港
      5/1  「胡蝶丸」鹿児島着
      5/16 長州への薩摩出兵拒否を伝えに行く、薩長同盟模索
     閏5/6 下関で薩長連合の件で桂小五郎と会見
     閏5/21 中岡慎太郎下関到着、西郷は下関に来ず、桂は憤激す。
     閏5/29 中岡と西郷説得のため京都へ
     6/29  西郷と会見、薩摩名義での軍艦・銃購入を許される
    7月頃  「亀山社中」設立 
     8/26  近藤長次郎の周旋によりグラバ−から銃を購入長州へ引き渡す
     9/26  兵庫で「胡蝶丸」乗船
     9/28  伊予青島寄港
     9/29  上関上陸
     10/7  下関の白石正一郎を訪問
     10/18 グラバ−から「ユニオン号」購入、「桜島丸」に改名
     11/24 長崎に向け大阪出発、 上関寄港 (11/26)
     12/3  下関着   
     12/14 長州と桜島条約を締結
慶応2年・1866
     1/1  長府藩士三吉慎蔵と出会う
     1/10  三吉と共に下関から兵庫に向かう 
     1/14  近藤長次郎自刃
     1/21  薩長同盟締結
     1/23  寺田屋事件で負傷
     2/5  薩長同盟の朱筆で裏書
     3/5  薩摩藩船「三邦丸」にお龍と乗船して薩摩へ
     3/8  長崎に寄港して近藤長次郎の墓参をする
     3/10 鹿児島到着
     4/12 亀山社中は「ワイルウエフ号」を薩摩の援助により購入
     5/1 桜島丸にえい航されてワイルウエフ号は長崎より鹿児島に出港
     5/2 ワイルウエフ号が座礁沈没
     5/28 勝海舟が軍艦奉行に再任
     6/1 お龍と「桜島丸」に乗船
    6月某日 「ワイルウエフ号」遭難地を訪れて弔い金を地元に渡す
     6/4 「桜島丸」が長崎到着、お龍を小曾根英四郎に預ける
     6/7 第2次長州征討
     6/14 下関到着、桂より小倉口参戦を依頼される。
     6/17 「桜島丸」(乙丑丸・ユニオン号)と長州軍船4隻で小倉渡海参戦
     6/20 高杉晋作と白石正一郎宅で面会
     7/20 徳川家茂が大阪で死去
     10/3 亀山社中、薩摩より月給として一人当たり3両2分を受け取る
     10/28 プロシア商人・チェルシ−から「太極丸」を購入
     12/4  小曾根英四郎宅に滞在
     12/5 慶喜15代将軍に就く
     12/7 山口で木戸準一郎に溝淵広之丞を紹介
     12/14 溝淵広之丞と共に下関到着
慶応3年・1867
     1/4 下関で伊藤助太夫宅に滞在  
     1/9 下関出港 長崎へ 船名不明
     1/11 長崎着
     1/12 長崎で後藤象二郎と会見、脱藩許される、
     2/10 龍馬とお龍が長崎より下関の伊藤助太夫宅に行く
     3/18 龍馬が御手洗で薩長芸土4藩の予備会談
     3/21 龍馬、新谷道太郎に会い下関に向かう
     3/22 下関着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
     4/8 伊予大洲藩蒸気船「いろは丸」 長崎到着
     4/14 高杉晋作死去
    4月上旬 「亀山社中」を改編して土佐藩付属の「海援隊」になる
     4/19 土佐商会に対して海援隊院へ一人当たり5両の月給を要求
         「いろは丸」長崎出港
     4/23 「いろは丸」紀州藩船「明光丸」と衝突沈没
     4/25 鞆の浦で「いろは丸」談判
     4/30 御手洗で鳥取藩士・川田佐久間と面会
     5/15 長崎で紀州藩と賠償交渉開始
     5/29 紀州藩より8万3000両の賠償金で決着    
     6/9 土佐藩船「夕顔丸」に後藤象二郎やお龍と乗船、「船中八策」を作成
     6/11 兵庫入港
     6/22 「薩土盟約」締結、 龍馬と中岡陪席
     7/4  後藤象二郎が藩主に大政奉還を伝えるため土佐に向かうのを見送る
     7/6 長崎で「イカルス号」水夫殺害で海援隊に建議かかる
     8/1 薩摩船『三邦丸』(みくにまる)で大阪出港
     8/2 須崎で土佐藩船「夕顔丸」に乗り換える。
     8/12 「夕顔丸」長崎にむけ出港
     8/14  下関寄港
     8/15  長崎入港
     9/7  薩土盟約を解消
     9/10 イカルス号事件無実となる
     9/18 海援隊が芸州藩船「震天丸」長崎出港、土佐へ銃1000丁を渡す。
     9/20 下関で三吉慎蔵にお龍を預ける。
     9/22 「震天丸」で下関出港、お龍との最後になる。土佐へ向かう
     9/29  脱藩以来の初めての帰郷で最後ともなる
     10/5  土佐藩船「空蝉」で大阪に向けて土佐出港
     10/14  大政奉還が受理、討幕の密勅が発せられる
     11/1  福井で松平春嶽に会う、
     11/5  「新政府綱領八策」を草案
     11/7  御手洗で薩長芸土密約に龍馬立ち会う
     11/8  龍馬は御手洗を立つ
     11/15 近江屋で襲撃され龍馬死亡
     12/7  陸奥陽之助ら海援隊による天満屋事件起こる
     12/9  王政復古の大号令



 五島列島・中通島上五島町の有川にヨットで一週間ほど停泊しました。 フェリ−タ−ミナルのロビ−展示で大きな龍馬像がある。それを目にした時には、なぜ、ここに龍馬の像があるのか不思議であった。 あとで知ったのですが、亀山社中の船「ワイルウエフ号」が潮合岬(しおや)にて座礁沈没して社中の者が遭難死亡した。

 これには発見談があり司馬遼太郎「龍馬がいく」にこの遭難話が書かれており、興味を持った人が昭和43年の時代になり、探し求めて、ついに遭難者の墓を発見した。地元の人にも忘れられており、当時の俗謡を覚えている唯一の老人にもめぐりあったという。

「そど(騒動)よ、そど、 そど、 潮谷そどや、
 五月二日の明け六つに 異国の船とは知らねども
 どことも知れぬ、島見せぬ 島もだんだん見えるして
 かねの錨をつけこんで つけども錨がきかずして
 石に当たりて水船に 流れて行くのがどこなれば
 上口さしてぞ流れ行く 江ノ浜前にぞ 流れつく
 どなたも錦の対の衣装 こりゃ何事じゃと 村中が
 浜に騒ぎて大騒ぎ 国はいづことたずぬれば
 国は薩摩の鹿児島で 積荷は何ぞとたずぬれば
 大砲(おおづつ) 小砲(こづつ)つみまぜて
 かなきんなどを さしにして
 さぞやお世話じゃ 浦田さん」

  浦田さんは浦田運次郎は塩飽列島の佐柳島出身で咸臨丸渡米にも参加している船頭頭であった。

山下禎三郎 ワイルウエフ号遭難顛末記
 http://wkmseton.d.dooo.jp/seoto/sot15.html


 有川より世界遺産になる頭が島教会に行きました。定期バスで訪れたのですが、龍馬像をバスから写真を撮りました。 しかしその地の江の浜には降りることはなかった。今考えれば惜しいことをしたものです、なにせ1日3便しかないバス便であったので。初めはその地を観光便乗商法宣伝と思っていたのは浅慮でした。


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 潮合岬に立つ合掌した龍馬像
 

  龍馬の船


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1. 「ワイル・エフ号」 スク−ナ−159t プロシア建造 グラバ−から購入

 亀山社中の木造練習船であったワイル・ウエフ号が、長州から米を積んだ桜島丸(ユニオン号・近藤長次郎のあっせんによりグラバ-から購入)にえい航されて鹿児島に向かう途中、上五島中通島潮合埼沖で遭難した。社中の池内蔵田・黒木小太郎ら12人は死亡した。


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2. 「順動丸」 77m 405t 360馬力 外輪船  英国建造

3. 「翔鶴丸」 350t  外輪船  アメリカ建造 幕府船


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4. 「胡蝶丸」 薩摩から土佐藩船  外輪船  150馬力  旧フ−キン

5. 「黒龍丸」  越前藩が購入して幕府船に

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6. 「ユニオン号」 45m 300t、長州藩船  英国ロッテル−ヒ建造 1865年薩摩名義で長州購入 、薩摩名義「桜島丸」 長州名「乙丑丸」(いっちゅうまる)
6月17日 (旧暦) の小倉藩への渡海作戦に、坂本龍馬が指揮官、菅野覚兵衛が艦長、石田英吉が砲手長となって実戦に加わった、大島口の戦いにも参加。


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7. 「夕顔丸」 65m 蒸気船 659t  土佐藩船 船中八策を起草
1963年に英国で建造、Shooeyleen号 英国商人オルチから購入

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 長崎にある 夕顔丸碑


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8. 「いろは丸」 160t 大洲藩 1866年英国バ−ミンガム建造アビソ号

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9. 「大極丸」  商人鳴海屋与三郎が買主、小曽根英四郎が保証人となって、プロセイン商人チョルチーより購入した洋帆船 遭難したワイルウエフ号と同規模の船。



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10. 「震天丸」 芸州藩船  薩摩より10万両借りて英国より購入、 薩芸同盟により長州と芸州の兵を御手洗から大阪に送る


11.「空蝉」 土佐藩船 146t 150馬力 蒸気船 建造場所不明 国産かも


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12.「三邦方丸」(みくにまる)  英国リクエブ−ルで製造、53m 410t 8万ドル購入、 西郷の遠島と帰還に利用された


   2018-8-21


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2018年08月19日

小曾根乾堂・英四郎 を訪ねて


 小曾根乾堂宅跡と弟の小曾根英四郎墓を訪ねました。長崎出島ワ−フのヨットハーバーに停泊していたので、そこから徒歩10分位です。市電大波止ないし賑橋停留場より徒歩5分ほどにある。建物は残っていなくて法務局の一角に石碑が残っているのみです。 

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 そこには、なぜか龍馬の連れ合いのお龍さんの月琴の像がありました。 お龍さんは8か月小曾根邸に滞在した。その時に長女「きく」さんから月琴を習ったそうですが、短い期間であったので名手になったわけではないと思いますけれども。

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 お龍さんと月琴の像、 乾堂の長女キクが教えたという

高知県芸西村教育委員会主催のイベントで月琴を奏でて、「面白き女と妙な男の夫婦物語」がおこなわれた。

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月琴での龍馬の手紙 高知県芸西村



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小曾根乾堂 1828-1885


 小曾根乾堂はレオナルドダヴィンチタイプの万能文化人で絵画、書画、篆刻(御璽・国璽)、陶芸(亀山焼)、音楽(月琴)、など業績を残している。 彼の墓地は晧台寺にある小曾根家墓地ではなく太平寺の墓地にあるという、今回は訪ねておりません。

 彼は次の言葉を残したといいます。冷静に維新を眺めて政府の高官になることは無かった。

「冷眼視世(れいがんしせ)」”冷めたまなこで世の中をみよ”

 
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小曾根英四郎 1840-1890

  勝海舟と弟の英四郎は海軍伝習所で同窓であった。元治元年・1864に龍馬と勝の紹介で会っている。英四郎は海援隊に入る。いろは丸の衝突事故の際には乗船していて紀州藩との交渉に活躍したといいます。龍馬が死んでからは世界の海援隊は夢と消え、明治になってから幕府が薩長土肥に代わっただけです。彼は不満を持って生活していて、酒色に溺れたといいます。妻は実家に帰り、孤独な晩年を過ごした。

 彼のお墓を見て来ました。 有名な眼鏡橋から山の報に登ったところに晧台寺(こうたいじ)があり、そこに墓地の所在の案内板があり英四郎の墓に行くことができる。小曽根家の墓地内に近藤長次郎の墓もある。

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晧台寺


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 小曾根英四郎墓  


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近藤長次郎墓 右隣は小曾根英四郎墓

 近藤の墓は別にあったが良き保存のためにここへ移築された。墓碑名は龍馬の字だという。


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 幕末長崎関連地図

 龍馬の最後の4年年表 大竹仁一さんによる
  http://www.gajoen.jp/ryoma_den.html

  2018-8-19



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