2017年11月22日

宮沢賢治の浮世絵・春画


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1896-1933 37歳没

 高校の時には美術部にいました。男子5人のうち3人は美大に進学して、今でもその道で過ごしています。 卒業近くでしたでしょうか、その3人は美術の教師でもあり部の先生から、部屋に呼ばれて浮世絵・春画を披露されたそうです。その先生は美術の先生というよりは、ガチガチの管理教育の先生という印象を持っています。ここは生徒指導の教師ではなく美術の先達としての行為だったのでしょう。

 本屋の店頭にその本が平積みされている時があり、この年になっても小生は、周りを気にしながらこっそりとそれをのぞいて見るだけ。 いたずらに年を重ねてた庶民爺にすぎません。 芸術として見る目や見識は育っておらず。

 NHKの歴史の選択とかいう番組で宮沢賢治を取り上げていました。 そこで磯田道史さんは「タイムカプセルとして彼をとっておきたい」 「いずれ人類は彼を生かす時代が来るでしょう」と日本の偉大な人間として見る発言をしています。
 他の出演者・研究者のひとりは、「春画を持ち出して農学校の生徒に性教育をした」と述べた。 賢治の浮世絵・春画の購入のせいで、神田界隈で価格の値上がりが生じたという話です。 遺品整理の時には大量のそれが出てきたという。 彼は結婚には至らず、独身です。

 青少年のときは、生物的欲求ばかりに捕らわれた行動をしている時期で、それは誰にでも思い当たると思います。そのような期間・時期は、人間・動物として自然のものです。 賢治がどう考え、どのように語り、農学生に教えたのか知りたいものです。我々レベルには理解できないものがあるのでしょう。

2017-11-22



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2017年11月21日

登戸研究所  法紙幣 風船爆弾、     大幡


 風船爆弾で象徴される陸軍登戸研究所は、現在その中枢部が明治大学生田キャンパス(川崎市)となっており、その一角に当時を偲ぶ記念館がある。
 たまたま、熱海で碁の催しがありその帰途を利用して尋ねてみた。小田原で小田急に乗り換え生田駅で下車、線路沿いに徒歩15分程で、キャンパスの裏口に瀟洒な建物があったが、左手奥の守衛所で案内を乞い言はれるままに、標高差20mほどの急坂を登り台地の上に立つ、久しぶりのことでしっかり汗をかいた。案内板があり記念館は構内の最も奥まったところにあり、徒歩7〜8分、秘密戦にふさわしい暗灰色のコンクリート一階建て、周りの校舎に比べ小さな倉庫と言った佇ずまいである 当時、研究所の殆どの建物が木造の中、少ないコンクリート造ずくりであり、構内の片隅であったことが幸いしてか、当時の姿をとどめる唯一の存在である。



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        写真  (B)

 この研究所は、銃弾の飛び交う前線に対し、後方の物資の調達・通信・治安の維持、更には敵方の後方撹乱など余り注目されることは無いが、必要不可欠で複雑多岐にわたる業務があり、秘密戦とも呼ばれる。これらに憲兵や特務機関員、陸軍中野学校で養成された工作員等が当たり、この業務に必要な資財機材の研究開発と、供給を目的として開設された。
 昭和12年日支事変が始まると、戸山ケ原(新宿区)で研究していた通信の実験場として、生田台地(川崎市)に開設され、戦線の拡大長期化につれ、業務も増大組織も拡大していった。また謀略・破壊工作等の性格上意図的に秘匿され、一般に知られることが全く無かった。


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       地図   2点
     登戸研究所時代の建物配置図
     現在の配置図

 その機構は4科16班、関係者も数十人から1000人余に膨張した。昭和19年の組織図を見ると
  第1科4班 風船爆弾、ラジオゾンデ・通信、怪力電波、人工雷
  第2科7班 防諜機材、毒物兵器、諜者用カメラ、対植物謀略兵器
  第3科4班 紙幣・証明書等の偽造・分析・鑑識
  第4科1班 上記研究品の製造
 この内容から、昭和12〜16年日支事変期と16〜20年の太平洋戦期に大別され、研究の内容・軽重に大きな変遷があったと思はれる。前期に戦争は支那大陸に限定され,研究の主力防諜関連は世界に広がっていたが、16年対戦勃発とともに、世界との交流は完全に閉ざされ全く違った世界となった筈である。
 防諜・諜報・諜略については、対支・対ソ・対欧米とその性格が分かれ、交通・通信の途絶等複雑であり省略する。
 又、怪力電波・人工雷については、昭和初期殺人光線として空想科学小説にしばしば登場したが、当時のマグネトロン(周波数変換)のレベルでは到底実現不能の夢物語であり、現在の知識から見れば笑止千万とも言えるが、当時はかなり本気だったのかな。
 スパイ関連の小型カメラ・耐水マッチ・証明書の偽造等少々「007」的で、上海等の魔窟辺りの心象風景で、実際にどれおどの活動場面があったのかと思う。
 薬物・毒物の研究、伝単の印刷 中国戦線の後方撹乱のため、家畜類の毒殺・食用植物の枯死、敵方の要人の毒殺等を目的として、諸種の薬物が開発されたが、その実効面については余り語られていない。更に毒物関係も731部隊との関連も有ってか、具体的記述に乏しく語るものが無い。
 余談だが、青酸ニトーリル系の遅効性毒物の人体研究が、昭和16年頃南京病院で行はれたが、戦後昭和23年帝国銀行椎名町支店で、厚生省技官を装った犯人が行員12名を毒殺、小切手等を奪った帝銀事件の捜査段階で、その毒物が登戸研のものではないかとの疑念が起こり、多くの人が捜査対象になった、とんだ副作用である。このおり研究内容が深く証言され、後に記念館設立のキッカケともなった。
 日本軍は兵器以外の物資ついて現地調達の方針をとってきた、初めは軍票・日銀券・アヘン専売により取得した中国法幣を当ててきたが、戦線の拡大とともに軍票等は信用されず、法幣の偽造で対処してきたが、昭和16年英領香港を占領、中国国民政府造幣所の印刷用原版と大量の原紙手に入れ、登戸研に送り本物そのものの偽札を、無制限に印刷することになった。



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        写真  (G)  

 これまでに蒋介石重慶政権側の経済を混乱させようと、対立する汪兆銘の南京政府に中央儲備銀行を設立、儲備券を発行全土に普及させようとしたが、軍事支配地域に限られ期待したほどの効果は得られなかった。
 この制約を乗り越えようと現地のアウトサイダ−(闇勢力)との連携がとられ、さまざまな裏話があって然るべきだが、小生のレベルでは発掘のてだてもない。
 しかし、重慶政権も巨大な軍備を調達するため、奉幣の印刷を増大させ、1937年(昭和12年)の発行額14億元が44年には1894億元になり、日本が発行した偽札は1%の45億元に過ぎず、殆ど何の影響も与えなかったが、37年の各種の物価指数100に対し、44年には5700と凄まじいインフレを招き、中国民衆を大いに苦しめた。
日本軍の食料などの現地調達が時に暴力を伴い、物議をかもしているがこれも一時・少量はまかなえても、師団規模となれば貨幣による商業的な調達以外に無い、そのための偽札である。44年4月の大陸打通作戦時には兵士に給料として支給され、それなりに通用したと思はれる。但し、発券の裏打ちは敗戦後、蒋介石の無賠償決議によりウヤムヤとなったが、日中国交回復時に、どのような裏取り引きがあったかまでは、この項の主題を外れるのでここまでにする。
 余談だが、現地調達は日本だけではない、映画「戦火の馬」に第1次大戦時ドイツ軍の所業に、かなりのスペースがさかれている。現池住民を組織的に徴用して、大規模な農園を展開していた、そしてアメリカは完全自給の体制をとる唯一の国であるが、唯一つ自給できないものがあり、それは戦地での性処理である。ベトナム戦を題材にしたいくつかの映画に出てきた、余りに多いので具体例を示せない。そして日本の敗戦後の風景、ドウス昌代著「貧者の贈り物」に詳述されている。
 そして風船爆弾、「東両国ー3」に一部を取り上げ、殆ど対費用効果ゼロと切り捨てたが、一応の成果が有ったとも言える記述があったので紹介する。





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    (図) アメリカ軍に確認された風船爆弾

 最初の風船爆弾は、昭和19年11月3日明治節を期して、千葉県一宮・茨城県大津・福島県勿来から一斉に放たれた。それぞれに15キロの爆弾と、数個の焼夷弾を搭載し、翌年の4月までに9300個が放球された。アメリカ本土到着が確認されたのは361個だが、おそらく1000個程度が到達したと推定される。その被害はアメリカ本土は勿論アラスカ・カナダさらにメキシコに及び、至る所で原因不明の火災が起こり、20年3月ワシントン州ハンフォード工場につながる送電線に風船爆弾が接触して断線事故となり、マンハッタン計画の研究用原子炉を一時停止させた、アメリカ当局はパニックをおそれてこの情報を公開しなかった。
 この放球作戦が11月〜3月に限定されて行はれたのは、偏西風という気象条件によるものであろう。



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 (図) 太平洋上の冬の偏西風予想図(風船爆弾の飛行経路)

 放たれたばかりの風船爆弾の姿はしなびた茄子と言うところだが、まず気球内に水素ガスを60%程度に満たして基地から放ち、上昇するにつれ外気の気圧が低下してガスが膨張し、高度4500m程度で100%まで満たされ、立派な球形になり上昇を続け、予定高度に達するとバルブからガスを放出して、偏西風に乗って太平洋上を東へ移動し夜を迎える。気温が下がるとガスが収縮して気球がしぼみ高度が下がる、すると高度維持装置によりあらかじめ搭載された砂袋を投下し始め、高度が回復すると投下は止まる。偏西風は時速200キロほど、およそ2昼夜半かけてアメリカ本土にたどりついて、爆弾や焼夷弾を投下することになっている。



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(図) 風船爆弾の全体図

 戦後明らかになったが、アメリカはこの風船に細菌兵器が搭載されるのを恐れ、厳戒態性を取っていた。一方わが国でも細菌兵器として牛ウイルスなどを用意して「最終兵器」と呼んでいたが、最後の段階で爆弾に切り替えた。若し実施した場合「わが国の稲の収穫期に焼却される恐れがある」とする東条英機首兼相陸軍大臣の判断で、中止されたとする説があるが、その任期と照合して真偽の程不明である。
 一方この時期には、天皇も参謀本部も敗戦を予期しており、その報復を恐れていたと言う、とすると、19年秋にはその意識が最高指導部にあったとされる。もっと早く少なくともドイツ降服時か、沖縄陥落時停戦できなかったものかと悔やまれる。
 余談だが、戦後ワシントンのスミソニアン航空博物館でV2号ロケットとともに風船爆弾が「最終兵器」として展示された。又海軍でも潜水艦でアメリカ本土に近づき、洋上から放球することを研究していたが、潜水艦不足から計画が中止された。
 さて、この作戦昭和19年9月30日大本営で実施が決定され、11月3日に放球開始されたがその素早さは驚異的である。先ず、市中から和紙とこんにゃくが姿を消し、日本各地の造兵廠、民間の工場・学校の体育館で、気球の外皮よなる原紙作り(こんにゃく貼り)が始まり、広い空間のあるデパートや劇場さらに国技館等で、ガすを入れる満球テストが行はれたと言う。姉「和子」が国技館に動員され、この作業に当たったと聞いたが、まん丸にふくらんだ10mの巨大な風船を目にしたとまでは聞いていない。わずか1ヶ月でとはかなり無理である、相当前からの準備が必要であるがその点定かでない。



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      写真 (C)

 一方、中国経由で昭和20年2月の新聞に、風船爆弾の戦果を伝える記事が出た、世界との交流は電波傍受しかないと思はれていたが、以外なところに小さな窓がいていたとは驚きである。
 さて、敗戦からこの記念館設立(2010)まで、半世紀を越える年月に色々な事があった。
 敗戦と同時に、謀略・毒薬等の研究趣旨から、証拠隠滅が厳しく行はれたので、その存在すら世間には全く知られなかった。
 1948年(昭和23年)の帝銀事件で毒薬関連の調査が進み、設立の遠因となったがしばらくは何の進展もなっかた。
 1951年敷地の大部分を明治大学がキャンパス用として購入、木造の建物は空襲も受けず、大径間のトラス構造で教室に最適である。
 植物用の毒薬を研究いた所に最初に出来たのが、何の因果か農学部である。
 学部の増設に従い中・高層のコンクリート造りとなっていき、最後の木造建築が消滅したのは1991年頃である。



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      写真 (D)

 一方世情では、1970年代後半から、ようやく戦中史の掘り起こしと地元史研究の気運が広がり、その教材として登戸研究所が取り上げられた。
 このうねりが大学を動かして、奥まったところのコンクリート造りの一棟が、記念館に転用されることになった。
 記念館を辞するにあたり、研究所の現存施設を尋ねたところ、当館の他にもう一箇所「弥心(やごころ)神社」の2つとのこと、神社は往路坂を登りきったところと確認、古びた小さな祠(ほこら)、昭和18年戸山が愿の「八意思兼神」(やごころおもいのかみ)をこの地に祀り、現在「生田神社」と呼ばれている、手を合わせて帰途についた。


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     写真  (E・F)
   (Fの碑・昭和63年元所員有志により建てられ、裏面に
   「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」と戦後数十年
   万感の思いが込められている。


 蛇足ながら入り口の立派な建物、台地に上がるためのエスカレータだけ、しかも登り専用である。往路汗まみれの苦労は何だったのかと悔やまれた。 

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2017-11-21















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2017年11月20日

辻将曹・維岳



芸州藩の大政奉還建白書提出、植田乙次郎

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1823-94

 ヨットを広島に置くようになってから1年余になります。その間にカ−プが2度も優勝する。そのおかげで、なじみのスパが感謝セ−ルをして、露天風呂が無料になり、ささやかな恩恵を被っています。広島は小生の数ある第2の故郷の一つとなりつつあります。
 龍馬暗殺に関する雑誌の記事に、大政奉還後に会津・桑名藩が元に戻すべき行動を起こしたと有ります。両藩が作った暗殺者リストの中に龍馬があり、それは残念・不幸にも実行された。薩摩の西郷、大久保、小松はそのことを知り急遽帰国して難をまぬがれた。また、芸州藩のリストに辻将曹と植田乙次郎があげられている。両者とも知らない人物だったので興味を持ちました。芸州藩の大政奉還建議があったのも驚きです。

 辻将曹は明治2年に永世禄400石を賜った。新政府の参与となったが明治3年に政府の職を辞任した後は政府の中枢にすえられることはなかった。そのせいか、彼は世に余り知られていない。
 辻将曹の祖先は、田中吉政に仕えた辻重勝が関ケ原戦いで東軍に属し、石田三成配下の杉江勘兵衛を討ち取っている。田中家が断絶のあとに浅野家に仕えた。 辻将曹は一二〇〇石の家督を継承する。上級武士である。彼は藩内の改革派であったが失敗続きであった。藩主が浅野長訓になった時に、家老・執政として抜擢され藩政改革を行う。

 芸州は関ケ原の後に福島正則が入封する。ほどなく転封されて浅野氏が入った。豊臣政権で五奉行の要職を務めた浅野長政の続きで、外様であるが将軍家とは婚儀を結んでいる。徳川家から信頼されて要所をまかされた芸州藩であるが、長州攻めの先鋒を拒否して、幕府側につくことはなかった。 藩の参政をしていた辻将曹は幕府から目を付けられ謹慎を命じられている。ほどなく許されて彼は第二次長州戦争の和平交渉を勝海舟と行う。後に、辻将曹は勝に周旋の才をほめられている。辻将曹は和議後に起きた討幕の気運に同調して薩長芸の討幕3藩同盟に参加した。

 土佐藩が大政奉還の建白書を提出した翌日には、芸州藩も続いて提出する。土佐藩は幕府を支えるのが目的であるが、芸州のは拒否されれば討幕すればよいとのものだった。 鳥羽伏見の戦いでは薩摩の独断専行・突出として芸州藩は兵を出さなかった。結果的には日和見行動と見なされて、後に参加した土佐や佐賀の後塵をあびることになる。薩長芸の藩閥政治が維新後に起きてもおかしくないほどの芸州藩の位置であった。

 明治23年にもなると明治は落ち着いて見直す気分になったのでしょう。辻将曹は元老院議員に任じられ男爵に叙され華族となる。 彼は薩摩と土佐の意見が対立したときに、土佐の後藤象二郎らをなだめて討幕の方向にまとめた功績があったが、彼は維新後にはきらびやかな役職につくこともなく、困窮する士族の授産事業をすすめた。

   植田乙次郎  1825-1893

 幕末の安芸藩(広島県)藩士。藩主浅野長訓の人材登用により文久3(1863)年武具奉行,野村帯刀,辻将曹(維岳)の藩政改革を助け,元治1(1864)年の第1次長州征討では幕長間の戦争回避工作に当たる。慶応2(1866)年の第2次長州征討では出兵拒否の藩論のもと,長州藩士広沢真臣と長芸不戦協約を結び,その後勘定奉行に昇進。翌3年,藩論が武力討幕論と大政奉還論に分化するにつれ前者を代表,9月山口に赴き薩長芸三藩出兵同盟を結ぶ。10月上洛し,王政復古の計画に参加。帰藩し出兵準備に当たり,世子浅野長勲に従い上洛。翌明治1(1868)年1月錦旗を携えて帰藩し,山陽道の旧幕領の接収に当たった。

2017-11-19





  4境の役 芸州口の合戦 和木を訪ねて
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  4境の役 大島口の戦いと久賀(くか)
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2017年11月19日

明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信     大幡


 歴史とは、人類社会の過去における変遷興亡のありさま、記録であり、自然科学の反復する一般的法則に対し、歴史は反復できず、一回的、個性的なものと広辞苑にある。
歴史は過去に起こった諸々の事柄を集約し、時間をかけて定説が生まれ一つのものとして確立されるべきだが、資料の読み方・評価判定の仕方に依って諸説に分かれ、さらには資料の扱い方によっては、とんでもない歴史が唱えられることがある。只時節の試練に耐えられるには、なによりも資料の読み込みと、その判断に関わる補完資料の存在に掛かっている。

 「フルベッキ群像写真」事件は混乱した歴史の好例といえよう。
 昭和49年(1974)肖像画家の島田隆資が日本歴史学界誌「日本歴史」に、維新史上写真が存在しないといはれる西郷隆盛のほか坂本竜馬・中岡慎太郎・高杉晋作・大久保利光・伊藤博文・勝海舟・等が一堂に会している写真があると説なえた。専門家に全く無視されたが、学会誌に載ったということで、次々に珍奇性を競って色々なビジネスが生まれ、フルベッキそのものも怪しげな正体不明の人物とされるまでになった。





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 そもそもこの「群像写真」、明治28年(1895)博文館の雑誌「太陽」7月号に初めて登場したが、誰が写っているかいるかに言及することなく、ただ佐賀の学生たちと説明したのみである。それから80年、島田がとりあげるまでひたすら眠り続けたが、これを機にして地元佐賀で動きがあったと思はれる。
 平成25年(2013)この写真の補完資料が出てきた。佐賀藩士で致遠館教師から明治政府に出仕した、中島永元の関連資料のなかに、同時期に撮られたガラス原版が見つかり、これに佐賀藩士数名が写り、之が「群像写真」と同じ上野彦馬の手になるもので、多くの人が比定され、勝海舟とされたのが医師の相良知安、中岡慎太郎が後の貴族院議員中島永元、西郷伊藤とされた人物は不明だが、岩倉具視の息子次男具定・三男具経などと判明するにつれ、島田の「志士群像」はもろくも潰え去り、フルベッキそのものが見直されるようになった。

 ここで改めてフルベッキの略歴を、平凡社刊「百科辞典」(1985初版)で見てみよう。
 フルベッキ Verbec (1830〜98)
 「アメリカのオランダ改革派教会宣教師。英語読みではバーベック、オランダ生まれ、移住先のアメリカでオーバン神学校に学ぶが、病に倒れたのを契機に献身を決意し、新婚早々の1859年(安政6年)来日して、長崎で日本語を習得、禁制下密かに布教して、村田若狭守に最初の洗礼を授けた。また長崎の洋学所その後身の済美舘、さらに佐賀藩の致遠館で英語・フランス語・オランダ語・ドイツ語の語学・政治・科学・兵事などを教え、門下から大隈重信、伊藤博信、横井小楠らの人材を輩出した。
 69年(明治2年)招かれて上京、新政府の顧問として重んじられ、開成学校(のちの校)教頭を務めた。また欧米への使節団派遣を建言し、教育、法律、行政などの諸制度に関して献策し、日本の近代化に大いに貢献した。
 のちに伝道に専念し、東京一致新学校の講師となり、86年ヘボンらと明治学院を設立してその教授を務めた。旧約聖書の邦訳にも協力。東京で没した」とある。




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(写真)   フルベッキ夫妻

 この文面だけでもトテツもない貢献と言える、「偶像写真」に関わる人物比定騒動(1974)の9年後の記述である。そうして、比定確立(2013)の28年前の確かな評定である。世の中は一片の偽報によって揺れ動く頼りない存在なのか。
 辞典のなかでキーマンと言える大隈重信(1838〜1922)の評伝からフルベッキを探ってみよう。同じ辞典には「長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英語を学び、世界的視野を広げた」とある。重信は年少の頃から佐賀藩の中で注目される存在で、藩の公用で長崎に出かけ、そこでフルベッキと出会い、学ぶなら英語を、そして藩の多数の若者にと、藩の老公関爽に掛け合い、重臣たちも重信に上方で騒動を起こされるより、長崎に縛り付けようと賛成して、三十数名のため慶応元年(1865)長崎にフルベッキを師とする英語塾「致遠館」を建てた、維新の3年前である。
 さらに、辞典のなかの門下生に横井小楠(1825〜83)があげらっれているが、洋楽所の始まる1863年小楠は熊本藩による士籍剥奪の処分を受け蟄居状態であり、門下生とは少々不都合である。
 フルベッキは1859年11月日本着、その後2年の万延元年まで、禁教中公の布教が困難のなかに、年頃16〜7の二人の士族が、英語の教えを乞いに来たのをきっかけにして、英語塾に活路を見出した。文久3年(1863)長崎奉行管轄の洋学所(後に「済美館」となる)の教授に招かれた。致遠館に先立つこと2年前である、重信との出会いはこの頃であろう、そしてキリスト教史、憲法等を伝授したのであろう。一方致遠館とは特定できないが、伊藤博文、井上馨、後藤象次郎、小松帯刀等もフルベッキの下で学んだと言はれる。
 後にタカジャスターゼで知られる高峰譲吉も12歳の頃、重信の薫陶を受けたといはれ、重信は致遠館の助教も兼ねていたのであろう。 
 重信は維新での表舞台での活躍は無いが、既に勤皇方の財政を取り仕切っており、彰義隊退治に際して大村益次郎の要請に、資金25万両・佐賀藩兵士1000人に加えてアームストロング砲2門と応えている。




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(写真)  新政府出仕の若き大隈重信

   
 明治政府設立間もない慶応4年4月5日大阪東本願寺別院で、浦上事件(キリスト教徒の大迫害)に関する、英国公使ハリー・パークスとの談判に於いて、外国官副知事の重信は「博愛と言うキリスト教にも血濡られた歴史が有るでは無いか」さらに「内政干渉である」と喝破した、これにはフルベッキによる教育ガ役だったのである。重信は若いのに頼もしいと、大久保や木戸の信任を得た反面、三条実美等はパークスの怒りを買ったのではないかと心配したが、パークス自身は理屈の通った主張に応えて、むしろ所信を主張する態度に深く感銘して、後々までの信頼関係が築かれた。因みに明治への元号改正は同年9月であり、この信頼関係が外債処理に大いに役立つことになる。




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(写真) イギリス公使パークス

 明治2年、フルベッキは上京政府顧問となったが、済美舘・致遠舘は5年程の出来事であるが、講義内容の多彩さに加えてその授業方法は、当時としては画期的なものであで、生徒が円陣を作り教師を囲んで自由に質問し、一団となって議論を闘わす方式で、今のディベートでありしかも英語で行われた。歴史を学ぶだけでなくこの討論方式が、パークスとの交渉に大いに役立ったのであろう。


 明治近代日本の瞭明期に医師としてのシーボルトに加えて、お雇い外国人、ローマ字のヘボン・理科のグリフィス等それぞれの専門分野で貢献したが、フルベッキは教育・法律・憲法更には工学と広範囲にわたって業績を残した。更に維新前1861年頃から明治5年(1872)にかけて、日本からアメリカに留学した約500名の半数以上が、フルベッキによりアメリカ東海岸ニュージャージー州立のラトガース大学に斡旋され、その第一陣は慶応2年(1866)で、この中に横井小楠の甥でフルベッキのもとで英語を学んだ横井佐平太・大平の兄弟が含まれていた、師事とまでは行かないが小楠もかなりの知遇があったと思われる。
 更に、ラトガースに入学した一員に、勝海舟の息子小鹿がいる、慶応3年とあるから二期生である。彼は後にアナポリスの海軍兵学校に転じている、海舟の海えの思いを継いだと言える。
 フルベッキの上京は大隈の推薦によるもので、そこで大学南校の教頭となり、新政府の外交・教育・法律等の顧問を兼務し、アメリカ等列強との条約改正の進め方の要旨を大隈に提出、これに応じた大隈、列国一堂に会しての交渉の非を悟り、列強中わが国に最も親近感を抱いているアメリカとの単独交渉の利をあげて、自ら交渉役として渡米することを建議し、三条実美の許可を得ていたが、新政府の一部特に薩長を中心にして、反対の機運が起こり大隈の渡米は実現しなかった。
 明治4年岩倉使節団(1871年6月〜73年00月)が派遣されることになった。これは新政府が外交関係を結んだ諸国に、明治天皇の親書を携えての表敬訪問と、近代化の実績視察を兼ねてのことであるが、これもフルベッキの強い献策によるものであり、又留守を任せるにフルベッキの愛弟子大隅重信あってのことである。維新の大業を遂げた志士の面々も、兵火の混乱はものともしなかったが、近代化というと勝手違いで、憲法・藩札処理・新貨幣等殆ど重信まかせであった。更に、「群像写真」に岩倉具視の二男具定・三男具経が居る、フルベッキと具視の間に並々ならない関係が有ったと思われ、先の献策の成立に有効に働いたことであろう。


 明治5年の条約改正にはその1年前に、それを申し入れることになっており、改正を有利に進めるには、わが国がいかに近代化したかの実績が必要であり、その最たる物が廃藩置県に伴う中央集権と財政の確立である、渋る藩主たちを貴族として東京に集め、各種藩札全てを新貨幣「円」で償却、通貨の統一を成し遂げた。

 明治5年、その他の施策については以下に一覧する。
   2月28日 兵部省を廃して陸軍・海軍二省を置く
   3月14日 神祈省を廃して教部省を置く
   8月 3日 学制を頒布(義務教育制)
   9月12日 新橋−横浜間の鉄道開業式
  10月 2日 人身売買禁止
  11月 9日 太陽暦採用を布告(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)
  11月15日 国立銀行条例公布(第一銀行設立)
  11月28日 徴兵令公布
 
 お雇い外国人の一人理化学教師グリフィスによる、評伝「日本のフルベッキ」の中で、「フルベッキが居なければ日本の近代化はあり得ない」とまで断言して、正に留守中の事を言い当てている。このグリフィスが日本に渡ろうとした影に、フルベッキの弟子福井藩士日下部太郎が絡んでいる。彼は小楠の息子達とともにラトガース大に学び、猛勉強のあまり卒業直前に病死したが、「数学の天才」と称され卒業とみなされた。この存在にグリフィスは触発され、日本に渡ろうとしたといはれる。因果は廻ると言はれるが、好結果は更なる慶事を生み、近代化を推し進めたといえる。さらに尾形裕康によれば「大隈の影にフルベッキあり、フルベッキの影に大隈あり」である。


 昭和47年(1972)「群像写真」から始まった騒動、平成25年(2014)までの凡そ40年、数点のガラス原版が埋もれていた諸々の歴史上の事柄を掘り起こしたが、歴史は事実の断片により大筋が決まり、更なる資料の添加が花として添えられものであるが、学会等表の研究の影には、地元史に思いを込める名も無い好事家の活躍が有る筈である。


 「福井新報」明治29年(1896)2月号にこんな記事がある。フルベッキが送り出した薩摩藩の青年4名の一人(後の大山巌)が出発にあたってフルベッキに助言を求めたが、フルベッキは「とにかく、どんな面白い事や、可笑しい事や、慰む事があっても、日本魂を失ってはいけません」と諭したと言う。フルベッキは日本人に西洋的な価値観を押し付けず、むしろ日本的な道徳観を尊重したと言う、まことに心豊かな人である。
 これ程の業績の影には未だ埋もれたままの、多くの物語があるであろう。実のところ、小生数年前の「群像写真」までフルベッキの存在を全く知らなかった、冒頭の辞典による略歴1985年に確立し30年前のことであり、お恥ずかしいことこの上ないが、シーボルトに娘イネがいるように、例の写真に次女エマが写っており、二つの塾には春秋に豊んだ数百人の若者が群れ集(つど)っていて、時あたかも維新である、歴史に花を添える物語があってもおかしくない、小難しい歴史書には不可能なことで、文学の力に頼るしかない。若しも「坂の上の雲」の司馬遼太郎の目にとまっていたらと、妄想の雲が湧き上がるが所詮かなわぬ夢、いずれかの文筆家の目にと思う。


 小生がこの項に思い立ったのは、新潮45(2016年9月号)井上篤夫投稿の「フルベッキ先生」正伝により、氏は岐阜県に生まれ佐賀との地縁はなさそうで、早稲田在学中に執筆活動に入ったとあり、主な著訳書に「追憶のマリリン・モンロー」「志高く孫正義正伝」などがあり、少々筋違いかもしれないが、ここ(フルベッキ)に今一つの「ものがたり」を添えてと願うや切である。
 


    2017-11-19







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2017年11月18日

ラパロ条約と密約   大幡


 話しは1920年代の後半、ナチスが政権をとる数年前のことである。ドイツのバルト海に面する港に、厳重に封印されたコンテナーが届いた。中身は試験飛行に失敗したパイロットのなきがらであり、ラパロ秘密協定により、ソ連領内で行はれた、飛行機・戦車等武器の開発・試作試験の一端による。
 当時敗戦国ドイツはヴェルサイユ条約により、再軍備には厳しい制約があり、この密約が無ければドイツ軍の再建はかなり遅れたであろう。この知見戦争中「海と空」によるものであり、この認識半世紀以上眠ったままであった。

 この歴史は1922年、バルト海を遠く離れた地中海ゼェノヴァ湾に面した、イタリアのジェノアに始まる。第一次大戦敗戦によるヴェルサイユ条約の、苛烈な賠償総額1320億マルクの重圧が、敗戦後三年復興期のドイツ経済にのしかり、その不履行を理由にルール一帯が連合軍に占領されたり、上シレジアの一部がポーランドに割譲される様であった。
 高まるドイツ側の不満と、革命後の混乱が続くソ連問題を議題として、ジェノアの地で国際会議が開かれることになったが、当時の国際情勢を整理してみると。

・ ソ連は帝政時代の外国公債と戦時の援助物資の変換等併せて約140億ルーブル(1970年当時の200億ドル)の負債を抱えていた。
・ ソ連はヴェルサイユ条約に招かれず、対独賠償権が保留されていた。
・ ソ連以外の連合側では、革命政権はいずれ崩壊し穏健な政府が出現すると、希望的見通しが支配していた。
・ ロシアの対外債権の大部分をフランスが占めていて、ソ連の対独賠償権を戦後返済能力の無い対ソ連経済援助の担保とみなし、これにより独・ソの接近を妨げようと目論んでいた。
・ ドイツは西側との連携の大勢と、ソ連と連合の少数との二派に分かれていた。

 このような情勢の中で、1922年バルト海を遠く離れたイタリアのジェノア(モナコに近い)で国際会議が始まった。主な議題は(A)ドイツ賠償問題(B)ソ連の経済問題であったが、ポアンカレー(仏)とロイド・ジョージ(英)は議題(A)を除外することに同意していた。当時の国際世論では野蛮な好戦国ドイツ、流血で手の汚れたボルシェヴィキ、この見苦しい二つの大国がジェノアで仲間入りを許されるか、どんな態度をとるか固唾を呑んで見守っていた。
 一方ドイツでは少数派ながら、ソ連と対等の経済協力を図る交渉が、ベルリンでひそかに進展していた。会議が始まると即ソ連問題に入り、関係ないとして独代表団は議場から締め出され、ソ連もこれに同意した。独側は孤立感と更なる賠償におびえていた。
 会議が進行して、ソ連はいかなる国とも対等な立場で、経済協力をやる用意があると明白にし、更に全世界の軍備縮小を提案、世界が同意するなら赤軍の全面解体する用意があると、大見得を切り、国際世論を味方につけた。
 ソ連代表団はジェノア東方30キロの漁港、ラパロに停泊しているイタリアの駆逐艦に本部を当てていた。ドイツ側からの接触は不可能である、会議が数日進行する中、ソ連側からドイツ側に、ベルリンでの試案を進めようとの話が来た、今にも死刑宣告に近い窮地に立たされるドイツ側、ためらう余地は全く無い、すぐさまラパロの漁村で仕上げの会議が始まり、紆余曲折はあったがその日のうちに、ソ・独国交回復条約が調印され、ソ連の計らいでささやかな祝宴が催された。
 この発表にロイド・ジョージらは激怒したが、後の祭り、ロシア・ドイツの厄介者を封じ込めようとのカラクリの裏を見事にかいてしまった。英仏側の怒りはすさまじく、平素冷静な「タイムス」誌でさえ「英仏を愚弄するものであり、断固たる措置をとるべきである」と悔しがった。
 一方ワイマール共和国では成立とともに独・ソ協力の機運が高まり、ゼークトを頭とする軍部の対ソ接近はすばやく、ヴェルサイユ条約が禁じた武器の製造・実験をコッソリ始めていた。しかもその資金について、当時のヴィルト首相、政府としては表面的にははねつけていたが、裏資金の通を付けだんまりを続けたという、なかなかの人物であった。
 そして、ソ連には「両国が交友関係にあるときだけ、両国はもちろんヨーロッパは平和を享受することが出来る」また「ドイツ経済にとって広大な市場となるのだ」と、西側の結束にすこしでも楔を打ち込めればとの思いと。ドイツにとってロシアぐるみの包囲網を崩せればとの利害一致が、ラパロ条約成立の最大要因であるが、ソ連当局の巧みな外交力なくしては実現しなかったであろう。

 第一次大戦ドイツは寸土も侵入を許さず、戦場では負けていないととの意識が強く、過酷な賠償がドイツ民族の強大な反発力を生ぜしめ、ヒットラーの台頭する前から、産軍一致の再軍備江の強い動きがあった。そして、ラパロ条約の密約が大いに効果を上げたのは、その後のヨーロッパ状勢のっ示すとおりである。

 少し話をさかのぼるが、冒頭の密約の存在と棺のこと「海と空」で、第二次大戦中に承知していた「ラッパロ条約」としてだが、半世紀以上たって密約の正体どれ程のものかと、興味がわいて調べ始めたが関連資料が全く見つからない、20年ほど前、港区の図書館で広辞苑並みの分厚い「ドイツ関連辞典」にも見当たらない。ない筈である「ラッパロ」ではなく「ラパロ」と「ッ」の一字が邪魔をしていたのだ、どんなキッカケかはすっかり忘れてしまったが、平成15年県立熊谷図書館の書士が、かなりの時間をかけて「世界」の昭和37年6月号「独ソ関係の一こま・ラパロ条約40年」の記事を見つけ出してくれた。本稿の大分はこれによる。

 密約に戻る、とにかくドイツ軍部の兵器開発の全貌がソ連に筒抜けである、ここにはドイツ人のロシア人に何が出来るものかとの、油断があったのであろう。そして、グスタフ・マンネルハイムの指揮と、スキーを駆使したフィンランド兵士はソ連軍を翻弄した。この様を見たドイツ軍の将領達はソ連軍を極度に軽視し、そのうえナポレオンの故事を無視して、冬服を用意することなくモスクワに突進し、やがて冬将軍のとりこになり、次ぎ次と現はれるT−35戦車ヤクー17地上攻撃機に押し捲られ、東部戦線崩壊の有様は大方の人が承知の通りで、第二次大戦ドイツの敗北はソ連軍なくしてはありえないことである。針小棒大だがドイツの敗因色々あるが、ラパロの密約無くしては有り得ない、そして、ドイツのこの失態なかりせば日本の惨敗も遥か先のことになったかもしれない。しかしわが国にとって良いかどうかは分からない。

2017-11-18

  ラパロ条約と独ソ不可侵条約
  http://www.hayame2.sakura.ne.jp/new1003.html#ラパロ条約
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2017年11月17日

ダンケルク  大幡


 第二次大戦の有名な戦闘で、大陸から英本土への撤退作戦を取り上げた映画である。
 映画評論によれば、英雄物語ではなく重圧にひしがれた兵士の、屈折した心理描写を意図して、凡百の戦争映画を退けると持ち上げているが、 映画は無人となったダンケルクの街路を、一人の英軍兵士がドイツ軍の銃弾に追われ、無事友軍のバリケードに救われ、忽ち目の前にドーバーの海岸が開けて始まる。しかし、かなり筋の通らない話の集積であり粗製濫造とさえいえる。そこでいくつかのう矛盾点を挙げてみる。

1 冒頭の兵士、味方に救われてすぐ海岸に出る。
2 志願した民間ボートに救われる精神異常の兵士。
3 海上の船舶を攻撃するドイツ軍のハインケルHe111
4 遠浅の海岸に立派過ぎる桟橋。
5 上げ潮を待つ小船での浸水騒ぎ。
 これらに触れる前に、ダンケルクに至るヨーロッパ戦線の概略を手短に整理してみる。
・ 1939・9・ 1 ドイツ軍のポーランド侵攻と、これに呼応するソ連軍の挟撃に始まる。 
・       3 ポーランドとの条約により英仏対独宣戦布告
・       4 英・大陸遠征軍、仏に上陸
・ 1940・4・ 9 独,,ノルウェー・デンマーク侵攻
・     5・10 独、対仏西方侵攻

 開戦から西部戦線の兵端ガ開かれるまで凡そ半年、funny warといはれる静かな時が流れたが、その背景を探ってみよう。
 ドイツ軍の基本戦略は、東西両面の同時戦争を避けることが最重要とされ、東部ではポーランド分割により、ソ連との不可侵条約が有効に機能していた。
 一方フランスは第一次大戦の経験から、専守防衛に徹しスイスからルクセンビルグに至るマジノラインに頼りすぎ、ポーランド侵攻のドイツ軍の背後を突こうという意思が全く無かった、更に、アルデンヌの森を機動部隊が通れるとは全く考えず、マジノラインを築かないのみかそこには予備役の劣弱な部隊が当てられていた。そしてベルギー国境はイギリス軍と連合して、開戦後ベルギーに進駐うして防衛線を築くことにしていた。この時代に逆行した陣地戦を国民も支持するなか、シャルル・ドゴール中佐ら若手将校が、機動戦を唱えていたが省みなれなかった。
 イギリスはドーヴァー海峡を有効な防衛ラインと考え、更に過去の戦訓にもとずいて大陸遠征軍を派遣することが最良の策と考えていた。
 英仏連合軍はドイツ軍の主力がベルギー方面にやってくると考えていて、ドイツ側ではこれに対してマンシュタインの案になる、機動部隊によるアルデンヌの森の突破が用意されていた。先端が開かれ連合軍がベルギーに展開するのを見て、ヒットラーはほくそえんだと言はれる。森から突進する機動部隊に前面のフランス軍は忽ち崩壊して、防衛ラインに大きな穴が空きそのままドイツ軍は西方に突進、20日にはその先鋒はソンム川のアルヴィルに達し、ベルギー方面に展開した連合軍を包囲する形になった。

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 地図ー1

 その連合軍は21日、ドイツ軍の機動部隊と追随する歩兵部隊の間に楔を打ち込もうと、アラスの地で猛烈な反撃に出たが、ロンメルにより撃退された。戦略的には失敗と思はれたが戦略的には意外な効果が有った。ドイツ側で、ルントシュテットは更なる大反撃が用意されているのではないかとの疑念がわき、パリ進撃前に機動部隊の不用意な損耗を避けるため一時停止を考えていた。一方ヒットラーもあまりにもうまくいきすぎたことに不安を覚え、包囲した敵軍の殲滅を空軍にとのゲーリングの要請に、渡りに船と24日全軍の停止命令を発した。このため連合軍は態勢を立て直す余裕が出来た、このことを映画では連合軍側の陣営でドイツ軍が停止したようなテロップが流れたが、ヒットラーの命令を知るわけは無い、「今日はドイツ軍やけに静かだな」ぐらいだろう。

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 地図ー2

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 この戦況に先立ってイギリスでは、過去の戦訓から万一を考慮して、14日にはラジオで「全長30〜100フィートエンジンつきのボートのオーナーさん、未だ徴用されていない場合その旨申し出てください」と、このことは既に多くの船が徴用され、オランダ・ベルギーから退避して来た河川用のスクーツ(喫水の浅い200〜500トンの貨物船)も目がつけられていた。
 25日包囲された連合軍は、海岸線で東西100キロ縦深50キロほどの橋頭堡を維持していて、ダンケルクは未だ戦場ではなかった筈である。このような情勢で26日撤退作戦が発令され、海峡連絡船「モナーズライン」が、初めて1312名のイギリス兵を乗せ夜間20時ダンケルクを出航、翌27日00時15分無事ドーヴァーに帰港した。しかしダンケルクの港湾は爆撃による被害が激しく、海浜よりの撤退が主力になりここでスクーツが活躍したが、海岸に横付けするわけではない臍まで漬かっての乗船である。

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 写真ー1

 30日朝、現場指揮のヘクター・リチャードソン中佐が、陸軍の放棄車両のトラックなどを、干潮時沖合いに向けて縦一列に並べ、その上に導板を渡し仮桟橋とする案を出し、早即工兵隊が活躍満潮になると小型船なら十分接舷でき、浜辺からの乗船の効率が飛躍的に向上した。

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 写真ー2

 余談だが、この面目躍如のリチャードソン、後に重巡エクゼターの副長に転出して、日本軍に撃沈されて終戦まで捕虜生活を余儀なくされた。
 撤退作戦は5月26日に始まり、31日海岸の陣地は幅32キロ奥行き10キロに縮小していたが、その外周陣地は仲間の撤退を助けるべく頑強に戦っている、指揮官ラムゼーはかれらこそ最も救い出すべき将兵だと感じていた。そのころダンケルクの街は脱走兵や迷い兵であふれていた、傷痍兵や統率の取れた部隊が優先され、このあたり画面でよく描かれているが、もっともこれをテーマとした映画で当然と言える。    
 6月3日夜半最後の撤退作戦が発動され、危険を顧みず大型船から小型船まで一斉にダンケルクの浜辺に殺到した、そして一夜が明けて6月4日14時イギリス海軍省は正式に作戦の終了を通達した。この作戦によりイギリス軍将兵19万8229名・フランス軍将兵13万9997名が撤退したが、イギリス陸軍は精鋭のマチルダ戦車や車両・火砲を多量に失い、予想されるドイツの侵攻に対し、十分な防衛体制が構築されないと言う事態を招いた。しかし、多数の実戦経験を経た将兵が、新兵と混成部隊に編成されることで、新編成とはいえその戦闘力を飛躍的に高めることに成功した。
 この概要に照らして冒頭の矛盾点を詳述する。

1 友軍のバリケードに救われた兵士、撤退作戦の終盤でも縦深10キロあり、ダンケル
 ク市街であるはずが無く、ドイツ軍の銃弾が飛び交う街は海岸をかなり離れている。
2 志願した民間船に救助された兵士、たった一度の遭遇戦であれほどの精神異常をき
 たすとは思えない、しかも激戦に蹴散らかされたのはフランス軍である。しかも船に同
 乗していた正規兵何をしていたのか、また父親の船長何がおきたか不思議そうな表
 情、何ともつりあわない。
3 海上の船舶に水平爆撃のハインケル111、陸上の目標ならともかく当たるわけが無
 い、これはユンカース87の縄張りだ。
4 立派な桟橋、ダンケルク港にこれほど長い桟橋があったとは、更に7〜8メートルの  高さがある、開かれたドーヴァー海峡にこれほどの干満があるだろうか。
5 干潮時の浜に放置された船に隠れて満潮を待つ10人ほどの兵士、遠景では2〜  30トンにしか見えなかったが、船内の情景100トン以上はある、浮力を争っているのに銃弾によると思はれる穴からの浸水をぼんやり眺めている、しかも浸水はほぼ直角である外の水位は穴よりかなり上にあるはずであり、それでも船に浮上の気配が無い。ボンク ラども浸水を止める様子が無い。

 これらの矛盾点は壮大なダンケルく戦では些細なことで、7昼夜にわたり参加した大小800隻の舟艇、、しかも一日に数往復している、延べにすると2000隻になり一日あたり300隻である、海はこれらで埋め尽くされたのではないか、そして6月3日から4日の夜は総動員された800隻が浜辺に殺到したのだ、すさまじい光景が展開されたであろう、あえてCGを避けたといはれるが是非ともこれを見たかった。そして最後の撤退を支持して外周陣地にとどまった兵士たちはどううなったのであろうか、4日以降も1000人を越える帰還者がいる、殿(シンガリ)はしばらく抵抗したのであろう、霧にまぎれてのキスカのようにはいかなかず、友軍の無事を見届けて降伏したと思はれる。そして帰ったイギリス兵は20万人だが、最初の遠征軍は何人で帰れなかったのはどれほどか、いろいろの疑問が残るが関連する資料が見当たらない。

 余談だがイギリス本土に救われた14万のフランス兵、自由フランス軍として編成され、ドゴール指揮のもとD−Dayを迎えることになるが、彼はドーヴァーを小船で渡ったのではなさそうである、どのようにしてイギリス本土に渡ったのであろうか。

   2017-11-17


映画 ダンケルク
  http://hayame.net/custom20.html#spb-bookmark-373






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2017年11月16日

富士山登頂 ・ 軍事教練 ・ 戦後風景         大幡


 八月の初旬、体調不良のままぼんやり眺めるTVの画面に、少しばかり不思議な光景が飛び込んできた。ヒマラヤを征した田部井女史が、夫君の差し出すピッケルに引き上げられるように、ゼイゼイとあえぎながら富士山7合目で、登頂を断念、同行する若者たちの登高を見送る姿である、このシーンにつられて70年前の記憶が甦ってきた。
 昭和19年夏中学三年生、御殿場の軍事演習場での教練の一端として、富士登山の7合目あたりで親友の渡辺が脱落し、不用意にも外套を持たなかった小生、彼のを借りて登頂することになった。彼は田部井さんのように、ガンバレよと見送ってくれた。日が暮れて厳しい寒気がやってきた、彼の外套が無ければ小生の登頂は無かったろう。


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  写真 昭和19年・富士の裾野演習所


 余談だがこの渡辺が「海と空」を教えてくれた、「機械化」しか知らなかった小生を、本格的なミリタリーの世界に導いてくれ、終生の趣味を授けてくれた大恩人である。
 さて先ほどのTV番組、「登山に関わる日本一尽くし」で、南アルプスの北岳・間ノ岳と連なる縦走路や、名前の長さで山梨県大月の、牛の奥の雁ケ腹摺り山(うしのおくのかりがはらすりやま15文字)そのほか色々の事があげられ、標高では当然、1に富士山2に北岳3に間ノ岳と話が続いたが、小生の頭の中は昭和19年、当時の日本一は新高山であり、二が次高山(つぎたかやま)で三が富士であった。改めて台湾地図を見ると、玉山(新高山)3952mその近くに秀姑孌山(次高山と認識していた)3805mがあるが、はるか台北(たいぺい)寄りに興隆山(雪山)3884mがある、これでは富士山は少なくとも4位となる、しかも当時の日本の版図には、台湾より遥かに大きい朝鮮半島があり、4000mを越える山があってもおかしくない、地図により調べてみる、意外にも中国との国境にある白頭山(2700)が最高峰である。とりあえず4位確定か、しかし当時の小学校唱歌に「富士は日本一の山」とある、既に死語となって久しいが、内地で一位ということか。

              興隆山 (3848m)

              秀姑孌山 (次高山3805m)
              玉山 (3952m)


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  地図・台湾全図

 富士登山にもどる、現在の富士は五合目まで観光バスも乗り入れ、ここから登山開始であるが、昭和19年教練の折は麓の一合目、浅間神社に参拝してからの登山である。中学3年生にしてはよくやったものだが、引率の石黒先生、延々と続く我々の登高の列を逆行して「ガンバレ」と声をかけながら、最後尾を確認してから再び、大股で先頭えと登っていく、本来英語の先生だが大した体力である。
 この先生には色々の思い出がある、授業中に話が脱線してSF小説の世界にはまり込み、二つの話を記憶している。
 一つはブラジル・アマゾン源流の秘境で、視力を失った部族がおり、ここに迷い込んだ探検隊の一人は。視力の無い部族の人に見捨てられていたが、視力のある彼から見れば絶世の美女、二人は逃亡を図りこれを妨げようとする現地人は、道路に沿って設けられた装置(こうもりが発する高周波ようの)により、高速で追いかけてくると、後は覚えていない。
 次はパミール高原あたり、チベット奥地の桃源郷、そこでは人々は何百年と生きることが出来、周辺には金が大量に埋まって、山々に囲まれ気候が温暖で、節度ある人々は不足するものも無く、争いも無い理想卿として描かれ、まさにエルドラドである。この話イギリス人作家ジェームズ・ヒルトン(1900〜54)によるもので、この理想郷をシャングりラと名づけた。
 余談だが、これが「失われた地平線」として映画化され、そのロケ地に中国雲南省の西北端にあるデチェン・チッベト族自治州の中心部「中旬?」(旬の日を田とする字)が、秘境というイメージで選ばれて、その後ロケ地が観光の名所となり、多くの観光客が訪れる通例にもれず、これを見込んで地方政府が香格里拉(シャングリラ)と名前を変えてしまった。シャングリラという名前、東南アジアで余程浸透したのか、シンガポールを初めとして、その名を冠したリゾートホテルが多々ある。

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  地図・シャングリラ

 昭和18年11月25日、太平洋の最前線トラック諸島のタラワ・マキンが、米軍上陸後5日にして玉砕した。年が明けて石黒先生の授業時「勝ち抜くまでは」を織り込んで戦意高揚の標語を作れということで小生一案を提出した。全員を取りまとめ一覧して「良いのがあるぞ大幡だ」と読み上げた。 「火と燃ゆる タラワ・マキンのこの恨み 勝ち抜くまでは 消すまいぞ」少々鼻が高い思いと、我ながらよく出来ていると胸を張った。

 話しは登山に戻る、8合目あたりで山小屋に泊まり、翌日早朝4時ごろ登山開始、現在はめいめいがヘッドライトを点け、登路を真珠の首飾りの様に連なるのとは大違い、月明りだけを頼りに這うように声をかけあって登った。山頂間近に御来迎、目の前に最後の登山道が絶壁のように聳えていた。わずかに残る雪渓から飲料水を導くゴム管を望見した。やがて山頂にいたり、浅間神社で金剛杖に焼印を受け、郵便ポストにあらかじめ用意したハガキを投函した。トニカク富士山に登った間違いなく。やがて下山である、6〜5合目辺りから須走りで、砂ばかりの下り道、自分では直立している積りが、眼下の山中湖が斜め、先上がりに傾いている。しかもかなりのスピードが出ているので、踏み出す1歩が5〜6mの歩幅、あっという間に麓に着いた、半日もかからなかった。この教練富士山頂を含め3泊4日である、戦局厳しい昭和19年のころ、物資も乏しい中でよく出来たものである。

 後年(平成17年・05年8月)この東富士演習場で、自衛隊の富士綜合火力演習を見る機会があった。3万余の見学者の前で、90式74戦車・対戦車誘導弾・榴弾砲や空挺部隊など自衛隊員2000名により、華々しく火力演習が富士の裾野に展開された。中でも圧巻は空中に富士山のシルエット状に描かれた榴弾砲の弾幕である。草原の風景こそ昔のままだが、展開される機材の進化には目を間張るものがある。

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  入場券・写真・4点 F席スタンドからのけいかん,富士山のシルエット、ヘリコプター

 昭和19年の教練に戻る、出発は文京区の校庭に整列、最寄り駅(駅名は覚えていない)まで銃を担いで街中を行進した、背の高い順に三八式、数が足りないので途中から模擬銃になり末尾の背の低い数人が騎兵銃である、とにかく打てば弾の出る銃を担いで誇らしい気持ちであった。更に自慢できるのは配属将校、それも現役の近衛少尉、しかも当時人気の細川俊夫ばりのイケメンであった。浅草で名の知られたすき焼き家「松喜」のボンボンで、教練場での雑役の婦人達が、代わるがわる首実検に来るほどの人気であった。
 配属将校といえば退役後の年寄りが通例で、入学初年度にはヨボヨボの白髪の少佐で、2年からどうしたことか現役の少尉である、昭和20年になって彼はいなくなった、首都防衛に配属されたのか、そして我々も首都防衛予備軍ということで、時折焼跡に散開して校舎を敵陣に見立てて、各個に前進と演習したが手にするのは木銃、少し前に三八式・騎兵銃の応召と言う出来事があった。関東地方に布陣していた軍隊に配備されたのであろう。しかしこの現地軍ではゴボウ剣すら充分には行き渡っていなかったといはれ、非番外出時にはゴボウ剣の使い回しがあったという。首都防衛予備の我々は全くの徒手空拳、実戦になっていたらどうなっていたのか。

 ドイツ映画「橋」に、敗戦直前ベルリン防衛に駆り出された少年兵が出てくるが、軽機関銃にバズーカ砲まで持っていて、屋内に潜みパットン戦車に側面からバズーカを放ち格座させ、しかもバックファイアで側面援護の米兵をのけぞらせる、物量の差にあきれ返る思いが残っている。
 話しは少しさかのっぼて、昭和18年2年生の野外教練は軽井沢で行われ、全員木銃を担いでいった。銃は3年生の教練に駆り出され、我々までには行き渡らなかったと思はれる。軽井沢高原で、木銃かついでの戦争ごっこ全く記憶が無い、覚えているのは薄切カボチャの小夜食(寝る前の軽いオヤツ)と、酒保のような売店でウニの瓶詰めを土産に買ったことしかない、家人から「山に行って海の土産ね」とからかわれた。小夜食は初めての経験でそれにウニのビン詰め、どちらも食べ物のこと、乏しくなった食量事情が影響したのであろう。

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 写真・昭和18年 軽井沢

 時期がハッキリしないが銃の応召前、荒川の河川敷、赤羽の国鉄の橋梁下辺りの教練で、各自に2発の空砲が与えられ、散開して匍匐(ほふく)前進「各個に打て」の指揮に従い、発砲、一応の反動を肩に受け、更に突撃・小休止、薬莢(やっきょう)の回収が始まり、ただ1個の不足、改めて出発点に戻り全員横1列になって、1個の薬莢に汗を流した。
 今一つ別に実弾発射の経験がある、文京区春日町の現東京都立戦没者慰霊碑のあたり、台地の下に大塚方向にトンネル状の実弾演習場があり、遥かかなたの標的に数人ずつ代わるが割る発射した、当たったのかどうかハッキリしない。
 戦後前線帰りの会社先輩から聞かされた話だが、昭和15〜6年ごろの中国戦線実戦のさなか、機関銃の発射時ポンポン跳ねる薬莢を、敵方に身をさらしてドンブクロ(麻袋)に回収して後送したという。どこまでも物資不足の軍隊である。

 戦争は突然終った、雑音交じりの「御聖断」自宅で父親と二人かしこまって聞いた、「負けたんだね、この国どうなるの」子供相手に仕方ないと思ったのか、ほとんど話しが無かった、すぐに戦時補償の打ち切りという経済的大打撃が来た、当時の金で50万円ほどと聞いている。数日して登校した、焼け残った鉄筋校舎の屋上に、最上級生(4年・当時早期卒業で5年生はいなかった)の我々が集められグラマンが低空で飛び交う中、校長は悲痛な声を張り上げて「いつの日かあの赤い星のマークを日の丸に変えよう」と、耐え難き敗戦から立ち直りやがて敗北の恨みを返そうと誓った。正直のところそれほどの復讐心は無かった、9月2日ミズーリ艦上降伏調印式の事か。
 程無く校庭に一台ジープに乗った2〜3人のアメリカ兵がやってきた、さては屋上の件ばれたのかなと、少々心配したが英語担当の鈴木先生、かなりの時間英会話が続けられたが、何も起こらずジープは立ち去った、この先生後に「鈴木長十の受験英語」として予備校でもてはやされた。
 戦後もニュース映画は続いた、靖国神社・宮城前広場に土下座して、高山彦九郎ばりにひれ伏す若者、どれほどの思いだったのか。誰かと語らって下駄履きで宮城前に出かけた、物資不足でゲタの登校が見過ごされていて、放課後のことであろう。いきなりアメリカ兵が呼び止めカメラを向けシャッターを切り、一言も無くたちっ去った、我々は力なくサンキューといった、敗戦国民の情けなさと、われながら不甲斐ないとの思いが今も残っている。

 半世紀以上過ぎて時折タアイも無い思いがよぎる、アメリカのどこか小さな町で一人の老人と口をきく、話が弾んで自宅に招かれ、古いアルバムを取り出す、昔日本に占領軍として行った、「そのときの写真だ」勝ち誇って威張りくさった数々の中に、宮城前の一枚にゲタばきの少年、よくよく見ると小生そのもの、あー!そこで我に代える。
 戦後 しばらくしてWVTR(進駐軍向けのラジオ放送)が始まった、同級生の鈴木、コチコチの勤皇派で、「神国日本神風が吹く」と叫んでいたが、ある朝登校の道すがら「聞いたか、WVTRジャズすげえなあ」すっかり洗脳されていた、全く同感であった。ジャズには戦争中かすかな記憶がある、敵性排除としておおっぴらに聞くことがはばかられる頃(昭和16年頃かな)近くの細野洋服店の5〜6年年長の息子が、コッソリ音を絞って聞かせてくれた。

 余談だが、神風は吹いたが特攻の話しではない、すさまじい嵐が沖縄戦線を吹き荒れた。航空機が飛べないのは日米お相子、地上海上ではそれなりの損害があったが、近代装備のこと大したことは無く、元寇の再来とはいかなかったかった、神風のいはれを知ってか、我々の戦意をくじこうとしての伝短が8月の空に舞ったが、当時は気象関係は軍事機密として何も知らされていなかったので、反って僅かとはいえ溜飲を下げる思いであった。

 敗戦で心のすさんだ生徒をやわらげようと、学年揃って映画「リンゴの唄」を根津神社近くの木造の映画館で見た、このあたり運良く焼け残っていた。サトーハチロー作詞並木通子の歌う「リンゴかわいやかわいやリンゴ」どれほど癒されたかどうか分からない。只映画は最大の娯楽でその後数限りなく見た。新宿の武蔵野館で立ち見の邦画、終わって明るくなって見ると、いすが全く無く、むき出しのコンクリートの床だった。そして戦後初めて上映された洋画は「ウエア殺人事件」と「ユーコンの叫び」で、どちらも戦前に輸入され、上映出来ずスットクされたB級作品である。(映画はきりが無いので割愛する)

 昭和21年ごろ、鈴木が両国の家に訪ねてきて「今浜町クラブで働いている」という。浜町クラブ、隅田川の対岸浜長公園の北端にあり、地の利でか火がはいらなかったとみえ、接収され米兵相手の日本国営クラブになり、背の低い彼は米兵からショウティー(shorty)と呼ばれ、その発音のショウリーを「勝利」ともじって、国は負けたが俺は負けてないと奇妙な強がりを言っていた。「クラぶに来ないか」との彼の誘いに応じて、両国橋を渡って訪ねた折、トレイ一杯に並べられたジョッキに、並々と注がれたビールを出された。飲み残しかといぶかる小生に、クラブの主任が「我々はビンを空ければいいんだ、アメ公が呑むかどうかは関係ないんだ」との話しで、兵隊が只で飲んでいるのを知った、占領費こんなところにまで使われていたと知った。勿論ビールはたっぷり飲んだが、その前にコカコーラを初めて飲んだ、「薬臭い」と話しの通りでなじめない味だが、甘味欠乏の時代でこれがアメリカと承知した、敗戦の味だ。そしてショウリーしばらくして肺を病んで逝った。
 誰かが「もはや戦後ではない」と言ってから既に半世紀が経った。巷では若者が「戦争ってどこと?アメリカだって?そしてどちらが勝ったの?」作り話かもしれないが、敗戦の痛みも、遠い過去となってすっかり忘れられ、ただ「安心!安心!」と叫ぶ世論、むなしい思いである。

   2017-11-16





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2017年11月14日

志摩電鉄・タブレット・荷客輸送

  大幡さんによる

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 昭和初期の志摩電鉄は三重県の鳥羽・賢島間を結ぶ25km弱、単線の私鉄であった。

   以下続く

  船中八策のHPをごらんください。

   2017-11-14


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2017年11月13日

衆愚政と民主政


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 爺の時代の学校での近代日本史教育は、個人的な感想でもありますけれど、維新後から原敬の平民宰相と普通選挙法の成立まで習って、時間が無くなり終わったような気がしています。第2次大戦や戦後史まで習うことはありませんでした。それも普選法を頂点としたデモクラシ−進展の流れを描くのを基調としていたと思われます。

敗戦後生まれですので、小学生の低学年の時には、進駐軍を実際に目にして育った。小生は与えられた戦後民主主義をアプリオリに正しいものと認識・刷り込みとして育ってきたわけです。そのせいでしょうか、ヒットラ−のナチス政権が当時の最も進んでいたと云われるワイマ−ル憲法のなかで選挙により選ばれた合法政権であるのが不思議で、長く疑問点でした。

下記の塩野七生さんの「逆襲される文明」という小冊子を読み少し氷解したように思います。

 「衆愚政とは民主政の国にしか生まれない。日本人はデモクラシ−を簡単に口にする。これを叫びさえすれば何事も解決できる感じだ。同様に衆愚政も疑いもせず口にしてきた。ところが、古代ギリシャ語ではデモクラツイアとデマゴジアがそれらに相当する言語になる。そのデマゴジアの日本語訳の衆愚政を、日本の辞書は、多くの愚か者による政治としか説明していない。 ペリクレスは卓越した政治家であったが、彼が死んだ途端にアテネが衆愚政に突入した事実は、アテネの市民が急にバカになったわけでもない。
 デマゴジアはデモクラツイアの劣化した現象。デモクラシ−も、金貨の表と裏の関係であるので、デマゴジ−に転化する可能性を常に内包している。

 扇動家とは、実現不可能な政策であろうとそのようなことは気にせず、強い口調で繰り返し主張することで強いリ−ダ−という印象を与えるのに成功し、民衆の不安と怒りを煽って一大政治勢力の獲得まで至った人であると、イタリアの辞書にある。 選挙運動中のトランプは生きた標本になってくれた。

 デマゴ−グ・扇動家とポピュリスト・大衆迎合家は日本では同じ意味で使う人が多いが同じではない。ポピュリストは大衆に迎合するが、デマゴ−グはしない。普通の人間ならば多少なりとも誰もが持っている将来への不安に火をつけ、それによって起こった怒りを煽り、怒れる大衆と化した人々を操ることが巧みな人々をデマゴ−グという。」

 やたらとナチスのことを引き合いに出す財務大臣、ナチス礼賛をした嫌疑で米美容外科学会から除名宣告を受けた高名な美容クリニック院長などを最近のニュ−スで目にします。
 また、偉大な緑のポピュリストは、そのしっぽが露見して、大衆はそれを気付いてしまい、幸いにもその芽を摘みました。同時に人気に陰りがみえましたが、現に大きな力をもつポピュリスト・デマゴ−グを兼ね備えた政治家は続投しました。これが現実。

 デモクラシ−は賢な市民に支えられて成り立ち、微妙なバランスの上に成り立つ壊れやすいものと理解しなければなるまい。しかし賢な市民が多数を占めることは極めて稀というよりはあり得ないと認識した方が現実的です。それゆえに代議制があるのでしょう。優れた指導者に率いられる民主政こそが必須のものともいえます。
優れたリ−ダ−を生む教育なり文化を意識的に育成しなければばらない。

 25年余り給与が上がらずに、負担ばかりが増えて実質給与は値下がりしています、それなのに欧米先進国は倍に上がっているにもかかわらず。 幸い統計上の失業率は低く納まっていますが、外国人労働者や難民の流入が増加すれば、その人々は怒りの対象として浮上するでしょう。それにつけ込むデマゴ−グ・扇動家には注意したいものです。

  2017-11-13



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2017年11月11日

危機の克服


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 国難が迫っているというスロ−ガン演説を聴かされて、最近に選挙が行われた。自民党が圧倒的な支持を得ることになる。

 また、トランプこそが危機ではないかとも言われています。それは、北朝鮮が米国に届く核ミサイルを完成させるまでの間に(もしその期間が有るのなら?)同盟国が多くの被害を受けることを深く考慮することなく、アメリカファ−ストの政策が実行されるかもしれません。トランプならば、充分に想定できることです。

 危機は危機でも塩野さんが以下に「逆襲される文明」と題して、雑誌の小エッセイを集めた新書本にある危機と今の差し迫った国難は違います。その文中に……
 塩野さんが、50年にもわたる勉強で何を学んだかの一つは、「長期に渡って高い生活水準を保つことに成功した国と、反対に、一時期は繁栄してもすぐに衰退に向かってしまう国があるが、このちがいはどこに原因があるのか、という問題である。
 前者の典型は、古代のローマ帝国と中世・ルネッサンス時代のヴェネツイア共和国。後者の好例は古代ではギリシャ、中世・ルネッサンス時代ではフィレンツエ。
 前者と後者を分けるカギは、上手くいかなかった時期、つまり危機、に表れてくる。危機をどう克服したかが、カギになる。それはそこいらに簡単にあるのだが、その重要性を認識できた人だけが見つけ出せる。
 持てる力や人材を活用する、ということがカギだ。上手くいっていた時期に蓄積した力やその時期に育った人材を、停滞期の今だからこそ徹底的に活用してやろうという心意気である。人材は常におり、どこにもいる、ただ停滞期になると、その人材を駆使するメカニズムが機能しなくなるのだ。前者は危機の克服を、これこそが政治であると実行した、後者はリストラという方法に訴える。歴史的に言えば、国外追放。テミストクレスやダビンチのような頭脳流失の先例を作る。 リストラは短期に範囲を達成できるが、長くは続かない。」 
 
 東芝、神戸製鋼、日産と続々と問題が表面に現れています。 ある企業のリストラ案では退職金プラス5千万円を提供という報道を目にしました。目先の金額はスゴイナと思われますが、果たしてそれで上手くいくのでしょうか?

 ヨットで地方のさびれた寒村を訪れることがあります。そこでは、我が町内くらいの狭い地域で、幕末の維新の功業に加わった青年の生家がいくつもある村を知ることになりました。人材はどこにでもあるのだなと思わされます。時代の要請があれば人材は噴出してくるのだと思います。


2017-11-11








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2017年11月01日

速魚のヘンリ−・パ−セル全集


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 愛してやまない音楽家は、バッハ、モンテベルデイ、シュッツ、ヘンリ−・パ−セルです。すでにバッハ全集はアップしています。 今度パ−セルに取り掛かりました。大枠ができましたのでアップします。好きなだけで浅学ですので、全部埋めるのは難しいと思います。 時間はかかると思いますが随時更新していきます。

 英国には音楽が無いなどと、とんでもないことを云う人がいます。ダウランド、ウイリアム・バ−ド、パ−セルのことを知らない人が言っているのでしょう。 英国の食事がうまくないということは認めざるおえないですが。

    2017-11-1

 バッハ全集
  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank022.html

 ヘンリ−・パ−セル全集 随時更新
  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank033.html#パ−セル TOP

ジョン・ダウランド全集
  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank041.html#トップ




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