2018年01月30日

明治維新の英傑 まとめ

 
 維新の英傑 「まとめ」を作成アップしました。

  随時更新してまいります。

  速魚の船中発策ブログのまとめ HP
  http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank035.html

    2018-1-30


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2018年01月28日

薩土盟約と御手洗薩長芸土4藩軍事同盟密約


 薩長同盟が成立、第2次長州征討に長州が勝利、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城の流れで明治維新が成立したと理解してはいる。
 薩度盟約、薩長芸3藩盟約、御手洗条約などの最近知ったものとの続がりが、小生にはよく分からないので整理してみました。

 幕末年表

1866年 慶応2    1/21     薩長同盟
           6/7     第2次長州征討
          7/20 将軍家茂死去
          8/20 徳川慶喜将軍就任
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                     徳川慶喜

           8/21    孝明天皇、長州征討停戦命ず
           12/25    孝明天皇崩御

1867年 慶応3  3月  島津久光 藩兵1000人と入京
        5月  四侯会議 島津久光、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城
        5/23  徳川慶喜の勝利、四侯会議失敗
        5/25  薩摩武力討幕を指向
        6/12  龍馬の船中八策
        6月  後藤象二郎は容堂に大政奉還を提言
        6/19  島津久光は長州の品川や山県と引見
        6/22  薩土盟約 薩摩・小松、西郷、大久保と土佐・後藤、
             寺村、真鍋、福岡、 浪人・龍馬、中岡が陪席
             大政奉還を薩摩が了解、これにより西郷が挙兵のために長州派遣を中止。
         6/28  芸州・辻に同意を得る
         8/14  長州へ大政奉還建白は武力討幕への大義名分と説明
         9/8  薩長芸三藩盟約による共同出兵計画
         9/9  薩土盟約は解消
         9/28  久光が討幕否定の通達
         10/3  土佐による建白書提出 
         10/4  芸州による大政奉還の建白
         10/8  三藩の討幕再確認   
         10/14  大政奉還が実行 、討幕の目論見が白紙に
         11月初旬 御手洗で薩長芸土4藩の軍事同盟密約と新政府綱領8策を結ぶ。
              長州・大村益次郎・山県有朋、薩摩・大久保・大山格之助、
              芸州・池田徳太郎・船越洋之助、土佐・龍馬・後藤象二郎
         11/8  龍馬御手洗を立つ
       11/15  龍馬暗殺 
       11/26  御手洗条約 長州軍を芸州藩が上方に先導する約定
       12/9  王政復古 薩摩と土佐の対立を芸州辻が討幕にまとめる
1868 慶応4    1/3  鳥羽伏見の戦い
          4/11 江戸城無血開城
          9/8  明治に改元

 譜代による幕府の専制政治がくずれて、喫緊の課題の解決のために薩摩は四侯会議にる打開を試みた。雄藩連合による政治・薩摩の目論見は慶喜の巻き返しにより失敗した。薩摩は武力討伐を指向する。薩摩は大政奉還が成るとは思わないが、それの拒否が討幕の大義を得ることになるということで、土佐の提言にのり、龍馬や中岡の陪席により1867年6月に薩土盟約を結ぶ。これは議会政治の採用による手段としての大政奉還による王政復古を採択し、武力討幕を原則回避する方針となった。

 約定書の内容は以下の7箇条から成る。
1.大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきである。
2.議事院は諸藩の費用供出で成り立つ。
3.上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選挙し、諸侯も職掌によって上院に充てる。
4.将軍職は執政の最高官ではないので、徳川慶喜は職を辞して諸侯の列に戻り、政権を朝廷に帰するべきである。
5.諸外国との条約は兵庫港(神戸)で新たに外務大臣が交渉し、新条約を制定して通商を行う。
6.律令以来弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球上に恥じない国体を建てる。
7.皇国復興の議事に当たる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うべきである。

 しかし1867年9月9日盟約は解消される。土佐と薩摩は同床異夢であった。それより前の9月8日に薩長芸による出兵盟約がかわされている。薩長の思惑とは異なり将軍慶喜は大政奉還を受け入れる。

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   山内容堂

土佐の容堂の意向とは異なり11月に薩長芸土による御手洗の討幕密約がなる。(これはつい最近述べられるようになった)その下旬には御手洗条約にて長州軍を芸州が上方に先導する条約が成る。王政復古が宣言され、薩摩の独断専行の先駆けにより鳥羽伏見の戦いに勝利して、明治維新が成る。

御手洗薩長芸土4藩軍事同盟密約は軍事同盟と新政府綱領8策が御手洗で龍馬も参加して結ばれた。この密儀は龍馬が60年間黙っているように皆へ約束をさせた。ゆえに新谷道太郎がその期間を経て世に出す。彼はそのために山陰に隠れて生活している。まだ定説になっていないが本当でしょう。 龍馬はそ後で御手洗から京にのぼりまもなく暗殺された。 龍馬を暗殺した犯人が薩摩黒幕説があるが、御手洗で龍馬ともども4藩同盟成立あるのなら、それほど日数が暗殺まで経ていないのだから、薩摩節は無いと思われる。


   2018-1-28

 
  幕末芸州藩まとめ

  



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2018年01月26日

イビザ物語 4回 佐野

 ヴィッキ− その3

イビザとの出会い

 ヴィッキーも他の客と同様、定期的に、彼女の場合は給料日の次の日にツケを払ってくれた。元々、ヴィッキーの場合はここで食事を摂ることがなく、朝のコーヒーにエンサイマダ(Ensaimada:甘くやわらかいバレアレス諸島名物の菓子パン)、 夜更けてからのコニャックやリキュール類だけの利用だったからたいした額にはならなかった。
でもそれは春先の6月くらいまでのことで、ウォッカやジンをお持ち帰りよろしくボトルで売ってくれくれないか…と始まったのだ。初めてスミルノフ(Smirnoff:ウォッカ)を一本譲ってくれと頼まれた時はかなり躊躇した。というのは、ワインなら大量に仕入れる価格は店頭売りよりかなり低いし、さらに2倍、3倍掛けでもレストランの価格として通るのだが、リキュール類はグラス一杯売りだから、一瓶を幾らで売ったものか見当が付かなかったのだ。酒屋で売っている値段よりあまり高くすると、あそこはガメツイと言われる心配もあったからだ。
ヴィッキーは私を見透かすように、「いくらでもいいいよ」と言ったのだが、私は自分の弱さから、仕入れた値段で一瓶売ってしまったのだ。それが町の酒屋で買うより安いと知ってからは、ヴィッキーは頻繁にスミルノフだ、ゴードン(Gordon:ジンの銘柄)だ、マグノ(Magno::スペイン製ブランディ)だと買いに来るようになってしまったのだ。その都度、その分だけは現金で払ってくれていたのだが…。
結果、私は重いリキュールを何本もベェスパ(Vespa:スクーター)の後ろに縛り付けた箱で頻繁に運ばなければならい羽目に陥ったのだった。
どうにも、こうして一人称でモノを書くことの難しさを思い知らされている。“私”といちいち文頭につけるのも煩わしいし、果たしてその時点で本当に自分がどう思い、どう考えていたかも、至極アヤフヤで見極めが付かないのだ。事実関係だけを書くというのは一種の虚構で、書いている本人が“私”である以上、私情が必ず入ってくるのは避けられないからだ。
私がヴィッキーのはち切れんばかりの肉体に興味がなかったとは言い切れないにしろ、彼女に惚れてはいなかったと断言してもよいと思う。ヴィッキーは多い時には日に3、4回も我が『カサ・デ・バンブー』に足運んできたし、店が暇な時にはカウンターに陣取って長話、主にイビサのニュース、常連たちのゴシップ的情報を提供してくれていた。拙い私のスペイン語をハスキーなタバコ焼けしたガラガラ声で丁寧に直してくれてもいた。

カウンターに置きっぱなしにしてある私のシガリーリョ・ネグロ(Cigarillo Negro)と呼ばれているタバコの葉がタールの塊のように真っ黒な“ドウカドス(Ducados)”を一本抜き、「やっぱり、これが本当のタバコね…」とか言いながら吹かすのだった。この“ドウカドス”は嫌煙家が近くにいたら、バケツ一杯水を頭から浴びせられたくらい強烈で重苦しい臭気を撒き散らすのだが、一度このムッとくるような臭い知ると、軽い香気溢れるヴァージニアの葉っぱなど物足りなくなる中毒性があった。もちろん、価格も天と地ほどに差があり、“ヴァージニア葉使用”と断り書きがしてあるスペイン製の“フォルトゥナ(Fortuna)”の4分の1、5分の1で、もっぱら労働者のためのタバコとみなされていた。
ヴィッキーが常習的にタバコ・ネグロ“ドウカドス”を吸っていたのか、ただ手持ち無沙汰でカウンターの上に置きっぱなしにしてある私のタバコに手を出しただけなのか分からない。どこから、どう手に入れたのかフランスの“ジタン(Gitan)”とかイギリスの“ダンヒル(Dunhill)”、そしてアメリカタバコを「これ吸ってみない?」と置いていってくれたりした。当時のスペインではそのような外国タバコはとても高価だっただけでなく、なかなか手に入らない貴重品だった。
少しでも客が立て混んでくると、ヴィッキーはスーッと身を引いて帰るし、夜遅くテーブルに汚れた皿などがそのままになっているのを目にしたら、ササッと洗い場まで運んでくれたりするのだった。酔っていない時のヴィッキーには、なかなか空気の読める、気の付くところがあったと思う。

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アパートのテラスから美しい夕陽が眺められるロスモリーノスの丘


ヴィッキーの様子が変わり出したのは、シーズン最盛期の8月頃からだった。一緒にバルセロナ時代の友達を連れてくるようになったのだが、揃いも揃ってマリファナかアルコール、その両方にとっぷりと漬かり切っている風が見て取れる輩ばかりだった。その頃のスペインでは、徐々に解禁されつつあったとは言え、マリファナは禁止されており、5グラム以上持っているのを見つかれば(具体的に5グラムという数字もチマタの風評で、法規に照らし合わせたものでない)、実刑を喰らう…と言われていた。
私自身、閉店後にマリファナを一服やるのを楽しみにしていたし、ヴィッキーからの差し入れを平然と受け入れ、“上物”を時々貰っていたし、私のカフェ『カサ・デ・バンブー』は、ましてや星空の下の戸外だから、客がマリファナを持ち込み、それをさり気なく吸うことに関しては黙認していた。
しかし、ヴィッキーは度が過ぎた。青白く痩せた彼女のボーイフレンドたちが無限にもたらす…と想像しているのだが、“極めつけの上物のマリファナ“に溺れていった。
ヴィッキーと友達グループは、我がカフェテリアにとって迷惑な客になりつつあった。他のドイツ人、イギリス人、北欧人の常連は、静かなひと時を過ごすためにここにくるのだが、ヴィッキー・グループは大声で叫びあうように話し、酔っ払って、我が物顔で『カサ・デ・バンブー』を占領するのだ。ヴィッキーたちはラリって嬌態、醜態を晒しながら、長時間テラスを占有するようになってしまったのだ。これでは他の常連の足が遠のくは当然で、「オッ、今日はカタラン軍団がいなくて寂しいな〜」と皮肉り、常連のドイツ人、イギリス人たちは羽を伸ばすのだった。
4、5人の友達とヤンヤと賑やかに騒いだ後、帰りしなに、私の不機嫌な顔を見てか、ヴィッキーは、「サーノ、今夜は少し騒ぎすぎたかしら、ごめんね」と声を掛けてくれるうちはよかったが、じきにそれもしなくなっていった。
夏の終わり頃だったと思う。ヴィッキーが自分の誕生パーティーを『カサ・デ・バンブー』でやりたい。少しは豪華にシャンペンや特別料理を用意して欲しい、総勢16〜17人は呼ぶから貸切でやりたいと持ち掛けてきたのだ。
-…つづく

  2018-1-26

 
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2018年01月25日

映画 カルテット! 人生のオペラハウス &  映画 ボ−イ・ソプラノ  ただひとつの声

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 ダステイン・ホフマンの監督作品の「カルテット」と出演作「ボーイ・ソプラノ」を続けてアマゾン・プライムで見ました。
 「カルテット」では音楽家のための老人ホ−ムでのお話です。近代音楽への感性に欠けている小生にはヴェルデイの歌劇「リゴレット」カルテットにはなじみがありません。大団円でこの歌が聞こえるのかと思いきやエンデイングロ−ルが流れてしまい映画は終わります。 主演の4人以外は往年の演奏家たちが出ていたようです。これも古楽しか興味のない爺爺には馴染みがありませんでした。時折聞こえたバッハ以外には。

カルテット 美しい恋の乙女  4分
https://www.youtube.com/watch?v=tSvtMxRE2fk


https://www.youtube.com/watch?v=EE_ltQQ9ooA


https://www.youtube.com/watch?v=5pUhjCanUZ8

 ヴェルデイは実際にミラノにある音楽家のための老人ホ−ムへ私費を投じて設立しました。現存しているという。 この作品のようにイギリスに似たものがあるのかは定かでありません。小生は日本の老人施設は避けたいと思っていますが、古楽好きのものがあればいいのかなあと思ったりします。 作品で描かれている老人ホ−ムの人々の描写がおもしろい。老人がそこで個性的に生活しています。日本はどうなんでしょうか?

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  ダステイ・ホフマンは音楽をめざしたことがあり、音楽には思い入れがあるようです。 合唱は中世以来の教会音楽と伴にすすんできましたので、小生の偏った好みと重なり、映画「コンチェルト」と近代の音楽とは違い少しは楽しめました。指揮者のホフマンが「ビブラ−トを効かせないで歌って」というセリフがありますが、納得のいくものです。しかし映画全体に聞かせてくれる音楽は、なぜかトリハダものとは個人的にいきませんでした。クライマックスシ−ンでヘンデルのメサイアを聞かせるのですが、イマイチそうでした。録音の問題か再生機器の問題かもしれません。


 30年ほど前に、ロンドンにあるコベントガ−デンで聞いたメサイアは、今でもその感動を思い出します。ナマであるのと会場の雰囲気が違うからでしょう。ウワサに聞いていた国王起立の場面で、皆が起立をすることが実際にありました。英国ロンドンでの演奏だったからでしょうか。日本ではマネしているのかな。

ヘンデル メサイア ホグウッド指揮 135分
https://www.youtube.com/watch?v=fdlyoEpCV9k



   2018-1-25

 映画








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2018年01月21日

映画 オ−ケストラ・ Le Concert


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 演奏場面

 紅白歌合戦の時間に肋骨を折ってしまい、安静のため、ひたすら録画したものやアマゾンの映画を見るはめに。1日に何本も鑑賞しています。 その中で映画「オ−ケストラ」がすばらしい。10年ほど前に上映された映画です。話の進行からロシア映画と思いきや仏映画でした。

 ソ連の時代に人民の敵にされて巨匠といわれた指揮者が掃除夫に落ちぶれる。あるきっかけで、ニセ楽団といっても当時排除されたボリショイオ−ケストラ楽団員を率いて、フランスの有名劇場で指揮演奏するお話です。香港でのニセ楽団の演奏実話事件があったとか。

 ソ連崩壊時のロシアになった時代を背景にしている。現在のロシアのことは、小生にはどういう日常なのかをつかめません。 さもありなんというドタバタコメデイで話は進行していきます。 圧巻は最後のチャイコフスキ−のヴァイオリン協奏曲・コンチェルトを演奏するシ−ンです。美人女優メラニ−・ロランがソリスト演奏者で指揮者とアイコンタクトをしながら弾く曲がすばらしく感動ものです。

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アンヌ・マリ−役のメラニ−・ロラン

アマゾンプライムでごらんになれますので是非オススメいたします。
 見終わってユーチュ−ブで同じ曲を聞きましたが、やはり映画のなかでのスト−リ−と演技を交えた演奏にはかなわないと思います。

  https://www.youtube.com/watch?v=lDLfqsdxB8Q   15分

  実際の演奏者はSarah Nemtanu(サラ・ネムタヌ)の演奏
  https://www.youtube.com/watch?v=8MIeMmigDeE&=&feature=player_embedded 1部のみ
https://www.youtube.com/watch?v=ud6Pw7kRCRg 20分

  五嶋みどりの演奏  19分
  https://www.youtube.com/watch?v=-I5qh7c0QL0  

    2017-1-21

  映画
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2018年01月19日

イビザ物語 3回:  佐野

  ヴィッキー その2


更新日2018/01/18
 
ヴィッキーがこっちに来いと盛んに手振りで誘うのを、私はコーヒーのマグカップを乾杯でもするように持ち上げ、行くとも行かぬとも取れる、しかし、お前たちをシカと観たぞと挨拶した。こんな時、相手が素っ裸であっても、目を逸らしてはならない。近くで対面するときにも相手の顔を見つめることだ…という教訓を私はすでに学んでいた。スペイン人やイタリア人、フランス人の男性は臆面もなく爪先から頭の天辺まで舐めまわし、視姦すような視線を走らせるが、私はとてもそんな境地には至っていなかったし、100年経ってもそんなあからさまな視線を送ることはできないだろう。と言っても、私が裸の女性たちを目の当たりにしていつも平静でいられたわけではない。まだ20代の後半だった私は、いたずらに浮世を離れた仙人であろうとしていのだ。今思えばよくよく爺むさいことをしていたものだと思うのだが…。 
スペイン人のウエイターたちやイビサに出稼ぎに来ているスペイン本土の連中が、毎週のように違う女性をまるで生まれてからのイイナズケのように可愛がり、セックスに励み、次の週にはまた別の女性と同じことをしているのを、心底では羨ましく思っていたのだが…。彼らによれば、雌鶏は毎週次々とチャーターフライトで供給されるから、それを味わわない法はない、ということになるのだ。
小さいながら自分のカフェテリアを持ち、連接したアパートに住むという私の環境は、彼らから見れば、女性を次々とモノにできる理想的な条件が整っているのに、そんなこともしない、できない私に、「お前はアホか、インポか、オカマか、お前のアパートは修道院だな」と、私に面と向かって言うのだった。
我がテラスの下のニンフたちは、そんなゲスなことに全く頓着がなく、裸の身体も化粧を落とした素顔と同じことだくらいにしか思っていないようだった。

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ロスモリーノスの岩場だらけの海岸にもヌーディストがちらほら
私が街に買出しに出かけようとしていたところ、庭の玉砂利を踏む音がしてヴィッキーだけが、他の二人の女性はシャワーを浴びにでも帰ったのだろうか、一人だけで入ってきた。低い塀を回してあるし、観音開きの低いゲイトは閉めてあり、閉店中のサインを出してあったのだが、外からゲイト越しに手を回せばロックとさえ呼べないフックを外すことができるのだ。私がコーヒーのマグカップを持ち上げ、崖下の三美神に挨拶したのを、ヴィッキーはコーヒーを飲みに来いと、私が誘ったものと受け取ったのだ。
ヴィッキーは自分がこの『カサ・デ・バンブー(竹の家)』の常連であり、私とも懇意にしていると自認していたので、大抵のことは何をしても許されると思い込んでいたのだ。このような店で働いたことがなく、突然イビサに住み着くために始めた自分のカフェテリアの経験しかなかった私は、たとえ常連の客であっても、店と客の間に距離を置き、一線を敷くことの大切さを知らなかったのだ。これはかなり高い授業料を払って毎年のように学ばされた教訓だった。
ヴィッキーはシーズン初めのまだ小麦色に焼ける前の素肌を晒してカウンターに陣取った。腰に申し訳程度に巻いたタオルは下半身を隠すためではなく、3脚ばかり並べた高いスツールに張ってあるラフなワラ紐が尻に当たり、多少痛いのと尻にワラ紐のマークが付くのを防ぐためだ。 
ヴィッキーはどこもかしこも丸で構成されていると書いたが、目だけは小さな半月型で、よほどの近眼なのだろう、目を細めてモノを見据える癖があり、それが三白眼になった。笑うと目がなくなるほど細くなり、一本の線になり、しかもよく笑った。彼女の顔を正面から見つめるとき、人は誰しも能面に対したような気持ちになるだろう。笑っていても細くなり隠れた目の奥が笑っていないからだ。
何かが足りないと分かったのは、ヴィッキーが店に来るようになってから2、3週間も経ってからだった。眉毛がほとんどないのだ。本来相当毛深いタイプと見受けたが、眉が剃り落としたようにきれいさっぱりないのだ。かなり後になってから、ヴィッキー自身の口から、彼女がカタルーニア州立(国立か)劇場でアンティゴネー(*1)の主役を演じたときに剃り落としたと聞いた。
また唇が異常に薄く、上唇などは全く持ち合わせていないかのようなのだ。それでも口を閉じている間はまだいいのだが、一旦口を開き声を出したら、アンティゴネーも何もあったものではなく、タバコとアルコール焼けしたガラガラの低い声が飛び出してくるのだ。髪は白っぽい金髪に染めていたが、頭皮近くの地毛が2、3センチ麻色なのが見て取れた。
セマナ・サンタ(復活祭*2)が終わったばかりの頃だから、まだ海水は冷たく、日向にいればどうにか裸で日光浴ができる気温にはなっていたが、カフェのカウンターは夏の暑い直射日光を避けるため、庇が大きく張り出し、心地よい日陰をかもしだす造りになっており、この季節では肌寒い場所だった。思い切り膨らませた風船のようなヴィッキーの肌も寒さで粟立っていた。 
私がエクスプレッソマシンで濃いコーヒーを落としカップに注ぐと、ヴィッキーは、「ここはチョット寒いから、コニャックを垂らしてよ」と催促した。コーヒーにコニャックを少量注いだものをカラヒージョ(carajillo)と呼び、スペインでは食後のコーヒーはカラヒージョと決めている人が多い。だが、朝はカフェ・コン・レチェ(café con leche)、すなわちミルクコーヒーをとるのが普通で、朝っぱらからカラヒージョをキコシメスのは余程の酒好きのオヤジだけだ。
彼女がアル中気味だとは知っていたが、若さにまかせた夏場のパーティー騒ぎに付きもののマリファナとワイン程度の中毒で、冬場になれば自然ドンチャン騒ぎのパーティーもなくなり酒気も抜ける、季節的なアル中だと思っていた。
ヴィッキーはカラヒージョをもう一杯お替りし、このまま居座られるのを危惧していた私を尻目に早々と引き上げてくれたのだった。ツケで飲み食いするのは当然と言わんばかりに、「後で払いにくるからね、ツケといて」と捨てセリフを残して50メートルばかり階段を登ったところに彼女たちが借りているアパートに帰って行ったのだ。
店開きをした当初、私のカフェには隣組のように、近くにアパートを持っているドイツ人、イギリス人、北欧人、それにアパートこそ持ってはいないが、毎年判で押したように同じユニットを借り、ヴァカンスを過ごすスペイン本土の人たちだけが客だった。大雑把に言って、50パーセントがドイツ人、北欧人、20〜30パーセントがイギリス人、残りがスペイン人だったろうか。彼らはイビサ島の云わば常連で、もう何十年もヴァカンスはイビサと決めてかかっているの人たちだった。
ヴィッキーのようにイビサで働いている(彼女は靴屋の店員をしていた)女性は珍しい客だった。ドイツ人たちの外国人がアパートから降りてきて、日光浴をし、ヒト泳ぎした後で、私のカフェに立ち寄るのだが、老若男女タオル以外何も持たないイデタチなので、当然現金を身につけておらず、彼らにはツケで利用してもらっていた。彼らは週に一度は「あまり溜めると悪いから」などと言いながらきちんと支払いに来てくれた。
ツケは彼らにとってとても便利なやり方で、第一現金を持ち歩かなくてもよいうえ、その上毎回置いていくチップも節約できるのだ。夏場の忙しい時期に来てもらっていたウェイトレスや洗い場にとってチップは馬鹿にできない収入なのだが、それが激減することになる。きちんと毎週ツケを支払ってくれる常連は有難い存在だったが、ツケは両刃の刃物であることを知らされることになる。
-…つづく


*1:ギリシャ神話、テーベ王オイディプスの娘。盲目の父王を世話しつつ諸国を放浪し、父の死後、叔父クレオン王の命に背いて反逆者として戦死した兄ポリュネイケスの死体が晒しものになり、国法よりも神々の掟を守り、兄弟への愛から王命に背き埋葬したため、洞窟に閉じ込められて自殺した。ソフォクレス作の同名の悲劇。日本ではアンチゴーネとも呼ばれる。
*2:セマナ・サンタ(聖週間=イースター):春分の日の後の最初の満月の次の日曜日と決められており、その前後の期間。具体的には3月21日から4月24日の間の1週間で設定される。

 
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2018年01月15日

野山獄と岩倉獄、 高須久子


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  吉田松陰が長州で投獄されたのが野山獄です。野山獄は士分の者を収容する。松陰と一緒に黒船への密航で投獄された金子重輔が収容されたのが、庶民の入る岩倉獄です。両所の待遇には雲泥の差があり、野山獄では3畳余りの独房で生活用品も置け、親族からの差し入れ自由であった。岩倉獄では大部屋の収容で着物も食物も満足に支給されず劣悪な環境に金子は獄死している。


野山獄

 野山獄には12室の独居坊があり11人が捕らわれていた。
1. 吉田松陰
2. 大深寅之允  獄中47年
3. 弘中勝之進 獄中17年 殺人の罪
4. 岡田一迪 獄中14年
5. 吉村善作 獄中5年 俳句を松陰に学ぶ
6. 富永有隣 冤罪で入獄、 松下村塾の講師、私塾・定基塾開く
  鋭武隊を率いて第二次長州戦争に参加、脱退騒動で逃亡生活
  逮捕されて明治17年まで入獄、明治33年八〇歳で死去
7. 河野数馬 獄中八年 三田尻士族 俳諧を好む
8. 志道又三郎
9. 井上喜佐衛
10. 栗屋与七
11. 高須久子 在獄2年
 大河ドラマで高須久子に関しては美人女優さんが演じていたので興味を覚える。
 久子は三三〇石の高禄の跡取り娘である。婿養子の夫が若くして亡くなったので、歌や浄瑠璃に没頭して、芸人と交流するようになり、親族に不義密通を疑われて入獄した。
「借牢」という制度があり松陰が入ったときは二人だけが罪による入獄であとの九人は私的な入獄の「借牢」であった。松陰も形式上は父からの「借牢」である。「借牢」といえども刑期は無期限であった。

 松陰の出獄に際しての久子の一句 「鴨立って あと淋しさの 夜明けかな」
再び松陰が入獄して彼女と再会する。半年後に江戸に松陰は送られて処刑されるのだが、送られるときに手縫いの布を久子は松陰に送る。 お返しの松陰の句 「箱根山 越すとき汗の い出やせん 君を思いて 拭き清めてん」
 出立の当日に久子が 「手のとはぬ 雲の樗(おうち)の 咲く日かな」
松陰は久子に封書を手渡しそのなかに 「一声を いかで忘れん ほととぎす」
 松陰と久子の交情が知られています。

 野山獄では高杉晋作や楫取素彦ばかりでなく、保守派の椋梨藤太などが処刑されている。

    2018-1-15

  維新英傑まとめ




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2018年01月13日

浜田国太郎 1873-1958


  海員組合を作った男・海父  

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 彫像

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 浜田国太郎は明治6年10月25日愛媛県生名島生まれ。12歳から船員生活に入り、明治26年日本郵船に入社、火夫長として各船を乗船。明治39年日本郵船の火夫長を糾合して機関部倶楽部を創立。のちに他社の船員にも呼びかけて組織を拡大し、日本船員同志会と改称して、明治45年のストライキに勝利。以後海上労働運動の指導者となり、大正3年友愛会に参加。9年ジェノバで催された第2回ILO総会に船員代表顧問として出席。帰国後船員団体の大同団結にのり出し、大正10年日本海員組合を創立し副組合長となり、昭和2年組合長に就任。10年組合長を辞任し、その後は宗教運動に関心を抱き、12年僧籍に入る。戦後は青少年の補導・教育につとめた。

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中央に国際運輸労連・ITFフィンメン書記長、その隣が浜田国太郎


 船員の組合は職能別・企業別・地域別など20以上に分かれていたという。1921年・大正10年に23団体が統合して日本海員組合が設立された。これは下級船員の組合であったが、海技免許を持つ職員の組合化も進み日本海員組合と密接になる。1935年・昭和10年には彼は組合長を辞職したが、組合員数10万人を超える。当時の組織労働者が40万人であったので1/4が組合に属する船員労働者であった。 戦前から年金と健康保険が船員には制度化されていた。こうした制度をつくる力に組合は貢献したのであろう。日中戦争が始まり1940年には解散に追い込まれます。 戦後は産業別単一の労働組合として再建された。1954年にはユニオンショップ制を協定。1972年91日間のストライキを決行。以上は組合史の概歴です。

 外航日本人船員は1974年のピ−ク時で約57、000人から2009年に2、400人と減少しています。スキルを維持できるレベルの船員数ではありません。今では、極めて例外的に巨大タンカ−やLNG船の幹部船員として4名ほどの日本人を乗組みさせている。

 大手船会社の一例です。800隻を運航して自社で200隻を管理している。それに7200人の船員を配乗して、日本人は400人程度の現状です。日本人船員の経費は船員費ではなくて管理費として計上している。運行管理で実務の経験のある日本人人材が欲しいということなのでしょう。

 小さな輸入代行業者をやっているので、アメリカから船積でヨット・ボートを持ってくることがあります。荷降しの立ち合いで外国船に乗船することががあるのですが、その船の乗員構成は、職員は西欧人で下級船員はアジア系で乗組む船ばかりです。 外航船員の職場が無くなったのではないと感じます。日本の海員組合の方針が間違ったのではないかと思っています。

 組合長の選挙で裁判になり無効の判決がでました。組合の事務員の不当労働行為で組合が訴えられています。いったいこの組合は何ぞやと思うばかりです。 

 他の組合でも組織率が下がり、正社員のための組合でしかないような状態です。かっては下級船員は乗船時のみの期間雇用で、今の派遣社員のようなものでした。浜田はそれを組織化してまとまった組合に育てました。
 今の外航船員はユニオンショップ制ゆえにアジア人でも組合員として雇用しなければなりません。従い組合費を払ってくれて会員組合自体は盤石です。我が国は交易立国であるので、いったん有事になれば船員徴用が避けられないでしょう。組合も反省の上に立ち手立てを考えてほしいものです。


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勝田銀次郎

 余談ですが、ここで800人のソ連の子供を救出した陽明丸の船主勝田銀次郎さんのことを書いています。その勝田汽船と海員組合との争議で組合長の浜田国太郎がこう述べています。 「彼が勝田汽船の社長時代に、日本の海運界がドエライ不況に見舞われて、給料の遅配・欠配で労組と対決沙汰になったことがあった。彼は家財道具まで売り払って事態の収拾にあたり、世間をアッとうならせ、組合を感激の涙でぬらした一コマは忘れれない思い出である。
彼は人を愛することに徹しきった。彼の眼中には財宝も地位も名誉もなかった。彼は “垢抜けのしたバカ” だった」
 雇用主の責任を自覚している勝田さんだからこそ陽明丸の偉業をなしえたのでしょう。

   2018-1-13

  商船





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2018年01月12日

イビザ物語 2 回    佐野

  ヴィッキ− その1

毎朝、カフェテーラ(エクスプレッソ・マシン)のスイッチを入れ、蒸気圧が高まるまで、前夜の後片付けといっても、賄いを手伝ってもらっているカルメンおばさんが洗い物をしてくれているのだが、食器を所定の戸棚に入れ、ワイングラスを逆さに吊るすハンガーに引っ掛け、夜露に濡れたテーブルを拭くくらいのことだが、そうこうしている内にカフェテーラの温度が上がり、エクスプレッソコーヒーを通すに充分な蒸気圧になる。
 
一杯目のコーヒーはいつものことながら、自分のために淹れる。コーヒー豆はコロンビアのものだが、旧市街のメルカード・ヴィエッホ(旧市場)の外輪に間口3、4メートル、奥行き6、7メートルほどのコーヒー豆をローストしている店と呼ぶべきか、ロースト町工場と呼ぶべきか、看板も商品の展示もなく、通りすがりの人は、そこでコーヒーを売っているとは全く気が付かないだろう、そんな店で買ってくる。
と言っても、特にそのコーヒー焙煎店を選んだわけではなく、そこ一軒しかなかったから、そこで買うより他なかったのだが…。焙煎コーヒー屋は“カフェ・イビサ”と名乗っており、書品名も“カフェ・イビサ”だった。程良く煎ったコーヒー豆のように焦げ茶色の禿げ頭をした、年齢40と80の間、言ってみれば、年齢不詳のオヤジさんが豆を煎っており、そこで週に3回ほどコーヒーを仕入れてくるのだ。
そこのコーヒーが何より香ばしいのは、朝煎ったコーヒー豆をその日のうちに売り切り、翌日に持ち越さないからだ。そこのオヤジさんの能書きによれば、必ず混じっている虫食いビーンズ、未熟なビーンズなどを丁寧に取り除くのが肝心だそうで、そんな豆が1個でも混じると、その回にローストする何キロかが全部ダメになるとゴタクを並べていたものだ。
運良く、そこでコーヒーを買うことができたなら、と言うのは、特に夏場はすぐに売り切れになるからだ。それはその日の朝にローストしたものであることは請合ってもよい。売り切れになることが分かり切っているのだから、もう1回ローストマシンを回し、焙煎コーヒーを倍にすればよさそうなものだが、オヤジさんは夏も冬も決まり切った量しかローストせず、売り切ったら店を閉めるという、何十年も続けてきた遣り方を変えようとしないのだ。私は年季の入ったコーヒー缶(2キロほど入るだろうか)を持参し、まだ暖かい煎りたての豆を2キロ量り売りで買うことにしていた。
店を開ける前、マグカップに入れたコーヒーを片手に、テラスから海を眺めるのが習慣になっていた。セマナ・サンタ(聖週間=イースター)が過ぎたばかりの、まだ春先のことだったし、夜ふかしの島では当然朝も遅く、朝陽がすっかり海面から顔を出す8時、9時がイビサの一番静かな時間帯だった。



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 カサ・デ・バンブー(竹の家)と名付けたカフェテリアの前からちいさな入江を望む。


この湾は握りこぶしほどのゴロタ石の海岸なので、地元の人しか来ない。
避暑客は砂浜の方へ流れていく。[Photo by Koba]
その朝は、いつもと違った。
女性の嬌声が海面に響き渡り、反射して20メートルほどある崖の上のカフェまで届いてきたのだ。
一体、女性はどうして海と戯れるとき、ああまで自然なのだろう。そこには気取りもなければ、恥ずかしさもなく、大海原と朝陽の接点に若さにはちきれんばかりの肉体を晒していた。3人の裸の女性が、まだ冷たい海に飛び込み、「ケ、フリオ! ペロ、アグア・エスタ・ムイビエン!」(ウヒャ、冷たい! でも、海の水は素晴らしい!)とか「さあ、早く一挙に飛び込め!」と叫び、誰もいない小さな入り江を彼女たちだけで占有していた。
ボッチチェリのヴィーナスの誕生が大きな貝に乗って海から現れたところを描いたのは正しいな…と思いながら、海と戯れる3人の素っ裸の女性を観るともなく見ていた。水から上がった彼女らは素っ裸のまま、肉体を誇るでも、羞じるでもなく、薄っすらと焼けた肌が海の水をはじくに任せていた。彼女らがディスコの朝帰りなのは明白だった。多分に酔い、家に帰り寝る前にひと泳ぎとしゃれたのだろう。
イビサに住み始めた当初、素っ裸オンパレードに度肝を抜かれたものだが、何事もすぐに慣れてしまうものだ。第一、裸といっても、プレイボーイ誌から抜け出たような女性は極々マレで、孫連れの爺さん、婆さん、中年太りの何段腹を抱え、巨大ではあるが、ヘソまで届く垂れたオッパイのドイツや北欧のオバサンらが大半で、むしろそんな体は見たくない、隠して貰いたいというのが本音に近い。白魚か人魚のようなティーンエージャーにお目にかかるのことなど滅多にないのだ。
そんなことを考えるともなく3人の女性を観ていたのだろう、そのうちの一人が、「サーノ、何を真面目な顔をして観ているの? こっちに来て一緒に泳ごうよ」と、私の名前を呼んだのだ。声の主はヴィッキーという名のカタラン娘で、私のカフェテリアの常連だった。
ヴィッキーはすべて丸というか、球で構成された顔、体の持ち主だ。顔も真ん丸、ほっぺも丸く、両方の乳房は大きなドンブリを伏せたような半球で、お腹もお尻も丸くはちきれそうだ。西欧人の顔にはいつも騙される。顔が小さく、ホッソリとしていても、イザ裸になると、高い位置にあるウエストからグイと横に張り出すような圧倒的な腰の大きさに驚かされるのだ。ヴィッキーも小さな丸顔だけを見たら可憐な乙女と見間違えることだろう。 
彼女たちの自然な美しさは裸の時だけのものだ。一度、街の市場でヴィッキーと出会ったことがある。ソフトトーンの色合いのブラウスにインドものの緩やかなスカート姿だったが、まるで小太りのチンコロ姉ちゃん風だったのにショックを受けたことだ。
ルーベンス(Rubens)が描く存在感のある豊満な体は、現代の感覚でいえば大変なデブだ。『三美神』や『パリスの審判』で描かれた女性たちにどのような衣装を着せたところで、とてつもなく格好が悪く、とてもファッショナブルには見えないだろう。しかし、裸の女性、しかも海辺で戯れる女性には自然な野生動物の美しさがあるのだ。
-…つづく

  第1回:白い島“イビサ”との出会い 【新連載スタート




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2018年01月10日

人名政 (にんみょうせい)


 ヨットで与島を再訪した。そこは今では瀬戸大橋で架橋され本四がつながっています。その橋げたのような小さな与島です。徒歩で一周する。「人名(にんみょう)」の石碑を見つけました。それを説明するものはありません。「人名」とは何でしょう。

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与島人名の碑

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塩飽列島  赤点は「人名政」のあった浦々

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塩飽勤番所

 塩飽諸島は本島、広島、与島、手島、佐柳島、高見島、牛島、櫃石島 、沙耶島、瀬居島などからなる。現在は埋め立てられて坂出の一部になっている島もある。 そこは瀬戸内交通の要の地であるゆえ、古くから塩飽海賊の地であった。 秀吉の時代になって朱印状が与えられて、租税を免除され、公儀の海上輸送義務を負った。徳川幕府にも引き続かれた。 四人の年寄を設け自治を許される。政務は塩飽勤番所で行われた。 「人名」はなじみが無いが大名、小名、人名と続くことばであるのが分かる。 人名は1250石高を領有し、650人の加古役のものを呼ぶ。人名は個人に与えられたものであるが、株と同様に取り扱われた。

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年寄の墓

 耕地面積は狭く米作は少数で麦作であった。 また、付近の漁業権も許されたが、漁業に従事するものは少なかった。 川村瑞賢の西回り航路(1672年)の開拓により塩飽衆は一手にその輸送を担い繁盛したが、「菜の花沖」の高田屋嘉平のような廻船問屋に押されて廻船業は衰退していった。しかし船大工の技術が優秀であったのでその後は大工業・船乗り渡世になっていく。優れた操船能力は維持されて、幕末には咸臨丸の船員の大半を占める。「人名政」は明治まで続いた。塩飽の島々は次第に忘れられて過疎の島になる。

 テレビの鑑定番組で、旧家の倉庫に退蔵されていたものが、「若冲」の鶏の絵であったのが注目された。往時の繁栄がしのばれる。


    2018-1-10

   郷土史・歴史


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2018年01月04日

佐島と生名島


 弓削島よりレンタサイクルで佐島と生名島を廻ってみました。ゆめしま海道が弓削大橋と生名橋で弓削・佐島・生名の3島をつないでいます。岩城島への架橋工事も始まっています。この3島と岩城島は愛媛県上島町の行政区域になります。

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弓削大橋

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佐島港と生名橋

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岩城島への架橋工事現場


 佐島は30分もすれば1周できます。港近くでの売店でパンの日の看板を目にしました。週に何日かパンが販売されるようです。隣の弓削に行けばス−パ−もコンビニもありますから、不便はないでしょう。

 生名橋を渡れば生名島です。車の人はこの島よりフェリ−で因島に渡るのが順路です。因島には大手の造船所がありお勤め人はそちらへ向かっているようです。

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麻生イト

 生名島には郷土の偉人が2人います。一人は女傑で麻生イトです。造船関連で財を成して、地元に幼稚園や公共のために還元しました。映画「悪名」で実名で描かれているそうです。晩年は生名に家を建てて過ごし、そこが三秀園として公園になっています。

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三秀園

 もう一人は海員組合を作った浜田国太郎です。海父と呼ばれて銅像が建てられて、
それは戦時中に撤去供出されたが昨年再建されました。

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山頂に浜田国太郎の彫像が見える。

    2018-1-4

弓削海の駅


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2018年01月03日

岩城新城


  甘崎城の支城

甘崎城と岩城新城とで鼻栗瀬戸へ向かう4つの水路を抑えられます。

 1大三島と生地島の水路

 2. 岩城島と生口島の水路

 3. 岩城島と赤羽根島の水路

 4. 津波島と伯方島の水路

 村上海賊の砦は要所に多く存在しますがそれらのひとつです。

  藤堂高虎が甘崎城を改造したのだが、ここをそうしたという云われは残っていない。この岩城島の反対岸には亀山城がある。

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 岩城新城  岬の鼻のようなところには城跡が多い



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 岩城新城から甘崎城を望む


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    2018-1-3

  城めぐり







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2018年01月02日

岩城島


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高速艇 今治−岩城−弓削−因島・土生など島々を結ぶ

 弓削から320円で高速船に乗り岩城島に着きました。現在はフェリ−で行く孤島ですが平成30年代前半には「ゆめしま海道」とつながる架橋工事がおこなわれている。

 さっそく自転車を借りて島を回りました。レモンの島とも云われ青いレモンが有名です、春には桜の名所でもある。村上海賊の砦・亀山城や甘崎城の支城と言われる岩城新城といわれる城跡も見た。


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温泉ホテルと造船所の宿泊施設

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いわき海の駅  冬の季節風を防ぐには良い係留場


 江戸時代には伊予松山藩の島本陣が置かれていた。現在は岩城郷土館として見ることができます。

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岩城郷士館

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邸内1

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邸内2



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岩城造船 他にも3社があり


 今回は冬で見られませんでしたが、桜の季節には積善山に3千本の桜が見られるという名所がある。

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    2018-1-2



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