2018年02月28日

薩摩藩第一次英国留学生


 島津成彬の構想のひとつに留学生派遣計画があった。彼の死亡により実現されず。薩英戦争が起こり五代友厚と寺島宗則は英国の捕虜となる。彼らは捕虜になったことから攘夷派から長崎で身を隠していた。そこで英国商人グラバ−と知り合いになる。薩英戦争敗北により西洋の技術をより学ぶ必要を感じ、五代友厚の上申書を契機として、薩摩藩は英国への留学生派遣の密航を企てる。グラバ−商会の船・オースタライエン号で上海を経由して英国に若者を送った。引率係と未成年の長沢を除き14名がUCLの聴講生となる。そこですでに到着していた長州ファイブと出会う。

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UCL ユニバ−シテイオブカレッジ・ロンドン大学

 約半数が経済的理由で1年後に帰国した。残留した一部はフランスへ留学、森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵の6名は、英国下院議員ローレンス・オリファントの「日本再生のために役立つ」という勧めに従い米国の宗教家トマス・レイク・ハリスのもとへ移る。学資がなくなった留学生には好都合であった。第二回米国留学生も加わり、いわゆる新興宗教の集団生活に加わるようなものであったので森、鮫島、長沢以外の者はほどなくハリスの元を去った。長沢は日本には帰らず、教団ブドウ園を成功させカリフォルニア葡萄王と言われている。

 留学生の中には、欧米諸国の欲心にのみとらわれて侵略行為を繰り返す弱肉強食的な体質を批判して学ぶべき点が少ないとし、「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」と国元に書き送っている。偽善の国ともいわれるキリスト教西欧諸国の一端でも感じたのかもしれません。
 
 土佐藩士で土佐勤皇党の一員であった高見弥市は藩政吉田東洋の暗殺に関与して、脱藩して薩摩に逃亡して薩摩藩士として仕えていた。薩摩での人望・能力があったのでしょう、留学生の一員に選ばれているのは異色である。


関連年表
1858 島津成彬急死
1862 9月  生麦事件
1863 5月  長州ファイブを英国へ派遣
   8月  薩英戦争
1864 6月  五代友厚による上申書
   7月  長州井上と伊藤が帰国、禁門の変
1865 4月  羽島出港  ホンコン着
1866 1月  薩長同盟
   2月  五代友厚帰国、
   11月 広沢真臣、五代友厚、坂本龍馬「商社示談箇条書き」を結ぶ
1867     パリ万博

引率係

五代友厚・水泉蔵・ 関研蔵   1836-1885
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長崎で航海術を学ぶ、上海渡航、薩英戦争で捕虜、案内役として参加。1866年春に帰国。帰国後、外務卿、文部卿、参議。大阪で実業家

新納久脩(中三)・にいろひさのぶ 1832-1889  32歳  
一所持、伊佐郡大口領主、家老。引率者。家禄850石、英国から帰国後に家老、パリ万博参加を協議、11歳の息子をフランス留学させる。奄美大島の救世の恩人、

寺島宗則・松木弘安 1832-1893 32歳 
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 長崎屋江戸で蘭学学ぶ、英語も独学で習得、幕府の文久遣欧使節団の一員、その帰国後に薩英戦争で捕虜、初代在英国公使、参議兼外務卿、




 第1次英国留学生


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【後列】1・朝倉盛明、2・町田申四郎、3・鮫島尚信、4・寺島宗則、5・吉田清成
【前列】6・町田清蔵、7・町田久成、8・長沢鼎

1・田中静洲 朝倉盛明・省吾  -1925  
英国からフランスへ転学。のちに日本初の政府直轄鉱山生野銀山の鉱山長を務める。

2・町田申四郎・実積、小松清緝 
町田久成弟、帰国後に小松帯刀の養子となる。明治5年長男清直に家督を譲る

3・鮫島尚信・清蔵、誠蔵  1845-1880
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蘭医研究生として長崎に学ぶ、1866年夏に渡米しハリスと面会。1867年夏に英国からアメリカ転学出後、ハリスの助言により森有礼と共に1868年8月帰国、英仏代理公使。外務次官、駐仏公使として客死、



4・寺島宗則  32歳 長崎屋江戸で蘭学学ぶ、幕府の遣欧使節団の一員、
       薩英戦争で捕虜

5・吉田清成  1845-1891
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1866年夏に渡米しハリスと面会。1867年夏に英国からアメリカ転学後、そこを離れて大学で銀行保険を学ぶ、上野景範に随いて英国へ転出、明治3年帰国後大蔵省少輔として岩倉使節に後発合流、米国大使。米国匿名全権公使として条約改正に専念。


6・町田清蔵
町田久成弟、「財部実行回顧談」著者

7・町田民部・町田久成 1838-1897
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大目付、禁門の変に六郷隊隊長、パリ万博参加、帝国博物館初代館長、
明治22年に官を辞し住職になる。

8・磯永彦助 長沢鼎(ながさわかなえ)  1852-1934
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最年少13歳であったので、アバデイ−ンの中学に通う。資金に窮し、1867年夏に英国からアメリカ転学、後にカリフォルニアのワイン作りに貢献。生涯ハリスの後継者のひとりとしてアメリカで暮らす



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【後列】9・高見弥一、10・村橋久成、11・東郷愛之進、12・名越時成
【前列】13・畠山義成、14・森有礼、15・松村淳蔵、16・中村博愛


9・高見弥一・高見弥市・大石団蔵・松元誠一   1831-1896   
土佐勤皇党、土佐藩吉田東洋暗殺関与、薩摩に仕え高見弥一を名乗る。帰国後明治政府に出仕し明治5年に鹿児島に戻る。

10・村橋直衛 村橋久成  1842-1892
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精神的に早く帰国、函館戦争の和平に活躍、サッポロビ−ルの前見に貢献、突然開拓使を辞し雲水の旅に出て行き倒れ死亡


11・東郷愛之進・岩屋虎之助 
帰国後、戊辰戦争で戦死

12・名越平馬・ 時成(なごやときなり)  
戊申戦争経歴不明、奄美の記録残す、
名越左源太の息子。

13・畠山義成・ 杉浦弘蔵   1842-1876
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岩倉使節団と帰国、東京開成学校長、一所持格、当番頭。英国に2年間滞在したのち1867年夏にアメリカに転学、岩倉使節団に参加。アメリカに計6年滞在したのち帰国し、開成学校校長、東京書籍館長、博物館長。


14・森金之丞 森有礼 1847-1889
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1866年6-8月ロシア視察(『航魯紀行』)。1867年夏に英国からアメリカ転出し1年滞在後、ハリスの助言により鮫島尚信と共に1868年8月帰国、米国代理公使、明六会社長、中国大使、商法講習所を開設、初代文部大臣、明治22年暗殺される。

15・松村淳蔵・和彦  1842-1919 
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1866年6-8月ロシア視察。1867年夏に英国からアメリカ転学後、米国海軍士官学校日本人留学生第一号。海軍兵学校長

16・中村宗見・中村博愛  1844-1902
英国で化学を学び、英国からフランスへ転学。明治元年帰国、外務省勤務のちにマルセイユ領事、デンマーク公使、元老院議官、勅選貴族院議員となる。

堀宗次郎・堀孝之・高木征二
長崎のオランダ通詞に生まれる。通訳として参加、五代の事業を助ける。

町田猛彦・山本幾馬  21歳
町田久成の弟。羽島滞在中に自殺したといわれている。


  2018-2-28

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2018年02月25日

映画 グレイテスト・ショ−マン


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主演・ヒュ−・ジャックマン


 映画館に入ったときは既に始まっていて最初の部分は見逃しました。入り口でシルバ−割引・1100円の証明を求められ、爺がどう見えても60歳以下に見えないでしょう?と捨て台詞・嫌味を言いたい衝動を抑えながらの入場でした。
 主人公P.T.バーラムが上流階級の令嬢と結婚するために邸宅に迎えに行き、父親から「娘が生活に耐えられずに、またここに帰ってくるさ」と言われて2人で出発するところから見ることが出来ました。

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Phineas Taylor Barnum  1810-1891

 バ−ラムは小人や大男、ひげの濃い女などの世間の日陰のものたち・ユニ−クな人々を集めたショ−で成功をおさめる。ヴィクトリア女王にも謁見する。そこで居合わせてスエ−デンのソプラノ歌手の米国公演をプロデュ−スして成功させた。

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Johanna Maria Lind 1820-1887 スエ−デン人ソプラノ歌手

 その公演の場面で歌手・リンド (女優レベカ・ファ−ガソン)が歌う「Never Enough For Me」がいたく気に入りました。わが歌姫にこの曲を歌わせてみたいものです。
 この映画は実際に実在した人物を登場させて脚色を加えて製作されています。必ずしも史実どうりに進行するわけではありません。
 オススメのミュ−ジカル映画です。座りながらも自然に足でリズムをとってしまいました。

この映画の時代は今以上に階層の差がきわだっているもよう。それにしてもフロムザガタ−の我々(?)も、運よく成りあがったにしても、問題を背をってのものである。 トップに立ったかの国の現指導者もあこぎな不動産屋そのまま。150年の時代を経ても変わらないものです。

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スエ−デン女優・Rebecca Ferguson 1983- 、彼女が歌っているわけではありません。

https://www.youtube.com/watch?v=RPhWzvoYj40 歌詞付き  3分

https://www.youtube.com/watch?v=3OlxmhfYDnk  3分 いいね

 10人の歌手がこの曲を歌う。 いいね
Top 10 Best Never Enough - The Greatest Showman Covers
https://www.youtube.com/watch?v=Gn51F0PgMEc  35分

 この曲の通奏低音として、この曲の題名がリフレンして聞こえてこなければよいのだが。
お前のブログのことだ!とツッコミが。 Never Never Enough !


   2018-2-25


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2018年02月24日

イビザ物語 8回  佐野

ヴィッキ− 7  ”増えすぎた居候”
  
 私のアパートは『カサ・デ・バンブー』と隣接していたが、一度店のゲイトを出て、坂道を10メートルばかり下り、改めてアパートの庭の低い鉄格子のゲイトを開けて入るようになっていた。

 海を見下ろすテラスがある4階建てのワンルームのアパートで、20畳くらいの広さがあるだろうか、一人かカップルで暮らすには十分な広さだった。2階にある私の部屋に足を踏み入れた人は誰しも、チョットした崖に張り出したテラスからの景色に歓声をあげたものだ。

 その崖の下は深くえぐれた洞窟になっていた。アパートの南西部の一角4分の1くらいは下が空洞の岩の上に架かっており、海側から見ると実際建物自体の重さでいつ崩れ落ちても不思議でない様相だった。そのおかげで、船で乗り出すような絶景がもたらされされているのだが…。

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アパートのテラスからの眺め(1988年撮影)


 イビサの市街地から歩いて15分、20分程度の距離に、そんな隠れ家的なアパートを見つけたことは本当に幸運だったと思う。私自身、ここなら一生住んでも良いかなと思い込んでいた。

 そこに住み始めた時、まだ貧乏なバックパッカー、ヒッピー的な体質が残っていたのだろう、誰でもウェルカム、どうぞ誘い合わせのうえいらっしゃい、自由にお泊まりくださいというオープンコンセプトを持っていた。私自身があちらこちらで居候を決め込んだことがあるので、アパートに一室を持つようになった今、貧乏旅行者が転がり込む場所を提供するのは当然だと思っていたのだ。

 私自身の友人や家族が来ているうちはまだ良かった。どうせ私は朝から夜遅くまで隣の店に出ているのだし、寝に帰るだけだから、日中どのように私のアパートを使って貰っても構わないと思っていた。 

 ところが、スペイン人のヴァカショネス(Vacationes;ヴァカンス、休暇)は最低2週間で、1ヵ月間は当たり前、公務員はもとより銀行員も夏に1ヵ月の休みを取るし、魚屋も八百屋もしっかり1ヵ月閉める。 
そんなヴァカンス組が私のアパートに長逗留するようになったのだ。しかも、友達の友達、さらに全く知らない他人までが、私のアパートのことを耳にして、居候を決め込むようになってしまったのだ。

 さすがに、私の寝るスペース、フラットベッドに安物のスポンジのマットレスだけは確保してくれていたが…。これも私のためなのか、飼っていた年老いたボクサー犬“アリスト”(本名:アリストテレス、通称:アリスト)が、私のベッドを守るようにその上で寝ていたためか、定かではないのだが…。

 今でもそうだが、私はベッドで寝付くまで本を読む習慣がある。たいてい何行も読まないうちに本を顔や胸に落として寝込んでしまう。本が睡眠薬的な作用を果たしていた。おまけにすぐに寝込んでしまうくせに、音楽を聴きながらベッドに入るのが習慣になっていた。

深夜に店を閉め、自分のアパートに帰り、見たことがないシャンプー、ボディーウォッシュ、デオドラント、オーデコロン、歯磨きが散乱する洗面所を横目に、そこと繋がっているシャワーブースで汗を流し、やれやれとベッドに入るのだった。小さな商売を営む者のささやかな憩いのひと時だ。

 私はなにもフルボリュームでハードロックをかけるわけでなく、どちらかといえば静かなバロック音楽をかけ、ベッドサイドのライトを点け、しばしの読書態勢に入ったところ、二人の子供を連れて長逗留しているセニョーラ(奥さん)が、「赤ん坊と子供がやっと寝付いたばかりだから、音楽と明かりを消してくれる?」と囁いたのだ。

人類皆兄弟、誰でもドーゾというオープンコンセプトに無理があることを悟らされたのだった。

 私が自分のアパートに入ったところ、足の踏み場がないほど、寝袋やエアーマットレスに寝ている居候たちに出くわすのが当たり前になってきた。月明かり、星明かりで彼らを踏みつけないように自分のベッドに到達するのが大変なほど混み合っている夜が多くなってきた。まるでコルカタ(昔はカルカッタだったが…)の駅のようにビッシリ詰まった感じで寝ているのだ。おまけに、そのうちの一人から、「お前は誰だ? 静かにしろよ、もう寝るスペースなんかないぞ!」とやられるまでになってしまった。

 ある日、数えてみたら12人(子供3人含む)と犬3匹が私のアパートに居座っていた。その中で私が個人的に以前から知っていたのは3人だけだった。

 自分の優柔不断が生んだ結果だとは承知してはいたが、かといって、私は「お前らすぐに出て行け!」とやれない弱さを引きずっていた。なんともだらしがないことだが、翌日、私は家族が来るので、場所を空けて貰いたいと言い訳がましく言い渡したのだった。

 これが、“ヴィッキー事件”が起こる前後の私のアパートの状態だった。森鴎外先生のように、ここで第三者の哲学者の手記の形を借りて、『我がヰタ・セクスアリス』(vita sexualis;性欲的生活)をやらかそうというつもりは毛頭ないのだが、私個人にとって前代未聞のセックスがらみの出来事が起こったのだ。

 私は寝つきがよく、ベッドに入ったすぐあとの数時間は何が起ころうと熟睡するタイプだ。 寝付いてから何時間くらい経ってからのことだろう、耳元で、「タケシ、タケシ」とささやく声でぼんやりと目が覚めたのだ。居候たちの誰かに緊急事態が起こったのではないか…と思った。 

 真っ暗闇の中で、声の主がヴィッキーだと分かるまで、相当時間がかかったと思う。ヴィッキーが私のアパートの部屋に入ってきたこと自体、別に不可解なことではない。アパートのドアはいつも開けっ放しにしていたし、第一、大勢いる居候のためにいちいち鍵を作り渡すことなどできない相談だった。ドアを開け放ったままにしておくのは、夜、アリストが出入りするたびに起こされないための処置でもあった。
だから、誰でも部屋に自由に出入りできた。だが、私が寝ているベッドに誰かが入り込むのは別のことだ…。

-…つづく

    2018-2-24

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2018年02月22日

長州ファイブ・五傑


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  長州が下関で外国船に砲撃・攘夷決行をする前に、藩主より3名の洋行が決定した。5名の留学生のなかで伊藤、山尾、井上薫の3名はその前年に英国公使館の焼き討ちを高杉晋作と実行している。伊藤と山尾は塙忠宝の暗殺にも関わっている。バリバリの攘夷志士らである。 横浜を出港して上海に着くと、すぐにも攘夷の愚行に気がついたようではあるが。
 藩は幕府の海外渡航禁止の政策のなかでの強行ゆえに、責任を持たず、脱藩扱いでした。わずかに、ひとり200両の支給ではとても足りず、江戸在勤の村田蔵六・大村益次郎のお墨付きで5000両の滞在費を商人より借りて持たせた。それでも足りずに山崎小三郎は栄養不足で死に、薩摩の留学組から援助をうけたほどです。

  元治元年・1864年 4月中旬 井上薫と伊藤は「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、直ちに帰国を決意する。実際の4国艦隊の下関砲撃は8月なので、前年7月の薩英戦争の記事ではないかと思われる。7月に両人は帰国する。4か国の下関砲撃計画を知り、止戦の交渉にあたるが攻撃が始まった。9月晋作と伴に井上は講和条約を締結する。彼らは帰国して幕末や明治の功業に役割を果たした。内閣・外交・造幣・工学・鉄道の父とも言われている。

   関連年表

万延元年・1861年 12月7日 伊藤英国留学を志願
文久2・1862年
    8月21日  生麦事件
    11月2日  攘夷実行の遵守を決定
    12月12日 高杉晋作、伊藤、山尾、井上ら英公使館放火
    12月22日 塙忠宝(はなわただとみ)暗殺される。

文久3・1863年
       4月    高杉晋作上海へ
       4月18日 井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命
       5月10日 長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限
5月11日 長州ファイブ英国行横浜より出発
       6月6日  奇兵隊結成
       7月2日  薩英戦争
       8月18日 8.18の政変

元治元年・1864年 
          7月13日 井上と伊藤が帰国
          7月19日 禁門の変
          8月2日  第1次長州征討
          8月5日  4国艦隊下関砲撃
          8月14日 井上は高杉に従い講和条約締結
          12月16日  功山寺挙兵

慶応2年・1866年  遠藤帰国
明治元年  11月19日  野村と山尾帰国


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井上聞多(ぶんた=馨)・志道聞多 1836-1915

井上光亨(五郎三郎、大組・100石)の次男、志道氏(大組・250石)の養嗣子
御楯組の一員として高杉晋作や久坂玄瑞・伊藤らと共に12月のイギリス公使館焼討ちに参加、功山寺挙兵、
石州口で戦う、初代外務大臣、外交の父


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野村弥吉(井上勝)1843-1910

井上勝行・200石の3男、野村作兵衛の養子、癸亥丸の船長に任命
日本鉄道の父、鉄道の国産化に貢献。


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遠藤謹助 1836-1893

1866年帰国 病気の悪化で帰国、造幣局で活躍、お雇い外国人を廃して、国産化に尽くす。
造幣の父



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伊藤俊輔(博文)

塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。イギリス公使館焼討ちに参加、
初代内閣総理大臣、内閣の父



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山尾庸三 1837-1917

アム−ル川流域調査、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
イギリス公使館焼討ちに参加、
明治元年帰国、工部省設立、工部卿、工学の父、日本ろうあ協会総裁


他の長州留学生
慶応元年・1865年  山崎小三郎、南貞助、武田傭次郎を英国に送る。山崎は英国で死亡、南は1867年帰国。英国人と結婚して最初の国際結婚をした。


   2018-2-21


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2018年02月18日

長崎の龍馬支援者たち


お金もない浪人風情の龍馬が船を用立てて海援隊を立ち上げることができたのは、長崎の豪商小曾根家と大浦慶の援助があったからこそです。
 
 小曾根家は祖父の代には貧しかったが六左衛門の時に越前藩や佐賀藩の御用商人となり、長崎屈指の豪商となった。小曾根乾堂は長男として生まれる。乾堂は、詩作そして書・画・篆刻、はては音楽・陶芸と、多彩にして多芸なジレッタントであった。松平春嶽や勝海舟と深い関係があったことから坂本龍馬を支援することになる。龍馬は西郷隆盛の援助を受けて海援隊を設立したが、その本部は小曾根家に置かれた。

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小曾根乾堂  1828-1885

 4男小曾根英史郎はいろは丸の会計係として乗船した。3男の正雄は剣の達人で京都奉行に出仕して鳥羽伏見の戦いで戦死した。幕府にも義理立てがしてあった、とはいえ龍馬の借金600両を返済したり、龍馬の妻お龍を8か月ほど小曾根家で面倒をみている。



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小曾根英四郎  店舗11年・1840-1890・明治23年  51歳

 英史郎は勝海舟と海軍伝習所で同窓であった。いろは丸の衝突の際に乗船していて紀州藩との交渉の便宜をはかった。龍馬暗殺のあとには岩崎弥太郎が重用されて海援隊の実権が移っていった。薩長閥の政治にも愛想をつかして遊郭に浸って酒浸りの晩年をすごす。


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大浦慶  文政11年・1829-1884・明治17年

 長崎の油商人の娘として生まれる。大火で損害を受けてたが、日本茶貿易を先駆けて企て成功した。困窮する龍馬たちのような脱藩浪士に金銭的な支援をしたりパトロンとして何かと面倒をみた。開国して他港が発展していくと長崎は衰退していく。元勲たちは、もう過去のことと振り向きもしなかった。あさはかだったと後悔したという。明治になり、たばこ貿易詐欺の被害者になり、3000両もの負債を死ぬまでに返して完済した。死ぬ間際に茶輸出の功績を認められて功労金20円を賜る。

   2018-2-18



  



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2018年02月16日

イビザ物語 7回    佐野

 ヴィッキ− その6 コルネリア


 誕生パーティーの大騒ぎの時、ヴィッキーが21歳になったことを知った。彼女の世慣れた言動、それにはち切れんばかりに熟れ切った身体から、なんとはなしに、私よりはるかに歳を食った、20代の後半か30に手がかかっていると思っていたのだ。
ラテン系の人は早く成長し、早く老ける…のを幾人となく目の当たりにしてはいたのだが、見事に想定年齢を狂わせられたのだ。ヴィッキーには恥じらい、可憐さのカケラもなく、その対極の堂々とした開けぴろげな押しがあった。

 彼らがパーティーから去った後は、まるで豚小屋のようだった、などといえば豚に失礼になるような惨状だった。テーブルクロスはこぼしたワイン、リキュール、ジンギスカンのタレでテーブルにへばりつくようにグッショリと濡れ、タバコ、マリファナのコゲ跡だらけだった。汚れた皿やグラス、ナイフ、スプーン、フォークは洗い場に収まらず、カウンターに積み重ねたままにして店を閉めたのだった。
翌朝、この惨状を見たカルメンおばさんは、心底から深い溜息を付き、「オ〜、マンマ・ミア!」と言ったものだ。
 ヴィッキーの誕生パーティーの総額がいくらだったのか、正確には覚えていないが、『カサ・デ・バンブー』のような小さなカフェテリアにとっては、大金だったことは確かだ。明細を書いた請求書を用意し、ヴィッキーを待っていたが、彼女はその日、店に来なかった。私は、彼女が二日酔いでぶっ倒れているだろうから、そのうち酒気が抜けたら、支払いにやってくるだろうと悠長に構えていた。
 その週末に、ヴィッキーが働いている靴屋のオーナーに銀行で偶然に会い、簡単に交わす挨拶のついでにヴィッキーのことを訊ねたところ、とても良い売り子だったけど、あまりにラリッて店に来ることが多いので辞めてもらったというのだ。その時初めて、これはもしかするとパーティーの代金を踏み倒されるかもしれないと、遅ればせながら心配し始めたのだった。
 世慣れたショーバイ人なら、パーティーを受けた時に、そのために店を一日閉めるのだから、保証金として事前にデポジットを取るだろうし、パーティー後に清算するなら、小切手にパーティーの次の日の日付けを書き入れ、預かっておくだろう。だが、すべては後知恵だ。臨時に来てもらったイビセンカの二人には、その晩の内に日当を支払っていたし、その損失はあまりに大きすぎた。
 洗い場のカルメンおばさんは年の頃30〜40代の太ったジプシーで、不平も言わず、いつも陽気に働いてくれていた。カルメンおばさんは、私がまだパーティーの費用を払ってもらっていないことをなんとなく気づいており、「タケシ、あのドロガディート(麻薬中毒)たちは、きちんと支払ったのかい?」と尋ねてきた。私の顔色が否定的なことを見て取り、「あんたに言っただろう、あの連中は悪い人間だ、ワタシャ、嫌いだと…言わなかったかい?」、付け加えて、「そりゃ、この店はあんたのモンだから、好きなようにやるがいいし、何も 私が口出しするスジのもんではないけど、客を選ばないとダメだよ」と、親身になって忠告してくれるのだった。
 カルメンおばさんは、最初からヴィッキーたちを苦い目で見ていた。素っ裸か腰に申し訳程度に薄い布(パレオ)をまとっただけで、店に出入りする女性は、全員娼婦だと信じ込んでいるのだ。そして、私がヤニ下がった表情で…と見ていたのだろう、応対するのを、危なっかしいと思っていたことは確かだ。

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透明度の高いことで知られるカラ・コンタの海岸(1988年撮影)

 週明けの朝、私はナケナシの蛮勇を奮って、請求書を片手にヴィッキーのアパートを訪ねた。ヴィッキーは『カサ・デ・バンブー』から坂道を150メートルばかり上った階段状のアパートを借りていた。そこは西陽を取り込むように建てられた避暑、観光客のためのアパートで、そこに例の三美神と住んでいることは知っていた。
 このようなアパートは、脇に玄関があるのだが、皆が西に開いたテラスの大きなフレンチドアから出入りしていた。私もテラスから、開いたままになっていたフレンチドアをノックしながら、部屋に向かって「ヴィッキー!」と呼んだところ、サロンの奥にしつらえてあるカウンターで仕切られただけのキッチンから三美神の一人、ノッポというより、ともかくすべて造りがデカイ身体の持ち主のドイツ娘、コルネリアが出てきた。しかも、素っ裸…だった。
 屋外、海岸での裸は慢性になっていて、何を見ても驚かない、裸に対して多少太い神経を持つようになってはいたが、家の中では話は別だ。おまけに私は彼女に大いに関心があり、後もう一歩で惚れ込むところだったから、突然素っ裸のコルネリアを前にしてドギマギしてしまったのだ。それまでは、彼女と一対一で話したことがなかった。突然、回りに第三者が誰もない、二人だけの時間、会話を持ったのだ。
コルネリアは赤毛に近い麻色髪の持ち主で、顔だけでなく、全身が大小のソバカスに覆われていたというより、地肌が見えないくらいありとあらゆる茶色のバリエーションのシミがビッシリ皮膚を覆っているのだ。その上、密度の濃いベージュの体毛が足以外の全身に生え、(足だけはキレイに剃るか抜くのが常識のようだ)、太振りの剣と盾でも持たせれば、そのままアマゾンの戦士ができ上がりそうだった。

 丸い青灰色の目をいつもビックリしたように大きく見開いて、話し相手の目を覗き込んでくる。コルネリアから受ける第一印象は、体格の良さ、ムチョ・クエルポ(大きなグラマー)だろう。頑丈な骨格にメロンほどもある丸く張り切ったオッパイ、そしてデーンと横、後ろに張り出した腰と尻、すべてが大雑把な造りなのだ。

 ただ、声だけは体にそぐわず、柔らかいアルトだった。話し方も静かで、当初、それは彼女のスペイン語がまだ会話を楽しむまでになっていなかったせいだと思っていたが、ドイツ人の友達と『カサ・デ・バンブー』に何回か来た時も、やはり静かなゆっくりとした話し方だった。性格がおっとりとしているのか、少し間が抜けているのか、その中間なのか判断できなかった。
 明るく直情的、情熱的といえばセニョリータたちを褒めたことになろうが、騒々しく、大げさに騒ぐセニョリータの中で、いつも静かで控えめなコルネリアが新鮮に見えただけなのかもしれない。
コルネリアの方はドギマギしている私を気遣いバスローブを羽織りながら、いとも自然に、ドイツ訛りのスペイン語で、「ブエノス・ディアス、ヴィッキーに何か用があるの? ヴィッキーは町へ降りて行っていないけど、いま丁度カフェ・アレマン(ドイツから持ってきたコーヒー)を淹れたところだから飲んでいかない」と、会話の後半は英語で誘ってきたのだ。
 私もイビサに住み始め当初、英語の方がはるかに楽だったから…と言ってもレベルの低い日常会話程度のものだったが、店に来るイギリス人は当然だが、ドイツ人、スカンジナビア人とは英語で話していた。
彼女の淹れたドイツコーヒーをご馳走になりながら、コルネリアがドイツ、ババリアの田舎町の産であること、バルセロナの語学学校で短期のスペイン語講座を受けたこと、旅行好きで、ヨーロッパはもとより中南米、北アフリカ、中近東まで足を伸ばしていたこと、それ以前に両親と何度かヴァカンスを過ごしたことのあるイビサに立ち寄り、ヴィッキーと知り合いになってこのアパートをシェアするこになった、などなどを知った。 
 私は白い封筒に入れたパーティーの請求書をヴィッキーに渡すよう頼み、店があるからと早々に引き上げたのだ。コルネリアは封筒の中身が何であるか見当をつけていたと思う。かなりはっきりと分かる同情的な目で私をチラッと見て、「確かにヴィッキーに渡すよ…」と言って封筒を受け取ったのだ。
-…つづく

 
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   2018-2-16


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2018年02月14日

白石正一郎 1812-1880


 白石正一郎は下関の商家・小倉屋の生まれである。北前船が盛況でその航路の要地であったこと、村田清風の政策による海運助成策により長州の豪商となる。国学者の鈴木重胤(1812-63)の門人であった。そのことから次第に幕末志士を援助するようになる。はじめて正一郎と会った西郷古兵衛(隆盛)は、彼の人柄を「風儀雅品」「叮嚀(ていねい)の者」といっており、平野国臣も筑前藩主への建白書のなかで、彼を「正直なる者」と評している.
彼は、高杉晋作を支援して自宅は奇兵隊発祥の地になる。弟・廉作と伴に自ら入隊して莫大な資金援助をした。奇兵隊には自前の資金は無かった。晋作の最後の面倒を白石家で見ている。

 子孫の方が日記を現代訳にされてウエブに公開されている。それによると、平野国臣をかくまったり、薩摩とは、後にご用達になることから、さまざまな面倒を見ていることが知られる。坂本龍馬も彼にやっかいになるのですが、薩長同盟でのさきがけとして、長州の米を薩摩に売りミニエ−小銃を長州が手にする周旋を龍馬がした。これを読むと薩摩は以前より米の買い付けをしていたのが分かる。白石正一郎の薩長への日々の濃密な接触が無ければ薩長同盟も無かったのではないかと思わされる。

  白石正一郎日記・現代語訳
  http://www.shiraishilo.com/entry14.html

 彼の家は幕末志士のアジトであり出入りしたものは下記のように多数にのぼる。

  薩摩藩
  島津泉洲(久光)大島三右衛門(西郷清盛)大久保一蔵(利通)町田助十郎
  田中新兵衛 奈良原喜八郎 林休右衛門 村田新八 吉井仲介(友実)
  大脇祐九郎 柴山受次郎 橋口壮介 道嶋五郎兵衛 三雲東一郎
  与倉猶二郎
  益山東石 町田真五郎 波江野休右衛門 森山新蔵 樺山三円
  井上右近 高橋新八 税処喜三右衛門 嶋津豊後大夫 三原藤五郎
  有村俊斎(海江田信義)浜田勇右衛門 石見半兵衛 米良喜之介 桂民之進
  有馬新七 堀仲左衛門(伊地知壮之丞)井上弥八郎 
  高崎善兵衛(五六の父)
  利強兵衛 高崎猪太郎(五六)板鼻俊蔵 川治正之進 重野厚之丞(安繹)
  種子島武人
  田中直之進(謙助)加藤半兵衛 洋中半兵衛 竹内五百都 原田彦右衛門 
  高崎左太郎(正風)

 長州藩
 高杉晋作(谷潜蔵・春風)桂小五郎(木戸孝允)久坂玄瑞 伊藤博文
  山県狂介(有朋)
  品川弥二郎 野村靖(和作)鳥尾小弥太 山田顕義 三浦梧楼
  楫取素彦(小田村文助)土屋矢之介 中村文右衛門 竹内正兵衛 滝弥太郎
  川上弥一 松島剛三  前原一誠 久芳内記 周布政之助
  来原良蔵 楢崎八十槌 宮城彦輔 前田孫右衛門 国司信濃
  飯田八郎左衛門 入江九一 三好軍太郎(重臣)滋野謙太(清彦
  )益田右衛門介
  山県弥八郎 時山直八 杉山松助 福田佐平 福原三蔵
  片野十郎 林半七(友幸) 井上聞多(薫) 宍戸小弥太(幾)厚東次郎助
  湯浅祥之介 貴島又兵衛 波多野金吾(広沢真臣) 野村宇中 乃美織衛
  松浦亀太郎(松田和介)

   土佐藩
  吉村虎太郎 谷守部(干城) 坂本竜馬 土方楠左衛門(久元)石川誠之助(中岡慎太郎)
  田所壮介 桶口真吉 北山登 大野武八郎 安藤勇之助 田中謙助(光顕)
  細川左馬之介

 筑前藩
  平野次郎(国臣) 河野若狭之進 吉永源八郎 熊谷丈平 入江勝四郎
  北条右門(村山斉介)徳田隼人 工藤左門(藤井良節)沢原与左衛門
  清水正平
  大田左内 中村円太 藤四郎 野村望東
 久留米藩
  真木和泉  淵上郁太(郎)(牟田大助)坂井伝二郎 大鳥井利兵衛
  荒巻洋三郎
  池尻茂四郎 真木外記 岡田三津三 原道太 川崎三郎(角照三郎)
  松浦八郎
 肥後藩
  堤松右衛門 上松巳八 轟武平(武兵衛) 川上彦斎
 秋月藩
  戸原右橘 神木小介  間嘉太夫
 岡藩
  小河弥右衛門 広瀬友之丞 後藤喜右衛門
 大村藩
  渡辺清 渡辺昇 
 安芸藩
  穂上輝門 渡辺三哲 頼東三郎 佐藤勘三郎
 対馬藩
  多田壮蔵

 京都
  僧月照 結城筑後守 井上信濃 勝山弥太郎 田中河内介
  (以上、計一五一名)

  慶応元年・1865年末頃から援助のし過ぎで資金繰りが悪化したといわれる。薩摩にも長州にも絶大な貢献したのだけれども、明治になっても政商・財閥になって巨万の富を得たわけではなく、明治8年には破産した。顕職につくこともなく、赤間神宮の宮司となり69歳で死去した。

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   2018-2-14






 
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2018年02月12日

精忠組

 島津重豪による放漫財政を立て直すために近思録派の樺山久信、秩父秀保が島津斉宣に用いられた。しかし重豪の逆襲を受け改革派頓挫した。西郷や大久保がらが「近思録」を読む会を立ち上げ、後世の命名であるが精忠組の結成になった。長州の松下村塾のような維新の人材がこの組より多数輩出することになる。

 彼らはお由羅騒動や寺田屋事件、西南戦争で別々の人生を歩むことになる。

  注) 「なし」 は  資料なし  


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西郷隆盛・吉之介 1828-1877
http://hayame.net/custom32.html#spb-bookmark-506


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大久保正助利済・大久保利通 1830-78
お由羅騒動謹慎、久光側近、薩長芸盟約草案作成、王政復古のク−デタ−実行、参議
内務卿、有司専制、

長沼嘉兵衛 早世

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海江田信義・有村俊斎   1832-1906
大村益次郎と軋轢

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税所篤・喜三左衛門  1827-1901
薩南の3傑、長崎伝習所、久光側近、鳥羽伏見3万両軍資金、奈良県設立
子爵

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吉井友実・仁左衛門  1828-1891
大目付 賞典禄1000石、 薩土盟約 日本鉄道

伊知地正治・竜右衛門  1828-1886
軍奉行 奥州戦争で活躍

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伊知地貞馨・堀仲左衛門・堀又十郎貞通  1826-1887
久光側近、江戸藩邸自焼発覚、

以上結成メンバ−


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岩下方平・左次右衛門  1827-1900  
薩英戦争の和平正使、家老、パリ万博の薩摩琉球使節団長、参与、賞典禄1000石
子爵、


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大山綱良・角右衛門  1825-1877
奥羽鎮撫参謀
西南戦争 鹿児島県令 斬首


有馬新七・正義 1825-1862 
 寺田屋死亡

奈良原喜左衛門清 1831-1865
お由羅騒動謹慎

鈴木勇右衛門重高  なし

樺山三円 生没年不詳
成彬茶坊主、

山口金之進直秀  なし


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高橋新八経麿・村田新八 1836-1877
喜界島遠島、伊藤博文と上海訪問、戊辰戦争、欧米視察、西南戦争死亡
勝海舟が大久保につぐ人物と評す。


森山新五左衛門・永治 1843-1862
寺田屋切腹


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奈良原繁・喜八郎 1834-1918
家老、西郷の討幕路線に反対、静岡県令、日本鉄道社長、沖縄県知事


野津鎮雄・七左衛門 1835-1880
戊辰戦争、西南戦争政府軍、陸軍中将

大山彦助成美 なし

山之内一郎時習 なし

中原喜十郎 なし

鈴木昌之助 なし


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中原猶介・尚勇 1832-68
蘭学、水雷開発、薩摩切子、越後長岡の戦いで死亡、


本田親雄・弥右衛門   1829-1909
戊辰戦争、男爵、

森山棠園  なし

江夏仲左衛門栄享  なし


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永山弥一郎・万斎  1838-1877
寺田屋事件で年少ゆえに免罪、戊辰戦争、西南戦争で敗死


道島五郎兵衛正邦  不詳-1862
寺田屋の鎮撫使として死亡

坂本喜右衛門 なし

野元林八為清  なし

有村如水  なし

高橋清右衛門  なし

鈴木源右衛門  なし


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西郷従動・竜庵  1843-1902
兄隆盛、寺田屋で謹慎、戊辰戦争、西南戦争政府側、伯爵、海軍大臣、元帥、侯爵


有村雄助・兼武 1835-1860
脱藩、桜田門外の変で判明により自刃

山口三斎  なし


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高崎五六・猪太郎・友愛  1836-1896
井伊直弼襲撃を策謀、長州征討で長州謝罪恭順で周旋、、東京府知事、男爵


有村次左衛門・兼清  1839-60
脱藩、井伊直弼を殺害したが負傷して自害、兄有村俊斎

田中建助・直之進盛明  1828-62
寺田屋事件で自害を命ぜられる。

益山東碩  なし


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仁礼景範・源之丞  1831-1900
藩名で米国留学、海軍大臣、


鵜木孫兵衛 なし

平山竜雪  なし

赤塚源六・真成  1834-1873
海軍大佐

坂木六郎貞明  1797-1883
薩摩4郷の地頭、

坂木藤十郎  なし

徳田嘉兵衛  なし

江夏仲左衛門栄享  なし

鈴木勇右衛門重高  なし

森山棠園 なし

高島清(貴島清の誤りと思われる)

山口彦五郎  なし

平山新助  なし

本田親雄・弥右衛門  1829-1909
戊辰戦争、 男爵、

大山彦八成美 なし

坂元彦右衛門  なし

森山新五左衛門  1843-62
寺田屋で切腹


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野津道貫・七次   1841-1908
戊辰戦争、西南戦争政府軍、日露戦争、元帥


鈴木昌之助 なし

有村幸蔵国彦  なし

谷村昌武・愛之助  1842-1869
西郷の討幕論を支持して藩論を転換させる、


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松方正義・助左衛門  1835-1924
松方財政
久光側近、薩摩軍艦買い付け、総理大臣、日銀創立、



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森岡昌純・善助  1834-1898
寺田屋鎮撫士、日本郵船社長、男爵


永田佐一郎  なし

神宮司助左衛門  なし


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柴山景綱・竜五郎  1835-1911 
 寺田屋で検挙



大山十郎 なし

伊地知源右衛門  なし

柴山愛次郎・道隆 1836-1862 
寺田屋死亡

橋口伝蔵・兼備 1831-1862 
寺田屋死亡

高島三  なし

中島健彦広厚  なし

房村猪之次  なし

田代稲麿  なし

深見有正・休八・有幸  1842-1877
西南戦争西郷軍で戦死

木藤彦次郎  なし

大野四郎助  なし

高崎善次郎  なし

竹内三十郎  なし

本田謙  なし


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三島通庸・弥兵衛  1835-1888
寺田屋事件で謹慎、戊辰戦争、山県県令、警視総監、子爵、


川井田  なし

坂元城  なし

吉田清右衛門  なし


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大山巌・弥助  1842-1916
寺田屋事件謹慎、戊申戦争、弥助報、スイス留学、西南戦争政府軍、日露戦争
満州軍総司令官、陸軍元帥、


楠田助  なし

坂元六郎  なし

山之内作次郎貞奇 なし

五代東一郎  なし


 
  2018-2-12









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2018年02月11日

家庭用蓄電池 価格破壊


 驚くべきことが起こっていました。 太陽光発電と絡めて蓄電池4kw程度を家庭に設置できれば、電力問題解決して、原発段階廃止に持ち込めるとのではと。 4kwのバッテリ−で50万位に値下がりすればできるとも思っていました。

tesra 02.png
テスラ パワ−ウオ−ル2


 テスラの電気自動車のために、パナソニクスとテスラが米国に大規模な電池工場を設備増設しています。テスラの普及型タイプがイマイチ売れていなくて、バッテリ−が余剰になっているのでしょうか? 13.5kwで61万7千円で直販モデルがあるという下記サイトを目にして驚いています。

 家庭用蓄電池 価格破壊
 https://www.tainavi-switch.com/contents/37434/

 比較サイトで日本のメ−カ−の価格が分かります。30万から70万くらいの補助金を差し引いても平成26年度の購入価格はメ−カ−で違いがありますが、100万から200万です。4.4kwで1,024,000が最安値になります。テスラは13.5kwで61.7万ですので4.4kwに換算すると20.1万ですので他社と比べて問題にならず、しかし太陽光の問題解決となりました。

 電力各社が送電網につなぐことを余力がないと抑えにかかっていますが、最近の報道で余力有りとされています。 例え送電網につないで風力・太陽光の不安定な発電を懸念しなくても、各家庭で蓄電池とソ−ラ−をつないで家庭での余力を送電網につなぐようにすれば、解決できるのではないでしょうか? 


 比較サイト 家庭用蓄電池
 http://www.shouene.com/battery/maker.html

 予算の使い方も各メ−カ−の生産を支えることが目的で、効率的な運用・戦力の集中になっていない。行政も考えてほしい。テスラ応援はパナソニックの合弁電池企業なので国産イジメになっていない。この価格なら補助金も必要ないですが。

  今後太陽光を考えている人、すでに設置されている方には考えられてはいかがでしょう。

  また、北朝鮮のミサイルを心配されている方がおられるでしょう。原爆を撃ち込まれなくても通常弾頭で日本の原発を破壊されたら、それで日本は終わりますが、家庭に蓄電機能を持たせて、原発を無くす方向にすることは意義があります。明るい日差しが垣間見えました。

  現在ヨットで100wと60wのソ−ラ−パネルの接続に悩んでいる程度の小生が述べることではありませんが、専門家の方の世間へのこれらの周知を望む次第です。

    2017-2-11



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2018年02月10日

高梨沙羅選手


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  冬季オリンピックが始まりました。話題の多い大会です。北朝鮮は統一旗に独島が描かれているものを一部使用したのではないかの報道があります。その旗はオリンピック委員会から禁止されています。

 このブログでは本人にも問題ありということで、あからさまな個人批判は避けたいと思っています...が。
高梨沙羅選手が気になります。あれほど絶対王者と思わせる成績を残してきた彼女ですが、前回は金メダルを逃しました。昨年の成績は満足のゆくものではありません。それを引きずっての今回です。今回メダルに届かないようなことがあれば、日本の低マスコミの餌食にされるかもしれないと爺爺心ながら心配をしています。

 フィギアの真央ちゃんも金メダルは手にしていません。納得のいかない年齢ル−ルで絶頂期を逃しました。女性は成長と伴に体形が変化するようで、筋力とのバランスが難しい問題があります。 また、学生の頃は気にかけていなかった女性が、成人してタマタマ町で出会うと見違える美人さんになって驚かされた経験があります。失礼ながら、沙羅さんもそうです。メイクの進化・進歩がすさまじいのでしょうね。

 オリンピックは4年に1度の大会なので、人生のわずかなピ−クをその時期に合わせるのは難しいです。幸運にもメダルが取れればそれで良しとしたい。毎年行われる世界大会でチャンピオンになれれば、それが最高のものです。その年の世界一ですから。なれるものではありません。 男子フィギアの絶対王者さんも気になります。

 今大会で沙羅さんの成績がどうなるかわかりませんが、バッシングを聞きたくないので、書きました。過剰な期待で選手を追い込んではいけません。 あたりまえに整形する国で、根拠の無いもので非難してはなりません。
 また、ジャンプ台にはド−ムを被せて風の影響を排除してほしいものです。実力があっても一瞬の風で成績を左右されてはいけない。オリンピックの施設くらいは、そうありたい、莫大な費用がかかるけれど。 

 参加する各選手の活躍に期待します。日本を過度に背負う必要は無い。あくまで個人個人の活躍のト−タルが日本の成績です。

   2018-2-10

銅メタルを取りました。おめでとう。

    2018-2-12

帰国会見で神対応
  https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180214-00000114-dal-spo
https://www.msn.com/ja-jp/news/sports/高梨沙羅が「国民」からの「謎の圧力」に勝利した日/ar-BBJe9TM?ocid=edgsp#page=2

    2018-2-14


 




 
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2018年02月09日

イビザ物語 第6回: 佐野

ヴィッキー その5 “誕生日パーティー”

イビサ物語〜ロスモリーノスの夕陽カフェにて

 ヴィッキーの誕生パーティーは店を貸切にし、他の客を入れないことにした。ヴィッキーと二人でメニューや飲み物を決めた。彼女が呼ぶ15、6人分の売り上げが私の小さなカフェテリアの1週間分くらいの総額近くになる…という計算もあったし、彼女が招待する新規の友達、客がまたここに来てくれるであろう、常連が増えるだろうという目算もあった。
その日のために、フランスの本物のシャンペンこそないが、カバ(Cava)と呼ばれているスペイン産のセコ(seco=dry;辛口)を1ダース仕入れ、ワインも普段出しているもの中で一番値の張る、マルケス・デ・リスカルとムリエタ(Marqués de Riscal y Murrieta)、ファウスティーノ1世(FaustinoT)、ヴェガ・シシリア(Vega Sicilia)の赤、白はカタルーニャのヴィーニャ・ソル(Viña Sol)のグランレセルバ(Gran Reserva)を買い込んでおいた。もっとも、このような高級なワイン、シャンパンは浜辺の小屋的な私の『カサ・デ・バンブー』では週に1、2本出れば良い方だったのだが…。
パーティーのための知り合いのイビセンカ(Ibizenca;イビサの女性)を二人、臨時雇いのウェイトレスとして来てもらうことにした。

夕陽を眺めながらのパーティーにしようという意向だったから、スペインにしては異常に早い夕刻7時にパーティー開始を決め、それに間に合わせようと、昼間一杯かけて、仕込みをし、テーブルをセットし、花を飾ったりで、ドタバタと過ごした。
準備万端とはいかないまでも、一応準備もなんとか整い、御一行様が現れるはずの午後7時になった。だが、誰も来ないのだ。やがて8時になり、“オヤ、ひょっとすると、オレ、日にちと時間間違えたのかな…”と不安になり始め、8時半頃、ウェイトレスの一人、ペパ(Pepa)をヴィッキーのアパートへ送ったのだった。
ペパは、「ヴィッキーたちは、彼女のアパートですでにだいぶ出来上がっていたよ。『カサ・デ・バンブー』は準備整え、待っているから、いつでもドーゾとは伝えてきたけど…」と、いたって刃切れの悪い報告を持って帰ってきたのだった。
そして、ヴィッキー御一行様、14人が現れたのは午後9時近くなってからだった。
『カサ・デ・バンブー』は車でのアクセスが全くなく、どうにか車が入り込め、駐車できるところから、緩やかではあるが200メートルの石ころ、岩、土の坂を下りて来なければならない。これは客足に大いに影響を及ぼす坂道だが、逆に『カサ・デ・バンブー』はあまり人に知られていない、静かな穴場、私たちだけが知るカフェという意識をお客さん、とりわけ常連に抱かせていたと思う。軽い障害を乗り越えて、初めて辿り着くことができる店というわけだ。
ヴィッキー御一行様は、足元に気をつけて、転ぶんじゃな〜い、見て見て、この景色…と暗くなりかかった坂道を騒々しく降りてきたのだった。皆それなりにシャレタ、ファッショナブルな服に身を包んでいた。男女半々くらいだったろうか。
一行がすでにかなり酔っ払っており、マリファナをたっぷり吸ってきたことは明らかだった。スペイン人のこのようなパーティーはある程度知っているつもりだったし、経験もしていた。全員が同時にシャベリ捲くるのだ。それも、叫ぶような大声でワンワとやるのだ。静かに行ってこいの会話を楽しむ作法は存在せず、耳を塞ぎたくなるような大声で自己主張、別にたいした意見でなくても、叫ぶのが彼らの流儀なのだ。それが延々と続くのだ。
それにしても、ヴィッキーの仲間たちはスザマジかった。テーブルマナー、祝賀会なぞ、薬にしたくもない様相で、それぞれ勝手にワイン、コニャック、ジントニック、ウォッカを注文し、食前酒に用意したラ・イナ(La Ina;シェリー酒)も食後の酒コニャックもごちゃ混ぜで、ヴァッカスでも度肝を抜かれるような飲みっぷりだった。
マリファナは食欲増進剤になるから、酔っていても食欲はあった。テーブルに三つ置いたコンロとジンギスカン鍋は焦げ付き、コンロからズリ落ち、テーブルに焼け跡を残した。いったい何個のグラスがひっくり返り、ワイン、リキュールを撒き散らしたことか…。
スペイン人のエネルギーにはいつも驚かされる。酔ってグッタリし、テーブルに就いたままコックリコックリ始めるヤカラはいない。彼らのために一つだけ言い訳を許すなら、まず100パーセントと言ってよいくらい、陽気な馬鹿騒ぎで、愚痴っぽくなったり、陰険に絡んだり、陰気に沈み込むタイプは少ない。ボラッチョ(Borracho;酔っ払うこと)とは酒を飲んで陽気に騒ぐことを意味するのだ。
ヴィッキーたちも賑やかに騒ぎ捲っていた。一人がチステ(Chiste;冗談、小話)を披露し、大笑いを取ったとなると、他の人が、それに刺激されたように次々とチステを語り、そのチステが次第にX(エキス=ハードコアの映画)的にエスカレートしていった。12時近くになり、早く引き上げてくれないかな〜という私の思惑をヨソに、彼らは全く腰を上げる気配を見せず、パーティーはますます佳境に入って行ったのだ。
臨時雇いのウェイトレス二人は初めからの約束通り12時で帰し、洗い場のカルメンおばさんも、明日片付けるからね…と帰って行った。
午前2時を回ったところで、誰かがディスコに繰り出そうと提案し、老舗ディスコの『パッチャ(Pacha)』なら知り合いがいるからタダで入れると、誰かが言い出した時には、本当に救われた想いだった。
私自身、酒が飲めず、一口どころか酒の匂いを嗅いだだけで真っ赤になるゲコだったから、はなから酔っ払いの相手をするのも嫌いなら、酔っ払いを見るのも嫌だった。スペインで食事の一部として誰しもがワインを楽しんで飲むのを目にした時、こんな世界があったのかとばかり驚いたものだ。昼食をコニャックで締めくくったにしろ、彼らは深酒をせず、自宅に戻って短いシェスタ(Siesta;午睡)の後、また働きに出るのだ。
私が昼食を摂るような安レストランでも、テーブルにワインが一瓶、サア、好きなだけ飲みな、とばかり、デンと置いてあり、安い定食でも料金にワイン代が含まれているのだ。なんだか飲まないと損をした気分になり、何度か試飲程度に口にしたが、すぐに顔が真っ赤、心臓ドキドキの態に陥り、食事どころでなくなり、体質的にアルコール類は絶望的に合わないと悟らされるのだった。
いくら陽気なボラッチョ(酔っ払い)とはいえ、5時間以上のドンちゃん騒ぎに付き合わされて、いささか“このような仕事は私に向いていないなあ〜”と思い始めていた。
彼らがディスコに向かって引き上げる時、ヴィッキーはそっとカウンターに寄ってきて、「チョット騒ぎ過ぎたかしら、ごめんね。アア、勘定ね、明日払いにくるよ」と言ったのだった。
スペイン語の“マニャーナ(mañana)”が正確な“明日”の意味ではなく、“いつかそのうち”を意味し、さらに“いつかそのうち”が“永遠にやって来ない明日”という意味もあることを学ぶために随分高い授業料を払わされることになったのだった。

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カフェテリア『Casa de Bambú』のエントランス(1988年撮影)
-…つづく

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   2018-2-9


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2018年02月08日

調所広郷と村田清風


  薩長が維新の立役者になったのは、藩の財政改革に成功していたからです。それゆえに、近代的軍備の大砲・最新式小銃・西洋軍船を購入できた。時代が人物を作るとは言え、薩長の活躍した人物だけでは維新が成ったとは言えない。ここでの調所も村田も報われたとは思えませんが、その歴史的貢献は大きいものでした。

 農業により形成された武士や封建制度が近代を迎えるに連れて矛盾・問題が山積になる。それの解決には無駄使いを止めることや質素倹約ではどうにもならずに、調所や村田の改革を必要とした。開国要求をきっかけとして近代的な経済体制に変革したのが御一新・明治でしょう。

調所広郷・笑左衛門   1776-1849 73歳

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寛政10年・1798 江戸へ出府して隠居していた島津重豪に見いだされて登用される。後に藩主・島津斉興に使番・町地頭・町奉行に携わる。天保3年・1832年に家老になる。
 500万両に及ぶ借金で財政破綻寸前になっていた藩財政を1840年には200万両の蓄えになるまで回復させた。その政策は
1. 借金を無利子で250年の分割払い
2. 琉球を通じて清との密貿易
3. 大島などで取れる砂糖を専売制にして独占した(黒糖のみで230万両の利益)
4. 行政・農政・財政改革・商品開発をおこなう。 
嘉永元年・1848年に老中阿部正弘に密貿易を糾弾されて服毒自殺、斉彬による密告とも言われている。年収12−14万両で利息が80万両を越えていた状況からの再建なのでそのスゴサが分かる。



村田清風 天明3年・1783-1855・安政2年 七三歳  

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1838・天保9年 藩政の実験を掌握する。財政再建は
1. 37か年賦皆済仕法(家臣の負債を減額して37年で完済)
2. 蝋の専売制を廃止、自由な取引に。四白政策(紙・蝋・米・塩)の振興
3. 商人に対して運上銀を課税
4. 下関に越荷方を設置。藩による海運を助ける倉庫金融業。
8万貫の負債を返済、雄藩となる基礎を築く
 借金を減額された商人や越荷方の成功により大阪への商品が減った幕府からの横やりで退陣した。


   2018-2-8






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2018年02月06日

幕末薩摩藩主

 薩摩藩の幕末の藩主をまとめてみました。藩政改革で親子が争い、財政改革にも成功して大きく明治維新に貢献しました。

島津重豪(しげひで) 1745-1833 89歳

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宝暦5年(1755年) - 天明7年(1787年)
娘の広大院は11代将軍家斉の正室
次男は中津藩奥平昌高、蘭学好き
13男は福岡藩主黒田長溥(くろだ ながひろ)・蘭学好き
14男は南部信順(なんぶ のぶゆき)は、陸奥八戸藩の第9代の藩主。
500万両の借金を作るが調所広郷を抜擢する。



島津斉宣(なりのぶ) 安永2年・1774-1841・天保12年  69 才

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天明7年・1787-1809・文化9年
文化6年 近思録崩れの責任で重豪によって強制隠居

島津斉興(なりおき) 寛政3年・1791-1859・安政6年  69歳

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文化6年(1809年) - 嘉永4年(1851年)
天保4年・1833年 父重郷の死で実権握る、調所を重用して財政改革に成功
嘉永2年・1849 お由良騒動
次男は池田斉敏(いけだ なりとし)、備前岡山藩の第7代藩主。
嘉永4年・1851年 安部正弘の調停で隠居


島津斉彬(なりあきら)文化6年・1809-安政5年・1858   50歳

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嘉永4年・1851-1858・
富国強兵に努め集成館事業を興す
篤姫を将軍家定の正室に嫁がせる
公武合体武備開国を主張


島津忠義・茂久(もちひさ)天保11年・ 1840-1897・明治30年   58歳

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安政5年・1858-1871・明治4年廃藩置県
大政奉還後に藩兵3000を率いて上洛、王政復古に貢献

島津久光 文化14年・1817-1887・明治20年

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 島津済興の5男で斉彬は異母兄、忠義は長男、藩主ではないが斉彬の死後に藩主の実父として藩政の実験を握った。
 文久2年・1862 公武合体推進のため兵を率いて上洛、寺田屋で尊攘派を粛清。計4回の上洛を経て、武力討伐路線を採る。

   2018-2-6
















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2018年02月02日

イビザ物語 5回  佐野 

 第5回 ヴィッキ- その4  

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 ヨットハーバーからイビサ港を眺める。夜景もまた美しい

カフェテリア『カサ・デ・バンブー』を開いた時、理想的なロケーションを探したわけではなかった。借りて住んでいたアパートの大家さんが、同じ敷地内にカフェテリアになりそうな庭付きの建物を持っていたという、偶然から決めただけだった。そんな場所があったからカフェテリアをやろうか…と思い付いただけのことで、カフェテリアをオープンしたいからそれ向きの地所を探したのではなかった。結果的には、そこが絶好のロケーションだったのだが…。今思えば、よくぞ怖いもの知らずにレストラン、カフェテリアをオープンしたものだと思う。
料理はインスタントラーメンを作った程度の経験しかなく、食べる方も、大学の学食から学生向けの激安飯屋を渡り歩いていたから、到って貧しい限りだった。カップヌードルが出始めの頃、近くのスーパーでカップヌード?―このカップの中にヌードの人形か何かイイモノが入っているのかもと思い―買い込んだものだ。冷静に考えなくても、普通のスーパーの食品売り場でナントカヌードを売っているわけがないのだが、貧しい学生時代、食にも性にも相当飢えていたのだろう。もちろん、カップの中にヌードは入っておらず、ヌードルだけだった。
きちんとしたレストランでフルコースなるものを摂ったことなどなかった。人並みに、これは美味い、という味覚を持ってはいたと思うのだが、それより先に、まずは腹一杯、飢えを癒すために詰め込むのが私の食生活の基本だった。言ってみれば、戦後の食うや食わずの食糧難の時代に育ち、そのまま常に腹をすかして学生時代を過ごし、必要最低限のカロリー摂取だけを食の目的としてきたバックパッカー崩れだったのだ。
そんな私が腐心したのはメニューだった。何を売りにしてこのカフェテリア・レストラン『カサ・デ・バンブー』を成り立たせるか、ド素人ながら、ない知恵を絞った。本格的なコックを雇うことはハナから考えなかった。洗い場に一人と台所とウエイターは私一人でこなすつもりだった。遅ればせながら、イビサの流行っているレストラン、カフェテリア、バルを食べ歩き、メニューを検討し、お客さんがどんなものを喜んで食べているかを観察し始めたのだ。
流行っているレストランに共通して言えることは、ロケーションが良いこと、雰囲気アンビエンテがあること、価格に相応した食事を提供していること、それにこの店だけの独特の料理が一つ、二つあれば言うことなし、接客が良く、くつろげること、などなど、当たり前の教訓を得たのだった。
日光浴をした後で、立ち寄るだけのカフェーにしてしまうと、ただ、よく冷えたビールやジントニック、カンパリソーダなどのアルコール入りの飲み物、ワインそれにジュース類にミネラルウォーター、朝のコーヒーくらいで、売り上げはタカが知れたものだ。昼は軽食、夜は一品料理にしても晩餐になりうるメニューを供さなければショーバイにならないことは初めから分かっていた。
苦肉の策だが、私自身が料理をしなくて済むように、テーブルにコンロを置き、お客さんに自分で料理してもらうことにしたのだ。メインのメニューは“ジンスカン”で、あのクソ重い鋳物のジンギスカン鍋を10個ほど日本から取り寄せた。肉はラム、マトンがここスペインでは値が張るので、もっと安い豚と牛、はては鶏肉を自家製のタレに漬け、十分味を染み込ませたものを出すことにしたのだった。もう一つの目玉メニューは“スキヤキ”で、これは店のキッチンで八分通り料理し終わったものをテーブルの上のコンロで冷めない程度に暖めるものとし、出した。
昼は軽食程度にした。スペインでワンパターンの前菜、メロンにハモン・セラーノ(生ハム)を被せるように載せたもの、ベルギー・エンダイブ(endivia)にロックフォーチーズソース(ブルーチーズのソース)、マンチェゴ(Manchego)などスペイン産のチーズに地元のケソ・フレスコ(queso fresco)の盛り合わせ、アセイツナ(aceituna;オリーブ)も地元イビサのニンニクを効かせた大粒の黒オリーブの酢漬け、旬のサラダ、スモークドサーモン(これはノルウェー産)の簡単なサンドイッチ(Bocadeillo)を出した。 
パンは長細いバゲット(Barra;フランスパン)ではなく、パン・パジェス(Pan Payés)と呼ばれるバレアレス諸島独自のパンをその都度薄くスライスして供した。パン・パジェスは直径30センチほどの中央が丸く盛り上がったパンで、本来なら、イビサの農家の石釜で週一度焼く、保存の効く香ばしいパンだ。焼く前にパンのドゥを種として少し次回醗酵させるためにとって置く。何十年、何世代―イビセンコ(イビサ人)は言うのだが―を経たパン種は周囲のこもごもの雑菌、良い菌、悪い菌を巻き込み、その家独特の風味を作っていく…ともっともらしいことを言われ、イビサの家庭で焼かれたパン・パジェスに同じものはナイ…ことになっていた。
これは当然といえば当然のことで、まず石の釜が各家で異なる。イビサの古い家には固有の半球型をした小型のドームがある。天辺に煙抜きの低い煙突が突き出ている白く塗られたドーム、焼き釜はイビサの家に特有の風景を醸し出している。燃料の薪もその界隈にある雑木だから、パンの種も違えば、違った釜、違う薪で焼かれたパンの風味が違ってくるという道理だ。 
その頃、すでにイビサに広まっていたバゲット(バーラ)は焼きたてなら良いのだが、4、5時間も経つと、一挙に香ばしさが消え失せ、歯が折れそうなほど硬くなってしまうのだ。その点、パン・パジェスは初めから硬くしっかりと焼いてあるので、4、5日は十分に香ばしさが残り、日持ちする。ドイツ人にこのパン・パジェスが人気だったのは、多分にドイツの黒パンに似ていたせいだろう。
パン・パジェスにフォアグラ――と言っても本物ではなく小さな缶に入った豚の肝臓パテなのだが――を付け合せた軽食が人気、売れ筋メニューになった。缶詰のパテを素焼きの容器に移し替え、新鮮なハーブ、バジルを細かく刻んだものを十分混ぜてから、その上にケッパーの酢付けを何個か載せ、軽くトーストしたパン・パジェッスと一緒に出しただけなのだが、これがランチメニューのヒット作になった。
『カサ・デ・バンブー』のメニューは初めから固定したものではなく、店をやって行くうちに、これは人気なし、手間隙がかかり過ぎ、日持ちしないなどの理由で随分落としていったし、遊びがてら居候を決め込んだ友人たちが、多少は私より口が肥えている上、ストックホルムやニューヨークで俄かキッチンヘルパーとしての経験のあるバックパッカーたちが種々雑多な忠告をしてくれていたのを素直に新メニューとして取り入れたのだ。
私自身も付け焼き刃ながら、料理の本を4、5冊読み、これはと思う料理をプロ用の台所で試作し、友人知人を招き食してもらい、批評を仰いだりした。また、レストラン経営の指南書なども紐解き、今まで考えたことすらない光熱費など、絶対必要経費、人件費、オファーするメニューの原価計算のやり方、売り上げに対する割合などなど、俄か知識として仕入れたりした。
だが、いずれにせよド素人が場所があるからという理由でだけで、いきなり店を出したことに変わりはなかったと思う。旧友たちは、「そりゃ、無理ムリ。レストラン、水商売はそんなに簡単なものじゃない。火傷して大穴を開ける前に止めとけ!」と忠告してくれたものだ。
-…つづく

 
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