2018年03月30日

カラマ−ズ・プロミス  グレ−ス・ジョイ


  生活保護を受けている子供が「奨学金をもらうと、それが収入加算されて、生活保護費が減額になり、その人の大学進学を妨げることになる」を訴えた裁判がありました。また奨学金を受けて卒業しても、収入が少ないことにより、のちのちまで返済で困るという件も耳にします。 貧困の連鎖が続いて、抜け出しにくい現実に世の中がなっているのでしょうか。

 持論として、大学教育にふさわしい人材は3割程度でしょうから、自分はそこに入れないとしても 、その人々の進学機会を奪わない制度にすればよいと思っていますが。 グレ−スさんの以下の分を読むと、公立大学無料の制度で進学率は80%にもなり、それでも良い効果が出ているようです。グレ−スさんの勤務する州立大学では卒業できるのは10%といいますから、日本と違い大いに勉強しなければ出られません。(この大学の卒業率はわかりません。)
 今までの費用が11年間で90億円ということですから、この制度の維持には、豊富な大学への寄付制度が支えているのでしょう。これを成功させるためには、日本にも大学で勉強させる環境と寄付の制度が必要でしょう。どこかでトライする日本の公立大学はないのでしょうか?

無料で行ける公立大学




以前、明治大学の教授、鹿島茂先生のアメリカの大学事情(第550回)について書きました。大学の先生にはある程度の“シツコサ”が必要だといわれており、私もウチのダンナさんに、「オメ〜のしつこさは相当なもんだ」とお褒めの言葉を頂くくらいですから、少しは研究職の隅に身を置く気質があるのかもしれません。
前の大統領選挙で民主党代表をヒラリーと最後まで争ったバーニー・サンダース候補は、大学までの学校教育をすべて無料にするという公約を打ち出しました。彼の試算によれば、アメリカの膨大な国家予算の中で、とりわけ軍事費、国防省、特別扱いの軍人年金を“チョット”改訂するだけで、大学の学費、授業料などを簡単に無料にできると言っていました。
ここからが、私の“シツコサ”の所以(ゆえん)になります。
無料で行ける大学があったのです。しかも私の母校でした。
私は西ミシガン州立大学を卒業しました。カラマズー(KALAMAZOO)という奇妙な名前の町に大学はあります。この町は大学と製薬会社のアップジョンの工場が二大産業のような人口7万5,000人ほどの町です。
私が西ミシガン大学に入学した時、両親はミズーリー州に住んでいましたから、他の州からの学生に適応される高い授業料(Out of State)を払わなければなりませんでした。それでも、アルバイトで授業料、生活費すべて賄うことができました。その時、ミシガン州の住人用の安い授業料が適応されれば、こんなにアルバイトをしなくて済むのにな〜、授業料が無料にならないかな〜と思っていました。
ところが、2005年にカラマズー市と大学が共同して“カラマズー・プロミス”という大学授業料を無料にするプログラムを作り実行したのです。それまでも、貧乏で優秀な学生に奨学金の形で大企業や市、個人のチャリティー資金が援助することはありましたが、市の住民なら誰でもタダで大学に行けるようにするというシステムは画期的なものです。
インターネットで申し込み要綱を覗いてみました。条件はとても緩いというのか、親の収入とか、高校の成績だとかは全く関係なく、大学で勉強したいという意思があるなら、確かに誰でも大学に行けると思わせるものです。
カラマズー市のお金を使うのですから、対象は市の住民の子弟に限られます。これだけが厳しい条件といえるかもしれません。まず、市の住民で、市の公立の高校を卒業した者だけという条件にさえ当てはまりさえすれば、皆無料で大学に行けるのです。
地元の公立高校という条件も、まず余程のお金持ちの子供でない限り、皆公立高校に行きますから、住民全員を対象にしていると考えてよいでしょう。そんな地元の高校…という条件を付けたのは、宗教法人が経営する高校、カソリック系、様々なプロテスタント系、それに東部の全寮制のエリート高校、最近多くなってきた自宅学習(ホーム・スクーリング)などを除外する意味合いが強いと思われます。最近流行り出したモンテソリー学校は私立ですが、数年前から認める方針に変わりました。
この無料の大学システムは、近年、この町に移住してきた難民家族にも適応され、すでに何十人もの難民の子供たちが卒業しています。
当然の結果ですが、カラマズー市の大学進学率は83%以上になりました。特に黒人の女性の進学率は77%(男子は50%ですが)で、全国平均をはるかに上回っています。高校の中途退学(ドロップ・アウト)率も低くなり、それまで、大学なんかとても行けない、ムリムリと諦めていた貧乏な人たちも、ヨシ、オレも私もと高校を卒業し、大学を目指すようになってきました(アメリカでは高校まで義務教育です)。
さてはて財源ですが、この“カラマズー・プロミス”が始まってから11年間で85ミリオンドル(90億円くらい)を使っています。大半をアップジョン製薬会社や地元の中小企業、それに“カラマズー・プロミス”を使って西ミシガン州立大学を卒業した卒業生の寄付で成り立っています。早く言えば、最初にきちんとレールを敷けば、汽車はその上を走るのです。要は最初に将来を見越した、大きな視野で計画を立て、実行できるかどうかなのでしょう。
卒業後、市に居残る卒業生が増え、その分、カラマズー市の財源も豊かになり、町の発展に大きく寄与しているという統計が出ています。“カラマズー・プロミス”に使ったお金は1ドルに対し、経済効果、見返りは11ドルになると経済学者は言っています。
先駆的なカラマズーの試みを懐疑的に観ていた他の町も、“カラマズー・プロミス”の成功を目の当たりにして、本格的に大学無料化を検討し始めています。ゆくゆくは、カラマズー市と西ミシガン大学だけでなく、他の大学と交換留学のように、様々な大学に無料で行けるようにしようと、拡張版の“カラマズー・プロミス”を検討しています。
教育は大学まで、勉強したい意思のある者には無料にするのが本筋だと思います。自分の卒業した大学がそんな素晴らしいシステムを作り上げたことを知り、嬉しくなって書いてしまいました。

   「のらり」より転載しました。

   2018-3-30



   
  
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2018年03月29日

イビザ物語 13   佐野

  グラン・イナグラシオン(開店祝いパーティー)

 
 『カサ・デ・バンブー』の客席はすべて屋外のカフェテリアだったから、オープニングの日の天候が気になった。セマナ・サンタ(イースター)の前はまだ天候が不順で、冷たい東風が吹くことがあるからだ。雨の心配はなかった。春から夏の終わりにかけては、ここ西地中海では全くと言ってよいほど雨が降らない。
その日はスカッと晴れ上がり、風もなく、まさに絶好の日和になった。

 この島でのグラン・イナグラシオン(gran inauguración;開店祝いパーティー)は、カナッペにサングリアとおよそ決まっていたが、私は新しい、おそらく確実にイビサの歴史始まって以来、初の“ジンギスカン”を供するのだから、招待客にジンギスカンを味わってもらおうと思った。当然出費も嵩むが、この投資は宣伝費だし、新しいことを始める上では欠かせないプロモーションと考えたのだ。

 ジンギスカン鍋の焼き方、タレのつけ方、火の調節の仕方、などなどのニワカトレーニングを授けた焼き手を四つのテーブルに配し、焼き上がった肉、野菜をタレに付け、小鉢に入れて招待客に手渡すことにしたのだ。招待客には満腹して帰ってもらおうという思惑だった。

 招待客を四つのグループに分けて声掛けをした。
 一番目のグループは『カサ・デ・バンブー』を開店するのにお世話になった人、市役所のお役人、政府観光省の人たち、消防署、保健局の人、それにボデガ(酒屋さん)、肉屋さん、プロパンガスの配達人などで、イビセンコ(イビサ生粋の人)が圧倒的多数だった。ある程度は予想してはいたのだが、このグループは家族、郎党一族を引き連れてきたのだ。それが総計すると半端でない数になり、予定し、準備していた料理の量をはるかに超えてしまうことになった。このグループは、どうもイロイロお世話になりました、今後ともよろしく…とい意味合いが強い。しかし、このグループから常連客になってくれた者は少なかった。
 二番目のグループは、イビサでレストラン、バー、カフェテリア、ブティック、土産物屋などショーバイしているしている人たちで、そこに地元の旅行会社も含めた。食べ物ショーバイをやってみて初めて分かったことだが、互いに競争する概念がほとんどなく、逆に一緒に盛り上げて行こうという協調性の方が遥かに強いのだ。
同業者の仲間から、どこそこの肉屋の方が良い、新しく開いたボデガ(ワインの卸屋)は90日の手形を受け付ける、などという横の情報を流してくれるのだ。おまけに自分のお客に、日本人の友達がロスモリーノス(カサ・デ・バンブーがある地域)に面白いカフェテリアを開いたから、寄ってみるといいぞ…と宣伝してくれるのだった。
 三番目のグループはご近所さんたちで、常連になって貰おうという魂胆だった。彼らは外食をするので、週1回、できれば2回くらい彼らのレストラン・ローテーションに『カサ・デ・バンブー』が入ってくれればイイな…という思惑だった。

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イビサ新市街のレストラン

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日中から開いているテキヤさんのは少ない

 あいにく、セマナ・サンタの前では、イビサに別荘やアパートなどを所有し、年の半分くらいはここで過ごす人たちはまだ出揃っていなかったが、ドイツ・コロニーのようなロスモリーノス界隈に棲みついているドイツ長老組、年中通して住んでいるスコットランドや北欧の叔母さんたちが来てくれた。この中から、将来、『カサ・デ・バンブー』の常連になってくれた人たちが幾人か現れた。
 そして四番目のグループだが、イビサの旧市街は夕方になると大きなテーブルを並べただけのテキヤ(ヒッピー風露店商)がドット店を出す。一応テーブルを出す場所は市で規制され、決められている。売っている商品は、手作りのアクセサリーが多いが、土産物、小さな額に入った絵、銀細工、イビセンカの伝統的な衣装をまとった人形、細工を施した皮の財布やベルト、サンダル、小型ブティック風にイビサファッション、絞りや更紗の染物、パレオ、果ては手縫いのウルトラビキニ、粘土で作ったイビサのミニチュア農家などなどを売っている。
 このテキヤ商店街はチョットしたイビサ名物になっていて、ヒッピー・マーケットとして市や観光省が保護している観さえある。一度テキヤをやると止められない…らしく、後年、親しくなったテキヤの一人から彼の売り上げ、年収を聞いた時、一体俺は今まで何をやっていたんだ、家賃、光熱費、人件費を払い、酒屋、肉屋、八百屋の支払いに追われ、何ということだ、と思ったものだ。

 彼らは日銭が入るので、それだけ外食し、お金を使う。良い顧客になるかもと踏んだのだ。このグループは南米人が多く、スペイン人でもカタルーニア人、ヴァレンシア人が多かったように思う。北米アメリカ人も幾人かいた。どういうわけか、イビセンコのテキヤにお目にかかったことがなかった。
オープニングに彼らは大挙してやってきたが、『カサ・デ・バンブー』のロケーションが彼らが夜店を出すイビサの旧市街から遠すぎた。彼らの幾人かとは軽い友人になりはしたが、良い客にはならなかった。
 このように、『カサ・デ・バンブー』の開店パーティーは満員以上の盛況で、庭に入りきらず、ゲートの外の岩や階段に腰を降ろす人が大勢出たくらいだった。

 大家のゴメスさんは、「タケシ、すごい人出だな…。少なくともタダ食い、タダ飲みできる今夜に限ってはな…」と捨て台詞を残して、彼の住んでいるペントハウス(最上階)に帰って行った。
-…つづく

 
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  2018-3-29


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2018年03月26日

山田方谷  1805-1877


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嘉永2年・1849に備中松山藩(5万石実質2万石)主に板倉勝静がなる。就任するや、帝王学を学んでいた儒学者・山田方谷を財政つかさどる元締役と吟味役に命じた。
 方谷は45歳で隠居を考えていたときであったが、10万両あった借金を10万両の蓄えにまで8年間で財政改革を遂げる。彼の改革は幕末のモデルケ−スと知られていた。それは:

1. 粉飾決算を公開、10万両の借金を棚上げにする。
2. その間に財務体質を正常化、新規事業に投資して、その利益で負債の返済をする。
3. 藩内の豊富な砂鉄を利用して農具や鉄器を製造。備中ブランドも設立利用。
4. 輸送は自前の船で値の高い消費地へ直送して直売した。
5. 藩の全ての産業・産品を専売(撫育局)にした。
6. 大倹約令を断行、減俸や賄賂禁止をする。
7. 自分には倍の減俸を課し家計の公開をした。
8. 新田開発を奨励しその税を免じた。飢饉には保護策をとる。
9. 財政が豊かになると減税した。それにもかかわらず生産が増え蔵米は増加した。
10. 大量発行で信用の落ちた藩札を購入して、河原で公開して焼却した。新札を発行。
11. 財政改革に終わらず、軍制改革を行う、農民兵を組織して近代銃を装備して訓練した。
12. 優秀な農民や町民を藩士へ取り立てる。

財政改革に成功した方谷は軍政の改革も行った。後の奇兵隊のモデルとなったような制度である。志願した農民に西欧的な調練を行い、最新式の銃をもたせたことである。 久坂玄瑞がここの農民隊・里正隊の訓練を見て、とても長州はこれにはかなわないと述べた。方谷に学んだ河井継之助も長岡藩で財政革をしてガトリング砲(機関銃)を持つような近代的な装備の軍を作った。

 方谷と弟子の河合は、どちらも譜代にあたる幕府側であった。方谷は、幕末には藩主が老中筆頭であったにもかかわらず無血開城して官軍に恭順をした。方谷は藩主が函館におり不在であった。藩主を勝手に隠居させ藩内を恭順にまとめて、戦闘による領内の荒廃を防いだ。それは、方谷の信念「政(まつりごと)でもっとも大事なものは、民・百姓である。」による。日本一ともいわれた強力な軍隊を持っていたからこその講和であり、講和条件で藩の名目を保つことができた。 函館戦争にいた藩主勝静を、高額な費用を払いロシア船を雇って、函館より撤収させることもした。

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河井継之助 1827-68

一方、河井は中立を模索したが、やむを得ず開戦を決意して官軍を近代装備の軍で困らせはしたが、その郷土を荒廃させてしまう。米百俵の逸話が後世にのこるほどの困窮に落ちいった。両者の違いは武士のメンツにこだわった河井に対して庶民・農民にこだわった姿勢の違いによるものでしょう。
河井は死の直前に「山田先生に伝えて下さい。継之助はいまのいままで先生の教えを守ってきましたと」 備中松山藩出入りの商人に言伝てを頼んだというけれども。

 方谷は、維新後には、早くから彼を評価して出仕を求められたが、そに応ぜず、郷土の教育に力をそそぐ。

 明治も落ち着いたころに、 三宅雪嶺が明治の架空理想内閣を発表した。それには陸軍大臣・西郷隆盛、文部大臣・吉田松陰、大蔵大臣・山田方谷であった。雑誌「日本人」には報告は内務大臣の器なり。大蔵・農商・文部大臣も可であると書いた。もっともな評価であると爺もそのように思います。異義ナーシ。

https://yamadahoukoku.com/山田方谷と炎の陽明学/

  2018-3-26


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2018年03月24日

イビザ物語 12  佐野

 カサ・デ・バンブー 〜グランド・オープニング 2


 ヨシ、ここでカフェテリアを開くぞと決めてから、急に忙しくなった。なにせ経験ゼロ、見通しなし、資金はマドリッドでセニョリータと結婚し、深い根を下ろしているらしい友人、知り合いから臆面もなく借りまくった。
 
 セマナサンタ(イースター;復活祭)に合わせてカフェテリアをオープンすると決めたのは、その3、4ヵ月前の11月頃だったろうか、庭の方はそれ以前から手を入れ始めていたのだが、大きな鳥小屋はそのままだった。大家のゴメスさんに相談を持ちかけたところ、彼が町に一軒しかないペットショップと話をつけてきてくれたのだった。

 私が子供の頃に使ったか、持っていたかと、かすかに記憶に残っている竹籤(タケヒゴ)の虫かごを何倍かの大きさにしたような骨董品クラスの鳥かごをペットショップの親父さんから手渡されたのだった。 

私が鳥小屋に入り、昆虫採取用の網でインコを捕まえ、タケヒゴの鳥かごのゲートを開けて待っているゴメスさんに渡す、という滑稽な作業を繰り返した。ゴメスさんは最前線で一兵卒に命令を下す軍曹よろしく、「タケシ、そっちのヤツを取れ、やわらかく体全体を包むように握れ!」と、一々指示、命令を下すのだった。

 タケヒゴの鳥かごには10羽も詰め込めば、満杯になる。それを持ってゴメスさんの愛車ルノー・クワトロに積み、ペットショップに運ぶ作業を1日1回、1週間も続けただろうか、ようよう鳥小屋を空にしたのだった。


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イビサ港から旧市街の城壁を眺める


 同時進行の型で、営業許可証などの書類上の手続きを進めた。ラテンの国々のお役所で何らかの許可証、認可などを受けるのは出口のない迷路に入り込むようなものだ。

 まず、カフェテリアを開く建物が安全であるという証明を市役所の建設部でもらわなければならない。それには、建設した時の図面、施工仕様などなどを提出し、現地に検査官のお出ましを待つのだ。ゴメス・コンパウンドは、オリジナル部分がどこか分からなくなるほど増築、改築を繰り返していたから、元々の図面などあるはずがなかった。もちろん、増築は無許可で行われていたし、そんなことを一々役所に届け出るイビセンコはいない。

打ち明けて言えば…と気取るまでもないが、私がその図面を描いたのだ。
大きな紙を文房具屋で買い、何度か試作し、それらしくデッチあげたのだ。壁の厚さなどは至極厚つめに描き、建材はオルミゴン(コンクリート)と書き込み、別紙には配電、配管図まで付けて市役所に提出したのだ。受付の女性は、図面を詳しくチェックもせずに、あっさりと受け付けてくれ、受付証明書をくれたのだった。

 そして曰く、「検査官が行くから、それまで待ってください…」
一瞬、これはえらいことになったと思った。当時、イビサでは大きなホテルやマンション、別荘ラッシュが始まりつつあったが、市役所には建築検査官が一人しかおらず、大きなアパートの工事が彼のお目見えを半年待ったとか、5分通りでき上がったホテルが、彼の命令で工事中止、やり直しを命じられたとかいう話を耳にしていたからだ。

 お役所を散々たらい回しにされていた時、私同様にイビザでバー、ブティック、レストランを開こうという人たちと何度も顔を合わせ、大いにイビザのお役所仕事を愚痴りあったものだ。そのような手続きを代行してくれる司法書士のような地元の人と懇意になり、イビサでは許認可が下り、必要な書類がすべて揃うのを待っていては何事もできない、申し込んだという証書があれば、それで営業を始めてかまわない…、万が一、インスペクター(調査官)がきても、その受付証書を見せれば、それで済む…と教えられたのだ。

 と同時に、外国人がイビサで事業をする時、申請書に必ず“スペイン人、地元民の雇用促進と観光客のニーズに応えるため”と書くことなど、入知恵されたのだった。失業率が異常に高かったスペインでは“雇用促進”がキーワードだった。

 保健局への申請はとても容易だった。食品を扱う以上面倒な資格審査があるものと想像していたが、薄っぺらなカタログを渡され、それをよく読んでおけ…という通達を受けただけだった。

 消防署への申告も必要だった。客席はすべて屋外だから、万が一、火災が起こってもお客さんは即逃げることができる。台所で大きなガスコンロ、オープン、グリルを使うから、換気扇と消火器の場所を描き込んだ図面を出すだけだった。あとで消防署から検査に行くと言われたが、ついに誰も来なかった。

 そして、営業許可の申請だ。テーブルの配置図、椅子の総計、ダイニングルームの総面積、簡単なメニューの省略版、などなどを提出したところ、驚くべき速さで、1本フォークのカフェテリアの認可が下りたのだ。

 これはスペイン政府観光省の管轄だ。スペインのレストランは4段階に分かれていて、超高級レストランは4本フォーク、『カサ・デ・バンブー』のような父ちゃん、母ちゃん商売は1本フォークになる。一応、客席数や床面積など大まかな基準はあるが、有名なグルメレストランがいつまでも3本フォークのままで営業し、料金も4本フォークと同等、もしくはそれ以上取っているところもある。

 フォークの数に厳密な差はなく、差があるのは営業許可の時に支払う認可料だった。これは事前に支払う営業税なのだ。税務署は、どうせ小さな規模のレストランなどは収益をごまかすに決まっているから、最初に営業税を取ってしまえ、後はどれだけ儲けようが、損して潰れようがお前たちの勝手だ…という方針のようだった。


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イビサ中心街のレストラン、通路がテラス席で埋まる 

 建物の安全検査官がすぐに来てくれた。なんと私がデッチあげた図面を持参していたから冷や汗ものだった。だが、彼は雑談しにきたのか、暇つぶしにきたのかと思わせるほど、建物は全く見ずに、カウンター越しに出したビールを美味そうに飲み、「ここでカフェテリアを開くのか、うまくいくといいね。この図面はお前が描いたんだろう、マア、良く描けている。幸運を祈っているよ…」とか言って帰って行ったのだった。

 建物の検査官が来てくれたのは非常にラッキーだと思っていたところ、この検査官はゴメスさんが大昔、中学校の先生をしていた時の生徒だったと知った。すべてゴメスさんが市役所に一声かけてくれたおかげだったのだ。 

イビサだけではないだろうが、ラテンの国ではコネが盛大にモノを言うのだ。逆に、コネがないか、または使おうとしない人間は、いかなる事業も始めることができないのが現実だ。

 他の外国人たち、スペイン本土から来た人たちが、店を開けるため四苦八苦しているのを尻目に、『カサ・デ・バンブー』は予定通りに開店する目途が立った。
イビサの小さな家具屋を通して発注していた椅子とテーブルが届き、グラス、皿などの食器類も買い揃え、物質的準備も整った。そして、待ちかねていたズッシリと重い鋳物のジンギスカン鍋も日本から届いた。
-…つづく

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2018年03月21日

アヴェ・マリア・ステラ(ステルラ)Ave, Maris stella 


めでたし、海の星

 日本の船乗りには守護聖人とマリア信仰では無く、金毘羅さんの信仰が守り神にあたるのでしょう。キリスト教の世界では海の星の聖母マリアの信仰は、海員ばかりでなく、広く多くの人の信仰を集めていた。

 これにまつわる音楽はグレゴリオ聖歌の旋律を元にして、その後の音楽家たちが多くの曲を残している。

 冬の夜空には北極星がはっきりと見ることができます。海の星とはこの星でしょう。何と言っても、船乗りは、それを水平線より星までの高度を観測する天測で緯度を決定(北極星緯度法)して利用してきました。

 地中海から見た、西の星、宵の明星であるとするも解釈もあります。それはコロンブス以前の太洋航海以前の地中海時代の話では、そうなるのでしょう。

Ave, Maris stella
Déi mater alma
Atque semper Virgo
Félix caeli porta
Sumens illud Ave
Gabriélis ore
Funda nos in pace
Mutans Evae nomen
Solve vincla reis
Profer lumen caecis
Mala nostra pelle
Bona cuncta posce
Monstra te esse matrem
Sumat per te preces
Qui pro nobis natus
tulit esse tuus
Virgo singularis
Inter omnes mitis
Nos culpis solutos
Mites fac et castos
Vitam praesta puram
Iter para tutum
Ut videntes Jesum
Semper collaetemur
Sit laus Deo Patri
Summo Christo decus
Spiritui sancto

Tribus honor unus

日本語での大意

めでたし、海の星
いと優しき神の御母
かくて、常に乙女なる
祝福された天の扉
めでたしの言葉を
ガブリエルの口より受け
我らに平和を与えたまえ
エヴァの名を変えられて


カトリック聖歌545番 アヴェ・マリス・ステラ
Inno Gregoriano, Schola Gregoriana Mediolanensis, Giovanni Vianini, Milano,Italia
https://www.youtube.com/watch?v=NOipola4doE
Ensemble Musica Nova   5分
https://www.youtube.com/watch?v=1LPzJvBvoSE

ギヨーム・デュファイ 1397-1474
avemaria 11.png
 Ensemble: Pomerium  Conductor: Alexander Blachly  6分
https://www.youtube.com/watch?v=6mcxEtyEUw4

ジョスカン・デ・プレ、1440-1521
avemaria 10.png
タバナ−コンソ−ト 76分
https://www.youtube.com/watch?v=U0d4Zo5q_QE

オルランド・デイ・ラッソ 1532-1594
Cinquecento Renaissance Vokal live  6分
https://www.youtube.com/watch?v=l4pUPFPt6tU

クリストバル・モラ−レス 1500頃-1553
Ensemble Plus Ultra & Michael Noone   9分
https://www.youtube.com/watch?v=ZOTdjZhRCbY

トマス・ルイス・デ・ビクトリア、1548-1611
Andrea Scalia - Early Music   6分
https://www.youtube.com/watch?v=3d5WdJIQkYE

アントニオ・デ・カベソン 1510-1566
Alastair Ross (organ)  7分
https://www.youtube.com/watch?v=U_N1X_B5-Qo
Harpsichord: Vera Voronezhskaya  5分
https://www.youtube.com/watch?v=RAYMc1IkSR8

パレストリ−ナ -1525-1594
Antonella Stell---abotte  3分
https://www.youtube.com/watch?v=Dh6ZFedZfa4



この聖歌に基づく作品を残した作曲家は枚挙にいとまがない。バロック時代でも

クラウディオ・モンテヴェルディ、1567-1632
avemaria 04.png
the Eindhoven Vocal Ensemble, solists and orchestra 8分
https://www.youtube.com/watch?v=GdzCq5F0f-I
Rebaroque  7分
https://www.youtube.com/watch?v=nx1X6Zu1PLY

ジローラモ・フレスコバルディ、1583-1643
Philippe Jaroussky & Ensemble Artaserse   4分
https://www.youtube.com/watch?v=Zp_ZfM74D4w

ニコラ・ド・グリニー  1672-1703
Organo: René Saorgin  9分
https://www.youtube.com/watch?v=oxKm3pDhh3M

アレッサンドロ・スカルラッテイ  1660-1725
Harry van der Kamp & Nederlands Kamerkoor   7分
https://www.youtube.com/watch?v=YpD4ZZuyGZc

他、多くの作曲家が、この聖歌を元にした作品を残している。

Sissel Kyrkjebø  5分  いいね
https://www.youtube.com/watch?v=0U0Ne-Yvv7o

 これを書いている時にカミさんが部屋に入ってきて、「あら あら 隠れキリスタン」と言われてしまう。終末に近い爺で、信仰心を持ち合わせず、それによる良い精神も宿っていない、自分ではあるが。

   2018-3-21







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2018年03月17日

イビザ物語 11回 カサ・デ・バンブ−

 グランドオ−プニング 1

 カフェテリアやレストランを開店してみようというはっきりした意図がないままに、1年も前からその場所を確保していた。と言えば、将来性のあるロケーションをシカと掴み、準備に1年も掛けたように聞こえるが、実際はなんとなく、将来、『カサ・デ・バンブー』になる場所、庭、見晴らしと静かさに惚れ込んで借りてしまい、家賃を払っていただけなのだが…。
 
『カサ・デ・バンブー』になる場所は、庭こそ荒れてはいたが、とかくテラスからの眺めは絶景と呼んでいいような、息を呑むような、あるいは心が静まるような海が広がっていたのだ。
私が借りたその場所にニつのモノが付随してきた。犬と小鳥が含まれていたのだ。
そこを借りる前から、庭に鎖で繋がれたままになっている年老いたボクサー犬がいたのだが、いつも頭を撫でたり、手なずけていた。大家さんは犬を鎖に繋ぎっぱなしにして、ただ 餌を持ってくるだけで、明らかにこの犬を持て余していることがミエミエだったのだ。
老犬も私によくなつき、私が庭の玉石を踏みながら行くと、根元から切られたシッポだけでなく、お尻全体を左右に振り喜びを表すようになっていた。私が大家さんに犬の世話を申し出たのは、その場所を借りるズッーと前だった。大家さんの方は二つ返事で老犬を譲ってくれたのだった。その時初めて、老ボクサー犬が“アリストテレス”というイカメシイ名前を持っていること知った。

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誰からも愛されていたボクサーの“アリストテレス”

シッポは切られてないが、タレ耳が愛嬌、特技腰振りダンス
そして小鳥の方だが、これは問題だった。50〜60羽のインコが2面を金網で囲んだ5メートル四方くらいの広さの小屋に飼われていたのだ。餌代も馬鹿にならず、可愛いはずの小鳥はとても騒々しい生き物で、その上、到ってテーブルマナーが悪く、餌をそこらじゅう撒き散らし、餌の大半を金網の外に投げ出してしまう生き物であることを知った。
金網の外に飛び出した餌を目当てに他の野生の小鳥が集まり、糞を撒き散らし、結果、鳥小屋の中だけでなく、周囲に不愉快な異臭が漂うのだった。おまけに、インコの類は適切な環境が与えられると、相当な勢いで増えることを知らされた。 
大家さんは、“ゴメス”さんという、その当時でも60歳は優に越していたヴァレンシア人で、鉄鋼建材を扱う、イビサレベルとしては大きな仕事をしている人だった。その上、このコンパウンド(連結したアパート群)に7、8軒のアパートを持っていた。夏の観光客にハイシーズンだけ貸せば、もっともっと儲かるところだが、私のような定住者に年間を通して貸す方を選んでいた。家賃も相場よりも安く、私たちにとってとてもありがたいことだった。
『カサ・デ・バンブー』は、私が借り請ける数年前に“マルキータ”という中国人女性がここでカフェテリアを開き、イビサにやって来るドイツ、イギリス、アメリカの芸術家や芸能人の間に知れ渡る、チョットした有名カフェーだったと、後日、私が店を開いてから聞かされた。
何でもハリウッドだかブロードウェイのスター、“ナンシー・クワン”(The Flower Drum Song;フラワー・ドラム・ソングの女優)はマルキータの娘で、その関係で芸能人が集まったという話だった。私はそんな由緒と前歴を持つ場所を偶然から借りることになったのだった。
老犬アリストもゴメスさんのアパートに住んでいたドイツ人のおばあさん“エヴァ”さんの持ち犬で、エヴァさんが亡くなった後、ゴメスさんがアリストを引き取ったことのようだった。イビサのこの界隈に別荘を持つ人たちや、ゴメス・アパートを年中を通して借りているイビサ常駐組によれば、エヴァさんはゴメスさんの“愛人”だったと言うのだ。
西欧人とりわけラテン系の人たちが、歳を重ねるにつれ枯れていくことがないのに驚く。老齢の人が恋をすることに何のテライもない。イギリスやドイツ、北欧の人々は、恋愛は10代後半から多めに見ても20代半ばまでに掛かる麻疹(ハシカ)のようなもので、40歳を越してから、好きだ惚れたは見苦しいことで、社会的に成長していない人間のやることだ…と思っているフシがある。けだし“ロミオとジュリエット”をティーンエージャーに設定したのは正しく、『アントニーとクレオパトラ』(Antony and Cleopatra)が未だにシェークスピアの作品の中で一番人気がない…ようなのだ。そんな、よじれた社会的規制、偏見が多いから、イギリスのローヤルファミリーや政界にセックススキャンダルがハビコルことになる…のかもしれない。

そこへいくと、ラテン系の人たちは、人間として生まれてきたからには自分の欲望の赴くままに生き、そこに本来の魂の在り方を探るのが人生だと、生まれた時から本能的に感じているように見えるのだ。だから、恋愛感情は一生人間に付きまとう本能に根ざしたもので、到底歳とともに消えてなくなるものではない…と信じているかのようだった。 
我がゴメスさんは晩年の“ジャン・ギャバン”風の容貌を持っており、枯れないタイプだった。『カサ・デ・バンブー』に出入りし、私よりも古くからイビサに住み、その辺の事情をつぶさに知っている人たちは、ゴメスさんとエヴァさんの恋愛を“20世紀最大の恋愛、ただしインポの恋愛が成り立つとすれば”と笑っていたものだ。アリストはゴメスさんがエヴァさんに何かの機会にプレゼントしたということだった。

私は由緒ある場所を借りただけでなく、老いらくの大恋愛?の所産である老犬まで貰うことになったのだ。アリストは『カサ・デ・バンブー』だけでなく、私のアパートを含めたゴメス・コンパウンド全体が自分の持ち物であるかのように振舞った。どこでも自由に出入りし、気ままにどこでも寝込み、近所の住人は皆、「アリスト!」と自国の発音で呼び掛け、頭や背中、尻を撫で、軽くたたいて挨拶するのだった。

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Vara de Rey 大通りの中央にあるモニュメント

私は庭や畑仕事には全く無知だった。イビサの街の中心に、メインのアヴェニューとも言うべき“ヴァラ・デ・レイ”(Vara de Rey)という短い大通りがあり、市が管理している花壇、パルメーラ(palmer;椰子の木の一種)、夾竹桃が貧弱な銅像と噴水を囲むように植えられていた。ある日、そこで木立や花壇の世話をしている庭師を見かけ、思い立ったように庭づくりのために教えを請うたのだ。庭師の爺さんも喜んでこの島で庭を作るコツを教授してくれた。今思えば、庭師に訊くまでもない、当たり前のことばかりなのだが、素直な優等生の生徒としての私は、彼の教えを忠実に実行したのだ。

まず、土だが、これは大枚をはたいて20キロ入りの腐葉土を何袋か買い、すでに硬くなっていた庭の土と混ぜた。パルメーラは少しでも茶色に変色している幹に近い針状の枝葉は根元から思い切りよく削ぎ落とした。パルメーラはなんだか急にやせ細り、頭に数本の羽を付けたインディアンのようになってしまった。
しかし、南国の植物の成長、繁殖力はスザマジイものがあり、掘り起こした木の根元に腐葉土を混ぜ、埋め、後は毎日水さえ与えれば、どれもグングン元気に育つのだった。

心地よい日陰を作ってくれるブドウ棚もあった。剪定などされていなから、蔓がこんがらがり、延び放題で勝手な方向に広がっていたのを、太目の針金を井の字型に張り巡らし、日陰の面積が広がるように、蔓を引っ張り、麻縄で縛り、盛大に枝を払った。所詮、ド素人の俄か庭師の仕事なのだとばかり、思い切りよくバツバツ刈りまくったのだった。
私の庭仕事に一つだけ有利な点があるとすれば、ブドウにしろ、大きなイチジクの木やパルメーラにしろ、良い実をより多く実らせることを全く考慮しなくてよいことだろうか。涼しげな木陰、天蓋を作ってくれればそれでよかったからだ。
ブーゲンビリアの苗木も4、5本買い、植えたところ、これは大変な勢いでどんどん枝を伸ばし、白い壁に這わせると、建物の前部を覆うほどに大成長した。俄か庭師の私は、ちょっと手をかけるだけで勢いを吹き返し、ズイとばかりに成長する南国の草花を目の当たりにし、土いじりに意外な喜びを見出したのだった。
-…つづく

 
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2018年03月15日

高杉晋作の功山寺挙兵


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功山寺

 維新へのタ−ニングポイントは高杉晋作の功山寺挙兵だと思います。
長州藩の藩論は尊王攘夷で正義派が支配していた。下関で外国船に砲撃を加える。天皇の意に沿う攘夷の決行であった。外国船が反撃をしてきたが、これまでの武士では戦闘で役立たないと判明する。それにより、藩は今後の攻撃に備えるために、身分の垣根を越えて人材と兵員を募集せざる負えなくなる。奇兵隊や諸隊ができることになった。外国の脅威に直面したので、長州の庶民にまで郷土防衛意識が高まり、多くの献金や5000人にも及ぶ諸隊員が集まる。

 京都では、長州の尊攘勢力が8.18の政変により駆逐され、その奪回に禁門の変が起こり敗れて、長州は朝敵になる。第1次長州征討の状況になってビビった藩主親子は、藩論を俗論派にゆだねることになった。
 危険を察知した高杉晋作は九州へ逃れた。尾張の征討総督の徳川慶勝と参謀の西郷隆盛は長州と幕府との戦争を嫌い、穏便な配慮による開戦回避工作を進めた。

 野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、正義派家老が切腹させられたことを知り俗論派打倒を決意して馬関に帰還する。高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人です。 諸隊の動きは、藩に解散を命ぜられていたので恭順の姿勢が多数であった。
 晋作は初戦に勝利すると、商人や庄屋層の強い支持を受ける。消極的であった山県有朋の奇兵隊や他の諸隊も晋作側に参加する。最終的には俗論派藩兵を破り、山口に藩主を迎えて武備恭順の政策を藩に取らせることになる。

  昭和14年(1939)に97歳で没した松下村塾出身の渡辺蒿蔵・天野清三郎は。「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、高杉にはどうもならぬと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多しと語り残している。
 それでも禁門の変で人材を失い、俗論派を打ち破るには高杉の人物とその個性があってこそです。功山寺挙兵の時の絶望的な状況での高杉の決断がなければ、明治はもっと遅れて、奇兵隊的なものでは無くて薩摩的な侍文化を引きずったものになっていたでしょう。

 晋作は250石の上級武士ゆえにその生い立ちを引きずるものがありました。功山寺挙兵の諸隊幹部への演説で「 元が土百姓である奇兵隊総督・赤禰武人に騙されていると言い、さらに自分を毛利三百年来の家臣であり、赤禰ごときと比べられては困ると叫んだ。そして「願わくば従来の高誼に対して、予に一匹の馬を貸してくれ。予はそれに騎して萩の君公のもとへ行き直諌する。一里を行けば一里の忠を尽くし、二里を行けば二里の義を尽くす」と絶叫した。」下級武士である山縣や農工商身分の諸隊幹部たちにとって、毛利家家臣を強調する演説では士気を鼓舞出来ず、決起の賛同者を得ることは出来なかった。それで、わずかな80名余の賛同者と決起することになった。

 商品経済の発展と伴に成長して村々を支配してきた庄屋・豪農クラスの今回の挙兵への大きな支持を得て、彼らの資金と人により高杉は俗論派に勝利することができた。封建的な俗論派の政策は庄屋らには耐えられないものであった。 高杉が負けたなら、自分たちで一揆をおこして戦う、という程の庄屋が幕末には出現していました。
 勝利した後も高杉は生い立ちに捕らわれていて、諸隊を掌握できずに、活躍した諸隊を藩士で構成される干城隊が諸隊を指導・統制する体制にしたいと思っていた。 最後は諦めて統理の地位を辞し無役となり、伊藤と英国留学を考えるまでになる。 長州は身分ではなく能力主義を採用して、大村の指導の下で諸隊を中心に軍備を整え、第2次長州征討を勝利する。勝てなかった幕府はその後に討幕されて明治の代に進んでいく。

 高杉の考えていた奇兵隊ではなく、それを支えた庶民的な奇兵隊が明治を切り開いていく。長州のその軍政が明治の徴兵制への道になる。西郷の強力な押しが無ければ徴兵制が成立しなかったかもしれないけれど、西郷も高杉もそれの意味するところは分かっていなかったのかもしれない。両人ともそれぞれの時点で、歴史の転換には彼らの力を必要とした。
 西欧列強に対してサムライのままの体制では伍していくのは難しかったことでしょう。サムライが築いた維新ですが、それには武士の終焉を必要とした。


関連年表

文久3年・1863
 5/10  長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限であった。
 6/6   高杉は奇兵隊結成(藩命?)
 8/16  藩の正規兵である撰鋒隊が長州藩諸隊の奇兵隊と衝突し撰鋒隊士
が斬殺された事件により晋作は奇兵隊総督を解任される。
 8/18  8・18の政変

元治元年・1864
 7/13 井上聞多と伊藤博文 英国から帰国
 7/19  禁門の変
 7/23  長州追討の勅命下る。
 8/5  四国艦隊下関砲撃
 8/14  井上は高杉に従い講和条約締結
 9/25  井上聞多武備恭順を説く、暴徒に襲われ重傷を負う
 9/26  周布正之助が自殺
 10/21  諸隊の解散を命令
 10/23  高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出
 10/29  高杉は白石正一郎宅で九州諸藩の浪士と会談
 11/10  高杉は九州で同氏を得る目標に失敗、野村望東尼の下で潜伏
 11/11  俗論派は幕府へののため正義派三家老の福原元|、益田親施、国司親相を切腹させた。
 11/15  諸隊は五卿を同行して長府藩へ向かう
 11/16  長軍総督尾張藩主徳川慶勝が広島に着陣する。
 11/17  功山寺を五卿の滞在所とする。尚義隊・忠勇隊や残余の諸隊が集合
 11/18  征長軍は幕府・朝廷へ詳報と開戦時期延期を伝えた。
 11/20  九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。
      高杉は三家老切腹を知る。帰還して俗論派打倒を決意する。
 11/25  高杉が筑前より馬関へ帰還。
 12/8  赤禰武人が萩より長府へ帰還。諸隊の恭順を提案。一部の諸隊は受け入れた模様。
 12/12 五卿は衆議した後、九州行きに同意した。
 12/13 高杉の挙兵計画に諸隊幹部は反対した。
 12/15 高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と
        石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人

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高杉晋作挙兵像(功山寺境内)
     
 12/16  下関新地会所を襲撃、食料金銭は得られず。豪商らのから2千両借、周辺住民が120人志願。
 12/19  渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、 
      松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。
         (甲子殉難十一烈士)
 12/26  長州海軍を説得して3隻を手に入れる。
 12/27  征長軍に解兵令、高杉は吉富藤兵衛に井上聞多の奪還と献金を依頼
         
 慶応元年・1865

1/2  伊崎会所襲撃
1/6  絵堂の戦い、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊
     山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派
     の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した
     状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。
 1/9  井上聞多奪還、吉富200人を連れて御楯隊に参加した。
 1/10  太田にて藩政府軍を撃退した。
 1/11  太田にて再度撃退。高杉と伊藤は諸隊が立ち上がり勝利したのを  
      喜ぶ。馬関の力士隊・遊撃隊を伊佐へ進め合流する決定をした。
 1/14  呑水峠(のみずたお)で大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍   
      の撃退に成功する。 同日、高杉らが合流し諸隊の士気は上がる。
     三條実美以下五卿が馬関より渡海した。

1/16   高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を
率いて絵堂方面より進んだ。粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこ
れを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。

1/18   山口を拠点とした御楯隊(鴻城軍)は、萩へ続く要所である佐々
並の藩政府軍を襲撃. 俗論派が鎮撫の名のもとに藩主敬親自身を出
馬させることを危惧していた。 高杉は、非常時に議論に明け暮れる
のは大馬鹿者であると言い、藩主父子が出馬するなら周囲に従う兵
を全て打倒し藩主父子を諸隊陣営に迎え入れればよいと答えた。
馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。 諸隊
には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の
人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や豪商は兵糧
や多額の金銭を積極的に寄附した。萩を除く防長すべてを正義派で
ある諸隊が掌握するようになる。

1/30   奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開
始した。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。

2/5  藩政府は萩城内の戒厳を解いた。

2/9   藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。 毛利元周は諸隊追討
を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図る
べきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。

2/14   奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷
へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進
軍し、萩城周辺を制圧した。俗論派の幹部らは逃亡した。 、諸隊は
萩城へ入城する。 高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。
逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉
えられた。

2/22   敬親父子は維新の政治を敷くことを誓った。
2/28   敬親父子は山口に帰る
3/17  敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針
     を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。

慶応2年・1866
 1/21  薩長同盟
 6/7   四境の役・大島口の戦い

   2018-3-11


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2018年03月13日

商社示談箇条書


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関連年表

1861・万延2 8/11  白石正一郎は薩摩藩の御用達になる 
1863・文久3 8/18   8.18の政変
1864・元治元年 7/19  禁門の変
        12/15  功山寺挙兵
1865・慶応元年 
1866・慶応2年 1/21  薩長同盟
        9/2   勝海舟と広沢真臣が幕長休戦協定を結ぶ
        11/某日   商社示談箇条書

 安政4年・1857 11/12に下関の白石正一郎宅に西郷隆盛が立ち寄り泊まっている。白石正一郎の日記を読むと薩摩との濃密な交流がうかがえる。馬関・下関は地理的に薩摩は参勤交代や上方との往来で利用しなければならない位置にあった。情報報告のための薩摩の藩船をここに係留しており、その扱いの駐在藩士・苫船新役が下関にはいた。
 天保末期には、商品経済の発達に伴い各藩は特産品の扱いを重視するようになり、いままで大阪に送られていた商品が、反権力の手中に握られ、需要先に直送されるために減少する。その商品の取引拠点として下関が注目されていた。村田清風の改革で越荷方を拡大強化した理由であった。それゆえに薩摩と長州の交易は盛んになりつつあった。

白石正一郎日記・現代語訳
  http://www.shiraishilo.com/entry14.html

 8・18の政変で長州は朝廷から遠ざけられて薩摩を薩賊と呼ぶほどに薩長の関係は悪化するが、薩長同盟の締結に伴い、11月に坂本龍馬は、五代才助を伴い下関に行き広沢真臣と、商社示談箇条書を結びました。 馬関を中心にして日本中の産物を残らず買い付けて大阪に運ぶことにより大商売を行おうという趣旨です。日本の市場を握ろうというのである。薩長同盟の軍事同盟とすればこの箇条書きは経済の基礎固めであった。

商社示談箇条書
一、商社の盟約はお互いの藩名をあらわさないで商家の名号を唱えること。
 一、同社中の印鑑は互いに取替えておくこと。
 一、商社組合の上は、互いに出入帳をもって公明に計算をし、損益は折半とすること。
 一、荷物船三、四隻を備え、薩藩の名号にして薩藩の旗を立てること。
 一、馬関の通船は、品物によらず上下とも差止め、たとえ通行させなければならない船であっても、
    まだ改めがすまないからといって引止めておく。これはこの商社のもっとも緊要な眼目であること。
 一、馬関通船の場合は、二十五日前に商社に通信すること。

幕末長州藩関係年表
http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/bunka-s/ishin/nenpyo.html

   2018-3-13







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2018年03月11日

乙丑の獄(いっちゅうのごく)


 維新では薩長土肥ばかりが有名になり芸州藩や福岡藩の動きはあまり注目されておりません。

 黒田如水の福岡藩は外様大名であり52万国の雄藩である。幕末には島津重豪の13男黒田長溥(くろだ ながひろ)が藩主となる。実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。
 幕末には尊王攘夷派の筑前勤皇党が主力を占めていて、彼らは第1次長州征討の回避工作に奔走した。その際に長州に居た五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角と言われるようになった。

 黒田長溥が幕府にそのことを責められていた。幕府が第二次長州征討を決定した結果、福岡藩では先の勤王派の周旋は否定され、藩論が佐幕に傾く。長州の俗論派の台頭のようなものである。勤王派の多くが逮捕され家老・加藤司書をはじめ7名が切腹、月形洗蔵ら15名が斬首、野村望東尼ら15名が流刑となった乙丑の獄により筑前勤王党は壊滅した。
 この150名にも及ぶ大弾圧の結果戊辰戦争の際には兵を率いる人材が全くおらず、失態を重ねて廃藩置県を待たずに廃藩となる。遠島や謹慎の処分にしておけば良かったと言ってみても手遅れです。

切腹 以下7名

加藤司書 1830-65
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2800石の中老、プチャ−チン警備に当たる。「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という親書を提出し、征長軍解散を決めさせることに成功する。西郷吉之助や高杉晋作と密談を行い、薩長同盟の実現に向けて活動。

斉藤五六郎

建部武彦 1820-65
700石の中級武士、第一次長州征討に際して福岡藩の尊皇攘夷派は、国内戦争を回避するため、長州藩に謝罪恭順と薩長和解を求める周旋活動を行った。

衣非茂記
尾崎惣左衛門
万代十兵衛
森安平

斬首 以下15名
月形洗蔵 1828-65
第一次長州征討において征討中止に貢献した。五卿が太宰府天満宮に移る際、これを下関まで迎えに行き案内した。

梅津幸一
鷹取養巴
森勤作
江上栄之進
伊藤清兵衛
安田喜八郎
今中祐十郎
今中作兵衛
中村哲蔵
瀬口三兵衛
佐座謙三郎
大神壱岐
伊丹信一郎
筑紫衛

流刑 

野村望東尼 1806-67
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勤皇歌人、勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。月照や高杉晋作らをかくまう。

野村助作

   2018-3-13

   薩土盟約  御手洗4藩軍事同盟



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2018年03月09日

イビザ物語 10回 ヴィッキー 9 佐野

   “コルネリアからの絵葉書”

 その当時(1988年頃)、『カサ・デ・バンブー』一帯、ロス・モリーノス地区には電話がなかった。郵便すら配達がなく、局留めにしていた。スペイン全体の郵便システムのせいか、イビザの局、しかも余所者ばかりが利用する局留めのせいか、郵便物受取率は50%と言われていた。長距離電話、マドリッド、バルセローナに電話するにも、郵便局の一角に間借りしているように三つ並んだ電話ボックスの順番を待ち、その上に、短い通話でも恐ろしく高い通話料金を請求されるのだった。
 
 イビサ、ロス・モリーノス、『カサ・デ・バンブー』、そして私の名前だけの宛先で、大きな絵葉書が届いたのは奇跡に近いことだった。おまけにその絵葉書は、ヴィッキーと同居していたコルネリアがタイから送ってきたものだったからだ。
お別れの挨拶もせずに、急にドイツに帰り、ごめんなさい。ヴィッキーとの共同生活に耐えられなくなり、急にイビサ脱出を決めてしまった。元々、旅行が好きなのでツアーコンダクターの仕事に就いた。ドイツからの“マジックバス”(主に若者向けの激安バスツアー)の添乗員として、タイに着いたところだ…云々とあった。
コルネリアと旅行好き、貧乏を厭わないスタイルという一点で意気投合し、話し込んだことがあったから、彼女も近況を私に報告したくなったのだろう。 
 手紙が『カサ・デ・バンブー』、タケシ宛で届いたのは奇跡ではなく、郵便局で働いているイビセンカ、イビセンコ・カップルがよく店に来ていて、懇意にしていたからだった。そのうち、日本語、何語か判別のできない手紙は、すべて私のところへくるようになってしまったのだが…。そんな郵便事情で、コルネリアとの文通(実に古臭い響きだ)は続いた。
絵葉書や少し長めの手紙がインド、南米、バリ島から届き、私のオフシーズンの旅行計画に火を付けた。どこかでコルネリアに偶然会うのではと、夢想するだけで楽しいことだった。もちろん、人生にそんな偶然などあり得ないのだが…。 

 手紙のやり取りの中で、ヴィッキーに触れたのは一通だけだった。ヴィッキーの虚言癖は天性のもので、すぐに元が割れてしまうことでも右から左へと、ただ話を面白くするためだけでウソをつく、それが自分を良く見せるためのこともあるが、逆に彼女自身を貶めることもあり、何を基準にウソやデタラメを語っているのか分からないほどだったと、コルネリアの手紙にあった。
自分の根を断ち切ってイビサのような避暑地に働きに来る人、とりわけイビサに住み、居座っている人たち、スペイン本土からの人たちや外国人らが、自分の過去を語る時、大いにホラを吹くことは気づいていた。ヴィッキーが“テアトロ・リセウ”(カタルーニア州立オペラ劇場)の主役だったタグイのウソは、まだ罪のないホラ話だったのだ。
また、コルネリアはヴィッキーが常に誰かと一緒にいなければ、そして、彼女の話を聞いてくれる人がいなければ落ち込んでしまうタイプだとも書いてきた。
 私自身も気づいてはいたが、彼女が誕生パーティーに招待した人たちも、友達と呼べるほどの関係ではなく、何かのコネでマリファナを手に入れるのが巧みで、ヴィッキーにとっては格好のマリファナ供給者や、物質的にも肉体においても気前のよいヴィッキーを半ば食い物にしていた者たちだったと思う。


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 イビサはディスコで昔から名高く、空いた壁にはパーティー告知ポスター


 イビサは蠱惑(こわく)的な島だ。燦燦と降り注ぐ太陽、ビーチパーティー、そして夕方ともなれば汗とサンオイルを洗い流し、イビサファッションに身を固め、ディスコに繰り出す、そこには新しい出会いが待っている…というわけだ。若い女性なら、無一文で島に来ても、金回りのよい男どもを捕まえるのは容易なことだ。期限付きスポンサーがすぐに見つかるのだ。見返りは彼女らの若さと肉体だ。
ドイツ、イギリス、北欧から3、4週間のバカンスを過ごしに島に来る人たちは、クレイジーな連日のパーティーのために1年の残りの11ヵ月働き通してきたことを、ヴィッキーのような女性らは忘れてしまうのだ。彼女らは避暑客の乱痴気パーティーに加わり、それを夏の間じゅう続くものだと思ってしまうのだ。
 そこに、イビサという島が持つ危険性がある。イビサでの長い夏は一連のパーティーだと勘違いしてしまうのだ。若い時にイビサに身を置くということは、崖っぷちの天国にいるようなものなのだ。故郷の地では手に入らないドラッグ、そしてアルコール、モラルなんて言葉は薬にしたくもないセックス三昧が許されるのだ…。
 私はヴィッキー、あるいはヴィッキーのようなパーティーガールを嫌ってはいたが、彼女を憎んではいなかったと思う。イビサに溺れ、破滅した小さな魂に哀れみの感情を抱きこそすれ、憎しみの情が沸かなかったことに自分でも驚いたくらいだ。 

 ただ、自分の人を見る目のなさ、甘さを深く自省した。


-…つづく

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   2018-3-9


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2018年03月05日

プロダクトキーを入力


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 ノートパソコンの調子がおかしくなり新しく購入しました。 オフィス同梱のモデルにしました。ウィンドウズ10の設定を終えて、初めてワ−ドを使うためにプロダクトキーの入力が要求されます。そこで0ゼロと0オ−を含む25字のキ−を何度入力しても不可です。ゼロとオ−は4種の組み合わせがありますがすべてダメでした。 メーカ−のサポ−トに電話して30分以上待たされても担当に続がらず、2日に渡り何度も電話した。電話の手段をあきらめてメ−ルをしました。その返答が下記のものです。

【Microsoft Office プロダクトキーの注意点】

1).プロダクトキーには、数字の「1 、5、 0」とアルファベットの「 A、
  E、 I、 L、 O、 S、U、 Z」は使用されていません

2).数字の「8」と英語の「B」や英語の「O(オー)」と「Q」は間違いや
  すいので、あらためてご確認下さい。

  ※「O(オー)」は使用しませんので、英語の「Q」となります。

 マイクロソフトのキ−が印刷部分が小さすぎゼロと読める部分がQキュ−であったのが間違えた原因でした。
サポ−トへの連絡前に、連れ合いにキ−を読んでもらいましたがQキュ−とは読めませんでした。マイクロソフトも大きく表示してもらいたいものです。こんな苦情はゴマンとあると予想されますが、直す気がないのでしょうね。

    2018-3-5

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2018年03月03日

第2次 薩摩米国留学生


 1865年・慶応元年4月に薩摩藩の英国留学生が出発した。翌年3月に6名の米国留学生が英国を経由してアメリカに渡った。
 今回の派遣された人に精忠組のメンバ−3人がいる。寺田屋事件の鎮圧側と処罰を受けた人間も加わることになる。
 第1次渡英組で、ハリスを頼って渡米した6人(森・鮫島・松村・畠山・吉田・長沢)は、アメリカで仁礼たち、この第2次メンバ−と再会することになります。
 渡米のメンバ−のなかで自殺者も帰国してすぐに亡くなるものがでるが、明治初期の海軍創設メンバ−や北海道牧畜に貢献した人、初代日銀総裁など明治勃興期になって活躍する人物がこの中から出る。



江夏蘇助(1831 - 1870)
変名は久松。名は、栄方、壮助、仲左衛門など。剣士として知られ、鎮撫使として送られた寺田屋事件、精忠組の一員。産物方書役から御供御徒目付役。仁礼と共に慶応4年9月に帰国する。明治3年4月に東京浜町の旅館で死亡。

仁礼景範(1831 - 1900)
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精忠組の一員。海軍大臣、軍令部総長、枢密顧問官などを歴任。


湯地定基(1843 - 1928)
明治4年帰国、開拓使に出仕、北海道で農業、牧畜を進めた。根室県令、元老院議官、貴族院勅選議員などを歴任。


吉原重俊(1845 - 1887)
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寺田屋事件で年少で謹慎、精忠組の一員。明治6年帰国、税関局長、租税局長、初代日銀総裁などを歴任。


種子島敬助(1844 - )
 吉原重俊と共にモンソンアカデミーを卒業するが、その後1年同校に残る。他の日本人留学生よりもギリシャ、ラテン文学などに興味を持ち、病気のためヨーロッパへ向かい、その後日本へ帰国した。


木藤市助(? - 1867)
変名は芦原周平。上記の5名に先立ってアメリカへ到着し、現地の準備を進める。しかし、現地で首つり自殺しているのが見つかった。

   2018-3-3




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2018年03月02日

イビザ物語 9回  佐野

 ヴィッキー その8
“変わり果てた姿”

 
 このようなことを一人称で書くことと、あるがままに起こったように書くことの間には大きなギャップがある。私小説に付きまとう自己弁護の隠微さが付きまとい、所詮あるがままに書くというのは絵に描いた餅だなと思い知らされるのだ。

 ヴィッキーは私の耳元をくすぐるように精一杯甘い声で、「タケシ、タケシ」とささやきながら、私に身体を擦り付けてきたのだ。私の方はといえば、闖入者がヴィッキーだと分かってから、彼女をベッドから蹴落とすことも、思い切りよく彼女にのしかかることもせず、狸寝入りを決め込み、彼女に背を向けたのだ。
彼女は酒臭い息を吐きながら、口髭…そうなのだ、西欧の女性たちは脛毛を頻繁に剃る割に、顔にカミソリを当てることがなく、唇の周りに薄っすらと、中老年になるとワッサリと口髭をはやしているのだが、私の耳から、首筋を這うように彷徨うのだ。
 その時、部屋には5、6人の居候が寝ていたと思う。ベッドから1メートルと離れていないところに雑魚寝している人間がいるのだ。それを承知の上で、ヴィッキーは夜這いをかけてきたのだ。
私とヴィッキーの間にはかなりの金額に及ぶツケ、未支払いのパーティー費用が横たわっていたが、私はヴィッキーがそのツケを“カラダで支払おう”としたのではないと思う。ただ単に酔い、マリファナで朦朧とした頭で、思い付いたように私のところに来ただけだと思う。
 彼女は私の身体に摩るように手を回し、勃起していた私のモノを的確に握ってきたのだ。自分の意思とは別に、身体の一部だけがどうしようもなく反応していたのだ。かろうじて…というのは当たらない。初めから私は泥酔したヴィッキーに嫌悪を抱いていたし、その行為に及ぶ可能性はなかったと思う。だが一方で、始末に終えないくらい勃起していたのも事実なのだ…。
 私の性器に纏わり付くヴィッキーの手首を掴み、精一杯の抵抗で、「ヴィッキー、ノー!」と言ったのだ。その時部屋にいて、寝ているはずの全員が一部始終を耳にしており、私がどう出るか耳をソバダテていたと後で知った。そのうちの一人が、「据え膳食わぬはナントカ…と言うけど、ありゃウソだな、食いたくないお膳だってあるわな」と、慰めにもならない言葉を翌朝かけてくれたことだ。
さっぱり乗ってこない私に疲れたのか、酔いが回り過ぎたのか、ヴィッキーはイギタナクという表現がピッタリと当てはまる、猛イビキをかいて寝込んでしまったのだ。私はといえば、一秒でも早く彼女から離れたい一心で、ベッドを出て、店に行きベンチで寝たのだった。
以来、ますます酔っ払いに、とりわけ女性の酔った、あるいは酔ったふりをしての醜態に生理的嫌悪を催すようになった。 

 夜這い事件以降、ヴィッキーの足が遠のいた…と言いたいところだが、彼女はツケのことも、その夜のことも全く忘れてしまったかのように平然と『カサ・デ・バンブー』を訪れ、コーヒーを飲み、閉店間際に現金を握り締め、ウォッカ、ジンを買いに来た。
 私の対応は、他の常連に見透かされるほど、彼女に対してヨソヨソしくなり、嫌悪感を露骨に顔に表わしていた…と指摘されるほどだった。『カサ・デ・バンブー』の常連はお互いに顔見知り以上の仲になっていたから、夜這いのことは知らなかったにせよ、何かあったと感付いていたはずだ。

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イビサ中心街にある2軒の老舗カフェテリア(1988年撮影)

 イビサの観光シーズンはセマナ・サンタ(聖週間、イースター)前に開き、10月一杯で終わる。まだ店を開いていた時期だったか、すでに閉めていたのかはっきり思い出せないが、10月の中頃だったと思う。スペインのレジデンシア(Residencia:在留許可証と労働許可証が一緒になったもの)の更新のために郵便局の裏通りにある警察署の2階を訪れた時に、ヴィッキーに出くわした。
私はもうとっくに、ヴィッキーからツケを払って貰おうという幻想は捨てていた。洗い場のカルメンおばさんの言うように、客筋を見極めなければならないと肝に銘じ、高い授業料を払ったと諦めていたからだ。
ヴィッキーは警察署の粗末な木のベンチに腰掛けていたのだが、私は彼女が声にならない、喉から搾り出すような擦れた呻き声で、「タケシ、タケシ」と呼び掛けられなかったら、声の主がヴィッキーだとは気づかなかったろう。それほど彼女は変わり果てていたのだ。
 ほんの5、6ヵ月前の春先には、はち切れんばかりの若さと、針で刺したらパーンと弾けるように顔も体もどこもかしこも張り切っていたのだが、すべてが恐ろしいばかりに壊滅されていたのだ。 
銀色かかった金髪に染めていた髪の毛は、頭皮から15センチ以上も地色の麻色のままで、ほつれた精気のないボサボサの髪はもう長いこと洗ったことも、櫛を入れたことがないのは明らかだった。
ツヤツヤ輝き、若さの象徴と思えた丸い頬はカサカサに乾き、病的に腫れ上がっているのだ。私は、普段の仏頂面をつくるのを忘れ、「オラ、ケタル?(元気かい)ヴィッキー、その後の調子はどうだ?」と歩み寄ったのだった。その時、ヴィッキーは立ち上がろうとモガイているのに気が付いた。横に松葉杖が2本立て掛けてあり、それを掴んで立ち上がろうとしたのだ。 

 ヴィッキーの脇にいた、薄いアコーディオン型の書類入れを膝に載せた、ハゲなのに少ない髪を集めてポニーテイルにしたオヤジがヴィッキーの脇の下に手を入れ、抱きかかえるように立ち上がらせたのだった。
座っている時には気がつかなかったが、ヴィッキーの身体は不健康に膨れていた。あと一歩で転がった方が早いほどのダルマ体形になっていたのだ。松葉杖を脇に入れてもユラユラと前後左右に揺れ、立っているのがやっとという状態だった。まさに、急な坂を転げ落ちるような変わりようだった。 
ヴィッキーの隣にいた猫背、ハゲ、ポニーテイルのオヤジは弁護士で、多少、英語とドイツ語ができるので、外人相手にスペイン政府へ関係書類を提出したり、レストラン、バーの営業許可証や不法超過滞在、主にマリファナ不法所持弁護などの雑務をこなしているのは知っていた。我々のようにスペイン語で公式書類を読めない、書けない外人がイビサで直面するコモゴモの問題を引き受けてくれるのだ。
『カサ・デ・バンブー』にも何度か顔を見せていたし、彼自身(フェルナンド・ペレーという名だった)、イビサの外人たちの中ではチョット名が知られている存在だった。実際にフェルナンドがどのくらい強力なコネを持っているのかは分からないまま、何でもイビサの警察、政府に自称強力なコネがあるから、面倒なことは彼に頼めば解決してくれる…というのが売りだった。 
 一度立ち上がったヴィッキーは、すぐによろけるように元のベンチに座り込んだ。元々小さい目は焦点が定まらなく、三白眼の白目の部分はまっ黄色に淀み、乱れた髪と相まって、顔色の悪い太った妖怪のようだった。
 受付を待つ間、フェルナンドの語ったところによると、ヴィッキーたちがアパートの家賃を5ヵ月も払わないのに業を煮やした大家さんが彼女を訴えて出て、警察の立会いの下で強制的な立ち退きを執行した。その時、目をツブルには多すぎるマリファナが見つかり、“ペンション・コンプレート”(Pension completo:三食付ホテル=この場合“留置所”のこと)のご招待で二晩過ごしていたのを、今日、身請けに来たということだった。
 ヴィッキーのすぐ横でそんな話をしても、彼女は視界が定まらず、心ここにあらずの態で、聞こえてるのだろうけど、何の反応も示さなかった。それが、ヴィッキーを見た最後になった。
『カサ・デ・バンブー』の常連たちの間でごくたまにヴィッキーがウワサに上ることはあったが、私としては、早く忘れたい苦い経験だった。ヴィッキーは実家のあるバルセローナに送り返されるように帰ったということだった。 

 後日、『カサ・デ・バンブー』のカウンター越しに座った常連の一人に、ヴィッキーはカタルーニャ州立オペラ劇場の俳優で、アンチゴーネの主役を演じたらしいね…と言ったところ、演劇界をよく知っているというより、名の知れたその演出家が、一瞬キョトンした表情で…、「エッ、そりゃ小学校の学芸会でのこったろう。ヴィッキーがリセウ(Gran Teatro del Liceu:カタルーニャ州立オペラ大劇場)のアンチゴーネなら、オレはマーロン・ブランドかポール・ニューマンだよ」と笑いながら言ったのだ。
-…つづく

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   2018-3-2



 
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