2018年04月30日

周布政之助・兼翼(かねすけ)



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1823-1864

 略歴
 周布吉左衛門兼正(219石)の5男として生まれる。生後6か月で相続。藩校で学んだ。 若いころは来原良蔵や松島剛蔵らと結社を作り政治改革を論じる。1847年に椋梨藤太の添え役として抜擢される。そのことは、彼は天保の藩政財政改革を行った村田清風の影響を受けていたが、藩政の主導権争いで坪井九右衛門派の椋梨(後の俗論派)との連立政権を意味していたという。 1853年政務役筆頭となり、財政改革、殖産興業、軍制改革に尽力。桂小五郎、高杉晋作、松陰の門下生を中枢に登用した。
 1858年には、松陰が老中の間部詮勝を暗殺する許可を求めたため牢にいれる。1862年には藩論が長井雅楽の開国・公武合体策の航海遠略策になることを同意。彼は久坂玄瑞に説得されて、攘夷を唱えたが、下関戦争で穏便に講和したことから、俗論・正義派の両者から責められる。高杉晋作と共に暴発を抑えようとしたが失敗。禁門の変が起こる。1864年9月26日、第1次長州征伐が起ころうとしていたころ庄屋吉富簡一宅でひっそりと切腹した。責任を感じてと言われるが、俗論派から斬首されたかもしれない。
 周布正之助が切腹して12月16日・三か月後には高杉の功山寺挙兵が起きるので彼は本当に惜しまれる存在です。

 長州が明治の陸軍を主導して先の敗戦まで至る。彼は奇兵隊の創設に関わり、後まで大きく歴史に影響を与える。奇兵隊では読書が重視されて軍事訓練だけでなく、志の育成にも重きが置かれた。しかし明治以降の徴兵された兵士にはその伝統は受け継がれなかった。

 文久三年二月、麻田公輔(周布政之助)は、外圧の危機に対処するためには民衆の武装化がなによりも必要であることを、小銃局の設置に関連させてつぎのように述べていた。

 「小銃局が追々設立されるよし、大変喜んでおります。 器械が乏しくては、戦わない以前に外夷のあなどりを受けますので、丹誠を尽して器械の製造を一途にはかり、防長二州中にこと足りるようにしたいものです。……
 国中の要地要津に大小銃が充満すれば、一先ず外夷を圧倒する手立てとは相成るでしょう。
 人民は五、六ヵ月執業させれば一個の士とはなりますけれども、器械を与えなければ執業の目途も立ちません。
 ましてや竹槍をもたせ、死生の間に立たせて働かすようでは、上はお慈悲に欠けるというものです。
 何とぞ製造局において器械を十分準備し、国中の人民およそ七十万のうち三十五万は婦女、十七万五千は老幼の男子、残り十七万五千の壮年の男子へ引当てる大砲・小銃を整えておくことが、この上なく大切なことと存じます。
 外夷には竹槍ではなく、大砲や小銃などの器械で武装させよ」(田中彰著の幕末の長州より)

 敗戦前の本土決戦では小銃さえ満足に配布できずに、竹やりで外夷に立ち向かうことを平気で思っていた参謀本部がいたことは、幕末以来の周布の心を受け継いできていない長州陸軍閥の悪いところでしょう。
 桂小五郎や高杉晋作、伊藤俊輔などをかばいかくまって維新に貢献させた周布の業績は多大なものです。彼が生きていれば違った歴史に変わったでしょう。

   2018-4-30

  船中発策  維新英傑 まとめ



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2018年04月28日

イビザ物語 17   佐野


   ギュンターとドイツ人たち その4

ジャーナリストのヘニングが、カメラマンともう一人、出版社の人を連れてやってきたのは、シーズンの終わり近くだった。私はヘニングとの取材の約束などすっかり忘れていた。撮影、取材の期日を数日後に決めた。もう暇な季節になっていたので、テーブルを占拠されても、来年のシーズンに向けての宣伝だと思えば、私の方も“ジンギスカン”という料理名の由来、タレの作り方、北海道の名物であることなど、積極的に協力した。

カメラマンはこのような食べ物専門らしく、肉に薄く油を塗り、輝きを増し、いかにも新鮮に見せるトリックやシャンペングラスに汗をかかせるやり方などを心得ていて、イチイチ指示してきた。

確かその翌年のシーズン初めだったと思う。ヘニングが突然、ぶらりと現れ、本ができたぞと一冊進呈してくれたのだった。300ページ近くあるハードカバーの豪華本で、地中海キュイジーヌ(料理)の総集編だった。その中に、これが『カサ・デ・バンブー』なのか、これが私がでっち上げたジンギスカンなのかと、我が目を疑うほど美しい店の写真と思わずツバが湧くほど美味しそうな料理が、カラーグラビアで4ページにわたり紹介されていたのだ。

驚いたのは、他に取り上げられているレストランが俗に言う老舗、名店ばかりだったことだ。 『カサ・デ・バンブー』はとてもじゃないが、それらのレストランと肩を並べる存在でないことは、私自身はっきりと分かっていた。それにしても、このロケーションは申し分ないのだから、チョット工夫し、手の込んだ、またはユニークな料理、サービスをすれば、結構良い線まで行けるのではないかと、食べ物商売に意外なヤリガイを見出したのだった。

ギュンターが招待した客の中に、『カサ・デ・バンブー』の紹介、宣伝に一役買ってくれたヘニングのようなジャーナリストがいたことは幸運だった。その意味でも、ギュンターは『カサ・デ・バンブー』に大いに貢献してくれたと言ってよい。

おかしなことだが、このヘニングの本がキッカケになった…と想像しているのだが、他の雑誌や新聞でも取り上げられることが多くなったのだ。それがどれだけ宣伝効果があったのか、まるでなかったのか見極めはつかないのだが…。


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シーズン最盛期のカサ・デ・バンブー。満席になるとキッチンが大変なことに…


ギュンターは長い夏休み、クリスマス休暇、セマナサンタの年に3回は欠かさずイビサのアパートにやってきた。その他にも、自分が監督する次の公演のシナリオ、テキストの構想を練り、仕上げるためにもイビサに来ていた。

どのような仕事でも、長年働いていると、早く仕事を辞め、引退し、気ままな年金暮らしに憧れるものなのだろう。引退を控えていたギュンターは、私に年金の額と預金に付く利子などの具体的な金額をあげ、これでイビサで十分暮らせるだろうかと、真剣に相談してきたのだ。

私は彼の率直さに感動した。その金額は、私には十分以上のものに思えたが、毎晩、レストランで食べ、その後バーをハシゴするにはどうかなという微妙な金額だった。そのことをギュンターに告げたところ、他に不定期のアルバイト的な仕事が彼が望みさえすれば相当あるので、イビサで引退した後も、当分演劇から離れず副収入の道はあるとのことだった。

当時、スペインは明確なECの枠組みには入っておらず、プロセスの段階だったように記憶している。ドイツ人、イギリス人などがスペインに永住するのは容易になっていたが、引退と同時に引っ越す場合、一回のみ家財道具などを関税なしでスペインに持ち込むことができるという制限がまだ残っていた。その後、ECの国々の人がを旅をしたり、住むのも、物流も自由になり、垣根が完全に取り払われることになるのだが、ギュンターが引退し、イビサ永住を決めた時、どこからの情報だろうか、一回限りの引越し荷物は無税だということになっていた。 

当然のことのように、ギュンターは私を頼りにしていた。小型のトラックでケルンからイビサまでの輸送、積み込み、そして車が入り込めないロスモリーノスのアパートへの荷揚げを私に頼んできたのだ。春から秋にかけての観光ハイシーズン中は、私が店を離れることはできないのをギュンターは十分承知していたから、店を閉めた後、クリスマス前の間ならどうか、と打診してきた。 

イビサで避暑客、観光客相手の仕事をしている人々は、夏場の6ヵ月間、一日の休みも取らずに働く。だからオフシーズンに入り、店、レストランを閉めたとなると、ウェイター、コック、ホテルの使用人、私のような小さなショーバイのオーナー、テキヤの連中も、スワッとばかり島を離れ、思い思いの場所へ出かける。スペイン南部アンダルシアからの出稼ぎ組は、故郷の町や村に帰り、テキヤ連中は翌年の仕入れを兼ね、インドやバリ島に足を伸ばすのだった。冬のバリ島には、イビサのテキヤ組が勢揃いするとまで言われていた。

私も半年の稼ぎを懐に、毎年4、5ヵ月間、地域を決めて旅していた。バックパッカー時代より相当金回りも良くなり、赤貧ヒッチハイカーから脱出し、格安航空機や列車、バスを利用し、B&Bやペンションなどの安宿に泊まり歩く貧乏旅行を楽しみにしていた。というより、そのために夏場の6ヵ月を何とか頑張り通したと言える。

駆け足のヒッチハイクではなく、冬の一シーズンはインド、ネパール、次の年はウェールズとアイルランド、その次の年はまだ共産圏だった東ドイツ、ポーランド、チェコ、ハンガリー、次はギリシャ、次はメキシコなどで過ごしたのだった。おまけに、まだ勢いのあったパンナム(PAN AM)の世界一周切符で地球一回りも実現した。そして、春先、『カサ・デ・バンブー』の開店2、3週間前に、空になったポケットでイビサに帰り着き、開店の準備に取り掛かるのが恒例になっていた。

ギュンターに引越しを打診された時、すでにオフシーズンの旅程を組んでいた。旅程といってもシゴク大雑把なもので、日程などどうにでも変えることができたのだが、店を閉めてイビサを離れる冬場の初日、とりわけ飛び出す日の嬉しさは格別で、大きな開放感が身を包むのだった。ギュンターの引退祝い、そして100%のイビサ移住が、彼にとって非常に大きな転機であることは承知していながらも、私はギュンターの引越し係を降りてしまったのだ。ピンチヒッター役に、イビセンコの友人で、タクシードライバーをやっていたぺぺにすべて引き渡したのだった。 

これは私の逃げだった。ギュンターが細かいことにうるさく、決断力がなく、ヒトにものごとを任せることができない性格だと知っていたから、引越しに関わるのは、問題を抱え込むことになると読んでいたのも断った理由だが、私はオフシーズンを一切の制約を離れ、気ままに過ごしたかったのだ。

後日、ペペに、「タケシ、よくぞあんなシゴトを、オレに押し付けてくれたもんだな、大変なんていうレベルでなかったぞ」と大いに恨まれたことだ。
春先、恒例になったように、セマナサンタの前にイビサに帰ったら、通年でそこに定住することになったギュンターが3階のテラスから丸い顔を覗かせ、「ようこそ、イビサへ!」と、よく響く大きな声で挨拶してきたのだった。
-…つづく

  2018-4-28

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2018年04月24日

イビザ物語 16  佐野


  ギュンターとドイツ人たち その3

 私はイビサ語(Ibicenco)の微妙なニュアンスなど全く分からないながらも、ギュンターの演出に対して凄い、よくやったと感嘆したのを覚えている。簡素な舞台造り、役者不足、ギュンターに言わせれば、満足に声を出せ、体を動かせるヤツがいないので、やむなくバッサ、バッサと枝葉を払い落とし、本筋だけで舞台を創るしかなかった…ということになるのだが、プロの演出というのはこういうものかと、初めて演劇に出会ったような気にさせられた。

公演の後、「ギュンター! ギュンター!」のシュプレヒコールに応じて舞台に呼び出されたとき、ギュンターはまるで自分は大道具係の一人だとでもいうふうに、早足で出てきて、軽く頭を下げ、勢ぞろいしていた主役、脇役、舞台裏の人たちを促すように、サッと引き上げたのだ。それは非常に慎み深く、謙遜な仕草だった。ほとんど、自分が舞台に登るのを恥じているようにさえ見えた。

私はギュンターがこの劇団、役者、裏方の賛辞を述べ、またイビサ市の文化部への謝辞などを、リンとよく響く声でやるとばかり思っていたから、ニコリともせず軽く頭を下げただけで舞台を引き上げたことに驚いた。

ギュンターが火付け役になってイビサに演劇活動が始まったと言ってよいと思う。その後、いくつかの素人劇団が生まれた。イビサ語だけではなく、スペイン語、カタルーニャ語、それに英語のグループまでできた。彼らの活動は、観光シーズンを終えた、オフシーズンの冬期間に限られていたから、私も幾度か観に行くことができた。いずれも、ギュンターが指導、演出した劇団とは比較にならない学芸会レベルのものだった。

小さな接客商売をしたことで、私は一個の人間の中に卑小、偉大、吝嗇、尊大などがない交ぜに存在し、その時々、直面する環境によって、様々な顔を見せることを知らされた。

一度、ギュンターが7、8人のパーティーを『カサ・デ・バンブー』で開かせてくれないかと持ちかけてきたことがあった。ヴィッキーのように支払いに問題があるわけでなし、快く引き受けた。何でも、ドイツだかケルンのある県だかの文化省の長官をはじめ、エライさん、劇場の総元締めやジャーナリストらが主客だということだった。

私は、『カサ・デ・バンブー』でいつも出しているメニューで十分だと思っていた。多少、大人数のリザーブだから、テーブルを二つ突き合わせ、そこに予約済みと小さなカードでも置いておけば準備完了と思っていたのだ。

ところが、ギュンターの気の使いようは、スコットランドの田舎のレストランに女王陛下が突如正餐にやってくることになった態だった。

2週間も前から、連日パーティーの打ち合わせ…といったところで、私ができることなど至極限られていたから、たいした料理や準備ができるわけでもないのだが…。ワインのメニューに始まり、前菜、魚料理、肉はジンギスカン、デザートなどをあらかじめ決めておくのはこちらにとっても大いに助かるのだが、魚…と言っても、夏のイビサには新鮮な魚などないから、スモークサーモンかマスになってしまう。そんなものはドイツのスーパーで売っているし、食べ飽きているから、なんとか漁師から新鮮な魚を仕入れることはできないか、また、それに合う白ワインは何がいいだろうか、魚と肉の間にレモンシャーベットで口直しをするべきではないか…などなど、うんざりするほど注文が多いのだ。しかも、言い出すことが毎回変わり、一体全体、何をどうして欲しいのだと怒鳴りたくなったほどだった。最後には、こんなギュンターのパーティーを引き受けたことを後悔し始めていた。

遅めの昼食会の予定だった。直接太陽が当たらない木陰にテーブルを置いてくれ、しかし見晴らしが一番よい、テラスの一番海側でなければだめだ、テーブルクロスは真新しいもの、間違ってもシミだらけのものは掛けるな…、花は自分が買うがテーブルに合った花瓶は何かないか…と、2、3日前には日に3、4度は“打ち合わせ”のために降りてきたのだ。

どこかで耳に入れてきた情報を披露し、スペイン最高級といわれていたワイン“ヴェガ・シシリア”の赤を仕入れることができるか、食後のコニャックも“サンチェス・ロマテ”が手に入るかと、まるでオタオタ、ウロウロするばかりで私を閉口させた。


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これはパーティーの写真ではないが、ギュンターとお友達との会食風景
シマーグ(アラブ式スカーフ)をつけているのがギュンター

当日、ギュンターの招待客、文化庁のお偉方たちは気楽な服装でやってきた。ジンギスカンは脂が飛び跳ねるから、間違ってもタキシードなどの正装でくるな、と冗談めかして言っておいたのだ。確かギュンターを入れて7人だったと思う。一応全員を紹介されたが、名前を皆覚えきれるわけがない。向こうも、小さなカフェ・レストランのお兄さん店主のことなど、食前酒を飲み終わる前に忘れているに違いなかった。

夏場の忙しい時期には、3ヵ月ほど、ウェイトレスを雇っていた。私はもっぱら台所とカウンターの後ろにいて、常連が来た時、ちょこっと顔を出し挨拶するだけにしていた。ウェイトレスのアントニアは10代のアンダルシア娘で、家族総出でイビサに出稼ぎに来ていた。英語、ドイツ語はからっきしダメだったが、気転がよく効き、飲み込みがとても早かった。上品に、エレガントには接客できなかったが、それはないものネダリで、『カサ・デ・バンブー』クラスのカフェテリアのウェイトレスとしては十分以上の活躍をしてくれ、私は大いに満足していた。

そのアントニアがギュンター御一行様のテーブルに付き、ワインを注いだり、ジンギスカン鍋で焼き上がった肉や野菜を小鉢に取り、サービスすることになっていた。アントニアはすでにお箸を上手に使えたし、テーブル全体の目配りも行き届き、汚れた皿やお椀、小鉢を少しやりすぎなほど、素早く引き下げ、新しいものと交換し、ワインもグラスが空になる前に注ぎ足し、このカテゴリーにしては、まず申し分ない接客をしていた。ただ、彼女はお客さんと気の効いたやり取りをしたり、お世辞を言ったりできるタイプではなかった。

食前酒の“ラ・イナ(La Ina;シェリー酒)”で軽く乾杯し、前菜の前の突き出し、ニンニクを利かせたイビサの黒オリーブの酢漬けをつまみ始めた時、ギュンターが私をテーブルに呼び、いかにも秘密めいたように私の耳元で、アントニアではなく、私自身がウェイターとしてテーブルでサービスするように言ったのだ。一瞬、アントニアが何か粗相をしたのか、彼が何を望んでいるのか分からなかった。第一、そんなことは一種の内政干渉も良いところで、お客が口を出す筋合いのことではない。

その頃までに、私はギュンターの性格を捉えていたから、彼があたかも自分のレストランのように振る舞い、それを招待客に見せびらかしたかった、それにアジア的な料理を供するのに、私のような純アジア的容貌をしたウェイターにサービスして貰いたいだけだということに気が付いた。要はミエを張りたかったのだ。

客商売の弱みで、ウチはウチのやり方でショーバイしているのだから、アントニアが大きな間違いでもしたのならともかく、そうでなければ、俺のショーバイに口を出すな、黙っとれ! とは言えず、私もアントニアと伴にテーブルの脇に立ち、ジンギスカン鍋の世話をしたのだった。

ウェイトレスの仕事は往々にして給料より、チップの方が多くなる。良いサービスをすれば、それだけ自然とチップも多くなる仕組みだ。アメリカのように何パーセントとほとんど義務のようにチップを取り立てる習慣は地中海の国々にはないのだが…。 
ギュンターは毎週、きちんとツケを支払ってくれた。それはそれで、店にとっては良いことだが、収入の大半をチップに頼るウェイトレスのアントニアには、サービスのし甲斐がないことになる。私は今回のギュンターのようなグループが入った時に、アントニアに何がしかの大入りを手渡すことで釣り合いを取っていた。
-…つづく

  2018-4-24


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2018年04月15日

林勇蔵 と 吉富簡一


 長州藩は、ペリ−来航以来、外圧に対処するため、その危機をアピールし、それを受けとめた村落支配者=豪農商層が、みずからの危機意識のもとで、その郷土防衛のために農兵隊を積極的に組織し、武装化した。一般農民もまたそれに応じて献金をし、農兵として参加する。

 わずか80人余で挙兵した高杉晋作が巧山寺挙兵に成功したのは長州の庄屋たちの支援があったからです。初めは、奇兵隊すら勝利の見込み無しと日和見をきめていました。
 高杉の“正義”派が、この諸隊や農兵隊を基盤にして、一般農民層の支持をえながら“俗論”派戦に対して勝利を勝ち取ることができた。 挙兵に先立って、吉敷郡矢原村の山口宰判大庄屋吉富藤兵衛のもとにひそかに使を派した高杉は、挙兵を打明け、その軍資金の提供を吉富簡一に求めた。
 林勇蔵や吉富が資金や兵を提供してくれたことにより、初期の困難を克服してク−デタ−を晋作は成功させる。

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林勇蔵 1813-1899

 豪農吉富家に生まれて、庄屋林文左衛門の養子となる。天保12年(1841)上中郷庄屋、安政2年(1855)小郡宰判大庄屋となる。巧山寺挙兵のとき金銭的に支援して勤王大庄屋とよばれた。明治になり地元の治水工事や地租改正に活躍した。


 宰判とは長州藩で郡にあたるような広域の村々を代官が治める行政区域である。

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  小郡宰判図



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吉富簡一 1838-1914

 周防郡の庄屋に生まれ井上門多とは幼なじみである。林勇蔵とは親戚。奇兵隊に資金提供するほかに、諸隊・鴻城軍を組織し井上を総裁にすえる。維新後は山口県政の大立者として、農民運動や自由民権運動には抑えるような行動をとる。

 吉富は興味を惹かれる人物である。苦境の高杉晋作を助けて、弾圧で押しつぶされそうになっていた正義派を勝利に結びつけ藩論を変えさせた。これから薩長の討幕運動が始まり明治となる。 明治2−3年に諸隊の脱退騒動が起きる。長州藩は結果的には諸隊を用無しとして解散させる。切り捨てられた処遇に不満な兵士は反乱を起こす。吉富はその意をくむことなく木戸と鎮圧をする。明治6年の地租改定で現金で納税する制度に変更になった。この際に、吉富は米を相場より安く農民より買受けて、大阪に高く売り差額を手に入れ巨額の利益を得た。 前原一誠はこのような農民や兵士の状況を放置する新政府に対して乱を起こすことになった。

 小生は、庄屋と言えば、村の貧しい成績の良い青年を学資を出して学ばせ、まだ村の篤志家の良いイメ−ジを持つが、地主というと小作から巻き上げる悪い印象しか持たない。 その二つを持つのが吉富ではないかと思う。 幕末から敗戦まで続く歴史を象徴する人物のようで興味深い。吉富は幕末では幕藩体制の矛盾を背負わされた庄屋で、それゆえに支援し変革をさせ、明治となり、地主層と農民層の対立では彼が地主側に立ち、庄屋・地主の置かれた歴史的な位置に順応し生きた人物である。彼の心中には矛盾はないのでしょう。地主・庄屋の歴史的・経済的な位置が維新を起こし明治の治世をささえた。その使命を成り立たせた地主の状況が時代を経て変化したことにより、結果として先の敗戦に至り、農地改革で使命を終えたというべきか。


   2018-4-13

  船中発策  高杉晋作まとめ





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2018年04月13日

イビザ物語  15  佐野


 ギュンターとドイツ人たち その2

 私とギュンターをホモセクシャルの関係で捉えていた人がいることには気づいていた。私は2階で、彼が3階に住んでいたし、オフシーズンに入り、冬場に店を閉めてからのクリスマスや新年の休みに一緒に食事を摂ったし、彼もドイツ人のイビサ長老組のパーティーに私を誘ってくれたりした。

 そんな付き合いの中で、ホモセクシャルにも、ギンギラオカマ風の男たちと、肉体、セクシャルな視点はさておいて、もちろん性的要素は男女間同様にどこかにあるのだが、彼らが精神的な充足を求めていることに気が付いたのだ。

 ギュンターが私に心を開くというか、打ち解けたのは、『カサ・デ・バンブー』で彼が次の公演のため“令嬢ジュリー”を取り上げるべく、原作に手を入れていたのを目にし、私が、「今頃、ストリンドべりーなんかやって、観に来る人がいるの? あれはもう考古学博物館入りしたものだと思っていたよ…」とチャチャを入れてからだと思う。日本で戦前、ストリンドベリーがブームを呼んだのにアテラレタのだろう、ウチの親父の小さな蔵書の中にストリンドベリー全集があり、私は“令嬢ジュリー”と“青巻”ぐらいは暇に任せて読んでいたのだ。

 もう一つのきっかけは、ギュンターが留守だと思い、私がかなりの大音量でバッハの“マタイ受難曲”をかけていたら、ギュンターが静かにドアをノックし、うなずくように首を動かしながら、私の部屋に入ってきたのだ。そして、会話もせずに終曲まで一緒に聴いたことがある。それからギュンターは、ドイツから毎回彼が気に入っているクラッシック、主に声楽、宗教曲のカセットを持ってきたりするようになった。

 ギュンターが私に対してホモセクシャルな行為に及ぶそぶりをみせたことはなかった。もっとも、私にしたところで、50歳半ばを越えたギュンターが求めるアドニスには程遠い、雑な造りのバックパッカー崩れだったからかもしれない。 

 アパートがいくらコンクリートと石でできた頑丈な造りだったとはいえ、夏の間は海に面したテラスのフレンチドアや窓は開け放したままだったから、物音はよく聞こえた。会話の内容こそ判明できないにしろ、ギュンターがお友達とセクシャルな行為を営めば、下には即響き、聞こえる。コンクリートの建物は床を通しての衝撃音をよく伝導するのだ。

 十数年、ギュンターの真下に住んでいて、それらしき軋み、押し殺した嬌声が聞こえてきたのは二度だけだった。

 一度は、まだ少年の面影を残した痩せた青年をドイツから同行してきたことがあった。どこかひ弱で、常に誰かに庇護されなければ生きていけない空気が彼の周りに漂っていた。ギュンターはその青年を“甥”と紹介した。ギュンターに兄弟、姉妹はいないから、甥もいるはずがない。そんなことを私は深く詮索する習慣を持っていなかった。

 その若者の名前すら思い出せないのだが、彼は一人で『カサ・デ・バンブー』に足繁く来るようになり、数日も経った頃から、盛んにギュンターの愚痴を溢し始め、一緒にいるのは耐えられないとばかり、予定をかなり早めてドイツに帰ってしまった。 

 もう一度は、何かの修理を頼まれ、ギュンターのアパートに足を踏み入れたことがあった。幸か不幸か、私は手先が器用で何でも修理できると思われていたのだ。そこで、全身オイルを塗り、小麦色に満遍なくコンガリと陽に焼いた素っ裸の男が、大の字になってギュンターのベッドに仰向けに寝ていたのだ。

 ギュンターの方はデップリと太った腹にパレオ、更紗を巻いているだけだった。裸の彼をギュンターが私に紹介したが、くだんの裸の彼は面倒くさそうに、よく言えば鷹揚に、“オラ、ケタル(Hola que tal?;コンチワ)”と言い、体を起こそうともしなかった。


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城壁内のブティックやバー、夜になると様相が一転する


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夜のイビサ港近くのバー、客はほとんどテラス席か立ち飲みだ


 朝買出しに旧市街に降りたり、ごくたまに、店を閉めてから真夜中に、下町のテキヤ通りを散策する時にギュンターに出会うことがある。そんな時、ギュンターは大げさなくらい、まるで旧知の友に地の果てで出会ったような挨拶をするのだった。

日本から来た友達を連れ、ホモセクシュアル御用達のバーが集まる城壁の下を歩いた時、ギュンターがお気に入りのバー、“インコグニート”に陣取り、数人の美しいオトコたちを盛んに笑わせているのを目にしたことがある。幅の広い階段に張り出したテラスに、シャレタ籐椅子を置き、クールジャズを流し、ツタを這わせた中世の城壁に照明が当てられ、この一角は一種の小宇宙を造り出しているのだ。

 ギュンターはゆったりとした真っ白いインド風ともアラブ風ともつかないファッションで上下を固め、映画『エマニュエル夫人』のポスターにあったような大きな籐椅子に腰掛け、周囲を大いに盛り上げ、笑わせていた。私はそのすぐ脇、2メートルほどのところをゆっくりと歩いたのだから、私はギュンターが例の大げさな挨拶をするだろうと、身構えた。ところが、ギュンターはチラッと上目使いに私を見上げ、他の人には気づかれない程度に軽く頷いただけだった。私も喉から出掛かっていた“オラ、ギュンター! 人生、楽しんでるな〜”という言葉を危うく飲み込んだのだった。

 ギュンターには『カサ・デ・バンブー』で見せる顔の他に、夜のバー巡りで見せる顔があることを知ったのだ。ケルンの劇場で演出家として見せる顔、仕事の顔は最後まで知らずに終わったが、イビサでアマチュア演劇団を指導、監督した作品は観ることができた。

地元の演劇好きの小中学校の先生たちが中心になって、何がしかのサポートを市から受けて活動を続けていた劇団をどういういきさつからか、ギュンターが演出することになったのだ。もちろん、ギュンターにとってはボランティア活動みたいなものだったろう。それにしても、よく引き受けたものだと思う。

 このアマチュアの小劇団の面々も、『カサ・デ・バンブー』を通して顔見知りだったと記憶しているが、ギュンターが連れてきたのかもしれない。劇団にも名前があったのだが、どうにも思い出すことができない。このグループはイビセンコ(Ibicenco;イビサ語)で芝居をやろうというのが主旨のようで、どのように選んだものか、ギリシャ悲劇の“王女メディア”、それから数年経って、オスカー・ワイルドの“サロメ”をやった。
-…つづく

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   2018-4-13


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2018年04月11日

映画 ウインストン・チャ−チル


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1874-1965

 彼はアメリカの富豪の娘で母ジャネット・ジェロ−ムと父ランドルフ卿との間に生まれた。母はイギリスに来た花嫁ということでNHKの特集番組を見た覚えがあります。時代により落ちぶれた英国貴族がお金持ちの米国女性と結婚して、ひと息いれたスト−リ−です。映画の中で母は奔放であったとの表現がある。
チャ−チルは学校の成績も良くなく、クラスメ−トからも嫌われている品行の悪い問題児であったようだ。パブリック・スク−ルには入試の成績は悪く、校長判断で合格。劣等生がたいてい進むサンドハ−スト陸軍士官学校へ予備校を経て進む。人気の無い騎兵科に配属。それでも卒業の時は120人中20位であった。騎兵連隊に入った。キュ−バ反乱の鎮圧、インド勤務、ス−ダン侵攻に従軍して軍隊を除隊。第2次ボ−ア戦争の従軍記者として戦地に行くが捕虜になる。収容所を脱走して有名になった。それで保守党議員に当選。自由党に移籍したりして、いろんな大臣を歴任する。その在任中、ストライキを軍隊使って鎮圧したり、一方では失業保険の構築などもした。
 この映画のなかで第1次大戦中のガリポリの戦いでの責任を問われる場面がある。ミリオタでないとピンとこないかもしれないので、説明します。この戦いは上陸作戦の難しさを云うときによく取り上げられる。
西部戦線において塹壕戦での戦いになり戦線は停滞・膠着した。これを打開するために、連合軍は第2戦線を築こうとした。ドイツ側で参戦したトルコのイスタンブ−ル占領をめざした連合国のガリポリ半島への上陸作戦で、待ち構えていたトルコ将軍アタチェルクに見事に撃退され敗戦した戦いを言います。このガリポリ作戦を立案したのがチャ−チルです。第2次大戦で首相になったときも、これで後ろ指さされることになる。
チャ−チルの挙国一致内閣で、それまでのナチスとの康和政策をとっていたチェンバレンがその内閣の一員であったとは驚きであった。野党が押す人物がそれまでにヒットラ−を徹底的に否認していたチャ−チルのみであったことによる妥協の挙国一致内閣の産物であったとは。ダンケルク撤退の前にイタリアとの講和の動きがあり、チェンバレンらの内閣内康和派が寸前まで彼を追い詰める。いかに断固それを拒否して戦い抜くかが見どころになる。
 歴史的にはその撤退に成功する、バトル・オブ・ブリテンでの航空戦に勝利し英国の制空権を掌握して、ドイツの英国本土上陸作戦を阻止した。その後に日本がマレ−沖海戦でプリンス・オブ・ウエ−ルズを沈めて、制空権の無い海域での戦艦のもろさを実証することになった。チャ−チルは最大の衝撃であったと述べている。チャ−チルの頑張りは連合国を勝利させることになった。イギリスがあの時にドイツと講和していたら欧州の暗黒・世界の暗黒は今でもまだ続いていたかもしれません。
 アマゾンプライムで他のチャ−チルを題材とした映画をみたばかりである。それは今回の映画と違って終戦後にチャ-チルが選挙に落選してお払い箱になるところまで描かれる。ここではダンケルクの成功までです。 どちらの映画でも妻クレメンテイ−ンが立派に知的で素敵に描かれています。

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チャ−チルとクレメンテイ−ン

 映画 「国王のスピ−チ?」(名前は定かではない、ジョ−ジ6世の吃音を取り上げた映画)を見たばかりであったので、この映画でそれとなく国王の吃音を発するのを表現されていて興味深い。チャ−チルはシンプソン夫人との結婚問題で退位した前兄国王を支持した側であったので、現弟国王とは確執がありそれが表現されている。最後は国王が断固戦うことを表明してくれたので、チャ−チルは決断することができた。
 ドイツ海軍は潜水艦が主力で戦艦の戦力は英国の比ではないので、ド−ヴァ−海峡といえども制海権なくして英国上陸作戦を容易にできるはずはありません。おおげさに描かれているように思えますが、主題を際立させるためのデイフォルメです。
 戦後勝利した後には「用無し」とチャ−チルを切り捨てた英国民はそれはそれはで見事で、それこそ民主国家・民主主義といえましょう。 頑固で嫌われ者であるからこそ、あの英国を勝利させたともいえます。そういう人材が輝くことがあるものです。

    2018-4-11

 映画 ダンケルク
http://hayame.net/custom20.html#spb-bookmark-373

 コベントリ−爆撃
http://www.hayame2.sakura.ne.jp/99_blank004.html#コベントリ−爆撃

 ガリポリの戦いとトルコの近代化
http://www.hayame2.sakura.ne.jp/99_blank004.html#ガリポリ2





 
 
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2018年04月07日

幕末年表


 幕末の出来事は月日の表示を必要とされるほど、めまぐるしいものになっています。従来の年さえ憶えておけばよいというものではありません。

 入試に限らず、年を覚えるのは、歴史好きの小生でも、若いころから苦手でした。

 今度、幕末の詳細年表をまとめてみました。調べてみても、事により一致しないものもあり不明確なものもあります。こちらのミスもあります、未完成で参考までにということにしてください。


 

 和暦から西暦変換返還

 http://keisan.casio.jp/exec/system/1239884730

 西暦から和暦変換

 http://keisan.casio.jp/exec/system/1240128137


幕末簡易年表

年    元号     和暦  西暦     事項
1840                 アヘン戦争
1853  嘉永6年   6/3   7/8   ペリ-来航
1860  安政7年   3/3   3/24   桜田門外の変
1863  文久3    5/10   6/25   下関外国船砲撃、攘夷期限
          6/6    7/21   奇兵隊結成
          7/2    8/15   薩英戦争
          8/18    9/30   8.18政変
          7/18    8/20   禁門の変
1864  元治元年   7/23    8/2   第1次長州征討
1865  元治元年   12/16   1/12   功山寺挙兵
1866  慶応2年   1/21    3/7   薩長同盟
          6/7    7/18   四境戦争・第2次長州征討
         10/10   11/16  幕長休戦協定
1867  慶応3年   6/10    7/11   船中8策
          10/14    11/5   大政奉還
1868         12/9    1/3   王政復古
    慶応4年   1/3     1/27  鳥羽伏見の戦い
          4/11     5/3   江戸無血開城
    明治元年   9/8    10/23   明治改元
    明治2年         3/2    版籍奉還
1872  明治5年         12/28   徴兵令

   2018-4-5


幕末年表 詳細版

西暦 元号 旧暦 西暦月日        事績



1825                  異国船打ち払い令

1832 天保3             調所広郷家老になる。


1837 天保8             大塩平八郎の乱
1838 天保9             村田清風が長州藩政改革を始める

1840                  蛮社の獄、アヘン戦争
1841                  天保の改革

1848 嘉永元年           調所広郷が自殺

1849 嘉英2             板倉勝静は備中松山藩主になる、山田方谷を元締役と吟味役に就任させる。

1851                  ジョン万次郎帰国
                     来原良蔵は吉田松陰の脱藩で処分を受ける

1853 嘉永6年 6月3日  7月8日 ペリ-来航
          6月22日 7月27日 十二代将軍徳川家慶、死去
          9月15日 10月17日 大船建造の禁が廃止

          10月23日 12月23日 徳川家定、十三代将軍に就任

1854 嘉永7年 1月16日 2月13日 ペリ−再来航
          3月3日  3月31日 日米和親条約
          3月27日 4月24日 吉田松陰と金子重輔が米船密航失敗

1855 安政元年 11月27日 1月15日 安政に改元

    安政2                山田方谷、幕府崩壊を予言

           10月2日 11月11日 安政の大地震

1856 安政3  1月10日 12月3日  幕府 長崎海軍伝習所開設
                       周布正之助・松島剛蔵・来原良蔵ら嚶鳴社復興に参加
          7月21日 8月21日 ハリス来日

    安政4 12月18日 1月13日 家定と島津篤子の結婚

1857
         6月17日  8月6日  阿部正弘病死

1858      2月3日 12月20日  吉田松陰、萩の松下村塾を叔父の玉木文之進から引き継ぐ
安政5
        3月20日 5月3日  孝明天皇、条約勅許を拒否
        4月23日 6月4日  南紀派の井伊直弼、大老に就任

        6月19日  7月29日 日米修好通商条約調印
        7月5日 8月13日 井伊直弼、一橋派の徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永を隠居謹慎などに処す。安政の大獄の始まり
        7月6日 8月14日  十三代将軍徳川家定、死去
        7月16日 8月24日  島津成彬急死
        8月8日  9月13日  朝廷、水戸藩に勅書を送る(戊午の密勅)
       10月25日 11月30日 家茂将軍に就任
       11月16日 12月20日 隆盛と月照が入水自殺

1859 安政6
        6月2日 7月1日 神奈川・長崎・箱館を開港
       7月17日 8月15日 河井継之助が山田方谷を訪ねる
       8月23日  9月19日 グラバ−来日
       10月7日 11月1日  橋本佐内斬首
       10月27日 11月21日 松陰処刑

1860 安政7
        1月22日 2月13日  咸臨丸渡米
        3月3日  3月24日  桜田門外の変

  万延元年 3月18日 4月8日 万延に改元
         5月30日 4月10日 万延小判通用開始、金銀交換比率が海外と同一に、金の流失止まる。

1861 万延2年
         2月3日 3月13日  ロシアの対馬占領

   文久元年 2月19日 3月29日  文久に改元
         3月            長井雅樂は公武一和に基づく航海遠略策を建白
          8月11日 9月15日  白石正一郎は薩摩藩の御用達になる
          11月 長井雅樂は藩主・敬親と幕府に航海遠略策を建白
          11月15日 12月26日  皇女和宮江戸城に入る

          12月7日 1月6日   伊藤英国留学を志願
1862

           12月22日 1月21日  文久の遣欧使節出発
    文久2 1月15日 2月13日 坂下門外の変、安藤信正や久世広周ら公武合体派が失墜
                     来原良蔵は公武合体の周旋で熊本や薩摩に行く
        2月11日 3月11日 公武合体の象徴として皇女和宮親子内親王婚礼

        3月16日 4月14日 公武合体推進のため島津久光、兵を率いて入京
        4月23日 5月21日 寺田屋事件
       6月            長井雅樂は免職
       7月9日  8月4日 松平慶永が政事総裁職に任命される
       8月1日  8月25日 三事策に基づき、一橋慶喜が将軍後見職に

       8月5日 8月29日  来原良蔵は切腹した
       8月21日 9月14日 生麦事件
       閏8月1日 9月25日 松平容保、京都守護職に任命される
       11月2日 12月22日 攘夷実行の遵守を決定
1863    12月12日 1月31日  高杉晋作ら長州藩士10名、英国公使館焼き討ち
       12月22日 2月10日 塙忠宝(はなわただとみ)暗殺される。
      
      
文久3
        2月          周布正之助は小銃局の設置に述べる
       2月6日 3月24日  長井雅樂切腹した
       3月7日 4月24日  徳川家茂上洛。将軍の上洛は徳川家光以来229年ぶり。
 
       4月          高杉晋作上海へ
       4月18日 6月8日  井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命
       4月29日 6月15日 五代友厚と高杉晋作上海へ渡航
       4月30日 6月6日 徳川家茂、孝明天皇に5月10日 をもっての攘夷実行を約束させられる。
5月10日 6月25日 長州藩が馬関で外国船砲撃、幕府の攘夷実行期限であった。
5月12日 6月27日 長州ファイブ英国行横浜より出発
6月1日 7月15日 米国、下関に報復攻撃
6月5日 7月20日 フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。
6月6日 7月21日 高杉は奇兵隊結成(藩命?)8月11日 奇兵隊総督に任命される。
7月2日 8月15日  薩英戦争
7月3日 8月16日 教法寺事件 晋作奇兵隊総督更迭
8月13日 9月25日 会薩同盟成立
8月17日 9月29日 天誅組の変。公卿中山忠光を主将とした尊皇攘夷派浪士がとして大和国で決起するが
8月18日 9月30日 8.18政変、七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。
10月5日 11月15日 薩英講和
10月12日 11月22日 生野の変。平野国臣等尊攘派浪士が但馬国生野で挙兵するも数日で鎮圧される
1864
文久4 12月24日 2月1日 長州は薩摩藩使用・長崎丸砲撃

1月13日 2月20日 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議)

元治元年 2月20日 3月27日 元治に改元
2月  神戸海軍操練所 竣工
5月19日 4月14日 参預会議瓦解
3月19日 4月24日 西郷隆盛、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命される
3月27日 5月2日 天狗党の乱。水戸藩執政武田耕雲斎を中心とし、横浜即時鎖港を求め挙兵。12月17日(1865年1月14日)投降
6月 五代友厚による上申書
6月5日 7月8日 池田屋事件
6月10日 7月13日 井上と伊藤が英国より帰国
7月11日 8月12日 佐久間象山暗殺される
7月18日 8月20日 禁門の変
7月23日 8月24日 第1次長州征討
8月5日 9月5日 馬関戦争。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。長州藩敗北。
8月18日 9月18日 井上は高杉に従い講和条約締結

9月25日 10月25日 井上聞多武備恭順を説く、暴徒に襲われ重傷を負う
9月26日 10月26日 周布正之助が自殺
10月12日 11月11日 西郷征長軍参謀就任
10月21日 11月20日 諸隊の解散を命令
10月23日 11月22日 高杉晋作は俗論派の台頭に身の危険を感じて萩を脱出
10月29日 11月28日 高杉は白石正一郎宅で九州諸藩の浪士と会談
11月10日 12月8日 高杉は九州で同氏を得る目標に失敗、野村望東尼の下で潜伏
11月11日 12月9日 俗論派は幕府へののため正義派三家老の福原元|、益田親施、国司親相を切腹させた。
11月15日 12月13日 諸隊は五卿を同行して長府藩へ向かう
11月16日 12月14日 征長軍総督尾張藩主徳川慶勝が広島に着陣する。
11月17日 12月15日 功山寺を五卿の滞在所とする。尚義隊・忠勇隊や残余の諸隊が集合
11月18日 12月16日 征長軍参謀西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦わずして恭順
11月20日 12月18日 九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。
11月25日 12月23日 九州の五藩に、長州より五卿を受け取り、預かるよう命令を下す。 高杉は三家老切腹を知る。帰還して俗論派打倒を決意する。

元治2 12月8日 1月5日 赤禰武人が萩より長府へ帰還。諸隊の恭順を提案。一部の諸隊は受け入れた模様。
12月12日 1月9日 五卿は衆議した後、九州行きに同意した。
12月13日 1月10日 高杉の挙兵計画に諸隊幹部は反対した。

1865 12月16日 1月12日 高杉は功山寺にて挙兵。集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊と、義侠心から参加した侠客のわずか84人
1月13日 2月20日 下関新地会所を襲撃、食料金銭は得られず。豪商らのから2千両借、周辺住民が120人志願。
1月16日 2月23日 渡辺内蔵太、楢崎弥八郎、山田亦介、大和国之助、前田孫右衛門、  松島剛蔵、毛利登人の正義派高官7名を切腹もしくは斬首した。         (甲子殉難十一烈士)
1月23日 3月1日 長州海軍を説得して3隻を手に入れる。
1月24日 3月2日 征長軍に解兵令、高杉は吉富藤兵衛に井上聞多の奪還と献金を依頼

1月2日 1月28日 長州藩伊崎会所襲撃
1月6日 2月1日 絵堂の戦い、諸隊の自然解散が眼前に迫り危機感を抱いた奇兵隊山縣有朋、南園隊総督佐々木男也、八幡隊総督赤川敬三ら強硬派の200人が、総大将格である高杉に伝える猶予のないほど切迫した状況の中、半ば衝動的に始めた可能性がある。
1月9日 2月4日 井上聞多奪還、吉富200人を連れて御楯隊に参加した。
1月10日 2月5日 太田にて藩政府軍を撃退した。
1月11日 2月6日 太田にて再度撃退。高杉と伊藤は諸隊が立ち上がり勝利したのを 喜ぶ。馬関の力士隊・遊撃隊を伊佐へ進め合流する決定をした。
1月14日 2月9日 呑水峠(のみずたお)で大規模な戦闘となるも、諸隊は藩政府軍 の撃退に成功する。 同日、高杉らが合流し諸隊の士気は上がる。 三條実美以下五卿が馬関より渡海した。
1月16日 2月11日 高杉等は遊撃隊を率いて街道沿いに進み、山縣は奇兵隊・御楯隊を 率いて絵堂方面より進んだ。粟屋の前軍が布陣する赤村を挟撃しこれを大いに破り、秋吉台周辺より敵を撃退した。
1月18日 2月13日  山口を拠点とした御楯隊(鴻城軍)は、萩へ続く要所である佐々 並の藩政府軍を襲撃. 俗論派が鎮撫の名のもとに藩主敬親自身を出 馬 させることを危惧していた。 高杉は、非常時に議論に明け暮れる のは大馬鹿者であると言い、藩主父子が出馬するなら周囲に従う兵を全て打倒し藩主父子を諸隊陣営に迎え入れればよいと答えた。 馬関・山口の住民は、藩に反抗した諸隊を積極的に支援した。諸隊 には多くの人士が入隊を希望して殺到し、それとは別に千人以上の 人夫が諸隊の為に物資の運搬などを無償で行い、地主や豪商は兵糧 や多額の金銭を積極的に寄附した。萩を除く防長すべてを正義派で ある諸隊が掌握するようになる。
1月30日 2月25日 奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開 始した。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。
2月5日 3月2日 長州藩政府は萩城内の戒厳を解いた。
2月9日 3月6日 藩主敬親、重臣と一堂に会して会議を行った。 毛利元周は諸隊追討 を速やかに取り消し、諸隊の建白書を受け入れ、国内の統一を図るべきことを提案した。敬親父子はこれを了承した。
2月14日 3月11日 奇兵隊・八幡隊は松本より東光寺へ、南園隊・御楯隊は峠坂より大谷 へ(うち一隊は明木を横切り川上へ)、遊撃隊は深川より玉江へ進軍し、萩城周辺を制圧した。俗論派の幹部らは逃亡した。 諸隊は 萩城へ入城する。高杉らは野山獄に囚われた正義派を釈放した。逃亡した俗論派の首魁である椋梨藤太、中川宇右衛門らは石州で捉 えられた。
2月22日 3月19日 敬親父子は維新の政治を敷くことを誓った。
2月28日 3月15日 敬親父子は山口に帰る
3月12日 4月7日 神戸海軍操練所が廃止される
3月17日 4月12日 敬親は諸隊の総督と長州三支藩の家老を召し、武備恭順の対幕方針を確定した。長州藩は第二次長州征討へ備えることとなる。

1865 慶応元年 4月7日 5月1日 慶応に改元
4月17日 5月11日 薩摩留学生羽島出港  ホンコン着

5月16日 6月9日 龍馬が薩長同盟実現のため鹿児島を出立
5月21日 6月14日 中岡慎太郎が下関へ至り西郷吉之助が京都に直行した旨を伝えられる

10月4日 11月21日 龍馬が広沢兵助・松原音三・小田村素太郎らと面談し薩摩への糧米提供の確約を得る

10月5日 11月22日 朝廷 条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず

慶応2年
1月14日 近藤長次郎 小曾根邸で自刃
遠藤帰国
1866 1月21日 3月7日 薩長同盟
1月22日 3月8日 龍馬は寺田屋で負傷
2月 五代友厚帰国
2月5日 3月21日 龍馬が薩長同盟の裏書をする
6月7日 7月18日 第2次長州征討、 四境の役・大島口の戦い
6月17日 7月28日 龍馬ユニオン号にて小倉渡海に参戦
7月20日 8月29日 将軍家茂死去
8月21日 9月29日 孝明天皇、長州征討停戦命ず
10月10日 11月16日 勝海舟と広沢真臣が幕長休戦協定を結ぶ

11月 広沢真臣、五代友厚、坂本龍馬「商社示談箇条書き」を結ぶ


1867
       12月5日 1月10日 徳川慶喜、十五代将軍に就任
12月25日 1月30日 孝明天皇、崩御

慶応3年 4/1-11/3 パリ万博
3月18日 4月22日 龍馬、御手洗で薩長芸土4藩の予備会談を行う
3月21日 4月25日 龍馬、新谷道太郎に会い、御手洗から下関にむけ出帆。
3月22日 4月26日 龍馬、下関到着、三吉愼蔵に「大日本史」借用を願い出る
4月14日 5月31日 高杉晋作死去
4月23日 6月9日 いろは丸と紀州艦明光丸が讃岐箱ノ崎沖で衝突し、いろは丸は沈没
5月23日 7月8日 徳川慶喜の勝利、四侯会議失敗
5月25日 7月10日 薩摩武力討幕を指向
6月10日 7月11日 龍馬の船中八策
6月 後藤象二郎は容堂に大政奉還を提言
6月19日 7月20日 島津久光は長州の品川や山県と引見
6月22日 7月23日 薩土盟約 薩摩・小松、西郷、大久保と土佐・後藤、寺村、真鍋、福岡、 浪人・龍馬、中岡が陪席、 大政奉還を薩摩が了解、これにより西郷が挙兵のために長州派遣を中止。
6月28日 7月29日 芸州・辻に同意を得る
8月14日 9月11日 長州へ大政奉還建白は武力討幕への大義名分と説明
9月8日 10月5日 薩長芸三藩盟約による共同出兵計画
9月9日 10月6日 薩土盟約は解消
9月28日 10月25日 島津久光が討幕否定の通達
10月3日 10月29日 土佐による建白書提出
10月6日 11月1日 芸州による大政奉還の建白
10月8日 11月3日 三藩の討幕再確認 
10月14日 11月9日 大政奉還が実行 、討幕の目論見が白紙に
10月15日 11月10日 林謙三・安保清康と面談し、大政奉還後の見通しを龍馬語る
11月7日 12月2日 御手洗で薩長芸土4藩の軍事同盟密約と新政府綱領8策を結ぶ。 長州・大村益次郎・山県有朋、薩摩・大久保・大山格之助、芸州・池田徳太郎・船越洋之助、土佐・龍馬・後藤象二郎
11月8日 12月3日 龍馬御手洗を発つ
11月15日 12月10日 龍馬暗殺
11月23日 12月18日 島津忠義、3000の兵を引き連れ入京
11月26日 12月21日 御手洗条約 長州軍を芸州藩が上方に先導する約定


1868 12月9日 1月3日 王政復古 薩摩と土佐の対立を芸州辻が討幕にまとめる
12月23日 1月17日 江戸薩摩藩邸焼き討ちが決行される


慶応4年 1月3日 1月27日 鳥羽伏見の戦い
1月6日 1月30日 慶喜大阪城脱出
1月20日 2月13日 青松葉事件 尾張藩佐幕派弾圧

3月14日 4月6日 五箇条の御誓文
4月11日 5月3日 江戸城無血開城
5月3日 6月22日 奥羽列藩同盟

5月15日 7月4日 上野戦争

8月16日 10月1日 河井継之助死亡
8月27日 10月12日
1868 明治元年 9月8日 10月23日 明治に改元

1868 11月19日 1月1日 野村と山尾が英国より帰国
8月27日 10月12日 明治天皇即位
9月22日 11月6日 合津藩降伏


1869 明治2年 1月27日 蝦夷共和国成立
2月15日 横井小南暗殺
3月2日 薩長土肥四藩が版籍奉還の上奏文を提出
6月27日 榎本武揚、新政府軍に降伏。箱館戦争終結

12月7日 大村益次郎暗殺

1870 明治3 3月12日 木戸孝允により奇兵隊脱隊騒動が鎮圧される
5月27日 小御所会議

1871 明治4 2月27日 広沢真臣暗殺
4月2日 薩長土から兵8000を御親兵とする

8月29日 知藩事に対し廃藩置県の詔書下る

12月23日 岩倉使節団横浜を出発

1872 明治5
9月5日 学制発布される

12月9日 太陽暦と定時法の採用が出される
12月28日 徴兵令

1873 明治6
1月1日 明治6年1/1になる


1877 9月24日 西郷隆盛 自決



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2018年04月06日

イビザ物語 14   佐野


  ギュンターとドイツ人たち その1

 
 ギュンターは、『カサ・デ・バンブー』のある隣のアパート3階に住むドイツはケルンの市立劇場の演劇監督だ。彼は私がイビサに移り住むはるか以前、十数年前から毎年、クリスマス休暇、イースター、そして長い夏休みをここで過ごしているイビサの長老格だった。ギュンターを中心にしたドイツ人グループは旧『カサ・デ・バンブー』の歴史をよく知っており、機会あるごとに、あの時は、あの時代はとやるのだった。
 ドイツ人グループが私の店で落とすお金は実にありがたく、安定した売上に貢献してくれていた。だが、と言わなければならないのが苦しいところなのだが、僅かな例外はあるにしろ、皆常連扱い、特別扱いにされることを当然のこととして期待しているのが重荷ではあった。私たちあっての『カサ・デ・バンブー』だろうが、私たちはチャーターフライトで押し寄せるイチゲンの観光客ではないのだ…という態度、押し付けがましさがミエミエなのであった。
 ギュンターは演劇関係の人のご他聞に漏れずホモセクシュアルだった。ギュンター自身曰く、彼の劇場でマトモ?な(ホモやレズでない)のは、便所掃除のオバさんだけだということになるのだが…。
 イビサがドイツ、北欧、イギリスの人々で賑わうのは、一つに大っぴらにホモセクシュアルであることが許されることも大きな理由だったろう。おそらくその当時、すでに本国でもホモセクシュアルは認められていたと思うのだが(ドイツでは1969年にホモセクシュアル公認)、イビサほど開けっぴろげに、その場限りのホモセクシュアルを漁ることはできなかったのではないか。ところがイビサに来れば、若くしなやかなオリ−ブ色の肢体をもつラテン系のホモセクシュアルがたくさんいるのだ。

 ホモセクシュアルの連中が行くバーは、旧市街の城壁にへばりつくような階段脇にある“インコグニート”(お忍びの場所)で、その辺りは異様な雰囲気を醸し出していた。なにせ、そこにいるのは全員が男ばかりなのだ。おまけに皆が皆、綺麗に陽焼けし、手入れの行き届いた皮膚、髪型、流行最先端のイビサのヴァカンス・ファッションに身を固めているのだ。
 かと言って、リオのカーニバルの衣装のようなケバケバしい悪趣味な女装をしている者は一人もいない。長髪、髭面のヒッピー風の男もいない。バルセロナのランブラスに立ち並ぶドギツイ化粧、女装をした男娼たちとは、まるで次元が異なるホモセクシュアルなのだ。それぞれが清潔でシンプルなイビサ、サマーファッションを着込み、自分が一番美しいと思い込んでいる様子が窺えるのだった。そしてその一角は、香水、オーデコロンを何本かぶちまけたような香りが漂っている。おそらく皆、高級なオイル、ローション、香水をたっぷり体中にまぶして、お出ましになるのだろう。
 ホモセクシュアルの話ばかりしていては片手落ちになる。一方、レズビアンの方はイギリス女性、アイリーンが旧市街の奥まったところに開いている『オベッハ・ネグラ』(OVEJA NEGRA;黒い子羊)にたむろしていた。
 大多数を占めるノーマル(ストレート)…という言い方もおかしいが、男性、女性、カップルは港の前の通りに並ぶバール、カフェー『モノ・デスヌーダ』(Mono Desnuda;裸のサル)、『グラフィティー』(Graffiti)などに陣取り、3人と横になって歩けない細い歩道を行きかう人々を眺めるのだった。

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オフシーズンのサリーナスの海岸

 私たちが“オカマビーチ”と名付けた一角があった。“サリーナス”(Salinas)はその名のとおり、塩田がある場所で、イビサで一番賑わう砂浜がある。白みがかったベージュの非常に細かい砂のビーチが弓状に緩やかな湾をなし、対面にフォルメンテーラ島の低い島影を見ることができる。
 サリーナスは男女混浴…という言葉しか思いつかないのだが、老若男女、素っ裸で気楽に日光浴できる公認ヌーディストビーチがあるところだ。ここに来ると、濡れた布着れで体の一部を覆うのは愚かで、不健康なことに思えるほど、皆が皆素っ裸なのだ。
 そんなサリーナスのビーチを左に進むと、岬とも呼べないような砂州がフォルメンテーラ島の方向に伸びている。その砂州を回ったところ、視界を遮るように小さな湾があり、そこにホモセクシュアルたちが集うのだ。素っ裸のオトコばかりが寝そべるビーチは、一瞬ギョッとさせる奇観だった。
 サリーナスの方は裸のデブデブのおばあちゃんが孫を遊ばせているのだが、(もちろん若い女性もいるが)、ここオカマビーチではまるで、醜い肉体の持ち主の入場を禁止し、体重制限を設けているかのように、嫌味なくらい肉体美を誇る自意識、美意識の持ち主ばかりなのだ。互いにサンオイルを塗り合い、中には誇示するかのように旗ザオを天に向けてオッタテテいる御仁もいる。
 私は日本から時折やってくる友人や親類を、事前に何も言わずにイビサ観光コース巡りの一環として、ここオカマビーチに連れてきて、彼らの反応を楽しんだものだ。


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サリーナスの岬にある17世紀の灯台遺跡、遠くの島影がフォルメンテーラ島

 ギュンターは毎朝のように、といってもイビサタイムの朝、11時過ぎに『カサ・デ・バンブー』に降りてくる。台所とテラスを隔てている分厚い木のカウンターに陣取り、レモンを一切れ入れた冷たい水とマグカップほどもある大きなカフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)が彼のお決まりで、それに毎朝、私が街のパナデリア(panaderia;ベーカリー)で仕入れてくるジャム入りのエンサイマダ(ensaimada;フワフワの丸いパンの間にリンゴを千切りにしたジャム状のものが挟まっている、至極甘いお菓子パン)を所望する。これは定番だった。
 ギュンターが『カサ・デ・バンブー』に足を踏み入れると、まず、アリストが首を伸ばすように低音で吠え、シッポのない尻を振り、出迎える。ギュンターもドイツ語で「オオ、アリスト、〜〜〜、〜〜〜」と呼び掛けながら、アリストの頭を撫で、3脚しか置いてないカウンター前のスツールに陣取るのだ。私は彼が黙っていても、毎朝同じモノを出す。
 どこから手に入れるのか2、3日遅れのドイツ語新聞“フランクフルター・アルゲマイネ・ツタトング”、ボンの“ヴェルト”などのクオリティー紙や“シュピーゲル”などの雑誌、私が買ってくる“ディアリオ・デ・イビサ”(Diario de Ibiza;イビサ日々新聞)に目を通しながら、何やかや、ドイツとイビサのゴシップを聞かせてくれるのだった。要は話し相手というか、自分の話を聞いてくれる人が欲しいのだ。
 ギュンターがドイツの演劇界でどの程度著名なのか知らなかった。彼とはもっぱらイビサの噂やスペインの話ばかりしていたからだ。ある時、彼と同じ町、ケルンからやってきた実験的なシアターの俳優グループが、ギュンターは古典的な演出では名の通った監督であり、様々な演劇コンクールの審査員、アチラコチラの演劇学校、音楽学校の入学試験官も務めている、今度、彼の名前が載っている新聞を持ってきてやる…と言い、2、3日後、ワグナーのオペラ演出で、例の暗い、シンボリックな舞台を定着させたヴィーラント・ワグナー(大ワグナーの孫だか大甥)と一緒にギュンターの名前があることに驚かされたのだった。 

 それとなく、ギュンターに演劇やオペラの話題を向けたところ、そのあたりはプロなのだろう、「それが、オレの仕事さ」と言うばかりで、多くを語ろうとしなかった。もっとも、イビサのような避暑地でカフェテリアを開いたヒッピーのようなバックパッカー崩れの私に、ドイツの演劇やオペラの話をしても始まらん、通じないと思っていたのかもしれないが…。
 私にしても、ゲイジュツカとしてのギュンターを相手にしているのではなく、お客として、またよく宣伝をしてくれ、友人をここに連れてきてくれる上客として遇しているだけだから、彼がホモセクシュアルだろうが、チトは名の知れた演出家だろうが、どちらでも良いことだった。というか、ホモセクシュアルのお客はとても良い客だった。
 小うるさいくらい拘りがあるのを我慢しさえすれば、ワインなどもビノ・デラ・カサ(vino de la casa;ハウスワイン)などは決してオーダーせず、“ヴィーニャー・ポマール”や“ファウスティーノ”クラスの中級品以上を注文するし、ドライのヘレス(Jerez;シェリー酒)などは彼ら専用といってよいくらいだった。ホモセクシュアルの連中たちは金を持っているし、金離れも良いのだった。
 何度か彼らの家、アパートを訪れたことがあるが、乱雑さは微塵もなく、控えめに趣味良く飾られており、何よりも清潔だった。あの三美神、ヴィッキー、コルネリア、エレーナ(アンダルシア女性)の猥雑なほど、散らかったアパートとは雲泥の差があった。
 ギュンターの部屋も広さや造りは私のアパートと全く同じなのだが、これが一体、どこが同じなのだというくらい内装のすべてが違うのだった。家具は一つ一つが吟味され、配置も考え抜かれているし、壁に架けてある絵や写真も、誰かがくれたというだけで、置き場所がないまま白壁を埋めるためだけにL字の釘に引っ掛けたようなものは一つもないのだった。 
 ただ、彼らは傷付きやすく、とても繊細だった。
ギュンターは自分がホモセクシュアルであることをあえて宣伝もしなかったが、隠そうともしなかった。周りの誰もがギュンターがホモセクシュアルなのを知っていた。
-…つづく

 
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2018年04月03日

青松葉事件



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石碑と説明版  名古屋城2の丸

 名古屋で育った小生であるが、青松葉事件については聞いたことは無かった。弾圧事件といえば佐幕派に対してのものはあまり耳にしないで、維新の志士たちへのものばかりが有名である。

 ここ尾張で慶応4年(1868年)1月20日−25日に起きた佐幕派弾圧事件を青松葉事件といいます。この年は鳥羽伏見の戦いで幕府が負けて、将軍慶喜が大阪から逃げて江戸に帰った後のことになります。 大政奉還後の政府の要職にあった藩主徳川慶勝は急遽帰国して佐幕派の家臣を粛清した。高禄の家老など14名が斬首にされた。


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14代尾張藩主 徳川慶勝 1824-83

 慶勝は第1次長州征討時の総督であり、その時には長州との戦を避けて穏便な和平で対処した。慶喜より不当だと非難を受けたほどの処置であった。彼がこの処置を含めて勤皇についたゆえに、江戸無血開城まで、官軍は東海道を戦わずにして行きつくことができた。尾張藩が各地に向けて出した書状が他藩の恭順の動向を決めたと云われている。もし尾張藩が親藩ゆえに幕府につき、名城名古屋城に数万の兵とともに籠城して官軍と戦えば、やすやすと維新が成り立ったと思われない。慶勝の陰の功績は大である、知らぜらる陰の維新プランナ−と言われる。兄弟である会津・桑名藩主は徹底抗戦であったのは皮肉である。

 渡辺・在綱・新左衛門(1820-68)は2500石の家老である、慶勝が帰国するとすぐに御前会議を開き、「朝命により死を賜るものなり」と告げられて斬首される。その妻「みつ」は、家禄・お屋敷召し上げを言い渡された。彼女は周章狼狽することなく、家財道具をひき渡しのために清掃させた。貴重品は一品も持ち出すだしてはならぬと言い渡し、飾り立て収納した。衣服をあらためて、女性には櫛だけは婦人のたしなみであると許した。引き渡しの際に倉庫には米俵が充満していたのでその潔白さに役人は驚きその状況を具申した。その妻女の処置に感服して、藩政府は新左衛門に限って、家財その他動産は一切賜ると許した。 
 武士には、いつこういうことが起きるかもしれないので、そのときこそ平素から覚悟しておくべきことである…佐幕派の武士の一族とは言え、立派な覚悟である。 この時期に、幕府旗本が戦争に行くのがイヤで、幼少のものに家督を譲って隠居したものが多いと聞けば、幕府は滅亡がまぬがれないものとして小生には思える。


    2018-4-3

  船中発策  筑前勤皇党






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2018年04月01日

映画 ペンタゴン・ペイパ−ズ



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編集主幹のベン(トムハンクス)と社主キャサリン・グラハム(メリル・ストリ−ブ)

 ウオータ−ゲ−ト事件とマスコミに関わる映画と思いましたが、それ以前のベトナム戦争の分析をした極秘の文書の漏洩についての映画でした。

 ワシントンポストは50−60万部の地方高級紙ですが、家族経営の会社であった。エスタブリシュの狭い・濃密な?つきあいのせいでしょうか、マクマナラ国防長官や暗殺されたケネデイ大統領と個人的な友人関係にある社主や編集主幹です。日本では想像できません、安部首相と破廉恥事件で疑われている人物位しか思い浮かびませんね。

 
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機密を漏洩させたダニエル・エルズバ−グ

 ニュ−ヨ−クタイムズが先にダニエル・エルズバ−グより機密を入手します。その報道にニクソン大統領の政府から差し止めの訴訟が起こります。
ワシントンポストもそれを入手して、株式公開上場中でそれが中止になるリスクや圧力に屈せずそれを報道しました。最高裁の判決ではこの件に関しての勝訴を勝ち取ります。
 新聞はノルマンジ−上陸作戦の機密を入手したら、それを報道するのか?と問われます、形式的な機密保護の問題でしたら、有罪で処罰を受けたでしょう。でも、文書の内容は、あまりにベトナム戦争の理不尽さを政府が承知していて、国民を騙していた内容であったので、開示する利益と機密保護との兼ね合いで開示正当判決が下った。報道の自由は守られました。

 日本のマスゴミには困ったものです。朝日新聞購読を止めました。料金に値しない内容です。森友問題でNHKに報道の規制があったのでは?という記事を今朝読みました。忖度する記事ばかりに個人的には思えます。
 
 先月の初めに朝日新聞が公文書の改ざんを報じたときに、鬼のように朝日を唾棄して攻撃する安部首相が、今回はおとなしいのはなぜだろうかと友人と話していました。その後に改ざんが判明し国会証人喚問になります。早くから知っていたので、さすがの安部さんも口出しができなかったのか。朝日にすればこの件に関しては間違えばツブレてもおかしくない存亡をかけた記事だった。 朝日には期待しないが、他のマスコミも頑張ってほしい。

 記者クラブに属していない、ワシントンポストは日本で現皇太子の婚約報道のスク−プをしたという。記者クラブは忖度クラブとなっている?
 現在ポストはアマゾンに買収されその傘下にあります。 新聞・本・CDなど構造変革を求められています。注視しておかねばなりません。

 見て帰って書いた! 日本のマスコミもこうあってほしい。

   2018-4-1

  船中発策  映画

   映画 ニュースの真相






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