2018年05月12日

グスタフ・クリムト  


   

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1862-1918

 近代・現代絵画には個人的な興味・関心がない爺爺です。 クリムトには惹かれるものがあります。 彼の絵には金沢の金箔文化が西洋に流れたのでしょうか、信長・秀吉の時代の屏風絵を見ているようなといいますか、そのようなものを感じさせられます。実際に琳派の影響をクリムトが受けているといいます。

 映画「黄金のアデ−レ名画の帰還」をアマゾンプライムで見ました。実話で、ナチスに略奪されたユダヤ人叔母アデ−レの絵をアメリカに逃れた姪が厳し裁判の末に取り戻すスト−リ−です。良い映画ですので機会があればオススメです。

   グスタフ・クリムトは彫板職人の家に生まれ、工芸学校に学び弟とともに装飾を中心とした仕事についた。劇場の装飾で大いに評価され賞を授与された。ウイ−ン大学の天井画を依頼され論争が起こりクリムトが契約破棄を求め報酬を返却した。この絵はナチスにより没収された。保守的な組合を嫌ってウイ−ン分離派を作成し初代会長を務める。1905年に分離派を脱退した。上流婦人の肖像画を多く手掛ける。1918年死去。

  作品は画像が多いためHPでご覧ください

   http://hayame.net/custom19.html#spb-bookmark-464

  2018-5-12


  船中発策  美術・絵画







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2018年05月11日

イビザ物語 19   佐野


  ギュンター 6 “引退の現実と無言の別れ”



 ギュンターが待ち焦がれるようにイビサに引っ越し、生活の基盤を私の上の階の隣人として住み始めてから、どこかリズムが狂い始めたと思う。彼はそこそこのスペイン語を話すし、発音はともかくキチンとした英語も話す。イビセンコ(イビサ語)は私同様、挨拶程度だったと思うが、それでもイビセンコの演劇を指導していたし、学芸会レベルから抜きん出た演出をし地元の新聞『ディアリオ・デ・イビサ』にも載り、バレアレス諸島(イビサ、マジョルカ、メノルカの総称)、カタルーニャ、ヴァレンシア地域の演劇コンクールに参加したりしていた。

 しばらくして、どのような事情があったのか内情はよく知らないが、彼が演出をしていたグループが、ギュンターをボイコットしたのだ。『カサ・デ・バンブー』にチョイチョイ顔を出す、その演劇グループのリーダー的な立場のメルチェは、問わず語りにただ、「ギュンターはムイ・ぺサードなのよ」(muy pesado;とても、重い、しつこい)「私たちは演劇活動を楽しむためにやっているのよ。コンクールで優勝したり、ましてやプロの俳優になろうとしているわけではないのよ」とコボシていた。ともかく、ギュンターはメルチェのグループから離れたのだった。

私たち、そしてイビセンコの友達は、ギュンターが“ぺサード”なのは重々承知していた。それが彼の引退で100%近い時間をイビサで過ごすことになり、ますます“ペサード”の度合いが増してきたのだ。

 ギュンターの足は、引退とともに『カサ・デ・バンブー』から遠のいていった。毎朝のように朝食に降りて来なくなった。その代わりかどうか、週に1、2回ほど、閉店間際に相当酔っ払ってカウンター前に陣取るようになってきたのだ。旧市街のバーをハシゴしてきて、その仕上げとして、自分のアパートに引き上げる前に一杯やろうというところだろう。それが、もうすでに出来上がったうえで腰を据えるから、自然と長く居座ることになる。

店は一応夜の12時に閉めることにしていたが、ギュンターはそれを知ってかどうか、12時ギリギリにやってきて、1時、2時まで居座ることが多くなったのだ。私はこんな水商売に手を染めていながら、どうにも酔っ払いが嫌いだった。スペイン、ラテン系の底抜けに明るい“ボラチョ”(boracho;酔っ払う、ヨッパライ)はまだ良いのだ。唄い、笑い、大騒ぎをするのには付き合える。だが、一対一で、しかも相手が出来上がっていてはとても付き合いきれない。こちらの方は下戸で、酒は受け付けない体質なのだ。

 ギュンターが夜、来る前に店を閉めてしまえ…という日が多くなってきた。
一度、すでにゲイトの外に出していあるランプも中に入れ、庭の電気も消し、カウンターの中と台所だけ明かりを点けて後片付けをしている時、ギュンターが庭のゲイトを開けて入ってきたことがあった。「もう、店は閉まったよ」とギュンターに告げたところ、彼はとんでもない侮辱を受けたように表情をサッと変え、震えるようにドモリながら、「それが、お客に、俺に対する態度か、まだ12時の閉店まで15分もあるではないか」と、良く響く声で訴えたのだった。

私ももっと丁寧に、「後片付けで手が塞がっているから一人で飲んでいてくれ」と、コニャックかイエルバス・イビセンコ(Hierbas Ibicenco;リキュールにイビサのハーブを漬けた甘い酒)の一瓶でもカウンターに置けば済むことだったと、今になって思う…。

1年間、365日、ギュンターがイビサに住み始めてから、すべての歯車が狂い出した。夏には、まだ時折、『カサ・デ・バンブー』に顔を出してくれたし、私の友達や知り合いのイビセンコたちのパーティーには彼を必ず呼び、彼自身も喜んでどこにでも来てくれた。そんなパーティーでは、ギュンターは実に座持ちがよく、冗談を飛ばし、ヨーロッパ人の社交性の高さを発揮した。言ってみれば、彼ならどこに、どのようなパーティーに連れて行っても、話題に事欠かない、すばらしい同席者だった。

何がギュンターを蝕んでいったのか分からない。定年退職者がいきなり1日、24時間自由な時間を持つことでリズムを狂わされる典型かとも思う。本人があれほど憧れていたイビサでの引退生活が、自分を充足させてくれるものではないことに徐々に気づき始めたのだろう。イビサで年間を通して暮らすことを待ち焦がれていたのに、イビサの方が彼が期待したほど、彼の日常を満たしてくれなかったと言い換えてもよいかもしれない。

彼が関わってきた演劇の世界は内的な創作ではなく、あくまで俳優に働きかけ作り上げ、人々に観せるための芸術だから、俳優も舞台も観客も持たないイビサで自分を充足させることができなかったのだろうか。彼が蓄積してきた芸術は表現の場を失い、また彼の感性を奮い立たせるようなタイプの芸術はイビサに存在しなかったのだろう。

 ギュンターは深酔い、悪酔いすることが多くなった。“ペサード”のギュンターは“ペサ・ムチシモ”(pesa muchisimo;最高にしつこい)になり、イビサ、スペインへの愚痴が多くなっていった。
「この島には、何の文化もない。ゲイジュツもないし、生まれない。化石の中で暮らしているようなもんだ…」と何度も繰り返すようになったのだ。

 ギュンターの仲間、友達と私が思い込んでいたドイツ人グループも、「ギュンターはロコ(loco;良い意味でのキチガイ)だ」「狂っている」と離れ始めた。ギュンターも自分が期待していた引退生活は、ここイビサにはないと感じ始めていたと思う。

大声で毎朝、挨拶こそ交わしていたが、ギュンターの内部では変化_崩壊と言ってよいだろう_が始まっていたと思う。

 ギュンターが引退してから、2年目の春、私が5ヵ月に及ぶ北米旅行から帰ってきて、初めてギュンターがマジョルカ島に引っ越したことを知ったのだ。それまで、彼の口からマジョルカ島のマの字も聞いたことがなかったのが、いかにも突然という風に、彼が20年以上住んでいたアパートを畳んだということだった。

 マジョルカ島に移ってから、ギュンターとは電信電話線が切れたように、音信不通になり、彼の口から、どうしていきなりマジョルカに移ったのか聞くチャンスはなかった。

 とは言っても、狭いイビサで、しかもカフェテリア商売をやっていると、どこからともなく情報、噂話が入ってくるものだ。イビセンコでの演劇グループに属していた主役格の若者が、まずマジョルカに移り、彼を追うようにギュンターもイビサに別れを告げたことのようだった。 

 ギュンターがマジョルカに越してから、1年も経ずして、彼が悪性の前立腺の癌で死んだことを知らされた。口さがない人は彼が重症のエイズだったとも噂していた。

 私は彼がマジョルカのどこに住み、どこの病院に入り、どのように死んだのか、天涯孤独だったギュンターの葬儀はどうなったのか、墓がどこにあるのかさえ知らない。

私は、ギュンター自身が悪性の癌に冒されていることを、引退しイビサに越す前にすでに知っていたのではないかと思っている。私には、ギュンターが自分に残された日々が少ないことを知りつつ、死地を求めていたような気さえするのだ。


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 在りし日のギュンター、ゴメスアパートのテラスにて

   2018-5-11

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イビザ物語の最新版は「のらり」をご覧ください。





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2018年05月09日

林復斎


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 1801-1859

  学校で習った歴史は老人になるまで余ほどのことが無い限りそのままのであることが多い。 ペリ−来航についても、学校で記憶した「上喜撰(蒸気船)たった4杯で夜も眠れず」という狂歌があり、幕府は云われているように周章狼狽して、米国の砲艦外交に負け、不平等条約を結ばされたという印象です。

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  老中や薩摩には、1年ほど前に、ペリ−来航の目的や軍艦名とその装備などをオランダから通報があり、具体的に幕府はそれを知ることになりました。それで幕府は驚くこと無く冷静に対応できた。ペリ−との交渉では林復斎が当たり彼はすでに諸外国の事情や交渉史を知っており、10年前に定めた(1842年・天保13年)薪水給与令の内容にとどめ、通商要求には拒絶した。

1854年3/31・嘉英7年3/3 日米和親条約が締結された。

 ペリ−側の資料と新政府側の見解に左右された歴史ゆえに、余り幕府側の資料は重視されてこなかった。 林復斎は論理的に交渉して弁論でペリ−の言うままにはさせなかったようです。彼の残した『墨夷応接録』の現代語訳は無い。それが読めればもっと詳しく分かると思います。彼はもっと評価されて良い人である。

 1858年7/29・安政5年6/19に日米修好通商条約の締結により通商を行うようになった。ハリスとの交渉により不平等条約が結ばれた。彼の甥・岩瀬忠震と井上清直がこの交渉に当たった。

  略歴
1801年林述斎の6男として誕生
1807年 第2林家・林琴山の養子
1824年 紅葉山文庫の書物奉行
1834年 2の丸留守居、西丸留守居など歴任、
1853年 本家大学頭家を継ぐ、54歳で林家11代当主。
1854年 ペリ−との交渉に当たる。
 3月31日 日米和親条約締結
1859年 60歳死去

     2018-5-9

  船中発策 幕末開国 まとめ




  

  
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2018年05月07日

来原良蔵 1829-1862


 幕末には暗殺事件が多発します。功成りて維新を向かえた英傑でも暗殺を計画したり実行したりした人はいます。松陰さえもその一人です。
 また、潔く責任を取ってみずから死んでしまった人に惜しまれる人がいます。周布正之助もそうです。大河ドラマの「花燃ゆ」に来原良蔵が出ていたようですが、記憶にありません。

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 「花燃ゆ」で演じた俳優・松木実

彼は周布、松陰、桂と親交があり後の元勲伊藤を身分の低いときに目をつけて武士としての教養を厳しく育てます。松下村塾へ行くようにも勧めました。

 藩論が開国公武合体から破約攘夷へ急に転換するなかでその混乱の責任をとり自裁してしまいました。桂の妹と結婚していましたので、亡き後に息子たちは桂の養子となり、明治に活躍いたします。
 
 略歴
1829年 長州藩・大組の福原光茂の3男として生まれる。翌年に伯父の来原良左衛門盛郷の養子となる。
1841年 藩校・明倫館で修行。
1851年 江戸で朱子学者・安藤民斎に学ぶ。吉田松陰の脱藩に関わる。その脱藩では処分を受ける。
1852年 先鋒隊に入隊
1853年 ペリ−来航で江戸に行き、浦賀の形勢を視察、桂小五郎と親交を深め、松陰から密航の相談を受ける。。
1854年 木島又兵衛と「忠義会」を結成。相模国の沿岸警備にあたる。8月中島三郎に入門して合薬製造掛となり、銃器の扱いを修練。12月先鋒隊除隊。
1856年 萩に戻り、周布正之助・松島剛蔵らによるによる嚶鳴社復興に参加。10月に桂小五郎の妹ハルと結婚
1857年 再び相模国警備に向かい、後の伊藤博文を鍛える。松下村塾へ紹介した。
1858年 伊藤らと長崎海軍伝習所で学ぶ。
1859年 明倫館助教兼兵学科総督に就任、軍制改革を行う。
1861年 開国派の長井雅樂と対立も和解し、公武合体の周旋を担う。
1862年 2月 公武周旋のため肥後と薩摩へ出かける。
3月に藩論が攘夷に急展開して久坂玄瑞らと長井雅樂を除くため奔走。長井暗殺が失敗、藩論の混乱の責任を取るとして切腹を申し出る。 8月拒否され江戸に上る。横浜外国公使館襲撃を企て、計画が藩主・毛利定弘に自重を促される。 8月29日切腹してわびた。

2018-5-7

  船中発策  高杉晋作まとめ






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2018年05月04日

イビザ物語 18    佐野


 ギュンターとドイツ人たち その5

 
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La Apartamento de Gomez, Los Mollinos, Ibiza

 イビサがディスコやパーティーの島になるのは夏の3、4ヵ月のことで、長い冬はホテルも閉まり、船便も航空便もパタリと途絶え、騒音に満ち満ちていたカジェ・マジョール(メインストリート)のバー、レストラン、それにサリーナスのビーチもツワモノどもの夢の跡のように静まりかえる。その上、イビサの冬は湿度が高いこともあり、骨身に浸みるような寒さが夜を覆う。イビサの家やアパート(ピソと呼んでいる日本のマンション)にエアコンの冷房は必要ないが、冬場を火の気なしで過ごすのは意外と厳しい。
 春先、長い休暇からイビサに帰り、一歩自分のアパートの部屋に足を踏み入れた時、私は古い火事場に迷い込んだような錯覚に襲われた。煙が充満しているわけではなかったが、部屋中に焦げた臭いが漂い、ベッドのマットレスも毛布も、小さな洋タンスの中も、すべて燻製にしたような焦げた煙の臭いが浸み込んでいたのだ。
 原因は明らかだった。ギュンターが冬の間に暖炉を炊いたのだ。私たちのアパートには1階から3階まで同じつくりの広いワンルームで、さらに屋上に大家のゴメスさんが住むアティック(attic;屋根裏部屋)があった。各階には申し訳程度の飾りのような暖炉が付いていた。全く実用的でない代物で、ローソクでも立てるか、ワインやリキュールの瓶を並べるしか使い道がないスペースだった。
 暖炉自体のデザインがまるでなっていないことは住人は承知していた。1階からゴメスさんのペントハウスまでが一つの大きな空洞の穴で繋がっていて、そこに個々の暖炉の煙抜きが差し込まれているだけなのだ。結果、どこか一軒で暖炉を燃やすと、逆流した煙は全アパートに充満することになる。そんなことはギュンターも知っていたはずだった。他の住人はプロパンガス(スペインではブタンガス)の20リットル入りのオレンジ色のボンベを運び込み、ガスヒーターで冬の夜の暖をとっていた。
その足でギュンターに厳然と苦情を申し入れに行った。滅多なことで腹を立てたり、強い口調でものを言わない私の剣幕を見て取り、ギュンターは、「そりゃ、すまなかった。だけど、それは暖炉の煙突が一軒一軒独立していないからで、これは建物自体の問題だし、大家のゴメスの責任だ。一緒にきちんとした煙抜きを敷設するよう言いに行こう」と、早口でドモリながら弁明したのだった。
ギュンターの口調から、私は彼が私のアパートがどういう状態になるか、なったか知りながら、自分の部屋を暖かくするために、他一切を無視して、火を燃やしたことを悟った。
彼の暖炉には鋳物のストーブの一流品、ジョツール(JOTUL)のインソート(押し込み式ストーブ)が設置されていた。一体どうやってこの重い鋳物のストーブをここまで運び上げのだろう。たぶん、ペペが友達を集めて運び込んだのだろう。
 その時、台所の方に、ホントウに何気なく目をやってさらに驚いた。オレンジ色のブタノガスのボンベが8本から10本ほど並べてあったのだ。『カサ・デ・バンブー』で営業用に使うブタノガスをギュンターにチョイチョイ回してやっていた。彼は車を持っていないし、運転もしない。私もオンボロのべスパ(VESPA;スクーター)を交通手段、荷物運びに使っていて、重いブタノガスボンベを運び込むのは一仕事だった。普通の住宅地ならトラックでの配達があるのだが、ここは崖に張り出したアパートで、車道がなく、300メートル近く離れた軍人病院から担いでこなければならないのだ。
 ブタノガスボンベを何十本も積んだ配達トラックは軍人病院前にくると、鉄の棒かレンチで空のボンベをカンカンと鳴らし、それを聞きつけた私が空のボンベを担ぎ、満タンのものと交換してもらうのだった。それでも、そこまで来てくれればありがたいことで、夏場の忙しい時期には港近くのブタノガス集配所まで買いに行かなければならいことが再三だった。べスパの後ろの席に微妙なバランスで20リットルのボンベを縛り付け、『カサ・デ・バンブー』へ運び込むのだった。
ガスはレストラン商売の生命線だった。このロスモリーノスのアパートでは貴重品でさえあった。だから、店にはいつも3、4本の予備を置いてた。ギュンターが溜め込んだブタノガスボンベはすべて『カサ・デ・バンブー』経由のもので、私が気安く、むしろズボラにギュンターに貸し与えていたものだった。
ボンベの本数を捉え、きちんと貸し借りの管理をしなかった落ち度はむろん私にある。満タンのボンベを貸し、その時必ず空のボンベを引き取るべきだったのだ。ガス会社にボンベ1本に付き、デポジット(保証金)を何がしか払っていたし、ボンベと同じオレンジ色のツナギを着たガス配達のオジさんには、毎回チップ以上の心付けを渡すことで何とかガス切れを免れていたのだ。
 ギュンターにガスボンベをこんなにたくさん、普通のアパートに置くことは非常に危ないし(『カサ・デ・バンブー』の調理場は消防署の基準どおりドアの上、下に20センチばかりの丸い穴を開け、ガスが中にこもらないよう換気対策をしていた)、これからのシーズンに向け店で必要になるからと、ギュンターの料理用に1本だけ残し、他のすべてを『カサ・デ・バンブー』に担ぎ降ろしたのだった。
-…つづく

  2018-5-4

 
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2018年05月01日

警察効率と刑務所介護


 刑務所脱走犯が広島で昨日逮捕されました。 向島の人々はホットされているでしょう。
 述べ1万5千人の警察官を使用して、その逮捕はネットカフェからの民間通報により、逮捕までの最後の瞬間に動いた4−5人の警察官によるものでした。費用は報道によると3億円だといいますが、その何倍もかかっていると思われます。

 島への重点的な捜査員の投入は捜査を指揮している幹部による判断でしょう。壮大な無駄に終わりました。ここで何度も指摘しているので、今回も「おかしんじゃないの」とは書きませんでした。 案の定のことが起こりました。 潜伏しそうなネットカフェの聞き込みは行われていなかったのでしょうか? シロ−トでも思いつくことが捜査に生かされていませんでした。 ニュ−スでも捜査幹部への批判は今まであまり報じられていません。 逃走経路の詳細はこれからさかんに報じられるでしょうが、記者クラブ制度に甘んじて、共に利益を分かち合う・慣れあう両者にはマトをはずした報道が続くのでしょう。

  30年以上も前に、来島ドックの坪内社長が企業の再編で全国の造船所を買収している時代があった。海運も同様に船会社が整理整頓されていました。来島ドック関連になった船会社の乗組員と乗り合わせるがありました。彼らはドックで研修を受けてその時に今回の刑務所から覇権されている収容者と一緒に仕事をした経験を話してくれました。 あの坪内のことだからうまく安く使って儲けているなと思いました。
 今回の逃走で今までの造船所の派遣のことは手直しや見直されることになると思います。ここで刑務所介護のことを書きました。収容者の介護により一部の人には良い転換が芽生えるかもしれません。ただ安価な労働者として働くよりはいいものです。 見直しをされるのであれば考慮の端にでもなれば幸いです。

  刑務所介護特区構想
  

      2018-5-1


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