2018年09月28日

溝渕広之允


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1824 or 1828-1909


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 左から2番目が溝渕でその隣が龍馬

 溝渕広之允は海援隊士と共に写っている写真を見て、隊員でないのが不思議であった。

彼は龍馬と共に江戸に行き、それよりも彼が龍馬を江戸へ引導したとも言われている。 龍馬と同じように佐久間象山と千葉道場で学ぶ。1866・慶応2年に藩命で長崎に行き砲術を学び龍馬と再会する。 それまで余り彼は龍馬の中で登場してきていない、彼は下士の出であったが長崎で龍馬と会うまで、藩士として行動してきた故からかもしれない。 彼はその地で後藤象二郎を介して龍馬の土佐藩復帰を援助した。 そのせいで亀山社中が海援隊になる。海援隊は土佐藩に属するようになった。
 
 龍馬の紹介で桂小五郎と会い交流を深める。 藩の許可を得たかどうか不明ながら第2次長州征討で小倉口の戦いで龍馬と共に参戦して、合作で下関戦図を書いている。これは他に龍馬が手紙に書いた海戦図も存在する。 このことから、幕府との討幕戦いにも土佐藩兵として従軍したと思われるが、その詳細は不明である。

 これまでの経歴により新政府の要職にも就けたであろう、維新後の明治2年10月に隠居すると、その後は新政府に仕えることはありませんでした。

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 彼の資料は先の大戦で焼けてしまい、早く引退したことも加わって、我々庶民には知られることも少なかった。


   2018-9-28


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2018年09月24日

出島ワ−フ・長崎


 長崎のヨット泊地には出島ワ−フマリ−ナがある。 そこは町の中心にあり観光に出かけるのには便利です。1泊5000円近い係留費,この料金は電気代と水道代を含む。

係留ポンツ−ンの目と鼻の先に咸臨丸のような外輪船の姿をした港内クル−ズ船が見える。その隣は大型商業施設の「ゆめタウン」です。
 下記地図にお風呂屋「日栄湯」と「コインランドリ−」を印し。 ここで小生が興味を持って訪ねた場所も表示しました。
 銭湯については長崎駅から送迎バスのあるス−パ−銭湯もあり。観光案内所で時刻表がもらうことができます。

 出島ワ−フは戦前には中国との玄関で往来する客船のワ−フ・船着き場であった。現在はレストランが立ち並びヨットを眺めながら食事をとるオシャレなパッセ−ジとなっています。


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 「ゆめタウン」と外輪船

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 出島ワ−フ地図

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 入り口にある女神大橋 ここを抜けて1時間ほどでマリ−ナへ

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 大型客船が係留


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 三菱造船所で修理中の自衛艦  かって戦艦「武蔵」も建造される



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 出島オランダ商館跡 入り口


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 オランダ商館を望む


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 マリ−ナから見た夜景


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 外輪船の夜景


    2018-9-24



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2018年09月22日

宗像大島を訪ねて


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 沖ノ島と関連遺産群は世界遺産になっています。 ヨットで沖ノ島へ行った猛者もいるようですが、そこへ上陸する許可は普通ではおりないようです。天気の良い日に接近することは出来ると思います、そこへは対馬へ行く途中のプランとなるでしょう。

 関門海峡を抜けて福岡に向かうには大島は良い中継地になる。 「うみんぐ大島・海の駅」もあります。31fで4000円の係留代は高いようにも思えますけれど、そこで他の係留場所をさがすのも大変です。艇長の判断になりますね。「うみんぐ」では電気はとれます。 買い物は農協で可能ですが、品数も少なく弁当も無かったので、無理と思い事前に用意しておいた方が良いでしょう。

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 うみんぐ大島海の駅 桟橋


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 フェリ-乗り場  宗像市神湊−大島

 この島では宗像神社中津宮と沖津宮遙拝所が世界遺産になっています。中津宮には行きましたが、静かなもので他の参詣者はおりませんでした。


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 宗像神社 中津宮


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 宗像三女神の次女神・湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る神社


 散歩がてらに買い物できる場所をさがしていると、夢の小夜島を見つけました。
連歌に歌われた島で恋人たちに何かありそう。
 
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 夢の小夜島  干潮時に陸と続がる


 道を尋ねた子供たちが農協まで私達を連れて行ってくれました。途中で「休みますか?」と、こちら・爺婆へ気を使ったお声がけ。自転車に乗ったばかりなのか左右に揺れながらも先導をして案内する。春前には幼稚園生だったに違いない子どもたちであるのに、やさしい気の使いよう! さすが神の島の子供です。 この島に訪ねて良かったと思えました。

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 神の子たち


   2018-9-22
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2018年09月19日

西郷隆盛


  磯田道史さんによる


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1828-1877 西郷肖像画 床次正精作


 磯田さんの「素顔の西郷隆盛」を読みました。爺のお気に入りの歴史学者です。 倉に眠っているような古文書を読みまくり、そこから一次資料によって歴史をくみ上げています。 
  明治時代の候文ですら読めない小生にとっては、あの草書体の古文書なんて想像もつきません。 せっかく高校で古文を習うのだから家の蔵にある先祖の残した文書を分かるような教育があっても良いのではと思います。自宅に蔵のあるような育ちではありませんが。  歴史好きの田舎爺さんですが、英語もろくにできないので、欧米の歴史にも問題外であり、自分の国のものですら古資料を読むことができません。ウイキとか人が書いた本とかの受け売りをするばかりです。

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 西郷無くして維新を迎えることはできません。 対幕戦争の軍議で新政府会議のなかでも、西郷の出席なくしては何も決められませんでした。 他に、

  西郷無くしては出来なかった事

1. 長州をつぶすことを防ぎ、薩長同盟
2. 大政奉還後の王政復古のク−デタ−
3. 慶喜の助命
4. 武力討幕、 討幕の大義を得るための謀略、 鳥羽伏見の戦い勝利
5. 戊辰戦争、 江戸城無血開城、東北戦争へ参陣
6. 廃藩置県、府県の統廃合(3府72県)
7. 陸軍省・海軍省の設置
8. 学制の制定
9. 国立銀行条例公布
10. 太陽暦の採用
11. 徴兵令の布告
12. キリスト教禁制の高札の撤廃
13. 地租改正条例の布告

 西欧岩倉使節団が正当政府で西郷らの在日政府を留守政府と今では言っていますが、留守政府が決めた徴兵令や地租改正など大きな枠組みは西郷が決めています。
とても留守政府がやることではありません。

 維新の功業とは鎌倉幕府以来の武士による政治の枠組みを終らせた、明治・新政府による廃藩置県、徴兵令、廃刀令、最後の武士による反乱・西南戦争(西郷の死をもって)にとどめを刺すことによる完結です。 それを為すには命を惜しまぬ西郷の武力討幕の方針を持ってしかなし得ませんでした。

 大河ドラマ「西郷どん」で王政復古のところまでスト−リ−がすすみました。 江戸薩摩屋敷焼き討ちを誘発させるための謀略に相楽総三、伊牟田尚平、益満休之助を派遣して放火・略奪・暴行して挑発させます。西郷のキャラ変だと巷で騒ぐ動きも見られます。「戦闘に成ったら策謀はしなければならないが、そのためには普段はまともな道を歩むべきだ」正しい目的を踏まえれば、戦時は汚いことをしてOKという西郷の思想です。西郷の陰のある横顔がなければ維新は起きなかったでしょう。汚いことをなすためには普段は公正・まっとうな人生を送らなければならないことを忘れてはいけない。

 年表を見てみると二回目の遠島・沖永良部で死にかけて、外交の能力を買われて再び許されて京都工作に当たってからわずか四年で明治になる。想像以上に短い期間のことであったことが分かる。


   西郷隆盛関連年表

1828・文政10  下加治屋町で誕生
1847・弘化4  郷中二才頭となる 19歳
1850・嘉永3   お由良騒動で赤山靱負(あかやまゆきえ)が切腹
1851・嘉永4  島津斉彬が藩主となる 23歳
1853・嘉永6  ペリ−来航
1854・安政元年  江戸詰めとなる  26歳
1855・安政2  橋本佐内と政治活動
1856・安政3  篤姫が将軍輿入れ、 一橋派として活動
1858・安政5  日米修好通商条約、斉彬死亡、安政の大獄 月照と心中 30歳
1859・安政6  奄美大島に潜居、愛加那と結婚
1861・文久元年  召喚状来る
1862・文久2  久光へ「地ゴロ」発言、沖永良部島へ遠島  34歳
1864・元治元年 公武周旋と京都工作のため召喚、軍賦役となる。禁門の変で長州撃退、第1次長州征討を収拾、36歳
1865・元治2年  糸子と再婚  37歳
1866・慶応2  薩長同盟成る、第2次長州征討、功明天皇崩御
1867・慶応3  薩土盟約、 伊牟田尚平と益満休之助を江戸破壊工作に派遣、大政奉還、王政復古、
1868・慶応4 鳥羽伏見の戦い、江戸無血開城、上野戦争、北陸戦線に出馬、弟・吉二郎戦死、40歳
1869・明治2  函館戦争終結、栄典禄2000石と位階を返上、薩摩藩藩政改革にあたる
1871・明治4  政府改革案を持って上京、常備兵5000人を率いて再上京、廃藩置県、留守政府始まる
1873・明治6  朝鮮問題の政変で下野、 45歳
1876・明治9  廃刀令
1877・明治10 西南戦争で自決  49歳


   2018-9-19






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2018年09月14日

神機隊と芸州の諸隊


 広島県廿日市に第二次長州征討で焼けた町屋跡の碑があります。 芸州口の戦いで和木を訪ねたことがあり、ここに載せています。

 芸州藩と長州藩の国境は和木近くの小瀬川にある。正確には支藩の岩国藩と芸州藩の境です。ここで四境の役(第2次長州征討)芸州口の戦いの戦端が開かれました。

 芸州藩は第一次長州征討では家老の辻将曹が仲立ちにより、西郷隆盛が岩国藩へ行き藩主と会談し、また長州へ乗り込み長州諸隊の幹部を説得したことにより、まとめたことで実戦が回避された。
 しかし、第二次長州征討では芸州藩は大義の無い戦いであると訴えたが幕府に先鋒を命じられる。老中小笠原長行(おがさわらながみち)はこれに対して家老の辻将曹らを謹慎処分に命じた。それに藩士が激昂し暗殺を計画した。小笠原を呼出し藩主浅野長訓(あさのながみち)が退去と不参戦を通告した。

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 廿日市町屋跡  第2次長州征討で炎上

 芸州口の戦いが起こると芸州藩内の戦闘であったので中立を保つが、廿日市町屋の焼失のような被害を受ける。芸州と長州の間では藩外への撤退を長州と交渉をおこなった記録は残っている。2か月に及ぶ戦いで大きな被害を受けた。従来の藩兵だけでは守れないと精鋭部隊が必要だと認識された。

芸州口の戦い・四境の役・第二次長州征討 周防の国の海道・古道一人旅より 詳しい地図があります。
http://www.sakura64.sakura.ne.jp/contents10geishuuguchinotatakai.html

 士庶による神機隊の建白を木原秀三郎は義弟河合三十郎と提出。神機隊が創設された。隊内では身分、地位、格差をもちこまずに学問所などで学ばせる。募兵にあたって高い教養をもった人材を優先した。訓練に英語を取り入れて知識と意欲がなければ適応できなかった。軍律は厳しく違反者には容赦なく切腹を命じた。

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 木原秀三郎 檜山村の庄屋出身、勝海舟の海軍塾で学び、芸州藩に登用。

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 薩長芸三藩盟約書草稿

 薩長芸軍事同盟で上洛した芸州藩であったが、鳥羽伏見の戦いでは芸州藩の正規軍は参戦しなかった。 これ以降に芸州藩は戊辰戦争の主導権を失うことになる。よく口にする「薩長土肥」には入れてもらえないことになった。

 神機隊は備中・備後の鎮撫に出動した。京都では芸州藩は鳥羽伏見での戦いで笑いものになっていた。神機隊は関東出兵を決めたが、藩は財政赤字を理由に拒否した。神機隊は自費で出陣する。上野戦争と奥州戦争で先鋒として大きく貢献した。高間省三は敵陣一番乗りで戦死して有名になる。324名で故郷を出たが仙台では、まともに歩ける隊兵は80名程であったという。

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 高間省三 1848-1868 藩中きっての文武のエリ−ト、老中小笠原の暗殺を謀る。神機隊の砲隊長、戦前の武勇に優れた軍人の代表として紹介されている。


 芸州藩の諸隊

晴雲隊 1863・文久3年編成、柔述の心得200名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、

同仇隊 1863・文久3年学問所詰め藩士子弟で編成、54名、備中、備後の騒乱鎮圧、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦、諸隊の士官として活躍が多い

一心隊 1864・元治元年八月編成、周辺農町民有志100名、広島城下と周辺警備のため、

遊撃隊 1865・慶応元年春編成、38名、北陸道鎮撫総督の先鋒、

1866・慶応3年 6月 芸州口の戦い(第2次長州征討)

捷神隊(しょうしんたい) 1866・慶応2年8月編成、60名、民兵、神機隊と合併、戦歴不詳

神機隊 1866・慶応2年 9月 藩士と農商民で編成、1200名

1867・慶応3年 9月 薩長芸軍事同盟

1867・慶応3年 10月14日 大政奉還

献力隊 1867・慶応3年10月編成、300名、農商子弟300名、一部は戊辰戦争に従軍、大半は予備隊として待機

衆合隊 1867・慶応3年11月徴募編成、藩士を中心に民間を加えた300名、幹部は参戦、残りは後尾として残る

推誠隊 1867・慶応3年11月編成、草莽有志200名、藩軍事奉行の付属、一部は東北遊撃軍の傘下に、瀬戸内当初警備に

応変隊 1867・慶応3年秋編成、220名,士庶混成、鳥羽伏見120名参戦、北陸道100名、日光会津口と東北遊撃隊に分かれて参戦

新隊 1867・慶応3年秋編成、124名、八幡山方面に参戦、以後各地転戦

1867・慶応3年 12月9日  王政復古

1868・慶応4年 1月27日 鳥羽伏見の戦い

輔正隊 1868・慶応4年1月編成、豪商農の指導で組織200名、東北遊撃軍に加わり秋田へ参戦

奏勇隊 1868・慶応4年1月編成、藩士及び農町民の混成150名、領内治安警備

神速隊 1868・慶応4年2月編成、士農混成100名、戦歴不詳

司箭隊(しせんたい)1868・慶応4年2月編成、士農混成の銃隊、250名。装備旧式、戦歴不詳、

1868・慶応4年 4月11日 江戸城無血開城



   2018-9-14


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2018年09月09日

長府の街と藩・人


 今度の九州クル−ズで住んでみたいなと思った街は、先に書いた平戸とこの長府の街です。下関は既知であっても長府はボイラーの名でしか知りませんでした。功山寺を訪ねるのに訪れましたが、落ち着いた街並みには魅力を感じます。

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 長府地図  下関駅からバス23分

 長府藩は、1600年・関ケ原の役後に、毛利秀元が長府5万石に入府した。 現在は、高杉晋作の功山寺挙兵・回天義挙により「明治維新発祥の地」となったと街の入り口に記念碑を掲げている。 長府藩は長州藩の支藩であり、長府藩の支藩に清末藩・1万石がある。 維新後に豊浦藩,豊浦県を経て山口県に編入された。下関市の一部となっている。

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 維新発祥の地記念碑

 成人するまで名古屋に育った小生であるが、尾張藩の支藩に高須藩があるとは最近まで知りませんでした。支藩の大事な使命の一つは親藩の血が絶えた時に養子を出すことで、高須藩も長府藩も何人も差し出しています。

 坂本龍馬の護衛に三吉慎蔵が活躍しますが、彼は長州藩ではなく長府藩の侍であった。彼の墓は功山寺にある。

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 功山寺

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 忌宮神社


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 長府の町並み 写真3枚


 藩校「敬業館」の他に長府藩の松下村塾というべき藩校「集童場」があった。集童場は15歳以下の少年で、身分の別なく人材を育成しようとした。福田扇馬が自宅で開いていた私塾・「桜柳亭」を母体に熊野則之が福田扇馬や福原和勝らとともに創設した。そこでは乃木神希典などを輩出した。

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 集童場設立の地


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 私塾 「桜柳亭」跡 福田扇馬による設立



 主な長府藩の人物


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三吉慎蔵 1831-1901 小坂家の次男として誕生、三吉家の養子となる。 印藤聿の紹介で龍馬を知る。長府藩報国隊軍監になり第2次長州征討に活躍する。宮内省御用掛として北白川家の家令となる。

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 三吉周亮(みよしかねすけ)1842-1903 家老三吉家に誕生、5卿を功山寺にかくまう。功山寺挙兵で切腹を命ぜられるが、加藤司書のとりなしで中止、龍馬の理解者、維新後県参事・権令を歴任。

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 熊野直介 1847-1868 熊野家長男として誕生、福田扇馬と集童場を開き場長、報国隊参謀、龍馬と知り合い、小倉口に戦い北越戦争長岡軍の逆襲により戦死。 

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 印藤聿(いんどうのぼる)1831-1911 下村家の3男として誕生、印藤家の養子となる、報国隊軍監、龍馬と藩とのパイプ役、
維新後は製塩業を営み、衆議院議員となる。

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 乃木希典 1849-18   乃木家3男として誕生、報国隊で小倉口に戦う、西南の役歩兵連隊長、旅団長、台湾総督、第3軍司令、
 妻と殉死。

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右・福原和勝、左・山県有朋
福原和勝 1846-1877 村上家の3男として誕生、福原家に養子、報国隊結成を願い出る、初代軍監、小倉口で戦う、戊申戦争参戦、明治2年英国留学、陸軍教導団司令長官心得、西南戦争に別働第3旅団参謀、熊本で戦死。

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 福田扇馬 1846-1892 私塾「桜柳亭」を設立、龍馬の協力で若者を長崎に率いて英語を学ぶ。

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 瀧川辨三 たきがわべんぞう 1851-1925 集童場に入学、報国隊、北越戦争や会津戦争に参戦、マッチ製造会社を興し日本のマッチ王と呼ばれる。

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 服部潜蔵 1850-1886 江本家の次男として誕生、服部家の養子となる、集童場に学び、1867年第2次長州留学生として英国へ。
テムズ航海学校に入学、英国海軍見習士官となる。同郷の福原和勝が英国に留学しており英国から引き抜かれて官費留学生となる。岩倉使節団の渡英中の伊藤博文の説得により帰国、海軍に勤め海軍大佐。

  2018-9-9

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2018年09月07日

海援隊士・亀山社中


龍馬・亀山社中・海援隊年表

元治元年・1864 
2/24-4/4 龍馬は勝海舟の長崎出張に同行し、長崎滞在
慶応元年・1865
 夏頃 亀山社中結成
  7月−10月 薩摩名義でグラバ−から小銃や艦船を購入長州へ輸送 
慶応2年・1866
 1/21(22) 薩長同盟締結
  1/23  龍馬は寺田屋で負傷、近藤長次郎は小曾根邸で自刃
  3/8 薩摩船で鹿児島に向かう途中に長崎に立ち寄る
   5/2 ワイル・ウエフ号が五島で遭難、池内蔵太・黒木小太郎ら死亡
  6月上旬 妻・お龍を小曾根家に預ける
   6/17 下関で長幕海戦に参加
慶応3年・1867 
1月上旬−2月下旬 後藤象二郎と会談 、脱藩許されてる。     
   2/10 お龍を下関伊藤家に預ける
    2月頃 土佐商会開設
   3月 岩崎弥太郎が長崎に来る
    4月上旬 海援隊発足 
    4/23 いろは丸が紀州藩船と衝突沈没
   5/29 いろは丸賠償決着
    7/6  イカルス号水夫殺害
    9/10 イカルス事件 おかまいなしの裁定
    9/14 オランダ商人から小銃1300挺購入
    10月 大政奉還
    11/15 近江屋にて龍馬死亡
慶応4年・1868 
1/14 長崎奉行が脱走、海援隊奉行所西役所を占拠
       沢村惣之丞自刃
    4月 土佐商会閉鎖
    閏4/27  海援隊解散


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 左から長岡謙吉、溝渕広之允、龍馬、山本洪堂、千屋寅之助、白峰駿馬

• 1. 土佐

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o 坂本龍馬 1836-1867 海援隊隊長


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o 沢村惣之丞 1843-1868 土佐勤皇党、勝海舟門下、天満屋事件、長崎奉行所占拠の時薩摩藩士を誤殺して切腹


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 o 佐々木高行 1830-1910 上士。、戊辰戦争において海援隊の指揮を執った。龍馬死後は戦闘面では実質的に二代目の隊長であった。長崎奉行所占拠、浦上四番崩れに関わる、法務関係に携わる。天皇親政運動に動く、工部卿、宮中顧問、侯爵

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o 長岡謙吉 1834-1872 海援隊の事務全般を執り行い、龍馬の死後は二代目の隊長となる。土佐藩の医者の家出身で鳴滝塾にてシーボルトに医学を学んだ経歴を持つ。小豆島を占拠、維新後は三河県知事。

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o 石田英吉 1839-1901医師の家に生まれ緒方洪庵に師事し、医術を学んだ経歴を持つ。天誅組、禁門の変、七卿落ち、奇兵隊創設に貢献、ユニオン号指揮で小倉口の戦い、維新後は秋田県令・千葉県知事はじめ、多くの県知事職を歴任。海援隊時代の同士であった陸奥宗光が農商務大臣になったとき次官に招かれ、陸奥を補佐した。長岡とともに逸材とされ、「二吉」と賞される。男爵

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o 坂本直(高松太郎) 1842-1898 龍馬の甥であり、子のなかった龍馬の家を継ぎ坂本直と改名した。海軍操練所、クリスチャン、

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o 菅野覚兵衛 1842-1893 土佐で庄屋業をしていた。土佐勤皇党、神戸海軍操練所、ユニオン号艦長で小倉口に参戦、維新後に米国留学、お龍の妹が妻、維新後海軍少佐。西南戦争時には薩摩に滞在していた。北海道開拓移住。

o 新宮馬之助 1836-1886 龍馬の近所で生まれ、幼馴染。龍馬の姉乙女宛ての手紙に頻繁に名前が出てくる。維新後は海兵団に所属、海軍大尉。

o 池内蔵太[1] 1841-1866 土佐勤皇党、長州遊撃隊参謀、天誅組、禁門の変、ワイルウエフ号遭難で死亡、龍馬が後継者として期待した。
         
o 安岡金馬  生没不明、
           
o 野村維章(野村辰太郎) 1844-1903 土佐藩白札格出身で砲術教授役をしていた。太極丸船長、長崎奉行所占拠、振遠隊として戊辰戦争に従軍、明治維新後は佐賀県権参事・参事を歴任後、初代茨城県令に就任。その後、控訴院検事を歴任し、東京控訴院検事長・大阪控訴院検事長。男爵

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o 中島信行(中島作太郎) 1846-1899  土佐の郷士。土佐勤皇、長州遊撃隊、維新後、板垣退助とともに自由民権運動を指導した。初代衆議院議長。男爵

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o 近藤長次郎 1838-1866 生家は龍馬の家の近くで饅頭屋をやっていた。薩長同盟の時には伊藤博文・井上馨とともに長州藩の軍艦兵器の買い付けに多大な功績があった。長州藩の勧めで英国留学する予定であったが他の同士から脱退をとがめられ、自刃した。

o 吉井源馬  生没不明、

o 坂本清次郎(三好清明) 1842-1903 龍馬の親戚。龍馬の妹・春猪と結婚、維新後鎌田家を継ぐ、自由民権運動に参加。三好に改名

• 2. 越前

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o 関義臣(山本龍二) 1839-1918 福井藩士。維新後、大阪府権判事、鳥取県権令、大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院議員等を歴任。男爵

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o 渡辺剛八(越前藩) 生没不明、 いろは丸機関方、振遠隊で奥羽転戦

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o 山本洪堂(復輔、洪輔) 1842-1899 福井藩医師山本宗平の次男。松本良順門下。長崎奉行所占拠、開拓使医官、大阪精神病院の院長を務めた。息子宗一の後を継いだ、親戚の子供友香は山本病院の初代院長となった。

o 三上太郎  生没不明

o 小谷耕蔵  生没不明、 いろは丸船長 隊内で佐幕派

o 腰越次郎  生没不明、
o 佐々木栄  生没不明、


• 3. 越後

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o 白峰駿馬 - 長岡藩士。太極丸船将、維新後、留学し造船術を学ぶ。帰国後、造船所を経営。

o 橋本久太夫  生没不明、元幕府船員、桜島丸水夫頭、

• 4. 讃岐

o 佐柳高次 1835-1891 人名政の塩飽佐柳島出身水夫、咸臨丸渡米、ワイルウエフ号遭難生還、いろは丸衝突時当番士官、長崎奉行所占拠、函館戦争,帰島して世話役や船頭頭、

5. 紀伊


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o 陸奥宗光 1844-1897 紀州藩士。神戸海軍操練所、天満屋事件、スト−ンウオ−ル号引き取り、維新後、知事・県令等歴任。西南戦争で禁固5年、明治16年出獄、欧州留学、その後、外務大臣として、条約改正・日清戦争講和・三国干渉などにつきすぐれた手腕を発揮した。伯爵

• 6. 下関

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o 伊藤助太夫 1830-1872 下関の商人。海援隊の活動を支える。お龍を預かる

7. 長崎

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o 小曽根英四郎 1840-1890 長崎の商人でもあり、海援隊の活動を支える。いろは丸会計官、豪商小曽根乾堂の弟。お龍をあずかる

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o 大浦慶 1828-1884 長崎の商人で日本茶輸出貿易の先駆者。海援隊の活動を支える。

  2018-9-7


 亀山社中
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 龍馬の船
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2018年09月04日

高杉晋作終焉の地・下関を訪ねる



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 高杉晋作 1839-1867

 ここでは、すでに功山寺挙兵のこと、また、その地を訪ねたことを述べています。

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 功山寺にある高杉晋作像


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 下関駅より 高杉晋作関連地図

 JR下関駅から徒歩3分位で白石正一郎宅(中国電力ビル)に行ける。そこは奇兵隊結成の地でもある。残念ながら碑のみである。



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 奇兵隊結成の地  白石正一郎宅跡

 そこから徒歩5分位で高杉晋作終焉の地へ向かう。これも小さな公園に碑があるのみである。

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 高杉晋作の終焉の地

 今までほぼ駅より北に向かって歩いてきたのだが、続いて山陽本線に沿う形で厳島神社に出る。 ここにはかって小倉城内にあったが第2次長州征討での小倉口の戦いの戦利品として晋作が持ち帰り奉納した太鼓が鐘楼にある。


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 厳島神社の鐘楼


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 萩藩新地会所跡碑 左に晋作療養地220mの案内板


 この神社の脇に萩藩新地御用所跡の木碑がある。すぐ横の細道を歩き山陽本線のガ−ドを抜けて数分で高杉晋作療養の地跡に行ける。ごく普通の民家の塀にその碑があるので、気が付くのに遅れるかもしれません。 ここで芸妓を見受けした「おうの」や野村望東尼に晋作は看病された。正室「雅子」も訪れたという。


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 高杉晋作療養の地碑


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 長州砲(80斤カノン砲)レプリカ、壇ノ浦砲台



 晋作の墓は東行庵(下関市吉田町1184)にあり長府の先になり、今回は訪れておりません。

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  高杉晋作の墓

 「おうの」は死後に出家して東行庵で弔ったという。彼女の墓もここにある。

    2018-9-4


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2018年09月02日

早川養敬・勇




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1832-1899

 先週の大河ドラマ「西郷どん」において薩長同盟の締結の編が放映されました。坂本龍馬、中岡慎太郎、伊藤博文が登場している。そこでは西郷の長州行のすつぽかしや、また、英国での薩長留学生の交流が描かれた。そこで、薩摩の留学生が長州の留学生を援助する。このことを日本へ持たされた手紙により、桂が知ることになる。そのような薩長の交流が同盟締結の大事な要因であったごとく取り扱われている。次の事の方がより重要で、それは亀山社中の仲介で、長州が幕府との第2次征討戦争に備えるために、薩摩名義によるミニエ−銃の購入のほうがより締結には大事なことであったと思われます。

 薩長同盟は龍馬と中岡によって成し遂げられたと伝わっているが、早川養敬が「発意」、月形洗蔵が「一藩の論」に高め、西郷、高杉会談につながり、後継者である坂本によって木戸孝允・坂本で局を結んだといわれる。

 早川は福岡藩・遠駕(宗像)の庄屋に生まれて、月形洗蔵の父君に共に学び、医師を志して江戸に学んだ。医師の早川家の養子となる。筑前勤皇党の運動に参加する。
 禁門の変後,七卿落ちに髄従していた土佐の中岡慎太郎と長州で知り合い、彼の仲介で元治元年12/4に西郷隆盛と中岡の会談をする。12/24彼と月形洗蔵のあっせんで西郷、高杉晋作の会談が実現した。第1次長州征討に際して長州藩に謝罪恭順と薩長和解を求める周旋活動を行った。五卿動座、征長中止、これらを成功に導いた。 
 再長征が決まると、福岡藩の先の周旋活動にあたった立場が危うくなり、藩論が変わり乙丑の獄が起こる。それで筑前尊皇党が根絶やしにされてしまう。彼は医師であったことから死ぬことから免れて幽閉された。 王政復古後に幽閉から許されて、三条実美の知遇により新政府に出仕して、元老院大書記官に進んだ。 筑前勤皇党の数少ない生き残りゆえに明治になって活躍した福岡藩の志士は極めて少ない。余り知られていないが、早川養敬は稀有なひとりの例となった。 苛酷な政敵への弾圧は歴史に後を残すことはできない事例です。遠島なり改名して謹慎させるような穏便な処置も必要でしょう。

   2018-9-2

加藤司書と月形洗蔵
http://hayame.sblo.jp/article/184078222.html






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