2019年03月30日

松尾多勢子


 
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 1811-1894

 松尾多勢子は坂本龍馬と手紙のやりとりがあったという、女性尊王攘夷志士です。 52歳で夫の許可を得て上京したというので、だいぶ「遅咲きのうばさくら」かなという感じです。
 島崎藤村の「夜明け前」を若い頃に読ましたが、何も小生覚えがなく、そこには彼女の関連が14回も出てくるといいます。 平田篤胤の門人の6割が伊那谷の地にいたというから、幕末には沸き立った地であったでしょう。

 彼女は豪農武村家で生まれ、名主の松尾家に18歳で嫁いだ。夫が病弱であったので家の切り盛りをして6男4女を育てた。50を過ぎて平田派を学ぶ、和歌はそれまでに親しんできた。 上京した当時の52歳と云えば、今から見れば相当の高齢だと思われます。実際に隠居の身分だった。

 京都では彼女は尊皇攘夷の志士と交わり、皇女和宮の婚姻を図った岩倉具視に接近して佐幕派ではないと断じて通報し、彼を天誅リストから外させた。 彼女は「信州から来た歌詠み婆さん」として怪しまれなかったので情報・連絡に関係した。 交流した運動家には久坂玄瑞、品川弥次郎らがいた。 

 彼女は足利氏木像梟首事件に関連して嫌疑を受けて長州藩邸に逃れる。帰郷して志士を援助、天誅組や水戸天狗党の伊那通過を支えた。鳥羽伏見の戦いが起こると57歳の身で長男を連れて岩倉邸に入る。岩倉家の「女参事」として仕えた。彼女は大政奉還まで志士と議論を重ねた。新政府の樹立を見届けた後に、1869年帰郷して家政を仕切り明治27年に没した。 一説には赤報隊の相楽総三がニセ官軍として処刑されたのにショックを受けて家に戻ったとも言われています。
 
 特筆すべきは彼女には自分の活動を手柄にする気持ちがなかったということです。 多勢子は自分の信念にもとずき、自ら進むべき道を切り開いていった女性です。 幕末には野村望東尼など活躍した女性もいました。

    2019-3-30



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2019年03月28日

福井モデル  藤吉雅晴 追補付き


   未来は地方から始まる


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藤吉正治著 文集文庫

 インテリ漫談俳優シンガ−ソングライタ−である武田鉄矢さんのユ−チュブを聞いて、すぐにこの本を買いました。 コンパクトシテイの富山と福井・鯖江のことが語られる。 これを読むと、雪深い土地で無ければすぐにもそこへ住みたくなりそうです。

 富山の部分は読まなくても、下記で鉄也さんの語り口でそれを聞けば充分でしょう。

  https://www.youtube.com/watch?v=gEpWztuXUcw  101分


 福井は共働き率、日本一。女性の就労率が高い割に、出生率も全国上位です。保育所の収容率1位、正社員比率1位、勤労者世帯の実収入1位。 いつのまにか幸福度のマスコミ報道を耳にしないかと思えば、翔んで埼玉の土屋元知事がクレ−ムを入れて報道しなくなったのだそうだ。 幸福度でも1位です。教育改革にも取り組み
生徒の成績もトップレベルである。

 政府は地方創生大臣まで設けて取り組んでいる割には福井・富山・石川がとりあげられたことは少ないように思う。 
                
 「福井モデル」が現在問題になっていることを解決する一端をみせました。 ここで増永五左衛門を取り上げています。彼のような志を持つ優秀な強いリーダ−がいないと成り立たないと言えますが、「福井モデル」は課題・難題を乗り越えて向上して現在に至ります。 北欧諸国のような人口の少ない国でしか、「北欧モデル」の福祉は成り立たないのか、同様に福井・北陸モデルもそうなのか、もっと身近な問題としてみる必要があるのではないか。

 このようなモデル的生活です。以下。
 コンパクトシテイに住む。スパ−も病院も徒歩5分以内。親子3代が100坪程度の敷地に3代住宅を建てて生活する。子供の保育園への送迎は祖夫母がおこなう。共稼ぎで収入を得て豊。どちらかが起業していて小さな社長業。教育改革がすすんでいて暗記でなく自己解決できる人材に教育が行われている。 どうでしょうか?


   2019-3-28

 共稼ぎ支援を中心に
http://hayame.net/custom5.html#spb-bookmark-103 

 追補

 ベイシックインカムをやるにしても現状を固定したままでは、新たな問題の創出に終わるのかもしれません。アトキンソンさん自身でまとめたものを出されていますので転載いたします。 小さな古い企業を再生させたに過ぎない人に大きな日本のことを改革できるわけがないと批判する人もいるようです。形式的なことで述べているだけで、彼の内容について具体的な議論を聞いたことはありません。考えはいろいろなので良い議論でさらに向上できるといいです。 福井モデルと関連してアトキンソンさんを読んでみるとおもしろい。



 日本人の 議論は「のんき」すぎてお話にならない 危機感 をもって「本質」を徹底的に追求せよ



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   デ−ビット・アトキンソン


 経済規模を示すGDPは、「GDP=人間の数(つまり人口)×1人当たりの生産性」という式で表すことができます。これから日本では人口が減るので、生産性を上げないと経済の規模が縮小していきます。これは、かけ算さえ知っていれば誰にでも理解できる簡単な事実です。


 人口が減っても高齢者の数は減らないので、年金や医療費をはじめとした社会保障費の負担は減りません。そのため、日本の場合、経済規模を縮小させてしまうことは絶対に許されないのです。


 生産性を上げるとは、労働者の給料を上げること、そのものです。人件費をGDPで割れば、労働分配率が求められます。つまり、生産性と労働者の給料は表裏一体なのです。
 英国銀行は、労働分配率を下げるとデフレ圧力がかかると分析しているので、デフレを早期に脱却するという意味でも、日本は労働者の給料を上げ、労働分配率を高めるべきです。


 生産性向上にコミットする経済政策を「High road capitalism」と言います。「王道」と訳されることもありますが、見方を変えれば「茨の道」とも言えます。当然、その反対は「Low road capitalism」です。こちらは、ある意味で「邪道」とも言えます。
 経済の「王道」と「邪道」
簡単に言うと「High road capitalism」は高生産性・高所得の経済モデルです。「High road capitalism」の根本的な哲学は「価値の競争」です。市場を細かく分けて、セグメントごとにカスタマイズされた商品やサービスで競い合うのが競争原理になります。そのため、商品とサービスの種類が多く、価格設定も細かく分かれています。

 High road capitalismを志向している企業は、商品をいかに安く作るかよりも、作るものの品質や価値により重きを置く戦略をとります。他社の商品にはない差別化要素であったり、機能面の優位性であったり、とりわけ、いかに効率よく付加価値を創出できるか、これを追求するのが経営の基本になります。
 最も安いものではなく、ベストなものを作る。そのスタンスの裏には、顧客は自分のニーズにより合っているものに、プレミアムな価格を払ってくれるという信条が存在します。
 High road capitalismを追求するには、もちろん最先端技術が不可欠です。そして、それを使いこなすために、労働者と経営者の高度な教育も必須になります。同時に機敏性の向上も絶対条件です。
「Low road capitalism」は1990年代以降、日本が実行してきた戦略です。規制緩和によって労働者の給料を下げ、下がった人件費分を使って強烈な価格競争を繰り広げてきました。
 海外の学会では、Low road capitalismに移行すると、一時的には利益が増えると論じられています。しかし、Low road capitalismによって短期的に利益が増えるのは、技術を普及させるための設備投資が削られ、社員教育も不要になり、研究開発費も削減される、すなわち経費が減っているからにすぎません。Low road capitalismは先行投資を削っているだけなので、当然、明るい将来を迎えるのが難しくなります。まさに今の日本経済そのものです。 実は、「Low road capitalism」でも経済は成長します。しかしそのためには、人口が増加していることが条件になります。人口が減少していると、「Low road capitalism」では経済は成長しません。本来「Low road capitalism」は、他に選択肢のない途上国がとるべき戦略です。先進国である日本は「High road capitalism」を目指すべきだったのです。なぜならば、「High road capitalism」こそが、人口減少・高齢化社会に対応可能な経済モデルだからです。


 日本は「のんきな議論」が多すぎる


 今回の記事にはあえて挑発的なタイトルをつけました。このタイトルは、ある意味、私のフラストレーションの表れかもしれません。 それは、今の日本で交わされている議論は日本経済についての現状検証があまりにも浅く、当然それによって、政策は本質を追求できていない、対症療法的なものになってしまっているという印象を強くもっているからです。


 先週の「日本人の『教育改革論』がいつも的外れなワケ」でも若干触れましたが、人口減少にどう立ち向かうべきかについて、日本で行われている議論の多くは本当に幼稚です。今日本が直面している人口の激減は、誰がどう考えても、明治維新よりはるかに大変な事態で、対処の仕方を間違えれば日本経済に致命的なダメージを与えかねない一大事です。 それほど大変な状況に直面しているというのに、日本での議論はなんとも「のんき」で、危機感を覚えているようにはまったく思えません。こういう議論を聞いていると、正直、どうかしているのではないかとすら思います。
「のんきな議論」は、日本社会のありとあらゆる場面で見ることができます。


  のんきな「競争力」の議論


 先日あるところで、最低賃金を引き上げる重要性を訴えていたところ、「最低賃金を引き上げると日本の国際競争力が低下するからダメだ」と言われました。ちょっと考えるだけで、この指摘がいかに浅いかわかります。
 日本の対GDP比輸出比率ランキングは世界133位です。輸出小国ですから、限られた分野以外では、別に国際的に激しい競争などしていません。また、他の先進国の最低賃金はすでに日本の1.5倍くらいですから、同程度に引き上げたとして、なぜ国際競争力で負けるかわかりません。さらに、多くの労働者が最低賃金で働いている業種は宿泊や流通などサービス業ですので、輸出とはあまり関係がありません。いかにも議論が軽いのです。


 のんきな「教育」の議論

 教育についての議論も、実にのんきです。教育の対象を子どもから社会人に大胆に変更しなくてはいけないのに、日本の大学はいまだに、毎年数が少なくなる子どもの奪い合いに熱中しています。 教育の無償化に関しても同様の印象を感じます。「子どもを育てるコストが高い。だから子どもを産まない、つまり少子化が進んでしまっている。ならば、教育のコストを無償にすれば、少子化は止められる」。おそらくこんなことを考えて、教育の無償化に突き進んでいるのでしょう。確かに、この理屈はもっともらしく聞こえなくもありません。 しかし、これは小手先の対症療法的な政策にすぎません。教育のコストが高いのが問題だから、無償化するという考え方も可能ではありますが、そもそもなぜ教育のコストを高いと感じる人が多いのか。その原因を考えれば、「収入が足りていない」という根本的な原因を探り出すことができます。


 教育の無償化と、国民の収入アップ。どちらを先に進めるべきか、答えは収入アップに決まっています。要するに、少子化問題の本質は教育費にあるのか、親の収入が足りないのかを、きちんと見極める必要があるのです。 事実、日本人の給料は、同程度の生産性を上げている他の先進国の7割程度です(購買力調整済み)。なおかつ長年、若い人を中心に減少の一途をたどっています。問題の本質は教育費ではなく、給料なのです。


 先進国の中では、少子化と生産性との間にかなり強い相関関係があるという研究があります。生産性が低く少子化が進んでいる複数の国で、教育費の補助を出しても思い通りには出生率が上がらなかったという興味深い事実もあります。 ですから、教育費を無償にしても本質的な対処にはなりませんし、税金か借金でまかなうしかないので、結局経済に悪影響を及ぼすのです。


  のんきな「輸出」の議論


 JETROの輸出促進とクールジャパンも同じです。問題の本質が分析できていないと思います。 私の分析では、日本が輸出小国である最大の理由は、規模が小さい企業が多すぎて、たとえすばらしい商品があったとしても、輸出するためのノウハウや人材が欠けている会社が大半だからです。 すなわち、輸出のためのインフラが弱すぎるのです(「ものづくり大国」日本の輸出が少なすぎる理由)。「日本にはいい商品はあるが、輸出は進んでいない。輸出をすれば国が栄えるから、輸出を応援しよう」。おそらくJETROが設立された背景には、こんな思考回路があったように思います。 しかし、思惑通りには輸出は増えませんでした。なぜかというと、JETROの応援なしに、持続的に輸出ができる規模の企業があまりにも少ないからです。日本の産業構造が輸出できる体制になっていない以上、いくら補助金を出して、輸出できない企業が一時的に輸出できる形を作っても、継続的に輸出が増えるはずもないのです。


 まだまだある日本の「のんき」な議論  のんきな「先端技術」信仰


 最先端技術も同じです。去年、落合陽一さんの本を読みました。最先端技術に関しては、氏の主張に異論を唱えるつもりはありません。
しかし、落合さんの主張を見ていると、日本の産業構造自体に技術普及を阻む問題があることに言及していらっしゃらないことが気になります。
あまりにも規模の小さい企業が多すぎて、技術の普及が進まないだけではありません。残念ながら日本では、せっかくの最先端技術を活用する気も、活用するインセンティブも持たない企業が大半なので、落合さんの英知が幅広く役立てられることもないように思います。


 経済産業省のやっていることも輸出の発想と同じです。最新技術を導入すれば、経済は伸びる。しかし、実際には技術はなかなか普及しない。小さい企業は最先端技術を導入するお金がない。「ならば!」ということで、技術導入のための補助金を出す。 これもまた対症療法です。なぜなら、大半の企業は規模があまりにも小さくて、その技術を活用するための規模もなければ、使える人材も、わかる人材もいません。先週の「日本人の『教育改革論』がいつも的外れなワケ」のように、社員教育が著しく少ないことも影響しています。


 のんきな「生産性」の議論


 先日、厚生労働省と打ち合わせをしたときに、最低賃金を上げるのに備えて、その負担を軽減するために、企業に生産性を向上させるための努力を促す目的で補助金が用意されたという話を聞きました。しかし、せっかくの補助金なのに、申請された金額は用意された金額の半分以下だったそうです。やはり、小さい企業は現状のままでいいという思いが強く、生産性向上など考えていないようです。


 経産省も厚労省もまったく思慮が足りていません。分析が浅すぎるのです。 決して公言はしないでしょうが、経産省は「日本企業は、お金さえあれば最先端技術を導入したいと思っている」という前提に立っているようですが、これは事実と反します。何度も言いますが、そもそも日本企業は規模が小さいので、仮に最先端技術を導入したとしても、十分に活用できるとは思えません。 厚労省は、「最低賃金の引き上げの影響を受ける企業は当然、生産性を向上したがる」と思っているようですが、この仮説も根本的に間違っています。


 最低賃金で働いている人の割合が高い企業は、そもそもまともな経営がされていないか、または根本的に存続意義がないに等しい会社が多いので、自ら生産性を向上させようなどという殊勝な考えなど持ち合わせていません。補助金以前の問題です。 そういった企業は、声高に訴えれば政府が守ってくれるとわかっていますので、生産性向上という「余計」な仕事をするインセンティブはないのです。


 のんきな「財政政策」と「金融政策」 のんきな「財政」の議論


 財政の議論も浅いと思います。消費税の引き上げも対症療法でしかありません。 ご存じのように、日本は人口が多く、人材評価も高い割にGDPが少ないです。一方、社会保障の負担が大変重くなっています。そこで、年金の支給を減らしたり、医療費の自己負担を増やして、国の負担を減らすべきだという議論も交わされています。政府は消費税を上げて、税収を増やそうとしています。 しかし、私に言わせれば、この2つの方法は、夢のない、いかにも日本的な現実論にすぎません。この政策は、将来の負担をまかなうために、現状の日本経済が生み出している所得に何%のどういった税金をかけたら計算が合うか、という形で議論されています。あたかも、税率以外の他の変数は変えることができないという前提が置かれている印象です。


 先述した通り、日本の財政の問題は支出の問題でもなければ、税率の問題でもありません。日本の財政の根本的な問題は、課税所得があまりにも少ないことに尽きます。しかし日本の議論では、「所得は増やすことができる」という事実があまりにも軽視されています。
 消費税は上げるべきかもしれませんが、その前に付加価値を高め、その分だけ給料を上げて、上げた分の一部を税金として徴収すれば、それだけでかなりの規模の税収アップになります。


 のんきな「量的緩和」の議論


 経済学の教科書には、いくつかの「インフレの原因」が列挙されています。モノとサービスの需要が相対的に増えること、通貨供給量の増加、円安、財政出動は典型的なインフレ要因です。賃金が増えることも、大きな要因の1つです。
 経済の状況が通常通りならば、財政出動と円安誘導と金融政策で経済は回復します。いわゆる、「インフレは日本を救う」論理です。 しかし、この議論には大きな盲点があります。それは、日本のように給料が減って、人口も減り、消費意欲が低下する高齢化社会では、需要が構造的に減るということです。もはや「通常」の状態ではありません。


 このような状況で、中小企業問題や給料が少なすぎる問題を無視し、金融緩和や円安政策を進めても、通常の効果は出ません(もちろん、やらないよりはマシでしょうが)。給料を徹底的に上げていかないと、金融政策や財政だけでは通常の効果は期待できないのです。 「インフレは日本を救う」というだけの議論は、問題の本質を見極めていない議論です。企業の規模と給料には強い関係がありますから、企業規模を拡大し、給料を高めて初めて、金融政策・財政政策が生きてくるのです。


 あらゆる問題は「給料が少ない」ことに帰する


 デフレ、輸出小国にとどまっている問題、年金問題、医療費問題、消費税、少子化、国の借金、女性活躍問題、格差の問題、技術の普及が進まない問題、ワーキングプア、子どもの貧困、などなど。これらの問題の根源にあるのは、すべて日本人がもらっている給料が少なすぎることです。


 今の政策は、ほぼすべてがただの対症療法です。問題の本質が見えていない。それでは病気そのものを完治させることはできません。
では、どうするべきか。『日本人の勝算』にも書きましたし、本連載でも述べましたが、やるべきことは明確です。世界第4位と評価されている優秀な人材を使って、先進国最低、世界第28位の生産性を上げればいいのです。それだけです。それには、賃金を継続的に上げる必要があります。
このことを、大半の日本企業の経営者が理解しているとは思えませんし、自ら賃金を上げる気のない経営者が多いのも間違いないので、彼らの奮起を期待してもムダです。だとしたら、「High road capitalism」に移行させるために、最低賃金を毎年5%ずつ上げて、彼らに強制的に生産性を引き上げさせるしか方法は残されていません。 それにあわせて、労働者を集約し、企業の規模拡大を促進するべきです。たとえ給料を上げても、企業の規模拡大を追求しない、もしくは小さな企業を守ろうとする政策を実施してしまえば、政策が矛盾し、「High road capitalism」は夢と終わります。
 生産性の向上ができない経営者は、増える一方の社会保障負担を捻出するだけの才能がないのです。潔く企業経営から撤退してもらいましょう。人手不足は当分続くので、労働者は才能のある経営者のところに行けばいいのです。


 最低賃金の引き上げの話を出すと、必ず昨年の韓国で起きたバカげた失敗事例を引き合いに出す人が現れますが、韓国は一気に16.4%も引き上げたから失敗したのです。このことは、すでに何回も指摘しています。だからこそ、日本は毎年5%でいいのです。
また、最低賃金を引き上げると、中小企業は皆つぶれるという意見も必ず寄せられます。しかし、そういう意見を持つこと自体、頭を使っていない証拠だと思います。 すべての中小企業の労働者が最低賃金で働いているわけでもなければ、すべての企業の経営がギリギリなわけでもないので、最低賃金を引き上げたからといって、中小企業が大量に倒産することはありえません。


 日本人労働者の生産性は、イギリス人などのヨーロッパの人々とそれほど大きく違いません。しかし、最低賃金はたったの7割に抑えられているのです。
 人材評価が大手先進国トップの日本は、それを武器に、大手先進国トップクラスの賃金をもらい、再び経済を成長させる。この挑戦にトライするしか、日本に道は残されていません。 それには、中小企業を集約させること。ここに「日本人の勝算」があります。

   (本文の下線は小生がつけたものです)


   東洋経済オンラインより転載
  https://toyokeizai.net/articles/-/275028?page=6 

2019-4-6















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2019年03月26日

増永五佐衛門


 
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1871-1938

 増永五佐衛門はウイキにも載っていない人物です。明治の初めに福井県鯖江に生まれた。ここは雪深く冬の農閑期になると、農家は生活に困るような状態であった。増永が腐心したのは、農家の生活向上、貧困からの脱出である。そこで桐生から羽二重の技術者を招き桐生をしのぐほどの生産を遂げた。しかし明治33年に株式市場が暴落。各地で金融恐慌が発生した。せっかく成長産業になったのに急速に冷え込んだ。 20代であった増永は次の手を打つ。羽二重で失敗したので、持続できる産業を望んだのである。当時の眼鏡は庶民のものではなかった。 それには初期投資に莫大な資本を要しない利点があり、その将来性に掛けて眼鏡枠産業をやることになる。

 なぜ鯖江が眼鏡生産の一大拠点になりえたのか? 増永は「帳場制」というものを組織した。自ら集めた1期生を熟練させ独立させた。その技術者や製造者をグル−プを作らせてそれぞれを競わせた。結果的に品質は向上した。彼がやっていたのは起業の支援である。
 そうしなければ、今頃は眼鏡の増永産業(株)が地域に大企業として割拠していたであろう。
けれど、どこかの不況にぶち当たり消え去った、有名企業の一つになり、過去の有名企業になっていたであろう。彼のみの栄光を個人の能力で求めたのではありませんでした。

 鯖江は今ではイタリア・中国と3代拠点の一つとして残っている。 真っ先に中国の影響を受け苦境に陥った地でもある。それも乗り切った。

 増永の寒村から脱したいという思い、次に理念を共感する人々。そして、導入した技術を広めていく仕組み。切磋琢磨する地域の人間関係。これらが郷土主義のもとにセットになって、初めて産業としてスピ−デ−に発展していく。地域の課題は、直面している地域で解決していくしかない。国家の政策だけでは地方に行き届かない。
 鯖江は素材革命という手法で乗り切ってきたが、そこには大企業が存在するわけではない。小学生のクラスで半数以上の生徒の親は社長であるという土地で成り立ってきた。

 そんな発展も最初の増永のリ−ダ−シップと理念が無ければ存在しなかった。こういう人をノブレスオブリ−ジュの人に挙げるべきである。


 年表

明治4・1871  豪農増永家に誕生
明治20・1887 桐生の羽二重の技術を導入
明治33・1900 生糸の投機で恐慌が起こる。羽二重は失敗する
明治38・1905 大阪より眼鏡枠職人を招く
明治41・1908 眼鏡枠製造体制が軌道にのる
明治44・1911 内国共産品博覧会で「赤胴金つぎ眼鏡」が受賞する
昭和7・1932  日本産業協会から産業功労者として表彰された
昭和13・1938 死亡

    2019-3-26

 ノブレスオブリ−ジュ











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2019年03月23日

坂本龍馬と近江商人  武田鉄也氏による


 
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 龍馬家紋


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 元坂本家の家紋


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 明智光秀、加藤清正、太田道灌らの家紋



 坂本龍馬の家紋「桔梗の紋所」ル−ツは近江で明智光秀という。以前の姓は大浜のときの紋は丸に田であったというから明智とは関係がないのでしょう。大浜氏が才谷屋という稼業で成功して郷士の坂本家から株を買ったときに家紋を変えて郷士になった。龍馬の先祖は坂本家ではない。しかし近江から流れて来たのでしょう。

 没落した武士は造り酒屋や醸造業・商家に子孫が転進しているのは良くあることだ。 龍馬の家は近江商人に続がりのある家と思われる。 それゆえに、龍馬を「そっと見つめる人」が土佐にはいた。

 近江商人は金融ネットワ−ク、流通ネット 廻船問屋に取り組んでいる集団です。龍馬が船を使った交易に携わるよう行動しているのは不思議なことではない。継母の伊與が三度結婚していて2度目の家が廻船問屋の川島家であったので影響・支援があったかもしれません。

 金銭的には裕福であったが土佐の郷士の脱藩浪人にすぎない龍馬が福井藩主に謁見できたり、幕府要人・勝海舟への松平春嶽の紹介状を得られることは普通ではありえません。何らかの近江商人のネットワ−ク支援があったと思われます。

 「龍馬が行く」を百回も読破した武田鉄矢氏が、新しい視点・近江商人ネットワ−クを述べられています。 YouTubeで彼のTBSラジオ番組がおもしろい。「今朝の3枚におろし」という番組で彼の読んだ本を紹介しています。 最近にこれを知るまで「単なる少しエッチな芸能人」であると誤解をしておりました。講談のような上手い語り口は知られていましたが、本物の読書家インテリ芸能人であったと今では思います。


 武田鉄也・司馬遼太郎「竜馬が行く」 TBSラジオ
 https://www.youtube.com/watch?v=eVE8q1BNVso 89分

   2019-3-23






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2019年03月20日

大村藩と渡辺昇


 大村藩は2万8千石(幕末5万9千石)の小藩である。横瀬浦や長崎にポルトガルを受け入れキリシタン大名であった。秀吉と家康に従ったことにより伝来の領地を明治まで維持した珍しい藩である。長崎を領した藩であるため、佐賀藩と同様に海外事情に敏感な藩であり事後にまでその影響を受けた。 幕末には藩論を勤皇討幕にまとめて、鳥羽伏見の戦いでは50人の兵であったが大津方面に進出して貢献した。賞典禄では薩長土に次ぐ4番目の3万石を 受給した。


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1838-1913

渡邉昇は上士の家に2男として誕生。江戸剣術修行で桂小五郎、近藤勇と親交する。帰藩後に勤皇・三十七士同盟を結成。長崎で坂本龍馬に薩調同盟の必要を説かれ、長州への働きかけを頼まれる。 兄の清と共に大村勤皇党を率いて西郷・大久保・高杉・桂と交流、尊王攘夷運動に傾倒した。 大村騒動で佐幕派を粛清して藩論を尊皇にまとめあげる。 明治になり知事や元老院審議官に就任。子爵。近代剣道の発展に尽くした。

 鞍馬天狗のモデルではないかといわれ、剣術にすぐれ幕末には梅沢武平とともに富永快左衛門を暗殺した。品川弥二郎の命令で盛んに人を切ったといわれる。晩年には斬った亡霊に悩まされたという。維新の功労者すべて交わった人であり、おまけに近藤勇からわざわざ危険の知らせが入るような人物だが、世に余り知られていないのは人斬りの印象が強いせいでしょうか。

   2019-3-20



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2019年03月18日

「中年フリーター」がこのまま高齢化する日本の悲劇


ニュ−ジ−ランドで銃の乱射事件が起きたところです。あの平穏な国でと驚くばかりです。日本では低賃金外国人労働者を入国させるように制度化されてきています。
ここで「ロ−リングフォ−テイ対策」を取り上げています。それから6年が過ぎたけれど、一向に改善される気配もなければ問題ありともされていません。 日本でも秋葉原無差別殺傷事件がありました。これは同国人に対してであったが、ニュ−ジ−ランドのように外国人に向かうこともあるかもしれません。 また、内面へ向かった人には人は孤独死の問題が起こっています。
 障害者雇い入れのの雇用枠を満たしていないと昨年に問題となったことがありました。同じようにこの世代の正社員への特別雇用率を制定してもおかしくはありません。 いずれにしろ政府でいったん雇用して正社員になれるスキルや必要な技術を講習するシステム・施設を公費でつくって援助すべき時期だと思います。
  反乱が起きる前にね。


日刊工業新聞 3/17(日) 9:30配信   労働経済ジャーナリスト、小林美希さんに聞く

政策と企業の間違いが生んだ“社会問題”

超就職難の時代に社会へと出た「就職氷河期世代」は40歳前後の中年となった今も、長期失業者や就職希望の無業者が30万人を超え、男性の非正規雇用者比率は10%近い。氷河期世代について長く取材し、「中年フリーター」などの著書を持つジャーナリストの小林美希さんに、この世代の苦境の現状やその要因、救済策などを聞いた。<このままでは手遅れに>
 ―就職氷河期に社会に出た学生の多くが非正規社員として働くことを余儀なくされました。
それから20年ほどが経過し、彼らの就業状況は改善しているのでしょうか。 改善したとは言えず、むしろ自体は悪化していると感じている。2015年時点で35‐54歳のうち、既婚女性を含まない非正規は約270万人。同世代で扶養に入るための就業調整をしていない非正規の女性は約410万人いるという統計を踏まえると、(既婚女性を含めた)非正規は500万人を超えるかもしれない。この世代が若年層だった01年当時の非正規は410万人ほどだった。
 ―小林さんの著書「中年フリーター」では非正規から抜け出せず、“あきらめ”を感じている方の存在も指摘しています。 取材したある男性から「正社員なんて無理。月給20万円なんてぜいたくだ」といった言葉を聞いた。正社員を目指して努力していたが、報われないまま年を取った。その結果、「今生活できていればいい」という気持ちを抱いている。彼らの苦境は深刻さを増している。このまま高齢者になると生活保護を受ける可能性が高まる。社会問題として本当に手遅れになる。

 ― 各年代別に直近の非正規雇用者比率を見ると、就職氷河期世代にあたる40歳前後の非正規比率は他の年代に比べて特段高くはありません。 年代別に見ると問題は小さく感じるかもしれない。ただ、40歳前後の男性の非正規比率について過去と比較すると、この20年で約5倍に増えている。特に40歳前後は本来、働き盛りだ。その年齢層で非正規が多いのは個々の企業で見ても経済全体で見ても問題だ。
 ―40歳前後となった今も非正規で働く人に対しては「時代の変化を受け入れられなかった40歳前後の非正規雇用者の意識にも問題がある」と指摘する声も他の世代などから聞かれます。 世代間などで考えが分断されるのは危険だ。人ごとになると社会問題として膨らまない。今、正社員の若者だって長時間労働による過労状態などが続けば、いつかは非正規として働かざるを得ない環境が待っているかもしれない。人ごとではなく社会問題として考えていくべきだ。
 ―政府は03年に「若者自立・挑戦プラン」を策定するなど、就職氷河期世代に対して就労支援を行ってきました。これらは効果がなかったのでしょうか。 効果を上げたとは言いがたい。多様な支策は講じたが、それ以上に労働者派遣法の改正などの規制緩和によって非正規を生み出しやすい社会構造に変えてしまったため、(非正規から正社員への転換などが)追いつかなかった。労働者を痛めつける政策を進めてしまい、それが今の(40歳前後になっても非正規として働く)中年フリーターを生み出した。一方で企業にも大きな間違いがあったと思う。<技術革新は従業員の生活の安定があってこそ>
 ―企業の間違いとは何ですか。 00年代前半に企業利益はV字回復していった。ただ、それは正社員の比率を下げ、非正規を増やして利益を確保しただけで、本当の回復とはいえなかった。そしてそのまま非正規の多さは常態化している。企業は従業員の生活の安定の上でしか成長するのは難しい。例えば、製造業も現場の従業員が明日の就業環境について不安を抱えている状況ではイノベーションを起こせるはずがない。今から(正社員比率を高めるなどの)転換を図るべきだと思う。
 ―40歳前後となった無業者に対し、今後はどのような政策支援が考えられますか。 国の支援を基に日当をもらいながら現場で実際に働き、企業と個人の双方が合意すれば就職するといった仕組みが効果的だと思う。単純な職業紹介では足りない。長く無業だったり、単純労働ばかりしていたりした人は現場になじめない人も少なくない。その点でそうした仕組みは働いてみないとわからない部分が埋められる。
 ―“あきらめ”の気持ちを抱く方々に有効な手だてはあるのでしょうか。 カウンセリングが必要だろう。ある人材派遣会社の役員に取材した際に「あきらめてしまった人たちこそ我々の出番だ。カウンセリングしながら自信を取り戻してもらう」という話をしていた。派遣会社にはその部分でこそ力を発揮してくれればと思う。

【略歴】小林美希(こばやし・みき) 1975年生まれ。労働経済ジャーナリスト。神戸大法学部卒業後、株式新聞社、毎日新聞社「エコノミスト」編集部記者を経て、07年にフリーに。著書に「ルポ 中年フリーター」「ルポ 保育崩壊」など。

2019-3-18

就職氷河期世代を集中支援 首相、3年計画策定指示
4/10(水) 19:48共同通信配信

 安倍晋三首相は10日の経済財政諮問会議で、バブル崩壊後の「就職氷河期」に社会人となって非正規社員として働く30代半ば〜40代半ばの人を対象に、就職支援を強化するよう関係閣僚に指示した。今後3年間の「集中プログラム」を夏までにまとめ、数値目標も掲げる。中途採用を増やす企業への助成拡充などを民間議員が提言したのを受け「氷河期世代への対応は国の将来に関わる重要な課題だ」と応じた。

 景気回復などで主婦や高齢者の就労が進む一方、氷河期世代の所得が思うように向上せず、正社員化や必要な能力開発が課題となっている

     2019-4-10



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2019年03月17日

龍馬の蝦夷地視察



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神戸海軍操練所

 坂本龍馬は蝦夷地に並々ならぬ関心を持っていました。妻のお龍も「私も行くつもりで、北海道の言葉の稽古をしていました」と回顧している。

 神戸海軍塾の同志4人を蝦夷地視察に送り出している。

安岡斧太郎・金馬
1839-1864 土佐勤皇党 天誅組挙兵で処刑  

小松小太郎
1844-1863 蝦夷地に渡る船中で発病し函館で病死

能勢成章・達太郎
1842-64 禁門の変で自刃

北添桔磨・きたぞえきつま・本山七朗
1835-64 高知高岡郡岩目地村の庄屋の5男、16歳で庄屋色を継ぎ、19歳で大庄屋となる。文久3・1863 本山七郎を名乗り江戸にでる。 池田屋事件で自刃
映画「蒲田行進曲」の階段落ちの彼を描いたシ−ンが有名であるがこれは創作である。

龍馬のこの視察は、京にあふれている浪士たちをそのまま蝦夷地に移住させ、対ロシアを意識した屯田兵と化し、治安回復、北方警備を一挙に行なえる可能性をもった計画だった。
龍馬は下田で海舟と会合し、京摂の過激の輩数十人(あるいは200人程)を蝦夷地開拓と通商に送り込む構想を話し、老中・水野忠精も承知し、資金三、四千両も集めていると述べている]。

 池田屋事件と禁門の変で操練所の仲間が加わったことにより操練所が閉鎖になり混乱したことにより蝦夷地の件は実行されなかった。暗殺されてしまいましたが、龍馬の祖尾後の活躍で維新の功業がなったわけで、蝦夷地移住が行われていれば、日本の歴史も違ったものになっていたでしょう。

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北海道坂本龍馬記念館

 明治になり親族が北海道に移住している。海援隊同士の菅野覚兵衛も夢を引き継ぎ福島の原野開発に投じている。


   2019-3-17



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2019年03月13日

大戸屋 一斉休業で社員研修


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 チキン かあさん煮定食


 昨日「大戸屋」で1日休業して研修を行ったという報道がありました。休業することにより1億円余の収入が消えたとの報道です。

 「タモリ俱楽部」のTV放映において、「餃子の王将」の店内で意思疎通に使用されている中国語を取り上げていました。 あれですと新人バイトには、その使用に慣れるまでに時間がかかりそうです。 そのことを事前に知っていればバイトする気にはなりません。安い賃金なら「やってられない」という感じでした。

 非正規の人員を利用して、質の高いサ−ビスを提供するビジネスモデルが、最近のSNSに上がっている投稿記事による問題を見るに、そろそろ破綻してきたのではないでしょうか。

 我々老人世代が20代の頃には、正社員よりもバイトの日当の方が高いことがあり、小生でもこれなら就職しなくてもいけるのではと思える時代でした。今では考えられない恵まれた時代であった。そうしてたら人生半ばでホ−ムレスになって野垂れ死にしていたでしょうが。 お気楽なバイト世代には、今のことは分からない。

 下記の記事もおもしろく読みました。
「バイトは教育で真人間にしろ」が、ブラック企業につながる理由」窪田順生

 結論はひとつ「賃金を上げよ」

大戸屋も1億円をバイト賃金アップに使うなり、ゴメンナサイセ−ルでその額を代金の値引きに使うほうが効果があるのかもしれません。ビジネスモデル転換時期の問題なら易々とは解決しないでしょう。

  2019-3-13



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2019年03月10日

ラドガ−ス大学 日本人留学生

 
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ラドガ−ス大学  
 

 長州や薩摩の幕末留学生は最初は英国をめざしました。薩摩の第2次留学は米国になりました。最初の留学生でも費用に困り米国に行くことになる者もでます。 新島襄や漂流民も米国で手厚い教育を受けることがあった。当時の東海岸の米国人は古き良き時代の気質を持っていて、東洋人でも気に入られれば生活や学資のめんどうをみてくれた。人種差別の国の印象が強いが敬虔なキリスト教徒の良き伝統に満ちた人々がいたと言えよう。

 ラドガ−ス大学・Rutgers Universityは州立大学で東部の名門校である。海外留学生の学費は年に300万円程で給付特待学生にでもならない限り庶民には進学できるものではない。
    
 明治の初期に海外へ留学した人は300−500人とも記録されているという。ラドガ−ス大学には多くの人員がそこで学んだ。 1867年、福井藩で最初の海外留学生、日下部太郎は時の越前福井藩主松平春嶽の命を受けて渡米し、ラトガース大学に入学した。日下部は学業では、素晴らしい成果を修めたものの肺結核に倒れ1870年26歳で没した。日下部の墓は今もラトガーズ大学のあるNew Brunswickにある。これが縁となり日下部の出身地である福井市とニューブランズウィック市は姉妹都市関係にある。その後も幕末からの10年間で少なくとも300人以上の日本人がラトガーズ大学に留学したという。その中には松方コレクションで有名な松方幸次郎、海援隊隊士として活動した菅野覚兵衛や白峰駿馬、さらに勝海舟の嫡男・勝小鹿や岩倉具視の息子(岩倉具定・具経兄弟)、最初に渡米した横井佐平太・横井太平兄弟がいた。

 以下、詳しく留学生を見て見よう。

最初の留学生である横井左平太・大平兄弟:横井小南の甥、1864 年坂本竜馬の手引きで勝海舟の神戸海軍 伝習所に入るが、翌年閉鎖された後、1865 年長崎済美館に移りフルベッキから英語 を学んだ。1866 年フルベッキの斡旋でラトガースのグラマースクールに留学するが、 幕府の渡航・留学解禁前だったため変名での密航留学だった。留学資金は横井小楠 の弟子徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)が実家から調達提供した。初めての日本人留学 生の受入実現についてはオランダ改革派外国伝道局総主事フェリスが不足資金の募 金も含めて懇切に面倒を見た。これを皮切りに、以後続々とラトガースに留学生が 送り込まれ、その総数は幕末・明治初期の海外留学生の半数に上った。左平太は 1869 年に薩摩藩英国留学生だった松村淳蔵と共にアナポリス海軍兵学校 に転校する。日本人の入学が禁じられていた米国の兵学校に入学できたのは、フェ リスが動いて米国上下両院の個別決議を取得出来たからだった。 大平は結核のため 1869 年帰国、熊本洋学校の設立に尽力し、フルベッキに外人教 師斡旋を依頼する。しかし、キャプテン・ジェーン着任した 1871 年に大平は病没し た。なお、小楠はフルベッキを長崎の自宅に訪ね西洋事情等を聞いていた。横井兄 弟を嚆矢に、ラトガースに留学するものが相次いだ。

 日下部太郎:福井藩士、横井兄弟同様済美館でフルベッキから英語を学んでいたが、 1866 年海外渡航が解禁されたのを受けて、藩主松平春嶽の命で 1862 年ラトガースに 留学する。グラマー・スクールで当時学生だったグリフィスから英語・ラテン語 を学んだ後、大学 2 年に編入されるが、成績極めて優秀で首席を通した。1780 年卒 業目前で病死したが、大学は卒業と認め、名誉あるファイ・ベータ・カッパ会員に も推挙された。グリフィスがその後福井藩の洋学校教師として来日するきっかけは、 この日下部との出会いだった。

岩倉具定・具経兄弟:岩倉具視の次・三男、長崎致遠館を経てラトガースに留学。

服部十三:岩倉兄弟に随行、ラトガース大学を卒業。帰国後岩手、広島、長崎、兵庫 県知事。

折田彦一:岩倉兄弟に随行、プリンストン大学卒業。帰国後三校校長。

山本重輔:岩倉兄弟に随行、ラトガースを経て、ニューヨークのレンセラー工業学校 卒業。帰国後工部省高山寮、日本鉄道会社技師長。

勝小鹿:勝海舟長男。ラトガースから松村淳蔵と共にアナポリス海軍兵学校に転校

高木三郎:勝小鹿に随行、ラトガース留学、米公使館書記官、養蚕業振興。

富田鉄之助:勝小鹿に随行、後日本銀行総裁、東京府知事。

高橋是清:勝小鹿に同行、米国到着早々奴隷扱いされて翌年帰国、フルベッキが大学 南校時代に森有礼に託され高橋是清を自宅に預かる。後大蔵大臣、総理大臣)、

鈴木知雄:勝小鹿に同行、高橋是清と共に奴隷扱いされて翌年帰国、後日本銀行出納 局長

畠山義成:薩摩藩英国留学生、アメリカの T.L.ハリスのキャンプ40を経て、ラトガー ス大学に入学、その後岩倉使節団に現地参加。帰国後東京開成学校(現東京大 学)初代校長。

松村淳蔵:薩摩藩英国留学生、アメリカの T.L.ハリスのキャンプを経て、ラトガース 大学に入学。その後勝小鹿と共にアナポリス海軍兵学校に転校。帰国後海軍兵 学校長、海軍中将。

吉田清成:薩摩藩英国留学生、アメリカのハリスのキャンプを経て、ラトガース大学 に入学。アナポリス海軍兵学校を目指すが断念。帰国後大蔵小輔、米国公使、 農商務大輔など。米国公使の時、寺島外務卿の下で条約改正交渉に従事。

菅野覚兵衛:土佐勤皇党、神戸海軍操練所、海援隊、明治2 米国留学、明治7 帰国して海軍省、郡山で原野開拓。

白峰駿馬:長岡にうまれる、神戸海軍操練所、海援隊、明治2 米国留学、明治7 帰国、
明治11 白峰造船所を経営。



 ラトガース留学生が並外れて多いのは、フルベッキ以外にもオランダ改革派・ラトガース大学人脈が多数来日していたこと(初に来日した三人に続いて、バラ、スタウト、クラーク等の宣教師、福井藩校教授に招聘され、後大学南校に転じたグリフィス、文部省顧問として招聘されたモルレー、2代目米国特命全権公使のブルイン等)と、受入側のオランダ改革派外国伝道本部総主事フェリス父子の積極協力に負う所が大きい。

 安政 5 年(1858 年)に日米修好通商条約調印されると、米国プロテスタント教会三派が一斉に日本に宣教師を派遣した。 安政 6 年(1859 年)に米国の聖公会がリギンスと C.W.ウィリアムズを長崎に、長老教会がヘボンを横浜に、オランダ改革派がブラウンとシモンズを横浜に、フルベッキを長崎に派遣した。 蘭学から英学 への転換が急務だった幕府や諸藩は、競って宣教師を英語教師に雇った。このような 情勢下長崎に着任した米オランダ改革派の宣教師フルベッキは、幕府洋学校の英語教 師に、そして佐賀藩洋学校には校長として雇われた。
フルベッキ(Guido Herman Fridolin Verbeck,1830-1898):1859.11 長崎に着任。オランダ生まれで、 22 歳の時アメリカに移住しエンジニアとして就労。26 歳で長老派のオーバン神学校に入学。在学 中にブラウンの教会でドイツ人向け説教を手伝っていた。この年 29 歳で卒業と同時に、「3 人目 はアメリカナイズされたオランダ人」の選考基準に叶いオランダ改革派の日本派遣宣教師に選ばれた。オランダ系フルベッキのフルベッキは人材のあつまった長崎に派遣されたことにより、大隈重信など有用な人材を育成し、初期の明治政府の顧問として大きな活躍をした。 以上 岩崎洋三さんによる


    2019-3-10


  明治維新の裏方 フルベッキと大隈重信 大幡さんによる
  http://oflag.sblo.jp/article/182250790.html?1552181229 


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2019年03月08日

菅野覚兵衛・千屋寅之助



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1842-1893

 司馬遼太郎「竜馬がゆく」を100回余を愛読したという武田鉄矢さんは、菅野覚兵衛が留学から帰国して一般水兵として海軍に入ったと話していました。 奇妙に思えたので、調べてみても、そのことは分からず。入隊後に、2年ほどで少佐になる。そのことは修正されて相応な待遇になり、不思議なことではありません。
 菅野覚兵衛は第2次長州征討時に、高杉晋作と伴にユニオン号艦長として小倉攻撃に参戦している維新の功有る海援隊士です。

 龍馬の妻お龍の妹・君江と結婚する。お龍は出刃包丁を持つて、騙されて遊郭に行きそうになった妹2人を救出した妹のひとりが君江です。 土佐人であり神戸海軍操練所で学び亀山社中を龍馬と作った菅野であるから海援隊の主力の人材となります。

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お龍と君江像

 西南戦争での弾薬庫襲撃事件で、彼は弾薬を水没させて使用できなくする処置をしていますので、その責を負うことはないと思いますが、政府には不興をかったようです。

 龍馬が持っていた北海道開発の夢をついて福島の原野の開拓をする。 52歳で往生を遂げた。


  年表
1842 天保13 10/21  土佐藩の庄屋・千屋民五郎の3男として誕生
             土佐勤皇党に入る
1862 文久2 山内容堂を警護で上京
1864     龍馬とともに神戸操練所に参加
1865     龍馬や陸奥峰光と共に亀山社中に結成参加
1866     四境戦争で龍馬と共に社中の船ユニオン号艦長として参戦
1868 慶応4 お龍の妹・起美と結婚、 戊辰戦争で奥州に参戦
1869 明治2 いろは丸賠償分配金を持ち、海援隊士の白峰駿馬と共に米国ラドガ−ス大学に留学
1877 明治7 帰国して海軍省に入る
       西南戦争直前に鹿児島の造船所次長に赴任して、弾薬強奪事件を処理する
1884 明治17 海軍省辞職、 福島県郡山氏安積原野開拓に従事
1893 明治26 52歳で死去 


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 菅野覚兵衛夫妻

2019-3-8





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