2019年03月20日

大村藩と渡辺昇


 大村藩は2万8千石(幕末5万9千石)の小藩である。横瀬浦や長崎にポルトガルを受け入れキリシタン大名であった。秀吉と家康に従ったことにより伝来の領地を明治まで維持した珍しい藩である。長崎を領した藩であるため、佐賀藩と同様に海外事情に敏感な藩であり事後にまでその影響を受けた。 幕末には藩論を勤皇討幕にまとめて、鳥羽伏見の戦いでは50人の兵であったが大津方面に進出して貢献した。賞典禄では薩長土に次ぐ4番目の3万石を 受給した。


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1838-1913

渡邉昇は上士の家に2男として誕生。江戸剣術修行で桂小五郎、近藤勇と親交する。帰藩後に勤皇・三十七士同盟を結成。長崎で坂本龍馬に薩調同盟の必要を説かれ、長州への働きかけを頼まれる。 兄の清と共に大村勤皇党を率いて西郷・大久保・高杉・桂と交流、尊王攘夷運動に傾倒した。 大村騒動で佐幕派を粛清して藩論を尊皇にまとめあげる。 明治になり知事や元老院審議官に就任。子爵。近代剣道の発展に尽くした。

 鞍馬天狗のモデルではないかといわれ、剣術にすぐれ幕末には梅沢武平とともに富永快左衛門を暗殺した。品川弥二郎の命令で盛んに人を切ったといわれる。晩年には斬った亡霊に悩まされたという。維新の功労者すべて交わった人であり、おまけに近藤勇からわざわざ危険の知らせが入るような人物だが、世に余り知られていないのは人斬りの印象が強いせいでしょうか。

   2019-3-20

 船中発策 筑前勤皇党






posted by 速魚 at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記