2020年01月07日

ノーベル賞はとったけれども



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 吉野彰さん 1948誕生 2019年受賞


 2020年の新春番組でノ−ベル化学賞を取られた吉野彰さんご夫妻が登場されて微笑ましいエピソ−ドを見ることが出来ました。
 マスコミはその栄誉を称える記事は多くあります。しかし、なぜ、リチウムイオン電池が手持ちのスマホやパソコンに、最新の自衛隊潜水艦にまで使用されているのに、GAFAのAが味の素のAになっていないのでしょうか。 いっこうにその疑問・事実を伝える報道はありません。

 シャ−プと東芝が海外に身売りされ、こんどはパナソニックまでが本社を中国に移す動きが見られます。電気産業が移った事実だけならまだ良いのですが、覇権を求めている中国の電化製品に囲まれて、その機器から日常の行動・デ−タを中国に集められ監視される社会がやってくるのかもしれません。

 下記の記事をみつけました。以下はITビジネスオンラインより転載しました。

 「フラッシュメモリー産みの親」東芝が敗北した真の理由

https://www.msn.com/ja-jp/news/money/「フラッシュメモリー産みの親」東芝が敗北した真の理由/ar-BBYG64u?ocid=spartanntp

2020/01/07 07:00


●編集部からのお知らせ:
本記事は、書籍『誰が科学を殺すのか 科学技術立国「崩壊」の衝撃』(著・毎日新聞「幻の科学技術立国」取材班 、毎日新聞出版)の中から一部抜粋し、転載したものです。毎日新聞の取材班が綿密な調査で迫った、日本の科学技術凋落(ちょうらく)の実態。大学の研究現場や、科学技術政策に携わってきた政治家、そして企業にも切り込んだ本書。企業の取材先は、電機メーカーのほか、バイオベンチャー、自動車業界にも渡りますが、今回は東芝の事例に迫ります。
 「ものづくり」で高度経済成長を牽引(けんいん)した日本企業だが、グーグルなど巨大IT企業の出現や経済のグローバル化、新興国の台頭といった社会変革の中で、急速に存在感を低下させつつある。日本の企業はなぜかつての勢いを失ったのだろうか。国内の研究開発投資の8割近くを担う企業の現状と課題を考える。
●「産みの親」、しかしシェアでサムスンに敗北
「君はジョギングしながら音楽を聴きたくないか。フラッシュメモリー(記憶媒体の一種)を使えばそれができる」
 1990年ごろ、東芝の総合研究所(川崎市、現・研究開発センター)で、入社志望の学生に熱心に語りかける技術者がいた。半導体メモリーの研究開発を率いていた舛岡(ますおか)富士雄氏だ。
 重くてかさばる上、揺れると音が飛びやすいCDを使った携帯用音楽プレーヤーがやっと普及し始めた時代。舛岡さんの部下だった作井康司氏は「学生さんは目が点になっていた」と懐かしそうに振り返る。
 今やフラッシュメモリーは、多くの電子機器に不可欠だ。作井氏は言う。
 「舛岡さんはアップル創業者のスティーブ・ジョブズ氏のように、30年先を見据えることのできるビジョナリー(先見の明がある人)だ」
 フラッシュメモリーは80年代に舛岡氏が発明した。半導体で作り、電子の出し入れによってデータの書き込みや読み出しをする記憶媒体だ。磁性を使う磁気テープやハードディスク、光を使うCDやDVDに比べ、データの入出力が格段に速く、小型化・省電力化できるメリットがある。自動車や家電、スマートフォン、デジタルカメラ、ノートパソコンなど多種多様な製品に搭載されている。
 70年代に登場した半導体メモリー「DRAM(デ ィーラム)」は電源を切るとデータが消えるが、フラッシュメモリーはこの弱点を克服した。その可能性に目を付けた米国の半導体メーカー「インテル」は、舛岡氏の最初の発表から三年後にフラッシュメモリー事業部を設置している。
 一方、東芝社内では当時、DRAMの売り上げが全盛期だったこともあり、フラッシュメモリーの評判は芳(かんば)しくなかった。舛岡氏はDRAMの高性能化に取り組みつつ、安価での製造が可能な「NAND(ナ ンド)型」というフラッシュメモリーの開発を継続。91年に世界初の製品化にこぎつけたが、販売では不振が続き、「約10年間、日の当たらない坂道を歩き続けた」(作井氏)。舛岡氏は94年、「フラッシュの先の技術を開発したい」と、東北大教授に転身した。
 NAND型フラッシュメモリーは90年代中ごろからデジタルカメラ用の需要が拡大したのをきっかけに、2000年代には東芝の主力製品に成長した。
 しかし、このとき世界のトップシェアを握ったのは、生みの親の東芝ではなく、韓国のサムスン電子だった。
●投資判断スピードで後れ
 部品業界では供給が滞るリスクを避けるため、必ず複数のメーカーが必要とされる。新たな市場を開拓する手段として東芝が92年にサムスンにNAND型の技術供与をすると、サムスンはすぐに巨額の投資に踏み切り、それが奏功した。
 80年代に東芝の半導体事業を率い、94年に退任した元副社長の川西剛氏は「投資するかしないか、東芝が役員会でもたもた議論しているうちに、サムスンはこれが伸びると信じて投資した。スピード感に差があった」と話す。関係者によると、技術供与の後も社内には「本当にもうかるのか」という懐疑論があったという。
 東芝はフラッシュメモリーを立体的に積層するなど記憶容量を高める技術を次々と生み出した。だが、需要に柔軟に対応しきれなかったため先行者利益を生かせず、サムスンの後塵(こうじん)を拝し続けた。90年ごろにはトップシェアを誇ったDRAMでもサムスンに抜かれ、2001年に撤退を決めた。
 判断が遅れた要因には、東芝が家電から原子力まで多種多様な部門を抱える総合電機メーカーだったことが挙げられる。投資のバランスをとる必要があり、他部門の不振で思い切った意思決定は難しかった。
 長内厚・早稲田大教授(技術経営論)はそれに加え、経営戦略の不在を指摘する。
 「東芝に限らず日本の大手企業の多くは、技術的な優位性があればビジネスでも優位に立てるという思い込みから、同じ失敗を繰り返している。自ら開発した技術がそのまま製品の価値になった70〜80年代の成功体験が忘れられないからだろう。経営の課題を全て技術の問題として解決しようとしてきたところに問題があった」
 パナソニックのプラズマテレビやシャープの液晶パネルなど、日本メーカーの場合、技術は優れているのに世界的な競争に勝てないケースが目に付く。長内氏によれば、一方のサムスンは安く大量に作って売るという戦略の下で、収益を次の事業に投資するサイクルを繰り返して成長してきたという。
●「短絡的な利益ばかり重視されモチベ低下」
 東芝の経営悪化は、大事にしてきたはずの研究開発にも影を落とした。研究開発センターで半導体関連の研究をしていた30代の男性エンジニアは「装置は古く、高額の装置を買う予算もない。短期的な利益ばかりが重視され、職場のモチベーションは下がる一方だった」と明かす。このエンジニアは数年前に他企業に移籍した。
 東芝は18年、半導体事業の子会社「東芝メモリ」を米ファンドが主導する日米韓連合に約2兆円で売却し、「稼ぎ頭」を失った。時代の先を読む発明やアイデアを具現化できる優秀な技術者集団に恵まれながら、ビジネスで勝てなかった東芝。その姿は、日本の産業界全体に重なる。
                                  以上転載させていただきました。

 半世紀も前の昭和の時代に繊維産業の衰退が問題になりました。戦前・戦後から産業構造の転換の初めであった。 繊維産業は令和になってもその変換・展望を見事にやりとげ繊維産業の会社名を残して頑張っております。日本には成功例があります。 金融崩壊の時に銀行を救って存続させましたが、現在は銀行はいらない世の中になってすぐにも大淘汰が近いでしょう。変われなかった銀行のせいです。 電器産業も変革できる救いの手が必要かもしれません。銀行の2の舞にならぬ手段で、また、安全保障上の問題も考慮して。


    2020年 1月7日 今年もよろしくお願いします。


  船中発策  国政改革






posted by 速魚 at 09:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記