2020年04月07日

ヨットクル−ジングの健康寿命



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 速魚 U


 今日四月七日にも緊急事態宣言が発令されます。 小生は現在どうしようかと迷っています。 それは年に一度のクル−ジング最適時期をまもなく迎えるからです。 五−六月は夏の灼熱と台風を避ける絶好の時期です。 おまけにヨットに乗れる年齢に、もう見えてきた上限があります。 クル−ジングしている人々は、老人クラブのような現況ですが、八〇歳を超えた人は見あたりません、そこらまでが限界でしょう。 七〇歳位が健康寿命であると云い、あとはオマケなのだそうです。 七二歳の小生にはそろそろヤバイかも。
今月半ばから上架を予定しています。まずは船底塗りだけでもやっておこうと考えております。

 「三密を避ける」ことが武漢肺炎を感染しないために、それが肝要だそうです。 シングルハンドのヨットは密接・密集・密閉とは関係ないように思えます。 例え小生が感染すれば基礎疾患が豊富な老生ゆえに、すぐに発症して重症化するのは間違いのないところ。 小生はそれゆえに、若い世代と違って発症に気が付かずに他人を感染させてしまうことは少ないでしょう。日本は初動が遅れ、対応を誤ったので、見えない感染が広まっています。 自身が感染をしないことは大事ですが、ロシアンルーレットみたいなもので、避けるのは注意していても無理でしょう。 人に移さないことが大事なことと言えます。

 国民には自粛を呼び掛けておきながら、政府は百人・千人を集めて研修や試験を企画して、一部は中止に追い込まれたようですが知らぬところではやっている模様。今回の宣言ではそれらは無くなると思います。 
 武田先生はグラフを示しながら発症者数ではなく患者数のもので、先の予測は科学ではなく、これまでの事実を認識することは科学の行為であると云う。 それによると、欧米中と比べて日本は規制をする状況では無いと云っています。万単位の欧米と百人単位の日本とでは違いがあると、グラフの斜線の傾きも大きな違いがある。なぜかこの様な見解は知られていない。 いろんな賢智を知っておくことは大事である。

そうは言っても、限られた人生で都合よくヨットをやる理由探しをしている「自分」なのかかもしれません。


    2020-4-7


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桶狭間の戦いの3人



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 『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)

 明智光秀がNHKの大河ドラマに取り上げられています。彼の前半生は不明のことが多いけれど、信長に仕えてからの出世は目を見張るばかりで、10年余で城持ち大名になった。

 桶狭間の戦いでは服部子平太が今川義元の一番槍で、仕留めたのが毛利新介である。
信長は武働きより情報や作戦に寄与した梁田政綱を勲一等として彼に沓掛を拝領させている。 その後に、この3人の活躍は不明で彼らは出世して織田家の有力家臣になっていない。

服部子平太は同姓であり出身地も同郷であることから、興味を持ち調べてみました。ちなみに小生には同姓の有名な忍者がいるけれど、そのどちらも縁もゆかりもありません。 この桶狭間の戦いでは尾張の海部郡に同姓の一族がいる。これが今川と通じていたようであり、この一族の中の一員で、小生は百姓の出自である可能性が高い。由緒ある家計とは縁もゆかりも無いようである。残念。

信長は家臣にはこの作戦の本心を漏らさずに、漏れを恐れたというべきか、少数の家臣を伴い出陣している。 今川が本隊と攻撃舞台に分かれたところに、その本隊・本陣へ攻撃を集中し義元を討ち取っている。 当時は今川70万石で織田は50万石である、織田は水運を押さえて商業的に多くの利益を得ていた。従い云われているほど織田の兵力が少なかったわけではなさそうです。 少数での奇襲と信長軍は云われているが、分断した今川軍の本隊との戦いでは正攻法でも望めたのではないかと思う。中島砦の軍議では簗田政綱は他の家臣とは違い作戦決行を強硬に主張し義元本陣の位置を通報したという。



服部一忠・子平太
 信長の馬廻として仕え、桶狭間の戦いで義元の一番槍。信長死後は秀吉の黄母衣衆になる。小田原の戦功で松坂城を得る。伊勢国一志郡3万5千石。羽柴秀次に付けられ、文禄の役に参戦。秀次連座で所領没収され切腹を命じられる。次男は紀州徳川家に仕える。


毛利良勝・新介
 信長の馬廻として使える。桶狭間の戦いで義元を討ち取る。信長上洛後は大河内城攻めに参加、近習として甲州攻めに随行、本能寺の変で嫡男信忠と伴に二条城で討ち死にした。

簗田政綱・広正
 生没不詳、久之坪城主(春日井郡)、適本陣の急襲と義元の首を挙げることを進言。桶狭間の専攻で3000貫の知行沓掛城を与えられる。その子広政は浅井攻めでは殿軍をつとめ、九州の名族である戸次の姓を賜わる。加賀の国の旗頭になり大聖寺城を与えられる。加賀の一向一揆討伐に失敗した。後に江戸幕府旗本1200石を領した。


   020-4-7




posted by 速魚 at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記