2020年08月15日
更新 中国バブル崩壊と新冷戦
更新 「中国のバブル崩壊」⇒「中国のバブル崩壊と新冷戦」
http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank008.html
表題「中国バブルの崩壊」に「新冷戦」を加えました。
アメリカの対中国への方針の変更により、米中戦争が起こるのではないかと心配させられる現況です。
北朝鮮の首脳が死亡したのではと思われます、それで最近は少しおとなしくなったようです。 しばらく朝鮮問題はそっとしておいてもよいでしょう。
ここでは2013年より「中国の経済的なバブル崩壊」が起こったときの問題を述べてきました。それはいずれの時期には起こるでしょう。 けれども、トランプになって米国の方針の大転換による「新冷戦」が、これから直近の大きな問題となりました。
中国との戦争は、中国バブル崩壊から想起される問題として、小生はここで述べています、この予想は間違いでした。 米国からの対中国政策の転換・新冷戦から、それを考えるべきでしょう。
恐れていた事態が現実にならないように、それを防ぐのには、こちらの平和を誠実に希求し諸国民のの公正と信義を信頼していることだけでは、いけない。また、そのことは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会のためにもならない。 相手国との軍事バランス・均衡を維持することだけが平和を維持できる。 それでも、そのことは平和であるだけで邪悪な相手を打倒できるわけではない。
かって日本は清との海軍兵力に劣り、清の戦艦「鎮遠」におびえて、その水兵による乱暴狼藉を受けた歴史があります。 現在の中国海軍力はいつのまにか抜かれて正規空母2隻を有し2隻を建造中です。日本は2隻の軽空母へ改装中。
下の両国艦艇一覧をご覧ください。
中国海軍艦艇一覧
日本海軍艦艇一覧
エア−カバ−の無い軍艦は先の大戦でもみじめなものでしたが、それから70年余過ぎていますのでなおさらです。航空勢力を加えた戦力で比べれば日本はバランスで均衡したものにはなっていないのが実状でしょう。
日露戦争前の明治天皇が艦艇をそろえるのに皇室の経費を削減してそれに充てた時代があったことを思い出しましょう。
武漢風邪でお亡くなりになったのは1000人ほどです。宮古島に上陸される事態になったらその被害は想像を越えるものになるでしょう。 コロナ国会も大事ですが、政治休戦をしてでもこの事態を審議すべきです。
まず自国の力で敵に侵攻を思いとどまらせるだけの軍事バランスをとることです。
8月15日を迎えて。
2020-8-15
2020年08月13日
開龍寺・白石島

開龍寺は弘法大師が唐から帰国する際に白石島に立ち寄り,ここで37日間の修業をしたと伝わる。
荒れていた寺を福山藩の水野家が保護したことから水野家の祈願所として続く。
明治になり白石島は公有地になり売却されそうになる。開龍寺の住職が先頭になって島外の人の所有となることを回避した。島民はここを菩提寺として他寺から変更し、それに報いる。 ここは島で大事にされる寺となった。
ヨットでこの島に停泊したので、ここへ来てみた。小さな島の割には予想外の規模がある寺である。静かで落ち着きのあるお寺であった。

本堂

大きな石の下にある奥の院 ここで弘法大師が修業したという

石灯籠 奥の院にある、1672年に福山藩4代藩主水野勝種により建立、水野氏により

仏舎利塔 1200年前の仏像があるという、歩いていると目に付く
2020-8-13
2020年08月12日
更新 アトキンソン まとめ

「デービット・アトキンソン まとめ」「を更新しました。
http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank052.html
2020-8-12
別視点
デイビット・トキンソンは工作員か?
林千勝が語る
三橋TV 第295回
https://www.youtube.com/watch?v=lDWJ187SkPU
2020-10-3
2020年08月11日
鞆城

鞆の浦には鞆城ができる前には鞆の浦に隣接する島に大可島城があった。1553年頃毛利元就の命により、尼子氏の抑えとして鞆の浦を望む丘に鞆要害を築いた。1575年そこに京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護のもと「鞆幕府」を開いた。
1600年・関ケ原の戦い後に安芸・備後を領した福島正則がここを修築した。本丸、2の丸、3の丸と1609年まで築城された。城域は北は沼名神社参道、東は福善寺南は鞆港の大規模でなものであった。3層3階の天守があったというが、家康の嫌疑がかかり廃城となった。
福島正則1619年に広島城を幕府に無断で修理したとして改易されるが、それ以前に鞆城の件があったのだ。その資材は福山城新築にに持ち込まれたという。江戸時代を通して町奉行所が置かれた。

この石垣は当時のものかは不明、ここを登ったところにある歴史民俗資料館あたりが本丸

3の丸石垣
2020-8-11
2020年08月09日
津山・城東むかし町
国の街並み保存地区

津山城下町図 武家屋敷は灰色部分
津山城を見た後で出雲街道沿いにある城東街並み保存地区へ向かう。10分もかからずに徒歩で訪れることができる。
街道沿いに1qに渡り古い町並みが残っている。両替商を営んだ梶山邸や蘭学の箕作阮甫の生家が見られる。

街並み その1

街並み その2
箕作阮甫(1799-63)といっても、その名前を憶えている程度で幕末の人位の認識であった。 調べてみると医者の家に生まれ、藩医になる。 藩主と供に江戸へ行き蘭学を学ぶ。
幕府に召し抱えられて藩書調所の首席教授に任じられ、ペリ−の国書を翻訳した。 医学、兵学、語学など多数の書を世に出した。 息子がいなかった関係で優秀な弟子と娘を結婚させたので後に有名な学者を輩出している。明治になる前に亡くなった。

箕作阮甫旧宅

箕作阮甫の庭

旧梶村氏邸 元禄の時代からの商家 庭園は国名勝地
2020-8-9