2021年07月02日

庭瀬城 と 懐川城(なつかわ)


庭瀬城 と 懐川城(なつかわ)



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 JR岡山駅より倉敷方面へ山陽本線か伯備線に乗りJR庭瀬駅で下車する。 いつもの雨の中徒歩で庭瀬城と武川城を訪ねた。 上図でも分かるように、ここらは水郷地帯になっており、一般の住宅のすぐ横を水路が通る。それもその水位が高くて、ちょっと雨が降るとこの地区は床下浸水になるのではと心配になる。 先の吉備町の水害の時はどうであったのか。


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 水路近くの家



    庭瀬城


  備中國の三村元親が、備前国の宇喜多氏の備えとして庭瀬城を築かせたと伝わる。 撫川城はその縄張りの一部であったと云います。
 宇喜多直家の家老であった戸川達安(みちやす)(1586-1628)(25000石)は宇喜多家を出奔、関ケ原の戦いで家康に属しその戦功により庭瀬藩初代藩主となる。戸川氏は断絶した時期がある、その後に久世氏と松平氏が入封し、1699年には板倉氏が入り幕末までここを支配した。



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 庭瀬城 古図  清山神社は陣屋跡



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 庭瀬城跡



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 庭瀬港


 井出浜の庭瀬外港で、関西から運ばれてきた積荷を降ろし、庭瀬内港(遡行上限の川湊)に運ばれ、東端には常夜灯が設けられ、水陸交通の拠点として栄えた。 


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 庭瀬港(旧庭瀬内港)  常夜灯



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  庭瀬港  表御門と常夜灯付近の図



 庭瀬往来(鴨方往来)は、近世山陽道とも結ばれていることから、ここは水路と陸路の交わる交通の要地であった。 それゆえ道標が多くみられる。 山陽本線が開通するまで栄えたという。



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 道標  金毘羅と吉備津を表示




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  庭瀬往来の街並み





   撫川城(なつかわ)


 戸川家改易後に5000石で弟の戸川 逵冨(とがわ みちとみ)がここに陣屋を設けた。

 東西70mで南北57mの長方形であり、幅15mの堀が巡っている。 周りは民家が建っているがそこに住んでいてお城を見ながらの生活とはいかがなものであろうか?
それにしても大雨が降ると思うと心配である。



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 入り口にある門は明治に陣屋総門を移築したもの





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  本丸





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 南側 正面





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 西側 石垣


      2021-7-2
posted by 速魚 at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記