2022年08月31日

国府尾城 (こうのじょう)

 

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 島後 隠岐の島町、  国府尾城と後醍醐天皇行在所跡・隠岐国分寺



  何も予備知識がないまま、レンタサイクルで西郷湾の西郷大橋付近で,通りすがり偶然に国府尾城跡案内板を見つけた。 国府尾神社の裏山にその城は位置する。

 後知恵ですが、この城は隠岐一国を統一した隠岐清政(宗清)によって築かれた。清政は尼子氏の力を借りて統一。後に毛利氏に攻められて吉川氏の傘下となる。 江戸時代には堀尾氏の支配となるが、一国一城の令により廃城となる。



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  国府尾神社・城  登り口



 

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 国府尾城地図



  階段を何か所か登っていくと国府尾神社にいたる。 ここは2の丸か本丸かは不明である。 さらに奥の細い道を進むと井戸や堀切が見られた。



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  国府尾神社





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 井戸跡







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 堀切



          2022-8-31


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2022年08月30日

隠岐国分寺



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 島後 隠岐の島町、  国府尾城と後醍醐天皇行在所跡・隠岐国分寺


 レンタカ−を借りて島の東側を回った。 その時に隠岐国分寺に立ち寄る。

 奈良時代に日本各地建立された国分寺は現在でもその地名として残っているところが多い。本堂は明治と昭和に再建されたが、二度とも焼失して、また、建て直されている。 消失の後に発掘調査をして、旧本堂跡とされるところが見つかった。 近くに隠岐国分尼寺跡も発見されている。


 
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 隠岐国分寺  明治の廃仏毀釈で焼け、1950年再建しまた消失、 2014年本堂再建




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  後醍醐天皇行在所跡、  黒木御所も後醍醐天皇行在所と言われるが判然としない





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  山門


 国分寺の隣に牛突きの会場Oki Momo Dome がある。 ニュ−ス等でそれを知るのみで、実際には目にしたことはない。


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  Oki Momo Dome





        2022-8-30


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2022年08月29日

黒木御所と由良比女神社  西の島





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  黒木御所と由良比女神社 


 係留している中の島・菱浦から内航フェリ−・連絡船(200円)に乗り西の島・別府へ行ってきた。 そこではレンタサイクルを借りて、黒木御所と浦郷の由良比女神社を訪ねる。

  黒木御所

 

  黒木御所は連絡船やフェリ−を降りてすぐ徒歩5分位でいくことができる。 黒木御所碧風館では20分程度の解説が聞いた。 そこから少し登って行くと黒木御所に至る。

 後醍醐天皇が元弘元年(1332年)に討幕の戦いで敗れ、後鳥羽上皇の先例に習い隠岐へ配流になり、黒木御所に移された。 約1年後に脱出して「建武の中興」となる。





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  黒木御所案内板




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 黒木御所碧風館、  展示と説明がある



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  黒木御所跡



  由良比女神社



  西の島の別府から山越えの道を抜けると橋があり、その手前を降りてゆくと鶴丸ホテルへ出る。海の駅も併設されていてヨットが係留できる。



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   隠岐シ−サイド・鶴丸ホテル、   海の駅桟橋   




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  西ノ島大橋



 トンネルを抜けて西ノ島大橋(21m)を通ると浦郷地区へ出る。 ここは観光船に乗ることができる。 由良地区へ行くと由良比女神社がある。そこは平安時代には隠岐一の宮であった。 千夫里島からここに移築されたとかで、その時のイカにまつわる云われがある。 神社の下の浜にイカの大群が押し寄せるようになり「イカ寄せの浜」と名付けられた。 イカ長者が何人も生まれたという。



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  由良比女神社、 一の鳥居と本殿




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   イカ寄せの浜


        2022-8-29



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隠岐神社

  




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  菱浦と隠岐神社、   赤丸は菱浦ヨット係留地



  中の島の菱浦にヨットを係留した。 そこからフェリ−乗場にある観光案内所で自転車を借りて、隠岐神社に向かった。 フェリ−の到着時間に合わせてそこへ行くバスもある。 菱浦から諏訪湾沿いに海士町の役場を経由して隠岐神社に行くことができる。 所要時間は15−20分くらいでしょう。  

 隠岐神社は後鳥羽上皇を祀った神社である。 後鳥羽上皇が1221年(承久3年)執権北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れて隠岐に流された。NHKの大河ドラマで、もうすぐ承久の乱について放映されると思う。 御在所跡、御火葬塚、資料館を見た。




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  隠岐神社 鳥居




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  隠岐神社 拝殿



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  後鳥羽上皇 御在所跡



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 後鳥羽天皇御火葬塚、  1236年後鳥羽上皇が崩御され火葬



 ここの帰りに村上家と因屋城を訪ねた



  村上家と因屋城 中の島

 

 後鳥羽上皇をお世話した村上家である。 資料館で案内の方に村上海賊とは関係があるのかどうかと尋ねた。 その関係した資料は見つからないと答えられた。 しかし村上海賊に関係した子孫の方はこの島にいるということです。 江戸時代であるか明治なのか定かではないが、全国長者番着けにこの村上家は載っている。かなりの有力者であったのでしょう。  というより、敷地から因屋城に行ける。 敷地の中に祖先が作った城跡の遺跡を持つ。 有力豪族であったのだろう。





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 村上家・資料館



 戦国期には毛利に味方し1566年尼子についた丹後・但馬の海賊衆が攻めよせてきたが撃退した。




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  因屋城の案内板





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  本丸跡、(標高20m)  朝霞神社の祠


    2022-8-28

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2022年08月26日

仙崎    金子みすずの湊

  

 角島から仙崎に行く。青海島と大島の水道を抜けて仙崎湾に入り仙崎漁港へヨットを着けた。 大きな漁港なのでどこに着ければと迷うところだ。

 仙崎人口島の一角(下図の赤丸)に着けた。 土曜日で漁協が休みなので近くの漁師さんに了解を得た。この位置は先に遊漁船が定留しているが空いているようだ。 他の係留候補を青丸で3か所示した。1はタグボ−トの後ろ、2は水産高校の漁業練習船の後ろ、3はセンザキッチンのある岸壁である。 x印は地形的にはよさそうな入り江であるが、ボ−トが利用していて余地はない、錨泊なら可能でしょう。

 観光施設のセンザキッチンでは海の駅が付属していて、1隻くらいのバ−スがありそうです。 また仙崎では買い物や給油は可能です。ここにはコインシャワ−や観光案内所があります。

 

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 仙崎   赤丸は停泊地  青丸3か所は係留候補



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 仙崎   ヨット係留場所



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 1の泊地候補



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 3の泊地候補

 

  ここ仙崎では「金子みすゞ記念館」と「源範頼のお墓」を訪ねた。



   金子みすず

 テレビの連続ドラマで彼女を放映していた。 10年も前になろうか。  記念館ではそのドラマで使った仙崎の本屋のセットを使って内部を再現している。 

 

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 元にあった地に再現された金子文英堂書店、 この奥に本館がある



  彼女のやさしい人格の詩が大好きです。



 『私と小鳥と鈴と』

 「みんなちがって、みんないい」

 私が両手をひろげても、
 お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、
 地面(じべた)を速くは走れない。

 私がからだをゆすっても、
 きれいな音は出ないけど、
 あの鳴る鈴は私のように、
 たくさんな唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、
 みんなちがって、みんないい



 ヨットを係留した仙崎人口島の一角に弁天島がある。そこを「みすず」さんが詠んだ。

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  弁天島



  金子みすず通りを奥の方に歩いてゆくと彼女のお墓がある遍照寺がる。



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 金子みすず  お墓  遍照寺


      2022-8-27



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鷺浦、 出雲

   





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   鷺浦と十六島



 鷺浦は泊地の面積が小さい漁港ですが、奥まった湾で諸風を防ぐ良港です。 しかし、その港の入り口まで航行したが、防波堤の先端で合図を受けて入港拒否にあいました。 港内では作業船が工事をしていたが、予定していた防波堤の端の係留地は空いていてヨットを係留できる状況であった。 納得のいかない気分で、取り急ぎ次の係留地を決める。 十六島へ行くことになった。


 

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  青丸は停泊予定地



     2022-8-26



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2022年08月25日

南風泊  (はえどまり)




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 南風泊     赤丸は停泊地



  新門司マリ−ナにて日本海北上への好天気を5日も待つた。 このマリ−ナでは運が無く、訪れるたびに多くの待機の日を過ごすことになる。 Windyを眺めつつ機会を待つ。 それまでの北西系統の向かい風がやっと収まった。 翌日からは待望の南東系の風が吹くことになる。

 出港当日は、まだ期待の風は吹いてはいなかったが風力2-3の向かい風の状況であった。 関門の潮を待って転流から追潮で通狭、船も少なく無事通過した。 六連島を通過したころから船足が3ノット程度に減速した。 潮が変わって向かいになったか、親潮の影響でも受けているのかと思っていた。

 今日の予定は室津である。 北西の風が吹いているので室津ではウネリが入り、 停泊に不安を覚えたので、蓋井島へ行こうと考えを変えた。 午後を過ぎて向かい風が強まって白波が立つようになった。
 蓋井島に1マイル程にやっと接近したが、船速は1−2ノットである。 いつまでたっても島にたどりつけない。 いよいよ諦めて反転する、追い風にして南風泊(はへどまり)漁港に向かうことにした。

 今回は下調べが不十分であったのでそれに変わる漁港を知らない。 古い話になる、南風泊は30の時に、はや45年も前になるのであるが、その記憶にすがって訪ねることにした。 追手3ノット強で夕方までにはそこに着くことができた。

 しかし、昔の面影があるはずもない。 ニュ−スを見て憶えておられる方もいると思いますが、ここは漁協でのトラフグのセリで有名です。 袋に手を突っ込んで見えないように指値を知らせてセリを競う画面がフグのシ−ズンの見せ場である。南風泊は日本のフグの集散地である。 フグの加工工場が漁港近くに多くあるようでその匂いが立ち込めている。

 シ−ズンで無かったのでしょう。 近代的に改修された岸壁は大きく空があった。 給油にスタンドまで空タンクを抱えて20分ほど歩いて行ったのですが、帰りは親切にも店員さんが来るまでヨットまで送っていただきました。 買い物と銭湯は不明です。



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  関門海峡から蓋井島





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  六連島    ここに停泊できるという



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 南風泊の港入り口







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 南風泊  停泊地



   2022-8-25

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2022年08月24日

角島

 



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 角島漁港    赤丸は停泊地



 角島は今回の隠岐巡行で2度お世話になった。 最初は南風泊からホンダワラのペラの絡みの減速で悩まされながらも午後に入港した。給油を終えると夕方になった。 それからソフトスキンを着て潜ったのだけれど、ホンダワラをプロペラより取り除く作業が終わった時には寒さを感じて震えがきた。 15回近くも潜った中で今回は一番キツイ思い出になる。

 角島は本土と橋(18m)で続がっている。 橋を航行したことがないけれどNew Peck スマ−トで見てみると浅いところに注意が必要です。 沖は吹かれていても港近くに来ると収まるので、良い避難港になると思われる。 関門を抜けて潮が良ければ一気に角島へ来ることができる。2度目の寄港の時にはここを出て、新門司マリ−ナまで行くことが出来た。

 角島漁協では給油ができる。最近は給油できる組合は少なくなった。 購買所があるけれど、付近に商店が無い割には品数が少ない。 パンと牛乳を買ったのみ。 弁当もなし。 ここへ来るまでに買い物をしてくる必要があるようだ。



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  角島   夕暮れの係留地


 

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  ホンダワラの他に青いビニ−ルシ−トがペラに絡んでいた


        2022-8-24




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2022年08月22日

七類







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  七類港、 沖から入り口を探すのに苦労した、フェリ−が出入りすれば容易に見つかるが。





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  フェリ−乗場、   タ−ミナルに入浴施設有り



 七類港は隠岐諸島へ行くのに拠点として利用した。 港湾局の事務所があり、そこに連絡する。 皆が云っているのですが、その係員の人は大変親切な人であると。 飲み水補給可能。 200円で入浴施設あり。 買い物と給油は不便である。

 町内バスが有り、乗り継いで堺港までいける。また、フェリ−の入港に合わせて松江や境港へ行く連絡バスがある。

 港が大きいのですがウネリが入る。3−4隻の遊漁船の停泊場所の後ろの限られたスペ−スに着けることになる。遊漁船の出入での引波の影響を受ける。 ここでの台風避難を考え港内の漁港のスペ−スを探したが適当なところが無かった。



 

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 係留地、  遊漁船の後方になる



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  七類港ヨット停泊、   赤丸は停泊地 xは余地なし 紫丸は台風向け



  

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 ここの台風避難場所は特別に許可がいるように思えます



 幸い台風は左半円になり大したことはなかった。 小生は七類港をあきらめて十六島で対策を取ることに決めてここを出港した。



    2022-8-23


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江崎

  



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 江崎   赤丸は停泊地

  江崎へは隠岐行き帰りに2度立ち寄る。 諸風を防ぐ良い港である。 ウネリが入り込むこともない。 港のスペ−スも広く空を見つけやすいと思う。 おまけに近くに温泉がある。 買い物は少し不便であるが、30分歩くことを覚悟すればできる。 燃料は量にもよるが持って来てくれるガソリンスタンドがある。



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  漁船の前に着けた。 作業船は2度ともあの位置で作業をしていた



  買い出しに行く途中で橋を渡るとき変わった建物を目にした。 西光寺六角堂という。 身を投げた娘の供養のために作られたという。



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  西光寺六角堂



       2022-8-22

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2022年08月21日

温泉津

      

 

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 赤丸は2回の停泊地 青丸はお勧め停泊地、  温泉津と沖泊、 付近の3つの城跡



  温泉津の温泉はヨットマンにも良く知られていて、山陰へクル−ズに行くと話すと温泉津への訪問を勧められます。 20代のはるか昔にいったことがあるので温泉のことは既に知っていました。 今回は隠岐への巡航で2回行き帰りここを訪ねる。 最初は温泉津港灯台を過ぎてホンダワラが絡み減速を強いられた入港となった。湾奥の漁協近くの防波堤の先に着岸した。そこで潜ってホンダワラの除去を行なった。 南寄りの風でここはウネリが入った。 帰りは入り口近くの物揚岸壁に着岸した。 温泉津は泊地に悩むところであるが、漁協との相談の上物揚岸壁と漁協岸壁の間にある防波堤の内側がウネリも防ぎ良い係留地になると思われる。 そこは漁具がたくさん置いてあるようですが、着けてもよいということです。  地図の青丸の位置。 


 
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  ホンダワラを取り除いた



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  1回目の停泊地



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  2回目の停泊、  後ろはジャリの積み出しをしている




   沖泊湊、 鶴丸城、櫛山城、笹島城


 帰る間際になって、近くに城跡があることを知り。探して見た。ここは毛利氏の時代に石見銀山の銀を積み出す港に使われていた。 そこは現在の温泉津港ではなく湾先にある沖泊湊になる。 

 2回目に係留した物揚岸壁からトンネルを抜けて徒歩5分の近くに沖泊湊がある。 そこには細工の手の込んだ飾りがある恵比寿神社があった。それを見た時には、それが打ち捨てられたような集落にふさわしくないように思えた。ここが銀の積み出し湊であったことを知れば、往時の盛況さゆえに、その神社はここに在るのは納得のいくものである。 

 温泉の入り口に内藤家・庄屋屋敷がある。 関ケ原合戦の敗戦により毛利家が30万石に減封になった時に、ここの管理を担されていた内藤家は土着して庄屋を務めた。


 

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  内藤家 庄屋屋敷



 

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  恵比寿神社



 日本は江戸時代の前期の最盛期には世界の銀の産出量の1/3を算出した。その大部分を石見銀山が占めたという。大内・尼子・毛利とこの銀山を取るのに戦い、最終的には毛利氏に銀山は属した。 毛利氏はここを守るために内藤氏に鶴丸城を築かせた。


 下図のように、鶴丸城跡は温泉津港灯台のある岬にある。櫛島にある櫛山城と鶴丸城、また入り口の対岸にある笹島城の3つでこの沖泊を守っていた。いずれも時間的な制約があり、訪ねることができなかった。

 沖泊はヨット泊地として訪ねたいところである。櫛島の東側Aに小さい防波堤がありその内側にはつけられそうである。 錨泊や槍着けならもっとできそうである。 2回目の訪問ならここへ行けば良かったと思う。 年齢的にはもう無理そうなので、 若い方のここの訪問記でも読みたいものです。



 

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  城跡と沖泊   赤丸はヨット停泊候補地 AとB






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  恵比寿神社近くの停泊候補地 B





          2022-8-21





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姫島

  



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  姫島 赤丸は停泊地



 九州の東側や関門海峡を抜けて北側に行く機会があったが姫島には今回の隠岐行きの帰りに初めて立ち寄った。 フェリ−岸壁の横に階段だ設置されている漁協前の岸壁に下記写真のように着けた。 日本海で20-30cm位の潮汐にここのところ慣れてしまったので、瀬戸内の2-3mもある潮汐には忘れていた記憶を思い出さされた。 その岸壁が高いという感想を覗けば、小ス−パ−、銭湯、ガソリンスタンドがあり不便はないようだ。


 

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 姫島の係留地




 暗くなるまでの間、姫島を歩いてみた。 ロ−カルな偉人の像や記念碑があった。 けれどこれにはよそ者には興味が湧かない。 庄屋さんの建物があった。 明治の時に村の有力者は郵便局長になったのでしょう。 その趣のある建物を見る。 ここは杵築藩の領地であり、その保護を受けていた大帯(おおたらし)八幡社がある。 その大松が目に留まったので写真を撮った。 この神社の祭礼に船曳行事にしようされる御神舟八幡丸の収納庫が見られた。




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  古庄家  村の郵便客を営んでいた元庄屋




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  大帯(おおたらし)八幡社にある松




      2022-8-20




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2022年08月20日

萩城下町 その2   高杉晋作の志

    
 JR東萩駅にて自転車をレンタルして、萩の城下町を散策した。それを松本川の右岸地区と左岸地区に分割して掲載する。


 参照   ぶらり はぎ散歩  地図    この散歩地図を見ながらサイクルしたので、 場所の位置詳細は左記の地図をご覧ください。


 これで萩の維新関連の場所は廻ることができます。 現地で手に入れると良いと思われます。





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 @ 御船蔵

 A 旧山村家旧宅

 B 野山獄、 岩倉獄

 C 女台場

 D 繁沢家長屋門

 E 木戸孝允旧宅

 F 青木周弼旧宅地

 G 高杉晋作誕生地

 H 旧益田家物見櫓

 I 旧周布家長屋門

 J 北の総門

 K 旧厚狭毛利家 萩屋敷長屋

 L 口羽家住宅

 M 旧児玉家長屋門

 N 村田清風別宅跡

 O 久坂玄瑞誕生地

 P 旧田中別邸

 Q 井上剣花坊誕生地

 R 渡辺萬蔵旧宅

 S 山形有朋誕生地

 ㉑ 旧湯川家屋敷

 ㉒ 桂太郎旧宅

 ㉓ 井上勝旧宅

 ㉔ 前原一誠旧宅

 ㉕ 堀内鍵曲

 



  街並み保存地区 浜崎



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  浜崎保存地区 @ A





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 @ 御船蔵  藩主の御座船や軍船を格納した船倉、現在は埋め立てがあり川岸と離れている。4つの船倉   があったという。




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 A  旧山村家旧宅   江戸時代後期の大型の町屋である。



 

 200石取りの岩倉が西隣の野山200石取へ酒に酔い切り込み殺傷事件を起こして、両家が取り潰しになりそれぞれ監獄となった。



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 B 野山獄  士分のあるものの監獄となる。 吉田松陰がここに投ぜられた





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 B 岩倉獄  庶民が入獄し待遇も悪かった、松陰と渡米に失敗して捕えられた金子重輔はここで獄死した




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 C 女台場  海防のための土塁築造に武士の妻や奥女中が参加したので女台場とよばれる




  重要伝統的建造物保存地区  堀内地区  侍屋敷地区

 三の丸のほぼ全域で藩の上級武士が住んだ。 明治になり多くの人が東京に住んだという。 今でも地元の人は堀内の住所だと上流の人だと思われるという。 L M I H J M 


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  堀内地区 三の丸




  同  武家屋敷区

 北の総門から堀之内を出て、菊屋横丁、伊勢屋横丁、江戸屋横丁に囲まれた地域. 200石程度の中級武士の居住区

  G F E 

 

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  武家屋敷地区



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 D 繁沢家長屋門  1094石取りの藩の要職




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  E 木戸孝允旧宅  



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 F 青木周弼旧宅地  蘭学医、シ−ボルトに師事、高杉晋作が痘瘡にを治療


 

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 G  高杉晋作誕生地
 



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 H 旧益田家物見櫓  須佐に領地を持つ永代家老、禁門の変で切腹





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  I 旧周布家長屋門  永代家老益田家の庶流、1530石取り





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 J 北の総門  3の丸(堀内)に入るための門、他に中の総門と平安古の総門とで城下町を分けた



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 K 旧厚狭毛利家 萩屋敷長屋  萩城の南すぐちかくにある、厚狭毛利家の武家屋敷、8371石を領す、





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  L 口羽家住宅  江戸藩邸の門を移築した、永代家老に次ぐ家柄





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  M 旧児玉家長屋門  2243石取り、




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 N 村田清風別宅跡  藩政改革を行い、その財力が維新への原動力となった





 

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 O 久坂玄瑞誕生地  松陰に学び絶賛されたが禁門の変で死す




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  P 旧田中別邸  26代総理の田中義一の別邸  





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 Q 井上剣花坊誕生地  明治3年に生まれ川柳で活躍



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  R 渡辺萬蔵(わたなべこうぞう)旧宅  天野清三郎ともいい、松陰に学び、尊王攘夷の運動に加わる、米英に留学して造船を学ぶ、
  
http://hayame.sblo.jp/article/168843234.html



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  S 山形有朋誕生地



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   ㉑  旧湯川家屋敷   藍場川が邸内に流れている、城下に行く水を管理していたという




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  ㉒ 桂太郎旧宅  桂太郎が少年時代にここで過ごした、建物は明治42年に移築されたもの




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  ㉓ 井上勝旧宅   長州ファイブとして英国に渡り、鉄道の父として活躍



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  ㉔ 前原一誠旧宅  前原の表札があったが、見学できないようです。静かな佇まい




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  ㉕  堀内鍵曲 (かいまがり)  侵入した敵を迷わせるもの



   萩城下町 その1



   2022-8-19

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2022年08月18日

萩城下町 その1  松陰の町と夢

       

  JR東萩駅にて自転車をレンタルして、萩の城下町を散策した。それを松本川の右岸地区と左岸地区に分割して掲載する。



    参照  ぶらり はぎ散歩 地図   この散歩地図を見ながらサイクルしたので、 場所の位置詳細は左記の地図をご覧ください。

     これで萩の維新関連の場所は廻ることができます。 現地で手に入れると良いと思われます。  



   松本川の右岸地区 松陰神社など



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  松本川右岸地図  松陰神社など



  以下を自転車で見てきました。


 @ 松陰神社、松下村塾、吉田松陰旧宅

 A 松浦松洞誕生地

 B 品川弥二郎誕生地

 C 吉田稔麿誕生地

 D 伊藤博文別邸

 E 玉木文之進旧宅

 F 東光寺

 G 山田顕義誕生地

 H 楫取素彦旧宅

 I 郡司鋳造所跡

 J 萩反射炉

 K 恵美須ケ鼻造船所跡

 L 吉田松陰誕生地

 

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 @ 松陰神社、 ここに塾や旧宅がある



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  @ 松下村塾 半世紀前に訪ねたがこの場所にあったのであろうか?



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  @ 吉田松陰幽囚の旧宅



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  A 松浦松洞誕生地、  松下村塾生、 松陰の絵を残す、 尊王攘夷志士の弾圧に抗議して切腹した

  



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  B 品川弥二郎誕生地、 見逃して通り過ぎる、  松下村塾生、高杉晋作、木戸孝允、山田顕義らと維新に貢献、明治になり欧米に6年間留学



 

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 C 吉田稔麿誕生地 池田屋事件で討ち死に、 松門4天王




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  D 伊藤博文別邸  



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 E 玉木文之進(たまきぶんのしん)旧宅、  松下村塾創立者、松陰の叔父、松陰と乃木希典を厳しく教育、前原一誠の乱で責任を取り自害。



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  F 東光寺  毛利家の菩提寺





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  G 山田顕義誕生地、 松下村塾生、大村益次郎から学ぶ、禁門の変で敗北、高杉晋作の功山寺挙兵に参加、戊辰戦争、西南戦争に活躍、司法大臣に就任し法典整備に尽くす、伯爵、 日大の学祖、



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  H 楫取素彦旧宅



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  I 郡司鋳造所跡、 幕末には大型大砲の鋳造


 

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  J 萩反射炉, 試験炉であった模様、




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  K 恵美須ケ鼻造船所跡、 1853年の大型船建造の解禁により、1856年に伊豆戸田村の棟梁が萩に派遣されここに造船所を建設、丙辰丸、庚申丸、


 


 
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  造船所見取り図


  




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  K 吉田松陰誕生の地









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  萩焼の登り窯があちこちで見られる




     2022-8-18





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2022年08月16日

浜田城

  


 浜田城は吉田重治が大坂の陣の功により伊勢松坂より石見浜田5万4千石へ転封されてこれをを築城した。 現在の浜田の町は浜田川を越えた地域に大きく発展している。 当時は北前舩の寄港地松原湾・外ノ浦を北の備えとし、西と南は浜田川に囲まれ、東に内堀と外堀を設け侍屋敷と城下町を置いた堅固な城であった。 古田家は1648年に改易になりその後は譜代の大名が幕末まで続いた。 長州藩の抑えとして福山城とともに役割を担った。

 第2次長州戦争の戦いで大村益次郎に攻められ、城を自ら焼いた。




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  浜田城と北前船の寄港地外ノ浦・とのうら 



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 浜田城の資料館の奥には本丸へ行く登城口がある。 登っていくと護国神社がある。 司馬遼太郎が書いた碑文があるけれど、後で分かったことでそれを見ず。 門があるがこの城とは関係のない県庁から移築されたもの。 本丸跡にたどりるける。 3重櫓の天守があったという。 少し下って2の門跡にでる。 井戸跡と中の門跡をみると山を下った感じだ。 大手門跡は見なかった。


 

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 浜田城資料館、  御便殿(ごべんでん)、大正天皇の宿泊にたたられた  




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 護国神社



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  本丸 説明板



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  2の門跡  2の丸にはこの門と焔硝蔵があった




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  井戸跡




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  中の門跡  東正面の重要な門




 松原湾は天守より眺めることができて、その地形を見ると外ノ浦は北前舩の風待ちの湊であり、城も近く交易と防御を兼ねた重要な地点であると分かる。




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  浜田城から見た 松原湾・外ノ浦




    2022-8-15




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2022年08月15日

浜田





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  浜田 大きな港湾スペ−スがある



 江崎を出て次は浜田だ。 浜田の港はとてつもなく大きい。 どこへ着けるか迷う程である。 浜田マリン大橋(高さ 18m)を抜けて神社前の予定係留地をめざした。 行ってみると、そこは漁船がゆったりと岸壁に着けているので、窮屈な操船を迫られる覚悟をした。 その時にその漁船から手招きで横抱きしろと合図を受けた。 ありがたいお招きなのでさっそく横付けさせてもらう。 その人と一緒に夕方一杯やることになり名刺交換をすると、廻航業務をしているのヨット乗りの方であった。 小生は余ほど恩知らずのようで、2019年春巡航のの折、ホンダワラがペラに絡み、アップアップしていたところを彼が見つけて延岡・土々呂までえい航していただいた秋実さんであった。私はすっかりそのお顔を忘れていた。 彼は鹿児島から鳥取まで漁船を廻航している途中に浜田で風待ちをされているところであった。 翌日天候が回復して朝出発して、その日のうちに仕事を終えられたと私に連絡があった。



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 秋実さんにえい航された





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  赤丸は停泊地  マリン大橋は白い鉄塔のように遠い沖から見つけられる、顕著な構造物である。








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 2回目はスペ−スが空いていた, 今度は外ノ浦に着けたいものだ


  小生は翌日には浜田を見学するために留まった。 浜田城を見てきた。


         2022-8-14


   
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2022年08月13日

十六島・うっぷるい

    




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 鷺浦と十六島 



 十六島はアイヌ語みたいに「うっぷるい」と呼びます。 想定航路より奥まっているので入港を予定していなかった。 鷺浦へ行くつもりであったが、入港直前になって防波堤の先で手をエックスにしてストップの気配である。 工事しているので入港できないとのことであった。 漁港の奥の岸壁には工事船がいた。 しかし防波堤の先に着桟するもりであったので、そこは空いていてつけられる。納得がいかないまま、次の泊地をさがす。日御碕近くの漁港にするか、十六島にするのか迷う。どちらも下調べがしていなかったのでこのように急な判断を求められると困る。

 十六島は大きな漁港故にどこか着けるところがあろうと、そこへ向かう。 下図の写真の位置に着けた。 大きな港だが、買い物も給油も不便であった。 隠岐からの帰りにも寄ったので2度になるが、自動販売機で缶コ−ヒ−を飲んだのみである。



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 最初の着岸地

 帰りの十六島はあいにく台風が接近していた。 七類ではここで凌ぐには不安であったので十六島へ向かう。 台風対策としてサイドアンカ−を打ち、岸壁の突端からももやいをとりエックスのよなもやいで台風をしのぐ用意をした。 幸いにも四国へ上陸したので左半円の位置になったので、雨も風も大したことはなかった。


 

 入港進路は2回目は1回目の航路を行こうとしていたら、警戒船が寄ってきて下図の2回目の航路を指示された。 ロ−プが張り巡らされていて危険だとのことであった。

 奥に漁港船溜まりがあるが少し浅いようである。 漁協事務所から離れた岸壁で漁船が近くにいないようなら着岸できるようである。2回目は漁協で許可をもらった。




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 赤丸は係留地  青線は2回の入出港航路



    2022-8-13


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2022年08月12日

西郷・隠岐騒動

  



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 隠岐諸島



 ヨットの航海において、隠岐諸島へは何か行く目的がないと、本土側を航行してそこをスル−されてしまう。 小生も何度かチャンスがあったが行けずしまいであった。

 今回の春巡航は、母港岡山に向かう新幹線の中で、九州へクル−ズする予定を急に変更して、何も下準備のないまま隠岐へ行くことを決めた。 その理由は九州一周をするプランのなか、その航程が長いのでレグを春と秋に分けることになる。春レグの終わりに天草のマリ−ナに、秋まで短期係留になることに不安を感じたからである。 そのことは、マリ−ナ係留中に台風シ−ズンにぶつかり、天草に本人が滞在しないで台風に対処するのは難しいかなと不安に思ったのが大きな変更の理由となった。

 それゆえ隠岐に行くことにした。また、ここでもよく維新のことを取り上げている。その中に長州などで結成された諸隊をアップしている。

  神機隊と芸州の諸隊

 諸隊について調べていると隠岐正義党のことを知り、ここでそれを取り上げた。 現地の隠岐を訪ねれば、もう少し何かわかるのではないかと考えてヨットで訪ねることにする。他にも海士町での先進的な漁業の取り組み、島留学と島移住の話とか興味をもった。



 本土の七類で隠岐に渡る風待ちをした。日和を見て隠岐へ航海する。 

  さて、西郷に着いた。観光案内所で隠岐騒動のことを尋ねる。 隠岐正義党に関しての資料は持っていないようだ。 観光案内所でもそのことに詳しくない。 自分で探すしかなく、レンタサイクルで市内を廻った。 現在のドラッグストアの近くに隠岐騒動勃発碑の石碑を見つけた。ここは松江範の陣屋跡でここに島民が囲んで明け渡しを求めた。

 日露戦争でのロシア人墓地をさがしているなかで、運動公園に報国記念碑があるのを見つける。 それは隠岐騒動で14名の同志や日清戦争までの戦死者祀っている。 この地は幕末の頃の練兵所があったところだ、騒動の時に島民3000人が集合した地である。 小生が騒動に関して見ることができたのは、この2つのみであった。



  自宅に帰って調べてみると、「隠岐騒動の史跡を訪ねて」というパンフレットを見つけた。これこそ現地で欲しかったものだ。 西郷で風待ちで8日余りも滞在したので、このパンフレットに載っている各地とその付近には行っている。 惜しいことをしたものだ。

 仙崎では「金子みすず」、隠岐は「ジオパ−ク」1本に染まっていて他のテ−マには目もくれない一辺倒の状況だ。観光政策も幅広さをもっと持ってほしいものだ。 ジオパ−クと言っても、ぶらタモリではあるまいし、地学好きの人がここへ集まるわけではないと思う。 観光案内所は知識が浅いことが多いようなので、やはり歴史的なことについては教育委員会で尋ねてみるべきだったと後になって思う次第である。

 隠岐クル−ズは少しの不満を残すことになった。急遽航海計画を変更した調査が不十分な計画にもその責任がある。 ホンダワラの絡みに苦しんでも、目的港以外の避難港が考えられていないので、難儀な航海をするハメになったも自分のせいである。。

 

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 隠岐騒動 西郷         自宅に帰って見つけた資料



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 隠岐騒動記念碑、  松江藩の陣屋があった



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 記念碑説明板



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 報国記念碑  同志14人が祀られている



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  日露戦争 ロシア軍人戦没者墓地



 

     2022-8-12


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2022年08月11日

伯方島の城,  ヨット泊地

   
   金ヶ崎城、木浦城、伯方本城  



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 伯方島にある城跡、伯方本城、木ノ浦城、金ヶ崎城   青丸はヨット泊地 




  ヨットを停泊させている弓削海の駅より連絡船で伯方島を訪れた。 伯方本城,木ノ浦城、金ヶ崎城をめざす。


  伯方本城


 この城は村上師清により築かれた。2代義顕は能島・来島・因島の3家に分立させて、嫡流が能島村上でここを本拠とした。金ヶ崎城、木ノ浦城、能島城はこの城の詰め城である。

  芸予諸島の村上水軍城  

  今治市の伯方支所近くで訪ねたが木ノ浦城は知られているが、満足な回答を得られなかった。この支所の北側あたりにあったと思われるが石碑や案内板は見当たらなかった。 後で調べると近くの禅興寺に案内板があった。


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  今治市伯方支所

 

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 禅興寺にある 案内板


 


   木ノ浦城


 海から模擬天守はよく見える。 そこへ行くのは少し長い坂道を登っていかなければならない。 天守は現在閉館中の歴史館である。 隣接して岩がヶ峰古墳跡がある。



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  木ノ浦城  模擬天守




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  岩ヶ峰古墳




    金ヶ崎城、


 上図にあるように湾先の岬の先端に金ヶ崎城は築かれた。 


 手前の3差路の真ん中を登るようにして歩いていく。最初は間違えて右を下ったけれど間違いであった。


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  真ん中を行く



 みかん畑の先にお堂があり城跡の石碑があった。 ここが本丸になるのであろうか。 そこへ行くまでに石垣が少し残っていたり掘割みたいなものがあるようですが、開墾されているので正確かどうかは分からない。 


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  金ヶ崎城、 石碑



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  金ヶ崎城

 





  伯方島 木浦のヨット泊地



  伯方島油槽所の前は工事をしているが、ポンツ−ンが作られていて、ヨットが利用できそうである。 まだ、漁船は着けられていない。

 連絡船の利用していないポンツ−ンの両側も一時的にはヨットがつけられそうである。



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  連絡船ポンツ−ン



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  石油施設前の新港工事中の岸壁・ポンツ−ン







      2022-8-11


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2022年08月10日

下松散歩


 

  末武城

  

  下松からタクシ−で護国神社に向かう、末武城が近くにあるのだが、近くの人に聞いても判明しない。 護国神社に登るが結局みつけることは出来なかった。 下調べが大事であった。



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  護国神社入り口



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  護国神社





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  維新13人墓 馬関戦争、禁門の変、戊辰戦争のこの村の戦死者13名を祀る



  登城成功例は下記に詳しくあります   城郭放浪記をご覧ください

  https://www.hb.pei.jp/shiro/suo/suetake-jyo/



  失意?のうちに歩いて花岡八幡宮をめざす。





  花岡八幡宮



 奈良時代からある古い神社である。 重要文化財の多宝塔を見ました。



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  花岡八幡宮 入り口



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  花岡八幡宮



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  多宝塔 重要文化財



  下松古地図散歩

 タクシ−にて下松へ帰り。 市内を散策する。 観光案内所でもらった「下松で古地図さんぽ」商業と塩田で栄えた下松を歩こう編により、歩いてみた。 下松はコンパクトに近代的な産業と昔が混在した町である。 下記地図と写真のところを散策した(1時間ほど)。 お寺の説明はここでは省略する。 パンフレットを現地でもらって読んでほしい。 1度くるっと廻った程度で述べるには厚かましい気持ちがしますので。


 


  下松古地図散歩  古地図にある場所を主に廻った

 
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  周慶寺





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  妙見宮鷲頭寺(じゅとうじ)





 

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  普門寺





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 淨西寺

 

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  庵跡  現在は老人集会所

 

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 弁財天社 古地図にはない



 

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  埴常社・はにとこしゃ  



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  磯部・矢嶋邸跡  会社敷地内で見学できない 案内板の裏側




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 日立製作所  新幹線を製作している



 

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  大地の森





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  妙法寺





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 正立寺



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  西教寺





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 東光寺 観音堂





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  泉所寺 跡  





     2022-8-10


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2022年08月09日

下松

    



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  赤丸は停泊地


  上関から新門司マリ−ナにヨットで向かう時には姫島に寄るケ−スがほとんどだと思われる。 逆コ−スで潮に恵まれれば8−10時間で行けたこともある。 また、かって徳山グリ−ンヤマトマリ−ナに入ったことがあるが、山間のマリ−ナでたいそう不便なところであった。 本土側の適当な立ち寄り場所は山口のヨットに尋ねても無いようである。 今度、下松に行きポンツ−ンを見つけたので係留してみた。

 下記写真の後方位置に着けたが、翌日に前方へ移動するように指示された。 漁船の荷揚げが早朝にあるようである。 その作業に不都合がなければ利用できるようだ。 ここは諸風を防ぎ良い係留場所である。 安心してここに2泊し町を散策することができた。 コインランドリ−は駅前にあり、コンビニ、ス−パ−も近くにある。



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 漁協の荷揚げポンツ-ンに係留した、 前方にシフトした位置



    2022-8-9

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2022年08月08日

須佐





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 須佐湾  赤丸に停泊  青丸はおもしろそうな停泊候補地



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  須佐  防波堤の内に停泊

 江崎を出港してしばらくすると3ノットくらいに減速した。 ホンダワラのペラ絡みを想定して予定を変更して須佐に停泊した。 予想どうり潜るとホンダワラが絡んでいた。

 ここはス−パ−で買い物ができガソリンスタンドにて給油ができる。 JR須佐駅も近いが便数が少ない。

 須佐はスサノウノミコト(須佐之男命)の伝説にちなむ名前の地である。 長州の地でもあり、幕末に第1次長州戦争で三家老が切腹させられたが、その一人の益田親施(ちかのぶ)の領地であった。益田家の墓地を訪ねた。親族のそろった珍しい墓地だという。

 須佐歴史民俗資料館も覗いた。 その展示で知った心光寺に興味を持つ。久坂玄瑞と、僧 月性がここに集い密談をしたという。



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  益田家の墓地



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  心光寺



      2022-8-8



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2022年08月07日

ホンダワラのプロペラへの絡み  その2



  今春の隠岐へ行くクル−ズでは、関門海峡を抜け山陰沖を往復した。 まず、新門司マリ−ナでペラの点検して潜り,そこまでの瀬戸内での航海でプロペラにホンダワラが絡んでいないことを確認した。

 我がヨットは関門を抜けて蓋井島をめざした。潮の影響を受けているのかと2−3ノットにスピ−ドが落ちていても気に留めなかった。向かい風の影響も受けていたので。 蓋井島が真近に見えても接近できない、1ノット過ぎしか航走していない、さすがにあきらめて南風泊へ反転した、追手になったので2−3ノットで無事そこへ入港することができた。 それでもペラの絡みにに気が付かず、翌日は角島へ向かう。朝5時出たのに機帆走で3ノット程度であった。夕方にになってやっと着くことが出来た。さすがに、ホンダワラのペラ絡んだのが原因だとして潜って取り除くことになった。 ペラの形が見えないほど絡んでいた。

 それ以来走るたびに点検も兼ねて潜るハメになった。ひとつかみで済むこともあるが通常5ノットの艇速が1−2ノットの減速を余儀なくさせるほどの量であることが多かった。 

 取り除く方法も進化した。 ロ−プを両舷から伸ばして錘を結び、それを船底のプロペラ下に置く。そのロ−プをたどってペラにたどりつく方法で潜っていた。 老人には体力のいる作業であった。 ソフトウエットスキンを着てウエイト無で潜るので浮力が増えて、泳ぎのヘタな小生にはこのロープをたどる方法でしか上手く潜れない。 従い今までは5回も潜るハメになると、気力が失せ、その先のクル−ズを諦めることになったことがある。

 今回は縄はしごを用意し、それを舷から吊るし、そのハシゴを下りてぶら下がり、サイドから覗いて長柄のカマやカギ手でホンダワラを取り除く方法を試した。それにはハシゴが安定しない欠点があった。 ハシゴに錘を着けると少しは作業がし易くなった。 試していないが、アルミの脚立だと良いと思われるが、それを使わない時にヨット上に脚立を収納するのには難がある。

 今回たどりついた結論は、船尾にあるスイミングラダ−から下りて潜り、ラダ−をつかんでひと押しするとちょうどその反力でプロペラにたどりつくことである。これだと、体力を要しないので潜ることが気にならないことになった。今回の15回以上の潜水に耐えられた。

 ホンダワラが絡むことが多い原因は、今年は例年になくホンダワラが多いからか、瀬戸内では気にならないので、九州と日本海の生息場所が問題なのでしょうか、 また、ロングキ−ルやセイルドライブだと少ないようなので、わが艇のようにフィンキ−ルとシャフト艇ではキ−ルに当たった藻がちょうどペラに絡みやすいのであろうか。

 機走中の減速は特に春先にはホンダワラによるものと思うべきであろう。瀬戸内と狭水道でもない限り潮が原因ではないと思い知らされた。
 

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  温泉津で取り除いたホンダワラ



 

      ホンダワラのプロペラへの絡み その1      2019-07

    http://endyachts.sblo.jp/article/186259852.html?1659809916


    2022-8-7

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2022年08月06日

松江城



 ヨットにて隠岐からの帰り七類に停泊中に、隠岐フェリ−の連絡バスに乗り松江に行く。松江駅近くのホテルに1泊して市内を見学した。 


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 松江城


 関ケ原の戦いで家康に貢献した堀尾吉春が息子忠氏に24万石をもらい、出雲松江を領した。 月山富田城より移りこの松江城を築城した。

 
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 堀尾吉春  1543-1611

 尾張に生まれ岩倉織田氏に仕え信長に敗れて浪人となる。そのご信長に仕えて秀吉に付属された。秀吉と転戦して段々と加増されていく。 浜松に12万石を得る。秀吉死後は家康に接近した。



  まずは堀川めぐりの遊覧船に乗った。

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 大手前 遊覧船のりば  

 堀は思ったより浅く、底が見える。 橋を通過するにもギリギリのところが3か所もある。 堀端はすべて石垣で囲まれているのではなく、土手造りのものがある。 明治以前は堀の管理で土砂を除去する役人もいたという。それで堀の深さは維持されていた。

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 遊覧船で堀めぐり



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 縄張り図

 遊覧船を下船するとすぐに大手門木戸へ行ける。 

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 大手木戸門

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 太鼓櫓と大手櫓門跡

 わざわざ木戸門は簡単に破れるようにして攻め方を桝形虎口の中に誘い込み、もう一つの堅牢な大手櫓門でその行き足を止め、高石垣とその両側にある太鼓櫓と中櫓で殲滅すると言う強い防御の作りである。

 ここを抜けると2の丸下の段に至る。 

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 2の丸下の段より 三の門へ  中櫓と太鼓櫓が見える

 三の門を抜けると二の丸上段にいたり、ここには藩主の御殿があったが、狭いために三の丸(現在市役所がある)にも建てられていた。

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 三の門跡

 

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 二の門跡



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 一の門を抜けて本丸と天守へ


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 天守

 現存天守12のうちの1つで姫路城のように見ごたえがある。 


 城見学を終え大手門にもどり、堀端の風情のある塩見縄手通りを歩く。そこは街並み保存地区の武家屋敷版の代表のような街並みです。 小泉八雲邸や記念館もある。

 武家屋敷
 500−1000石程度の上級藩士の屋敷と言われる。 1733年の大火焼失より再建されたもの。屋敷門に中間の部屋がある大きなものである。

 

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 武家屋敷

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 武家屋敷の台所



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 小泉八雲邸


   2022-8-6





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2022年08月05日

萩のヨット泊地


  萩へは20代の時に訪ねたことがある。当時は船乗りをしていて、下関造船所へ乗組みしていたフェリ−がドックに上架すために行った。その時休みを利用して山陰線に乗り萩を訪ねた。 それから半世紀近くにもなるのかと時の流れの速さに驚く。

 ヨットで今回そこへ行くことになった。初めは越ケ浜漁港へ係留した。漁協脇で作業していた女性に係留許可を尋ねると、ここは厳しく停泊を禁止している吉であった。釣りさえも禁止である。 その日は土曜日であったので漁協は休みなので、翌早朝にここを出て萩マリ-ナに向かった。 朝9時のマリ−ナ営業開始までの時間に他の係留候補地を訪ねた。




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 越ケ浜 南漁港 ここに最初は停泊








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 越ケ浜 北漁港  ここも空いてはいるのだが



 フェリ−乗場の港は作業船で岸壁がいっぱいでヨット停泊の余地はなかった。次に下関ヤンマ−のある漁港に行き、そこにいったん舫った。日曜日なので問題なさそうであった。その岸壁は漁協の給油所とヤンマ−とで利用を分けているようなので、平日の停泊は難しいかもしれない。

 マリ−ナ以外でヨットが舫えそうなところはマリ−ナ近くのクル−ズ船が使うと思われる商用岸壁の横付けか、美浜公園の地元ヨットが停泊している近くの槍付けかと思えた。 JR山陰線を利用して萩近くの漁港への停泊を考えたが、JR時刻表を見ると通勤時間帯しか列車が無いので無理のようだ。

 マリ−ナは比較的料金が高く、電気もとれなかったので満足のいくものではなかった。 漁協の頑なな態度には、小生は歴史的な長州人への尊敬の念があるのですが、悪い面がでたなと思う。他の山口県の漁港は空いていれば拒むようなことはなかった。 スペ−スが十分にあり税金で作った施設なので柔軟な運用が無いのであろうか。





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  フェリ−乗場の港  作業船が多い 空き無し




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 下関ヤンマ−前に仮停泊




 


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  商用岸壁   大型クル−ズ船用に作ったのか荷役設備は見られない





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  美萩公園前の候補地   





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  萩マリ−ナ   岸壁付けした





 

       2022-8-5





 
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2022年08月04日

源範頼 お墓 5

    

  ヨットで隠岐へ行く途中に仙崎に立寄りました。 近くの三隅に範頼の供養塔とお墓があるということで訪れました。

 ネットで調べてみるが詳しいことは分かりませんでした。

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 長門三隅八幡宮の宮司さんに地図を書いてもらい行くことができました。

 なぜ、ここに範頼の供養塔とお墓があるのかというと、伊豆修善寺で梶原景時に襲われて範頼は亡くなった。部下の当麻三郎と小太郎が首を持って逃れてここに供養したと云われています。



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 三隅八幡宮



 
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 範頼供養塔


 お墓は案内板にたどり着けましたが、そこへ行く経路が分からずに見ることはできませんでした。
案内板のすぐ後ろに獣道のような登り口があって途中まで行くが不安になり戻りました。他の道も探りましたが行くことが出来ません。 案内の説明不足でしょうか? 

 範頼はこの地では大事にされていないようですね。 せっかく大河ドラマで登場しているので殺されるシ−ンが過ぎてしまうと、 ますます、ここを訪れる人は少なくなってしまうでしょう。

 隠岐のクル−ズを終えて自宅に帰って大河の録画を見ると、範頼はもはや殺されてしまっていた。範頼の復権は遠いようです。



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 範頼お墓 案内板



    2022-8-4


  源範頼 まとめ

    http://www.hayame.sakura.ne.jp/99_blank057.html




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2022年08月01日

隠岐のヨット泊地 その2  島後




  隠岐にてヨットで実際に停泊したところは西郷と菱浦です。その他は写真や図で青丸で記しますが、実際に訪問実見していますが停泊したところではありません。 水深もあるところですが、初めは槍付けして着岸して、確かめてから横着けすべきでしょう。 槍着けでしたらスペ−スが多くあり困らないでしょう。



 1. 島後

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 島後のヨット泊地




  中村

 漁港の横は海水浴場になっている。 小さい食堂があり、サザエ丼を食した。  北風系以外は穏やかな港湾である。



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 布施

 横付けできる場所はなさそうである。 槍付けで北の部分に着けるか、錨泊しかなさそうである。

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  布施のヨット着岸不適の桟橋

 

  福浦

 諸風を防ぐ良い湾のように思われる。 ここはロ−ソク島観光の案内船の係留地である。その船が岸壁を使用している。防波堤の内側に2隻ほどの係留場所がある。 仮付けして確認してください。 北の奥まった重栖には定置網漁船が多い岸壁があるが、漁民に尋ねる必要があると思う。


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 右側は福良の観光船岸壁、下の防波堤の内側が泊地候補


 


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 右側は重栖の定置網用漁船が係留する岸壁








  都万(つま)

 湊が充実していない時代に舟を陸揚げして保管した船小屋群が日本で少数になって残っているのが見られる。 南風系のときにはウネリが入るようである。


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  都万の船小屋群





  蛸木



 北風系の風のときには良い泊地となる。 漁協の前には空スペ−スがあるが、荷揚げに使用されるようなのでここは避けた方が良いでしょう。


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 蛸木の係留予定地



  2022-8-1


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