2023年07月31日

阿久根 海の駅




  天草牛深より阿久根海の駅に向かった。 ポンツ−ンは小型であるが空いていれば快適だ、 電気はとれる。  電話 0996-73-2141   徒歩5-6分のガソリンスタンドで手続き。  近くにス−パ−や温泉あり。


 ここは旧港にあたるのであるが川向うに大きな新港が存在する。 手狭のときにはそちらの利用も考えられる。

  

akune 10.jpg
  赤丸はポンツ−ン停泊地



 

akune 20.jpg
  阿久根海の駅 ポンツーン係留




 

akune 25.jpg
 クラシカルトットが停泊していた。 余り乗ってはいないようだ。



      2023-8-2

posted by 速魚 at 23:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

宇土城と古城




udozyo 13.jpg
  宇土城と宇土古城  地図


 宇土マリ−ナからバスに乗りグ−グルマップで最寄りのバス停に降り、お城を探しながら現地に向かった。



     宇土城  (近世)


 小西行長は肥後半国17万5千石を受領し、宇土古城の東にこの宇土城を築いた。 関ケ原合戦で西軍に属したことから東軍の加藤清正に攻められ開城した。 清政の隠居城として整備された。 清正の死去に伴い破却される。 その後1632年に加藤家は改易となり細川氏に変わる。1637年島原の乱に小西の浪人が加担したことから、幕府は西国の廃城の徹底的破壊を命じたので、ここの荒廃が進んだ。

 
udozyo 15.jpg







udozyo 11.jpg
  城下町を持つ総構であった



udozyo 18.jpg
  石垣、  清正の改修によるものと言われている



udozyo 20.jpg
  城跡公園にある小西行長像



          八代城と麦島城        



    宇土古城


 菊池氏か宇土氏により作られたという。 隣の宇土城(近世)よりは城跡らしい。 千畳敷という主郭と三城とで構成されていた。

  
udozyo 55.jpg
 




udozyo 50.jpg
  虎口



udozyo 51.jpg
   横堀 その上は千畳敷といわれる主郭



udozyo 52.jpg
  建物跡



       2023-8-1


posted by 速魚 at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月30日

油津  宮崎




  内之浦にてエンジンの回転計の故障に気が付き、油津ヤンマーの代理店に電話して修理を依頼した。 ヤンマーの事務所の前の岸壁に着け、すぐに修理をしてもらい無事回復した。

 夜中より胸に違和感を感じ、すぐに入院して5/10より6/8まで滞在することになった。漁協、ヤンマーエンジニアリング、末永電機マリンの方々に長い間お世話になりありがとうございました。



aburatu 20.jpg
  赤丸は停泊地、 青丸AとBは候補地

aburatu 30.jpg
 赤丸 停泊地

aburatu 35.jpg
 青丸A 候補地

 赤丸の岸壁は20トンくらいのまぐろ・かつお漁をする漁船が休養に使用しているようだ、入院ゆえに長い停泊をしてしまったが、ここには岸壁に梯子が設置されていないので2m以上の潮汐があるのでヨットへの乗り降りは時間制限がかかる。  青丸岸壁にはハシゴが2か所あるので、そこへ付けるのが正解であると思える。 他に内港の白いタンクの後ろ側(青丸)に外来船ようの岸壁がある。ス−パ−、コインランドリー、ガソリンスタンドあり。

aburatu 50.jpg
 油津は宮崎県の歴史ある天然の良港です。 飫肥藩の飫肥杉の積み出しのため堀川運河、江戸時代初期に開削された。


aburatu 55.jpg
 大正10年建築の赤レンガ館、  競売にかけられていたのを街の有志30人で買取り保護したという

 


              2023-7-31

posted by 速魚 at 03:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月29日

天草 姫戸

            


  宇土マリ−ナから三角の瀬戸を抜けて八代港には適当な泊地が見つけられなくて姫戸に入った。 フィシャリ−ナ天草へも行きたかったのであるが、これも三角瀬戸を抜け、天草の橋をくぐっていく方法が見つけられずに断念した。 橋高が足りないようで16m以下のところ自艇を抜けた記録が無い。 確かな情報に接することが出来ればあるのかもしれないが。



himeto 10.jpg
  赤丸は停泊地  青丸は候補地


  漁船が利用するポンツーンがある。 漁協の許可がなかなか下りないので避けた。 翌日まで観察していたが、一杯のようでもなかった。また、その横に利用されていない浮桟橋(青丸の位置)があるが、ここも利用はされていないようなので可能な気がする。けれど陸への乗り降りには少し苦労するかもしれない。 近くにス−パ−があり買い物には不便がない。



            2023-7-30


posted by 速魚 at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月27日

日野江城

    


  訪れる人が少ない。 城跡としてはかなり大きく有馬氏の居城であった。 鎌倉時代に時代に築城され、1496年に支城として原城が築かれた。有馬晴信は1582年に洗礼を受けてキリシタン大名となる。近くに有馬セミナリオを建設。晴信の朱印船は数多く渡航したという。晴信は島津氏について龍造寺軍を破り、秀吉に従い安堵される。江戸時代になり日向に転封となり去る。しばらく天領となっていたが、1616年松倉重政が入封した。当初はここを居城としていたが、島原城を築いて廃城とした。



hinoezyo 10.jpg
  日野江城




hinoezyo 20.jpg
  縄張り図    安土城のような階段があった



hinoezyo 22.jpg
  本丸へ



hinoezyo 25.jpg
   本丸




hinoezyo 32.jpg
  二の丸と本丸




hinoezyo 30.jpg
  石碑  日野江城浦口





hinoezyo 40.jpg
  有馬セミナリオ跡




         2023-7-29



posted by 速魚 at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

志布志城と麓武家屋敷



 指宿から志布志城などへ行ってきました。 前日に鹿児島中央駅の観光案内所でここから志布志までの行き方を尋ねた。 JRで宮崎まで行き日南線に乗り換えて志布志まで行くのが良いと教えられた。 さすがに鹿児島へヨットで初めて来たとはいえ、おかしいと思えた。医者のセカンドオピニオンではないけれど、階段を下りた駅前広場にもう一つの案内所があり、そこでも訪ねた。垂水へフェリーで渡りそこから志布志行きのバスがあると云います。 それのほうが安くて早いと思われ、翌日にその経路で志布志に行ってきました。正解である。 後日に日南線の油津駅で志布志行きの時刻表を見る機会があったが、志布志へ行く列車は日に5−6本でした。 先の案内所で教えられたルートで行っていたら、どこかで宿泊を余儀なくされたであろう。 JRの職員の案内所であったかもしれないが、自社の利益優先の案内で、とんでもないものであった。 真に受けるのも注意したいものです。 志布志は鹿児島県といえども交通網は宮崎の影響下にあるのも事実でしょう。

 志布志城は内城、松尾城、高城、新城を総称している。


sibusizyo 24.jpg



  内城は案内板が要所に立てられているので、分かりやすい。 他の城には訪れることはできなかった。 松尾城には登り口が見られた。 行けないところもあるようである。



sibusizyo 20.jpg
   内城 縄張り図



 

sibusizyo 23.jpg
  復元模型





sibusizyo 22.jpg
  内城本丸登り口 



sibusizyo 25.jpg
  新納時久墓   矢倉場


sibusizyo 26.jpg

 



sibusizyo 27.jpg
   松尾城登り口




 

       志布志麓 武家屋敷


 麓武家屋敷はお城近くにいくらかの通リがあって、町割りがしてあるところが多い。 ここは城近くではあってもそのようにはなっていない。

 下の写真のように門前に紫の旗が立っており、その存在を明らかに示している。 平山邸、清水邸、福山邸、天水邸、島濱邸などきれいな庭園がみられるが、 小生は指宿から来たので時間に限りがあり、その多くを見ることができなかった。



sibusizyo 60.jpg
  天水氏邸



sibusizyo 50.jpg
   天水氏庭園



sibusizyo 55.jpg
  平山氏庭園



    2023-7-28


posted by 速魚 at 03:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月26日

宇土マリーナ




  口之津より三池へ行くことを考えていたが、三池の潮汐が4mになるという情報もあり、港内に適当な停泊地も見当たらないので断念した。熊本の飛行場近くの海の駅もいつも空が無いとのことである。 従い宇土マリ−ナへ行くことになった。

 ここからJR赤瀬駅を使ったり、路線バスで熊本城三角港宇土城を訪問することになった。

 有明海は海苔の産地のようで、海苔漁船が多くみられる。


  

udo 10.jpg
  赤丸は停泊地

  宇土マリ−ナの入り口付近には浅いところがあるので、干潮時の出入りには注意を要する。 電話 0964-58-4500  3300円/日/30f

 電気、水、シャワー

 


      2023-7-27

posted by 速魚 at 21:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月25日

口之津

  
  口之津には3/19から3/24までの5泊滞在した。 新しく整備されたフェリータミナルの情報に疎かったので、ヨット停泊場所に不安をもちながらの入港であった。 旧フェリー桟橋の他に新桟橋が3つある。 そのうちの北側にある小さいポンツーンに最初はヨットを着けた。 ほどなく一番大きな桟橋のフェリー利用の反対側を支持されてシフトした。 あとでその方は地元のヨットマンの人で何かと気にかけていただいた。

 

kutinotu 10.jpg
  赤丸は停泊地  青丸は最初の停泊地


  天候待ちで日があったので、ここから観光するために、バスで原城、日野江城、島原城、加津佐に行き、フェリーで天草の鬼池に渡った。また、南蛮船渡来の港であり、そこには徒歩で行くことが出来る。


   南蛮船渡来の港  口之津


 1562年日野江城主有馬義貞が口之津を開港。1563年にここに教会が建ち、1567年にポルトガル船が来航した。 長崎には1571年に来航した。 現在は開田公園になっており教会の跡地も分からず、当時を思い起こすものは見当たらない。




kutinotu 29.jpg
  案内板  ヴァリニャーノが1579年に口之津来航とある






kutinotu 32.jpg
  開田公園にある南蛮船渡来の地の石碑

 


   明治の口之津


  この後に行く三角の港も明治の3大港であると知って驚くのであるが、この口之津港は三池炭鉱の石炭の積み出し港であった。大型船が入港し香港など海外に輸出されていた。ゆえに古い税関がここにある訳である。



kutinotu 30.jpg
  明治20年の口之津  古写真




 

kutinotu 31.jpg
  歴史民俗資料館、 口之津税関跡



  初めて船員になった時に口之津出身の先輩が多かった。 良くしてもらっていたので、ひょっとしてお目にかかれることがあるのではと期待していた。 よく考えてみると半世紀余り以前のことであり、その軌跡は起きなかった。 出港のときにフェリの駐車場整理の人に名前を告げて尋ねてみたけれど成果は得えられなかった。 所属した海運会社の名前は皆さまご存じであった。 大手でもない中小の会社なのに三井系列ということでこの地元では知る人がいるのであろう。 ターミナル2階の資料館の展示によると明治の時よ三井の船に乗り込んでいた人が多かったようだ。 ここには口之津海員学校(現・海上技術学校)があった地である。



            2023-7-26

posted by 速魚 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

島原城と武家屋敷

 


  口之津からバスにて島原城と日野江城を見て来た。 ヨットで行くつもりでもあったが、適当な停泊場所がないので取りやめる。島原の武家屋敷やどちらの城も想像以上で満足のゆくものであった。



     島原城

  行く途中のバスの中で、あの普賢岳、今でも思い出す火砕流の滑り落ちて迫る映像のそれに近いので驚く。 島原駅の正面で坂を上ったすぐ近くに島原城はある。


 1616年に大和から転封した松倉重政が日野江城から移ってこの城を築いた。 五層の天守と三層の櫓3つを持つ7当時4万石の大名にしては大きな城である。 過大な出費のため苛政をし、そのため天草の乱の原因を作った。 松倉氏は断絶し、その後には譜代の大名が続いた。




simabarazyo 09 .jpeg
  縄張り図  




simabarazyo 15.jpg
  島原城

 

 
simabarazyo 10.jpg
   天守  残念なことにコンクリートによる復元である。 中は資料館になっている。



simabarazyo 20.jpg
  本丸へ











     島原武家屋敷




 築城の時に70石以下の武士のために城の西側に武家屋敷が整備された。 鉄炮町とも呼ばれそれで戦う徒の住居である。 役所の書記、代官、門の警備などに平時は従事した。

 下の丁、中の丁、古丁の3筋から、上新丁、下新丁、新建、江戸丁が追加してつくられた。 今の武家屋敷通りは下の丁にあたる。山本邸、篠塚邸、島田邸を見ることができる。




simabarazyo  50.jpg
  下の丁、  中央に水路が生活用水として利用された




simabarazyo 59.jpg
  山本邸 



simabarazyo 60.jpg
   山本邸 座敷



simabarazyo 61.jpg
   山本邸  台所



     2023-7-25

posted by 速魚 at 02:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月24日

坊津歴史資料館と鑑真記念館

 

 串木野からわざわざNさんが枕崎に来てくれました。 彼の車で坊津歴史資料館と鑑真記念館に連れて行ってもらいました。



bounotu 10.jpg
  枕崎から野間池 地図



  坊津は日本の三津と言われる博多津、安濃津、坊津の一つである。飛鳥時代から遣唐使船の寄港地であった。 鑑真は近くの秋目(秋妻浦)に上陸した。 明や琉球との貿易が盛んでした。 ザビエルが最初に上陸した地でもある。r度時代になると薩摩藩の密貿易の知となる。

 この地を訪ねたいとの気持ちがあったが、適当な泊地が見つけられずに諦めて枕崎に行くことになった。



    坊津 ヨット泊地



bounotu 49.jpg
  青丸は停泊候補地

  槍着けだと置けそうな気が現地でした。 ウネリが入りそうな時は枕崎に行った方が良さそうだ。



   坊津歴史資料センター輝津館


 坊津の交易資料、仏教資料、漁具などの民俗資料を所蔵・展示している。



bounotu 19.jpg
  坊津歴史資料館




bounotu 20.jpg
  展示物






    鑑真記念館


 苦難の道を乗り越えて日本に上陸した地に鑑真記念館は立てられている。 休館日(月曜)であったが、管理をしているご夫妻は入館を許可して中をみせてくださった。

 記念の日には唐招提寺の高僧が来てその行事に参加するのだそうです。



bounotu 51.jpg
  館内から望む秋目浦





bounotu  50.jpg
  鑑真像



         2023-7-24


posted by 速魚 at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

平佐城、碇山城、清色城




kiyosikizyo 10.jpg
  平佐城、碇山城、清色城

  JR川内駅より徒歩で平佐城と碇山城へは行ける。 清色城と入来麓武家屋敷はバスで行くことになる。





   清色城 



 入来院氏が本拠とした城。 南北朝時代の築城かと言われる。 本丸、松尾城、西之城、求聞持城、仲之城などの曲輪がある。 そこへ行く案内板があるので、この曲輪へは急な道になるが見ることができる。

 後で見た知覧城や志布志城のように、シラス台地特有の急な崖で構成される曲輪群の薩摩城郭を知ることが出来た。

 それらの城のひとつでもご覧になれば承知出来、機会をを見つけてご覧ください。



kiyosikizyo 15.jpg
  縄張り図





kiyosikizyo 25.jpg
  案内板、 切岸、空堀





kiyosikizyo  20.jpg
 空堀(堀切)  難攻不落を思わせる



kiyosikizyo 22.jpg
  本丸へ



kiyosikizyo 23.jpg
  本丸









    平佐城

  JR川内駅近くの平佐西小学校近くが平佐城であったというが、痕跡はわからない。

 築城年代は定かではない。





hirasazyo 10.jpg
  平佐西小学校



hirasazyo 20.jpg
  平佐城跡 石碑







   碇山城

 

 南北朝時代に島津忠久により築城と伝わる。 島津総州家の拠点であったというが、島津一族の争いには詳しくないので略します。 採石場として遺構は消えたという。

 



ikariyamazyo 10.jpg
  碇山城石碑



  参考    島津氏の歴史



   2023-7-23

posted by 速魚 at 00:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月23日

佐賀関

   


  ここには漁協直営の関サバ・関アジの食べれるところがあるとの情報を得て、寄港した。 午後4時過ぎであったので直売所は閉まっていた。販売はしているけれど、食を供する雰囲気は無かったので、そこでは無いかもしれない。

  龍馬と勝海舟がここに寄港した時には、街を挙げて歓待したようで、その案内板があちこちで見受ける。 北港は愛媛と結んだフェリ−乗場があり、ここにもヨットは留められそうである。



saganoseki 20.jpg
   佐賀関 古い街並み案内板



saganoseki 22.jpg
  徳応寺  龍馬一行はこの寺に宿泊




 

              佐賀関 ヨット泊地


   別府や臼杵は既知だという方には速吸の瀬戸の航適当な港が欲しいところ。 今回は佐賀関に入港しました。 漁業が盛んなところのようで漁港内は漁船が多い。内港と幸ノ浦を避けて外港に着けた。 直売所のさんばしは厳重に囲われていて、高級魚のイケスが設置されているのでここには接岸できない。

 ス−パ−とコンビニはフェリ−桟橋のある徒歩10分の北側港にある。


 

saganoseki 10.jpg
  赤丸は停泊地、  青丸は候補地





saganoseki 50.jpg
  青いポンツ−ンは係留禁止

 


     2023-7-22

posted by 速魚 at 17:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月22日

龍馬とお龍の温泉

 

 司馬さんの小説でしっかり有名になった。 日本初の新婚旅行で坂本龍馬夫妻が立ち寄った塩浸温泉に行ってきました。 有名になるまでは村の温泉場であったようです。 その雰囲気を残しています。 近くに宿泊施設も見当たらないので、立ち寄り湯なのでしょう。 当時は川沿いに旅館があったというけれど名残は感じられない。 入浴料380円。 霧島温泉からタクシーで3000円余りなので鹿児島空港からの本数の少ないバスか車が便利でしょう。 泉質は茶色の炭酸水素塩泉とのこと。温泉には詳しくないですが、良い温泉だとカミさんが述べていました。


ryoma 10.jpg




ryoma 20.jpg
  龍馬とお龍の碑




ryoma 21.jpg
  川沿いにある



       2023-7-21

posted by 速魚 at 06:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月21日

喜入城(給黎城)と喜入旧麓武家屋敷




  喜入は石油タンクが多くあり、沖にはそれに石油を運んで来た大きな大きなタンカ−が見られる地である。 給黎城は肝付氏の居城で会ったが、1411年に伊集院氏の所領となり、さらに1414年には島津久豊がここを攻略した。 この時に喜入と地名を改めた。1595年に肝付氏が入場し1653年に廃城となる。

 給黎城は東へ伸びた3つの尾根にそれぞれ曲輪を設け、北之城、本丸、南ヶ城(下図参照)と呼ばれる。 現地を訪れたが明確な確認はとれなかった。


 城下町には水路があり、今でも麓武家屋敷として見ることが出来る。 



kiire 20.jpg
  給黎(きいれ)城



kiire 21.jpg
  麓から給黎城を望む




kiire 30.jpg




kiire 31.jpg

 



kiire 32.jpg
  堀切、土塁



      2023-7-21

posted by 速魚 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

西郷南洲顕彰館と西郷洞窟





saigounanshu 10.jpg
  西郷隆盛の関連地図


  鹿児島城を訪ねたときに西郷洞窟、終焉の地、銃弾跡,私学校跡を見た。 西南戦争は私学校から城山で激戦があったのが分かる。最後は西郷洞窟から終焉の地に行き、そこで西郷隆盛は亡くなられたのである。

 ほどなく、西郷南洲顕彰顕彰館を訪ねた。 南洲神社・公園の一角に顕彰館は位置する。 西郷の思想・生涯・功績などが紹介されている。

 凡な小生には今もって西郷さんのことは分からない。それゆえ凡なのであろう。 西南戦争においても維新の時にはあれほど謀議をつくしたのに、戦闘を指揮したわけでもなく、策謀をつくしたわけでもない。 やりようによっては勝てたかもしれないのに、明治以降の西郷による違った世界を見てみたいように思えます。




saigounanshu 15.jpg
  私学校の案内板 「おはんら何たることをしでかしたか」



saigonanshu 20.jpg
  私学校跡



saigounanshu 19.jpg
  西南戦争の銃弾跡 




saigonanshu 21.jpg
  西郷隆盛の終焉の地



saigonanshu 22.jpg
  西郷洞窟





      西郷隆盛  磯田道史サンによる

      西郷陣屋




        2023-7-19

posted by 速魚 at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月18日

内之浦  風速30mでの錨泊



utinoura 30.jpg
  港内から南東方向を見てみるとちょうど山間で風が抜ける地形のようだ



 指宿より内之浦に向かった。 このことは今回のクル−ジングで難関と予想してきたが、実際にそのようになった。 台風の時にはヨットを出すことはないけれど、台風並みの烈風・風速30mで内之浦港に入港する事態となる。

 前日のウインデイの予報ではこの日の夕方近くになると赤表示の風速予報で、そのような時には出港を中止するのが常である。 事前の航海計画では指宿―内之浦50マイルとして平均5ノット弱で10時間の航海を期待していた。南西の風の予報ゆえに大泊泊はウネリが入りそうなので避けたい。本当はそこを中継地にして一泊して距離を縮めたいのではある。

 朝五時に指宿を出港。 佐多岬を大きく沖出しして、後方からの大きなウネリを受けながら航行する。 出港の時に迷いがあった気持ちも、途中では、やっぱり今日出て良かったという気分であった。 ロケット打ち上げ場近くに来るとだんだん風が強まり、火埼を回り込んで内之浦湾に入るころには真っ白な白波である。 追手の強風でも岬をかわすと風が弱くなりセ−ルを畳んだり入港準備ができることが多い今までの経験だが、今日はそれを許さない。
 後からニュ−ペックスマ−トをチェックすると入港までに2回転している。 港口では船速がゼロの時があった。 港内に入っても白波で真っ白である。とても接岸できるとは思えない。 漁港の真ん中付近でアンカーを打った。 コックピットから打ったのでアンカーロープを船尾から船首にもやって風に立てた。おもてから風を受け機関を廻したまま、雨の中をアンカーワッチする。 夜10時過ぎに風が少し凪だのでカッパを脱ぎバースにころがりこんだ。 朝起きたらウソのように凪いでいたのでアンカーを巻き上げてヨットを着岸することができた。

 岸壁に前日から繋いでいたヨットマンに伺うと、昨日はとても助けようにもヨットから岸壁に登れるような状況ではなく、ヨットの計器で風速30mを示していたと聞いた。こんな日に出てはいけないとも忠告される。

 シングルハンドではアンカーロップを整理しておき、いつでも使用できるようしておくのが、命を守るということでしょう。 といっても老生のヨットは難民船と呼ばれるくらいに物が多く片ずいていないヨットではある。


utinoura 50.jpg

  夏の時期の南西の強風時には内之浦港は吹き抜けの風があるので、十分に注意する必要がある。


     2023-7-18


posted by 速魚 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月17日

上甑 里麓武家屋敷と亀城


 里港の北部漁港に停泊した。 意外と潮汐があり2-3m、赤丸にある階段位置につけるのがふさわしい。  すぐス−パ−がある。



sato 80.jpg
  上甑 里 赤丸停泊地、青丸は候補地





      亀城



  亀城は里小学校の裏手の小山にある。 小学校は仮屋(代官所)の跡になる。  承久の乱(1221)で戦功をたてた小川氏が築城したといわれる。 13代370年間ここを本拠として治めた。 この南方200mに鶴城があり2つ合わせて鶴亀城といった。



sato 20.jpg
  亀城 案内板




 sato 25.jpg





sato 21.jpg
  本丸らしき高台に展望台がある




    里麓 武家屋敷


  亀城の麓に武家屋敷がある。 玉石垣と生垣でできた通りがある。 大きな規模のものではない。





sato 51.jpg
  案内板 




sato 50.jpg
 



sato 52.jpg
  武家屋敷入口



     2023-7-17

posted by 速魚 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月16日

ハウステンボス


 ハウステンボスを訪れた。今は無いオランダ村に行ったことがありますが、その時に感じたほど良かったとは思えなかった。 どうしてもデイズニ−と比べてしまうのか。 想像していた規模・街並みは小じんまりしたものであった。 アトラクションも見たいものが余りない。 陶磁器把握物館は無料地区にあるのだが、これは見ごたえあり。 運営会社も変わるようである。

 マリ−ナから訪問したのであるが、ホテル泊なら少しは違ったものになるのかもしれない。 マリ−ナ利用の恩典はなし。


haustenbos 10.jpg


 

haustenbos 20.jpg
  ホテルのひとつ ホテルヨ−ロッパ






    ハウステンボス ヨット泊


 下の写真のように長期係留の空は少ないようである。 関東や北海道から係留地を変更してここに来ている人が多いと聞く。  海の駅はF/100円/日 花火大会のあるときなどは混雑が予想される。予約・確認が必要である。


 庭先係留の別荘地区を覗きに行った。 ゲ−トがあり中には入れなかった。 ヨット・ボ−トを係留している家は少なかった。フロリダのフォ−トデラデイ−ルでも超お金持ちの街であるが、ここもそうなんであろう。


 

haustenbos 50.jpg
 ハウステンボスマリ−ナ、  電気、水道、シャワ−あり



haustenbos 55.jpg
  庭先係留地区



     2023-7-16

posted by 速魚 at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月14日

磯庭園(仙巌園)と反射炉


 島津斉彬の幕末の殖産興業策には興味を持っていた。 その集成館事業の地磯庭園を訪れた。 磯庭園は仙厳園ともいい、島津藩の桜島を借景とした別邸である。 そこには紡績工場、溶鉱炉、機械工場や反射炉などがある。


isoteien 20.jpg
  桜島を望む磯庭園



isoteien 22.jpg
  磯御殿  300円増しで内部がみられる




isoteien 25.jpg
  曲水の庭




    集成館



 薩英戦争で消失したというが、その後に再建された。 水力で動力を動かしたので水路の跡もある。 炭で火力を得たところから、寺山炭窯跡という巨大な炭焼き窯を作った。



isoteien 28.jpg
  集成館周辺案内板




isoteien 29.jpg
  日本初の近代工場群 古写真




isoteien 30.jpg
  反射炉跡



isoteien 31.jpg
 造船所跡





isoteien 32.jpg
  紡績所跡碑




isoteien 35.jpg
   技師館(異人館)


 異人館のボランテイア婦人ガイドさんと、なぜ明治以降にこれだけの先駆的な工場があったのに、鹿児島はその後先進県になれなかったのを話した。



 

        2023-7-15

posted by 速魚 at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

磯庭園(仙巌園)と反射炉


 島津斉彬の幕末の殖産興業策には興味を持っていた。 その集成館事業の地磯庭園を訪れた。 磯庭園は仙厳園ともいい、島津藩の桜島を借景とした別邸である。 そこには紡績工場、溶鉱炉、機械工場や反射炉などがある。


isoteien 20.jpg
  桜島を望む磯庭園



isoteien 22.jpg
  磯御殿  300円増しで内部がみられる




isoteien 25.jpg
  曲水の庭




    集成館



 薩英戦争で消失したというが、その後に再建された。 水力で動力を動かしたので水路の跡もある。 炭で火力を得たところから、寺山炭窯跡という巨大な炭焼き窯を作った。



isoteien 28.jpg
  集成館周辺案内板




isoteien 29.jpg
  日本初の近代工場群 古写真




isoteien 30.jpg
  反射炉跡



isoteien 31.jpg
 造船所跡





isoteien 32.jpg
  紡績所跡碑




isoteien 35.jpg
   技師館(異人館)


 異人館のボランテイア婦人ガイドさんと、なぜ明治以降にこれだけの先駆的な工場があったのに、鹿児島はその後先進県になれなかったのを話した。



 

        2023-7-15

posted by 速魚 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月13日

富岡城


 富岡城は熊本県では熊本城に次ぐお城だという。 ここをヨットで訪ねるべき長崎サンセットマリーナより富岡西港へ向かった。 ポンツ−ンにもやいを取った。 すぐにも漁港の関係者らしき2人が現れ係留拒否を申しわたされた。 着けたときに近くにいた漁師さんに邪魔になるか尋ねて差しさわりないであろうと聞いた直後であった。 他の場所を探したが、適当なところがないようなので口の津を目指した。 滅多に無いが、クル−ジング中に一度くらいは拒否にあうことがある。 ヨットに取っては困った事態ではある。

 この城への訪問を一度は逃したが、口之津からフェリ−で鬼池に渡り、タクシ−にてここを訪れた。 ヨットでは東港に係留するか、レンタカーを利用するしか交通に不便を感じるところではあるが、行けば満足の得られるとこおであろう。


tomiokazyo 10.jpg



  富岡城は関ケ原で家康に与した唐津藩主・寺沢広高が飛び地天草郡4万2千石をあたえられ、この地を治めるために1605年に築城された。2代目堅高が過酷な税のため天草の乱の一因となった。 一揆勢がこの城を襲ったが持ちこたえて撤退させた。 乱後に所領没収となる。山崎家治がここを領し、多くの改修をおこなう。1641年に丸亀に転出して天領となる。



tomiokazyo 50.jpg
 代官 鈴木重成像

 寺沢の算出した石高が過大であると再検地をおこなう。神社が出来るほどの治世を行ったという。



tomiokazyo 20.jpg
  袋池から望む



tomiokazyo 22.jpg
  堅固な石垣


tomiokazyo 23.jpg

 


tomiokazyo 24.jpg

 




     2023-7-14


posted by 速魚 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

入来麓 武家屋敷


 JR川内駅よりバスに乗り小1時間で清色城と入来麓武家屋敷に着く。 こじんまりまとまっているのでお城を含めて徒歩で雰囲気を楽しむことが出来た。 清色城の空堀は難攻不落のお城を思わせる。 見ものだ。




iriki 10.jpg
  案内板 



iriki 15.jpg
  茅葺武家屋敷門



iriki 20.jpg
  玉石垣とその上の生垣で区割りされている



iriki 25.jpg
  旧増田家 



     2023-7-13


posted by 速魚 at 05:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月12日

崎津教会  世界遺産



  崎津教会の見学を終えて、コロナ前の2018年春巡航以来の念願の世界遺産の教会巡礼を完結した。



sakitu 10.jpg
  崎津教会



sakitu 11.jpg
  内部   畳がひかれていて珍しい内装である



 天草のひなびた湾に見える天主堂と言えば、旅情をそそる絵になる。 ヨットでそこに訪れることが出来て喜びである。 しかし、ここは安心して係留できる場所が手狭。 係留場所を探していて湾奥で軽い底すりを経験した。 入り口近くの漁協ポンツ−ンへ、教会を見に行く短時間の許可を得てもやいを取ることになった。 停泊は隣の大江に行き一夜を過ごした。



sakitu 20.jpg
  赤丸は臨時係留地



        2023-7-12


posted by 速魚 at 05:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月11日

加治屋町  英傑の町内

 

 司馬遼太郎さんの小説でこの加治屋町のことを知った。行ってみれば確かに今住んでいる自分の町内の広さである。 この狭い区域の人々で司馬さんが云うように「明治維新から日露戦争までこの町内の人でやったようなもの」であるので、小生にはすごいことだと思う。 松下村塾生も小さい集団だが、なにか優れたものがあるのなら、ここのように歴史が動かせるということでしょう。 どちらも教育のなせる結果だったのである。  薩摩の郷中教育は維新後には生かされていない。薩摩や長州の教育の良さを維新後に制度に組み込まれることはなかった。それらの遺産の上に、それが機能する期間だけ日本は恩恵を受けたというべきでしょう。 継続発展させることができなかった。 


kaziya 10.jpg

 

  加治屋町にある英傑の誕生地等は

 1. 西郷隆盛・従道 誕生地

kaziya 20.jpg
 

 2. 大久保利通 生い立ちの地

kaziya 25.jpg
  

 3. 東郷平八郎 誕生地

kaziya 22.jpg

 
 4. 大山巌 誕生地

kaziya 21.jpg

 
 5. 吉井友実  1828-1891

 

 6. 村田新八 誕生地

kaziya 23.jpg
 

 7. 篠原国幹 誕生地

 

 8. 黒木為驕@誕生地

kaziya 27.jpg
 

 9. 田代安定 1857-1928

kaziya 29.jpg
 熱帯植物研究の第一人者

 10. 井上良聲 いのうえよしか 1845-1929

kaziya 28.jpg
 海軍元帥

 


     2023-7-11



posted by 速魚 at 01:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月10日

水俣

    

  水俣港のビジターバ−スに係留して、水俣病資料館、八代城、麦島城、水俣城を訪れました。 ポンツ−ンがあり電気と水がとれます。 電機は200vを100vに変換するコ−ドが必要で、事務所ではそれを用意していないので持参する必要あり。 ポンツ−ンは水鳥のフンだらけで自分で動くところを清掃した。 所長が訪ねてこられて利用が少ない理由を尋ねられた。 2000円程度利用料を支払った覚えがあるが、HPを見てみると、トン6円/日のようで安価なのだが、最近改正したのかもしれないので、確認が必要です。 電気も取れないのに2000円は高い。




minamata 20.jpg
  水俣ビジターバ−ス

 


  水俣港管理事務所  0966-63-2449,7501(休日) 


   https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/111/97988.html




minamata 10.jpg
 水俣  赤丸はヨット泊地

  

        2023-7-10

posted by 速魚 at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月09日

コレジョ、 セミナリオ

 


 コレジョは英語でカレッジですので大学にあたります。キリスト教布教のための教育機関にセミナリオは中学、コレジョは大学に相当します。

口之津と天草の大江をヨットで訪れ、これらを見て来ました。 これらの施設は他に大分や安土にもあった。

 

corezyo 05.jpg
  島原のコレジョ





corezyo 07.jpg
  天草コレジョ





  1. 加津佐 コレジョ・セミナリオ

 1590年・天正18年 加津佐にコレジョ・セミナリオが建設された。天正少年使節が持ち帰った印刷機で印刷が行われた。この地が我が国活版印刷

の発祥の地である。 案内板があるのみである。



corezyo 20.jpg
  加津佐コレジョ・セミナリオ跡




corezyo 15.jpg
 




  2. 有馬 セミナリオ

 1580年に建てられた。天正(少年)遣欧使節はここの第1期生であった。 日野江城付近にあったのですが、どこにあったのかは諸説ある。

 ここも石碑と案内板があるのみで、確定した位置ではない。



corezyo 30.jpg
  有馬セミナリオ跡





  3. 天草  コレジョ (1591-1597)

 

 大江からタクシーにて天草コレジョ館に行って来ました。後で知ったので訪れていませんが、コレジョ跡は近くの別の地である。天草市河浦支所(コレジョ公園)あたりにあったという。

 コレジョ館は島原にあるコレジョとセミナリオ跡とは違い、充実した展示が見られる。 キリスト教の教育には音楽は重要で、ここには当時の楽器のレプリカが見られる、印刷機も展示されている。


corezyo 35.jpg
  古楽器



corezyo 40.jpg
  活版印刷機



 天草コレジョは加津佐より移転してきたものであるが、その場所は河浦説と本渡説がある。激しい論争があったようだが、今のところは河浦説が有力であるという。 ここから長崎にコレジョは移る。



          2023-7-9

posted by 速魚 at 01:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月08日

座礁  野間池



zasho 10.jpg
 野間池  赤丸は笠沙えびすポンツ−ン



zasho 20.jpg
  ニュ−ペックスマ−トによる座礁地点  外堤防横の赤斜線は定置網の位置表示、 



  ヨットの座礁については、それが避けられないものであるかのように知たり顔にブログで書いてきました。 今回は起してはいけない恥ずかしいものでした。 3隻目のヨットになるのですが、前の2隻のヨットでも砂地への座礁を経験しています。 しかし、今度の事故は初めての岩への座礁であり、自分の責任が大きいというものでした。 外航の航海士の経験のある老生にとって、この座礁が当時の勤務中に起こした本船の座礁事故ならクビになっていただろうと思えるものです。

 その事故とは、2023年4月12日、下甑島長浜から野間池に向かっていた時です。南西の風のアビ−ム帆走で快調に港入り口まで来ました。外防波堤の突端に着きましたが、内港の入り口は見えずらかったので陸地へ接近した。 防波堤横にはイケスのような網が見えた。 ニュ−ペックスマ−トには5m水深の線が描れている。 上図の色の濃い水色区域。 2m水深ラインの表示は無い。 杭が4本設置されていたがその意味はこれより陸側は浅いということであった。 灯標によくある青赤ブイのようだと誤認してその間を通航すべき意図で杭の内側陸地側に寄ってしまった。 座礁である。 機関を後進いっぱいにしても抜けだせなかった。 その作業中に港から船外機付きの和船が出てきて、こちらに気が付き離礁作業に協力してくれる。30分ほど行ったが10馬力に満たない船外機でではロ−プで引き出せなかった。 その後養殖に使われる船首にクレ−ンの着いた20トン程度の作業船が出てきて、20mmのえい航ロ−プが切断したけれど、無事に深いところへ引っ張りだし救助してくれた。 岩の海底であったのでゴトンゴトンとぶつかりながらの作業であり心配があった。

 そこから笠さ恵比寿海の駅のポンツ−ンにヨットを係留した。 ビルジに水が貯まることは無かった。そこで潜って船底を確認したが、バラストがこすれて塗料がはがれ白くなっている。小生の潜水能力の不足ゆえに詳細な点検はできなかった。 その後に、救助のお礼に伺い、マルハニチロ会社のクロマグロ養殖に携わっている人々が助けてくれたのを知る。 最初の船はえさやりの船、引出してくれた船はイケスからの水揚げをする船であった。 ヨット積んであった焼酎を持参したのであるが、受け取ってもらえずに、お礼だけ終わってしまう。 その帰路に軽自動車にヨット関係のブランドが車体に描かれているのを見かけた。 ひょっとして業者の方かなと思い声をかけた。 なんと串木野で大変お世話にまったNdさんのお兄さんであった。 夜はお風呂に入れてもらい潜った塩を洗い、お酒と夕食をごちそういただいた。 不安な気持ちもこれで和らいだ。串木野に戻りそこで上架して船底の点検をすることにした。

 翌日に串木野に着き、クレ−ンの手配を地元のヨットマンに依頼してもらった。 あいにく1週間ほども待機となった。4月20日にクレーンが来て岸壁の横で吊上げてもらい、船底を点検した。 ガラス繊維の作業の職人さんにも見てもらった。 船底の亀裂やふくらみは無かった。ビルジも貯まらないようなので航行に支障はないようだ。 引き揚げ降ろし作業に串木野のヨットマンが総出で手助けしてくれた。 クル−ジング中の小生には本当に心強いものであった。 皆様ありがとうございました。 おまけにクレ−ン代も25000円で40トンクレ−ンとしては格安であった。口をきいてくれたおかげである。

 ニュ−ペックを船内のPCに作動させてヨットを出すのだが、シングルハンドではわざわざキャビンに降りてそれを見に行くことが少ない。ニュ−ペックスマ−トを手にして以来コックピットでスマホを握って航海をしている。 サブには古いスマホにナビオニクスを立ち上げて使う、これには通信環境を必要としないでGPSが使えるスマホならよい。 速度表示はナビオの方が大きく表示されわかりやすい。 港内表示はさすがにニュ−ペックの方が詳しい。 今回の野間池の水深表示が5mまでであるので、そのラインを警戒線としなければならなかった。 定置網表示の赤の斜線は、 上図のように少し大きめに表示されることが多いようで少し中に入っても経験上良いように思われる。 今回は網に寄って入港すべきであった。 また、グ−グルマップの航空写真を拡大すると野間池内港入り口陸側に昔の防波堤を壊した跡が判明している。ここにその時の破片・岩があるので避けるべきであろう。



     ロングクルージングと座礁



     202-7-8

 
posted by 速魚 at 06:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月07日

原城   世界遺産

   

 潜伏キリシタンの世界遺産のひとつ原城を訪ねた。 昨年に五島列島にある若松島でタクシーにより教会を見学していた。その時に運転手が述べるには、この地区の住民はすべて島原の乱で帰ることはなかった、という話を聞き、天草、島原の教徒だけでなく五島の教徒も参加していたのかと驚いた。 3万7千名が死亡したということなので、近辺の教徒がすべて一揆に加わったということだろう。



harazyo 10.jpg




 原城は有馬貴純が1496年に築いた。晴信によって織豊系城郭として整備された。有馬氏が日向延岡に転封になり、1616年松倉氏が島原城を築城し原城は廃棄された。 1636年の乱の時は石垣や建物が残っていたのではないかと思われている。 乱後に徹底的に壊されたので、今眺めて見ると石垣の城跡の予想が外れて、見通しの良い芝生の築山の印象である。

 


harazyo 05.jpg
  本丸正門



harazyo 06.jpg
  埋め門




harazyo 20.jpg
 空堀 



harazyo 11.jpg
  天草四郎の碑



harazyo 21.jpg
  天草丸




        203-7-7




posted by 速魚 at 03:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月05日

出水麓 武家屋敷

 


  肥後との国境近くの重要拠点に出水麓はある。 亀ヶ城の麓の武家屋敷であるが、肝心のお城は案内板も見当たらず見ていない。 立ち入り禁止になっているとも云う。  ここには150軒があったと言い、薩摩藩最大の武家屋敷群であった。





izumi 20.jpg
  亀ヶ城 模型



 現在の出水小学校に役所に当たる仮小屋があった。 出水は島津の直轄領であったため、地頭が派遣されていた。




izumi 30.jpg
  出水御仮屋門  現出水小学校



izumi 40.jpg
  竹添邸



izumi 41.jpg
  竹添邸 馬小屋



  税所篤の家かと思っていたが、西郷らと豪中仲間であったとされるので、ここ出水麓で育ったのではないようである。 150石とか200石程度の薩摩上級承久武士の家である。 彼は縁続きの一族になるのであろう。



izumi 50.jpg
  税所邸



izumi 51.jpg
  税所邸  内部



       2023-7-6


posted by 速魚 at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2023年07月04日

三角

    

  宇土マリ−ナ最寄りのJR赤瀬駅よりあまくさみすみ線に乗り三角へ行く。 三角は終点の三角港と明治に開港した三角西港地区に分かれる。



  三角西港

 三角駅よりタクシーにて西港地区に向かう。 レトロな雰囲気を残す風景が見える。 現在の港の中心は三角の新港に移っており、ここは観光地としてある。

 熊本県には良港がなく、それゆえに、明治の近代港として国家的事業として、三角西港は明治20年に開港された。 オランダの築港技術が使われ当時の石済み埠頭、水路や橋などが残っている。国の重要文化財であると共に世界文化遺産となっている。。



misumi 10.jpg
 浦島屋 ホテルの復元建物




misumi 11.jpg
 旧三角海運倉庫

 


misumi 12.jpg
  旧高田屋回漕店 





misumi 15.jpg
 石済み埠頭

 

  



   三角(東港)


 明治32年に九州鉄道の終点として発展。 西港は土地が手狭のため急速に廃れ、東港が物流の中心となった。 天草への玄関口としての利用も天草諸島に架橋が進み、今ではっこはフェリ-としての機能も縮小した。


misumi 60.jpg
  フェリ−タ−ミナル




   三角ヨット泊地


misumi 80.jpg
  三角西港  青丸ポンツ−ン

 西港東寄りにポンツ−ンが整備されている。



misumi 81.jpg
  三角東港  青丸は候補地




      2023-7-5

posted by 速魚 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記