2024年04月16日

全国ヨット泊地 更新


 
 全国ヨット泊地を更新しました。
  
   https://hayame.coolblog.jp/custom4.html#spb-bookmark-36

 今回は2024年春巡航のために、 四国88ヶ所をヨットでお遍路する準備として、 四国のヨット泊地を加えました。
 泊地候補の青丸ばかりですが、今夏にはクルーズを終えて実際の係留地赤丸印に加筆訂正していきます。

     2024-4-17



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田口愛




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  田口さん



 明日から人生の残り少ないヨット巡航へ出発する。 そのための荷物をハーバーへ送ったところだ。 大好きな袋詰めチョコレート3個を同梱した老生です。

 何年か前のテレビの番組において、小生はチョコレートの原料・カカオ豆の産地では栽培して収穫している現地の人々には、それを口にすることは無いとの番組を見た。



 何十年前にはその産地の国々は独立したわけであるが、未だに植民地的な状況が続いているのかと小生は驚いてしまう。 ベルギーのチョコは有名であるけれど、その企業は現地には何も残さずに独立後でも実質的な支配を続けているのであろう。



 死ぬ間際の老人になっても他者のために何かをしてきたのかと小生に問われてみてもお答えするものは無い。 若い女性がマラリヤに犯されながらも、みんながウィンウインになるための努力されているのに敬服いたします。 まだ、立ち上げたばかりですので、これから上手くやれると良いですね。




 ガーナのカカオ農家を支援するため24歳の女性がチョコレート工場を建てる 

              24分

    https://www.youtube.com/watch?v=eSz8d0YDrOM&t=29s
      

   
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   マーハチョコレート


     2024-4-17


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2024年04月15日

一乗谷  朝倉氏遺跡

 
  

 永平寺よりバスにて一乗谷・復元町まで行く。 谷あいの川を挟んだ狭い地域に朝倉氏が住んだ。 復元の街並みを見ることができる。 当日は鉄砲隊の実演があり。谷間に銃撃音が予想外に大きく響いた。



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 福井駅、 永平寺、 一乗谷



 現地を訪れてみると南北に城戸をもうけるだけでは不安がある。朝倉館もすぐ横が山であるここから攻めてきたらどうするのだろうか? 安心して住んできたのであるから、統治が安定していたか、他の防備を考えてきたかのいずれかであろう。

  実際には、北東の低い場所には小見放城という出城が築かれ、馬出しなどが設けられていた。なお、一乗谷の周辺の山峰にも、西に槙山城、北に成願寺城、南に三峰城などの出城が築かれていた。 下図のように東西南北に出城があった。 それらはクマが出るような環境であるから見るのは大変である。

 柴田勝家の北の庄城でも云えるのであるが、大きな野戦で敗北してしまうと、ここも信長から守るのは難しかった。 ここは芭蕉ではないが「兵どもの夢の跡」という気持ちがしないでもない。



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 一乗谷城の周辺出城





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 一乗谷川の両岸に朝倉氏の遺跡がある





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  朝倉館跡  この敷地に庭園跡もある





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  復元城下町





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  火縄銃の発砲実演



  2024-4-16




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ひがし茶屋街  金沢

 

 京都駅より1日巡回バス券 800円を購入してここを訪ねる。 街並み保存地区であり、よく整備保存されている。 お昼の訪問であったので、京都で見かけると云う芸妓さんは見かけなかったけれども、若いカップルが和装してポーズを決めてカメラマンが撮影しているの見た。 このようなツアーがあるのであろうか、他所でも目にする。

 金沢芸妓   https://kanazawageigi.jp/chaya/higashi.html



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  金沢有名観光地



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 「ひがし」と「主計町」 茶屋街図

上の2つの他に「西茶屋街」があるというが、訪ねていない。



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  ひがし茶屋街 その1



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  ひがし茶屋街 その2





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  ひがし茶屋街 その3



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  主計町茶屋街  浅野川沿いにある



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  泉鏡花記念館



      2024-4-15


 
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2024年04月14日

高校生のときの私

  


 もう60年も前の話を取り上げるのは笑止千万とはこのことでしょう。 小生には受験勉強になじめずに苦悶した時代でもありました。 実はナマケモノであっただけ。 今思えば、学生の本分に従って努力してきた人には結果的に、半世紀経っても少しは報われた世代でもありました。  しかし時代が変わる。 チャットGPTが誕生してきた現今では、まだどうなるかは分かりませんが秀才の職業は無くなっていくでしょう。 弁護士、医者、会計士、官僚など既存の知識を活用していくものがそうなる。AIを使いこなせる人材や子供の博士ちゃん的の人材が求められるようになるか。 産業革命のような大きな変動が起きるのかもしれませんね。

 以下は小生の過去のブログを再掲いたします。 

              2024-4-14



 1.  高校の音楽と人生の楽しみ
 


 高校の世界史で歴史好きが嫌いになった話を先ほど書きました。 今度は音楽の授業で人生の楽しみを見つけたお話です。高校2年生の時に音楽史をメインに教材が作られていました。(ああ なんと60年前かと...)最初はグレゴリオ聖歌で始まります。何とか修道院の聖歌隊のレコードでした。



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 ワンダ・ランドフスカヤ  1879-1959


 お経のようで,今までに聞いたことのない響きで感動でした。それからランドフスカヤのチェンバロです、なんて繊細で微妙な音楽なんでしょう。心と耳に衝撃を受けそれ以来老人になるまで、オーケストラは好きになれませんでしたが、古楽とバッハの音楽を楽しんで過ごせました。


 出来の悪い生徒でしたので、他の科目では何も得ることはなかったです。もっと後になるまで、自分が音痴であるとは気が付きませんでしたが、ヘタの横好きは続きました。普通こういうことをかく人は何事をなした人の若い時のエピソードでしょう。 スミマセン。ただ無駄に過ごした老人の話です。

 昨年にレオンハルトの亡くなる前の最後の日本公演を聞くことができました。アンコールなんか一切しない演奏会でしたが、淡々と端正なチェンバロ曲を聴くことができました。人の持つ感性は様々で、眠たい音楽を授業で聞かされ退屈した生徒も多かったでしょうね。我が人生としてはありがたかった授業でした。
 ライプチヒで開かれているバッハ音楽祭には死ぬまでにいけるのでしょうか......。

  グレゴリオ聖歌  ベネデイクトス    シロスモンセラート合唱団   4分
  http://www.youtube.com/watch?v=_MbDqc3x97k&list=PL7459B90AE9B9F837&index=11
 


     2013-8-5



   2. 高校のクラブと美術


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 カラヴァジオ 1571-1610


 昨年からブログを380本(今は1000本)近く書いてきました。訳のわからない古楽やら線香ただよう宗教音楽、この先には老人の遊びと化しそうな(なった)ヨットの話、絶滅した外航船員のおはなしをアップしてまいりました。まだ美術関係のブログを書いたことはありません。実は私は高校のときには美術クラブに入っておりました。デッサンもまともに書けないような部員でしたが、油絵を中心とした活動をしていました。卒業までまともな作品・絵はひとつとして描けませんでしたが。


 でもクラブは活発なクラブでした。当時は、施設・ハコモノがまだ貧弱な時代で、県にひとつしかない美術館に定期展示会をもっていて,他高や美術団体からうらやましがられていました。 受験校でしたので、学校の方針として受験第一ですから、活発なクラブはご迷惑という方針で、部活動にいろんな規制をかけられておりました。 落ちこぼれの生徒でしたので、クラブに行くことのみが楽しみで、また受験のもろもろの空気に反発しながらも、それがあるので学校に行けていたようなものでした。 クラブでイベント・展示会に向かって、皆でやることはその後の人生に役立ったように思います。

 でも卒業以来だんだんと美術そのものは興味が薄れていき、美術館へも滅多にいかなくなりました。人生の楽しみにはそれはなれませんでした。自分の楽しみ・興味はヨットや古楽のほうに向いて生きてきました。だからこのブログにあげることが少ない理由でしょう。古楽と同じでバロック・ルネッサンスの絵画は好きです。

 歳を重ねて老人になってから考えてみますと、高校段階のクラブは大切なものです。その後の人生に大きな影響を与えることがあります。クラブの同級の男子5人のうち3人は美大にすすみ、その後、絵で一生生活しているのですから。自分が好きで努力もしないで、できるものを早くみつけて、高校にそんなクラブがあるなら、入ってやっていくべきでしょう。

   2014-11-5





   3. 高校の歴史教科書
         

 本屋さんで;東大のデイープな日本史という本を見つけました。もちろん東大を目指しているのではありません(笑)。他大学の入試問題はどうなったんでしょうね。老人になった小生が何10年前かに受けた3流大学の問題とは明らかに違っていました。これだと暗記ではない相当な認識を要求されます。



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                  講談社刊


 この年になるまで歴史好きで来ました。しかし高校の時の世界史の教科書はひどかったです。世界史なので量的なものが多くなるためもあるのでしょう。受験のための歴史語彙が羅列してあるばかりで、すっかり歴史が嫌いになりました。 成人してヒッテイの”アラブの歴史”を読み、こんな教科書なら若い時にもっと歴史が好きになったでしょう。友人に薦めたらすっかりアラブ通になりました。

 世界史は今の高校では受験に必須の科目の位置にあるようです。高校の歴史をもう少し細分化して、日本史・ローマ史・アラブ史・西欧近代史・中国史などひとくくりで学べる意義のある単元に区切る必要があると思います。


 高校程度の知識では抜けた分は自分で十分補えます。たとえばローマ史だけ丁寧に学べば人生に役立ちますね。


                      2013-7-28
  

      慶応大学入試











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2024年04月13日

長町武家屋敷 金沢



 金沢駅よりバスで香林坊にて下車してここは徒歩5分です。


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  金沢有名観光地



 大野用水沿いに加賀藩の上・中級武士の屋敷がある。 お城に近いほど上士が住むものであるが、100万石の格ゆえに他藩では家老をつとめる者でもここでは中士・平士である。

 加賀藩の家臣団は、軍事組織と行政組織の2つを組み合わせたもので5代藩主綱紀によって編制されたものである。
「八家」から「平士」までの階層は、「御昵近の侍」と呼ばれ、藩主へのお目通りが許されていた。「人持組」に次ぐ身分の「平士」には、藩主の大部分が属し、幕末の資料によると1400家を数えた。知行高は、最小80石から最大2400石に及び、中には切米取や扶持米取もいたようである。
 藩内のほとんどの役職は、平士階級に属する藩士たちによって管理・支配され、加賀藩における行政組織の中枢をなしていた。



 現在も居住者が居り、ほとんどが非公開である。 高田家の中へ入った。 母屋は無く庭園になっている。



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  大野用水

 用水は流れが予想よりも速く、清水が流れている。



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  長屋門の武家屋敷





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 旧高田家跡  550石の藩士であった、440坪あったと云う



    2024-4-13

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2024年04月11日

永平寺

 



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 福井駅、永平寺、一乗谷


 福井駅より永平寺行の直通バスに乗った。 30分ほどかかる。 着いて参道の坂道を登ると、大きな寺院建物・伽藍を目にする。

子供の頃に親がここへ行った覚えがあります。 最近は神社と教会をよく訪ねて取り上げている。それにしては宗教に縁遠い老人であるので、永平寺は禅の何かのお寺である程度の知識です。 オソマツながら、テレビの番組で見た座禅を組んでいた修行僧がパチンと肩を打たれる映像ぐらいしか浮かばない。 見学中に若い彼らをよく見かけます、話しかけないで下さいと注意書きがある。

  道元(1200−1253)は南宋に渡り学んで帰国して、比叡山と対立する。その弾圧を避けるために地頭の波多野氏の招きで1244年に曹洞宗の永平寺をここに開く。 現在は大小七十余りの建物を持つ曹洞宗の大本山である。



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  案内図

 残念ながら建物の形や姿は良いのであるが、コンクリート造りが多いように見受ける。 もちろん木造製の建物もある。 案内書きにまかせて館内を濡れることなく巡回できるけれど、外側で階段を踏みしめながらの参詣も良いので、どちらが良いのかは好みの問題であるかもしれない。



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  参道から正面の永平寺

 

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 傘松閣 内部天井



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 中雀門  その奥に仏殿



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  左の吉祥閣と右の傘松閣



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 山門



         2024-4-11



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2024年04月10日

映画 ゴジラ ー1.0   GODZILLA MINUS ONE



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 初めて小学生の頃に映画「ゴジラ」を見て以来、映画館に行って今回の「ゴジラ-1.0」を見ました。 アカデミ賞もとったんですね。 これを耳にすると幼い小生が恐怖におののいた、ゴジラ登場場面音楽のダダ・ダーン、ダダ・ダーンも使われていました。

 最近のゴジラ映画を見ていないので、どういう時代背景になって描かれているのか小生は知りません。 今回は先の戦争の敗戦後になっています。 軍オタの私にはたまらない戦闘機震電、3ないし4式戦車、これらはほとんど正式化(試作?)されても極めて少量生産されたものです。 軍艦も戦後に生き残った駆逐艦雪風、巡洋艦高尾も登場した。 シナリオを書いた作家・監督は老生と同類項のミリオタなのでしょう。 忠実どうりに敗戦当時の下調べがよく出来ている。

 旧海軍軍人が戦後の機雷掃海や朝鮮戦争で機雷の掃海での参戦した事実も踏まえて描かれている。 実際、小生は船乗りになった昭和の40年代でも、その掃海に従事した先輩船員と乗船したことがある。

 低予算でこれを製作した評価が高いようです。 実際に見ていても軍艦の内外が違和感なく表現されている。 見事なオタクと云えましょう。 機会があったらこの映画をご覧になったら良いでしょう。 オススメです。

 登場兵器

零戦五ニ型
戦艦長門
重巡洋艦高雄
四式中戦車
駆逐艦雪風、  これは昭和の40年代に台湾の基隆で台湾軍艦として実見をした
駆逐艦夕風
駆逐艦響
駆逐艦欅
十八試局地戦闘機震電

 https://www.youtube.com/watch?v=x7ythIm0834   予告編


     2024-4-10


 
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2024年04月09日

丸岡城  ・霞ヶ城



 福井駅よりバスにて丸岡城へ行く。 他に永平寺よりここを経由して芦原温泉へ行くバス便もある。


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 福井から芦原温泉へ


 この城は現存12天守の城のひとつである。 1576年に柴田勝家の甥である勝豊により築城された。


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  縄張り図


 天守は古いままだが、五角形の内堀は埋められているので、内堀を復元する計画があがっているようだ。 不明門、内長畝口門、大手門、搦手門、櫓、二の丸御殿の木造復元計画と内堀の復元計画もある。


 4万石程度規模のお城が完璧に残っていると見ごたえがあるのですが、残念ながら存在しない。 少しでも縄張りのごとく復元できると良いように思える。 




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  天守


 入り口の階段も内部の階段も急で、昔がそうであったので仕方がないけれど、手で支えられる柵やレールが安全のため欲しい。足腰の弱い老人であるがゆえに。




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 城内部




  歴代領主の10代目有馬清純から有馬氏になり明治まで続く。 清純はキリシタン大名であった有馬晴信の曾孫であることから、お城近くの圓光寺境内にキリシタン灯籠がある。 川沿いの道路わきの寺の奥にあった。


 


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  キリシタン灯籠



    2024-4-9







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2024年04月07日

金沢城

 



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  縄張り図



 能登地震から3か月余りであるが、金沢市内にはその影響を感じるところが少なかった。金沢城も普段どおりに見ることができる。

天正8年(1580年)、柴田勝家が、それまで当地にあった金沢御堂城(かなざわみどう)を攻略し、佐久間盛政が初めて金沢城主となり城郭整備に着手しました。賤ヶ岳の合戦後、前田利家が金沢城主となり、3代藩主利常(としつね)による寛永8年(1631年)の大火後の造営で現在の城の縄張りがほぼ定まり、約300年間にわたって百万石余を領した前田家歴代の居城として継続しました。



 金沢駅よりバスにて、お堀通り石川門下にある金沢城公園口で下車。 すぐ前田利家の銅像がありその小路に沿って大手門にむかう。

 

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 大手門

 大手門から河北門を通って三の丸に至る。



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  河北門



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  五十間長屋



 おなじみの三の丸から見た五十間長屋の写真をご存じの方は多いと思われる。この堅固で長い上下2段の防備を見ると、ただならざるお城構えであると、誰しも感じるでしょう。 橋爪門から二の丸に入りその五十間長屋の内部を見学することができる。そこと兼六園は70歳以上は無料となる。 なお、二の丸御殿の復元計画がある。



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  菱櫓  五十間長屋に続く菱櫓



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  橋爪門


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 三〇間長屋  重文

 本丸はうっそうとした林で1602年に焼失した天守跡の案内は見つけられなかった。


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 本丸にある戌亥櫓跡




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 鶴丸倉庫  重文

 兼六園に続がる搦手として石川門がある

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  石川門 重文


     2024-4-7




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2024年04月04日

北の庄城と福井城


 信長から越前を任された柴田勝家が1575年北の庄城を築く。 ここは九層の天守を持つが七層の安土城をしのぐ天守であったという。 1583年の賤ヶ岳の合戦に敗れた勝家は3000の兵とともにここにこもり、秀吉に敗れてお市の方と勝家は自害した。

 現在は勝家神社の周辺に石垣が残り、面影はない。 小さな資料館があるが開館前の時間(0900)であったので見ていない。



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   九層の天守  



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  北の庄城 石垣


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  柴田神社  本丸があったという


 前田利家は信長から配備された柴田勝家の寄騎の武将であった。勝家が秀吉と対立するようになると微妙な立場に置かれる。利家が秀吉の側に付いたのは知っていたが細目は自分には不明であった。 ここでの説明書板を読んでいていて分かる。 賤ケ岳の戦いに敗れた柴田勝家は敗走していた身でありながら、利家に秀吉に加わるように促したということであった。





    福井城


  ここは北の庄城の遺構を大きく改変して、一六〇一年から家康の次男で豊臣に養子に行き結城家を継いだ結城秀康が築城した。



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 福井城と北の庄城 周辺



残念ながら、堀は二の丸と三の丸が市街地になり消滅し、本丸の周辺にのみ残っている。 本丸には現在の権威の象徴である県庁ビルが建っている。 天守台には四重五層の天守があったが1669年に焼失した。

  
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  ご廊下橋



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  天守跡



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 本丸より内堀を望む


   結城秀康 1574−1607

  家康の次男で秀吉の養子となり秀康という名は家康と秀吉の名よりなる、その後に結城氏の養子となった。



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 結城秀康

 詳しくは、 誕生しても正室の築山殿に認知されずにいた。 築山殿の死後認知される。 長男信康の切腹後には弟・秀忠が後継とされた。 小牧長久手戦いの和平の条件として秀吉のもとへ人質・養子として送られる。 1584年河内の国1万石を与えられる。九州征伐で軍功をあげる。小田原征伐後に結城家に養子に行き10万石を得た。関ケ原の際には上杉の備えとして宇都宮に留まる。越前北の庄を賜り68万石を得る。


    2024-4-4


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