2024年08月29日

湯谷神社、  若杉山鉱山遺跡





  21番太龍寺を参詣した時にロープウエイ乗場へタクシーを呼び寄せ、若杉山鉱山遺跡と湯谷神社へ行って来た。 地元のドライバーでもこれらへは行ったことが無く、スマホを見ながら、こちらがそこへ指示した。

 

wakasugi map 10.jpg
 那賀町 周辺図





    湯谷神社

 古事記にあるイザナミが黄泉の国から逃げる道を黄泉比良坂(よもつひらさか)と言いますが隠岐出雲の国にあるのではなく「ユヤの坂」のことである。美馬市穴吹町から山越えして阿南市まで続がっている。下図にそれに関連した地名を記した。 


izanagi map.jpg
  イザナギ逃亡地図  高越山から橘湾まで

 

 湯谷神社は道路わきにあり、見逃しやすい場所である。




yuyazinzya 20.jpg
  鳥居



yuyazinzya 30.jpg
  大きなものではない本殿



神武天皇とイザナギ・イザナミにゆかりの阿波にある神社

 葦稲葉神社、 事代主神社、樫原神社、建夫津神社、熊野神社、鴨神社、伊邪那美神社、倭大國魂神社   

「いずも」の神社を訪ねる
    大御和神社 豊国神社 八鉾神社、賀志波比売神社、生夷神社 津ヶ峰神社







    若杉山辰砂採掘鉱山遺跡

 

 ロープウエイ乗場から那賀川沿いの林道みたいな県道283号を走る。グ−グルマップではここを指示できない。 川沿いの道と遺跡と直角に・最短距離の近接地点で車を止めて、鉱山跡に行く登り口を探すが見当たらなかった。 もう少し北上して水井橋近くの地元の方に尋ねて、20番鶴林寺からの21番太龍寺へのお遍路道の案内看板を教えて頂いた。若杉山鉱山跡の案内も併せてあったが、その道は歩き遍路道で車が走れる道では無かった。後日へと断念して引き返した。

 行けていないのであるが、ここでは、石杵(いしきね)・石臼(いしうす)や辰砂(しんしゃ)原石が大量に見つかっている。辰砂は、赤色顔料の「朱」の原料で、石杵や石臼などの石器を用いてこれを朱に加工する工程を若杉山遺跡で行っていたことが分かった。 出土土器から弥生時代の終わりから古墳時代の初めまでが朱生産のピークと考えられるという。

 全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。水銀朱は古墳時代前期などに古墳の埋葬主体に大量に使用される。若杉山遺跡で産出した水銀朱も各地の古墳築造時に運び出されていったものと想定され、古墳時代の広範囲な流通を知る上でも非常に重要な遺跡である。 魏志倭人伝に卑弥呼の国には辰砂の鉱山がありと書かれている。 他の有力な邪馬台国の地には、この種の鉱山が無い。 ここ阿波の国こそ、この鉱山により邪馬台国の地である重要な証拠になる。



wakasugi map 20.jpg
  鶴林寺から大龍寺へ



 

wakasugi 40.jpg
  近接地点でタクシーを止める





wakasugi 30.jpg
 若杉山辰砂採掘遺跡 案内板



      2024-8-29



posted by 速魚 at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月27日

お遍路27  12番 焼山寺

  

 いよいよ結願です。  昨秋の徳島では1番から20番札所まで参詣した。  11番藤井寺より12番焼山寺は山奥ゆえに残したままであった。近春から逆打ちにして、ヨットで反時計回りで四国を巡航したのでここが最後になった。


kamiyamatyo map.jpg
 神山町 周辺図


 JR徳島駅前のバス乗場から神山高校前行きに乗車。 神山町役場前で下車してタクシーを呼ぶ。 タクシーは2社ほどしかなく、午前中は医者や買い物のご老人の利用が多く、前日の予約が良いのかと思われた。 卑弥呼の在た地の悲願寺に行く予定をしていたがタクシーが捕まらず行くことが出来なかった。

 順番に訪問するのにこだわらなければ11番の藤井寺でいったん止め、翌日に17番井戸寺より13番大日寺まで歩き遍路で行けるので大日寺よりバスで神山町役場へ、逆に順序にこだわるならバスで役場前までいき焼山寺を終えて再びバス便大日寺下車の方法もある。 11番藤井寺より歩き遍路で12番焼山寺は厳しいものになると思われる。修行だと思われるている方には余計なアドヴァイスであろう。

 ちなみに、はるばる海から渡って阿波の海岸にたどり着いたユダヤの人々は神の山のここらあたりにたどり着いたと云う。卑弥呼は悲願寺を拠点とした。



     12番 焼山寺

 大宝年間(701年 - 704年)、役小角(役行者)が開山し、庵を結び蔵王権現を祀った。のちに空海(弘法大師)は、神通力を持ち火を吐いて村人を襲う大蛇がこの山に棲んでいることを聞き退治に向かった。大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪)の印を結びながら進むと、蛇は山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願すると大蛇を岩窟の中に封じ込めることができたため、そのお礼に虚空蔵菩薩を刻んで本尊とし一寺を建立したという。

  

12 shouzanzi 15.jpg
  階段と山門





12 shousanzi 20.jpg
  本堂   本尊は、虚空蔵菩薩  秘仏




 藤井寺から焼山寺の間はお遍路ころがしと言われ 「一に焼山寺、二に鶴林寺、三に太龍寺」 と焼山ではかなりの難所になっています。



12 shouzanzi 50.jpg
 11番藤井寺方面を望む



        2024-8-27



posted by 速魚 at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月25日

祖谷(いや)渓谷観光バスツアー

   

  超フリータイムトラベルすなわちヨットクルージングをしている小生にとって定期観光バスに乗ることは人生で数回のことである。 カミさんが徳島で合流して祖谷に行きたいとの希望で定期(土日)観光バスに乗りました。徳島駅より徳島線で池田まで行く、そこが出発です。 帰りは時刻表が合わず2時間ほど乗車を待ち暗くなって徳島へ帰った。



  コースは下記

 JR阿波池田駅(乗車)〜阿波池田BT(乗車)〜平家屋敷〜郷土料理の昼食〜かずら橋〜小便小僧〜道の駅大歩危〜大歩峡船下り(降車)〜西宇(降車)〜JR阿波池田駅(降車)〜JR徳島線で徳島駅へ

 

iya 10 map.jpg
 祖谷観光 マップ


 

iya 20.jpg
 平家屋敷、  平家の御典医がここまで落ちのびて来た



iya 25.jpg
  かずら橋、  高いところで足がすくむ小生には  とても恐かった




iya 30.jpg
  小便小僧、  どうしてここにこの像が?



iya 35.jpg
  祖谷渓谷、  写真のウデがイマイチ  実物を見てください、



iya 40.jpg
  大歩危峡船下り、 急流下りでは無かった、渓谷をみる

 

iya  45.jpg
  地学的な説明があった、 思い出せない。 

 ブラタモリの番組のせいか、最近の観光地で地学的な説明が多くなったような気がする。

 

    大歩危・祖谷秘境の旅

   https://yonkoh.co.jp/teikan


    2024-8-25



posted by 速魚 at 13:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月24日

お遍路26  21番太龍寺




  日和佐よりJR阿南駅についた。 バスの停留所が見つからなかった。 しかたなく、ロープウエイの乗場までタクシーを利用した。5000円ほどの出費は痛い。


21 tairyuzi mapし.jpg
  阿南 周辺図



    21番 太龍寺


 空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600 mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。


 

21 tairyuzi 15.jpg
  ロープウエイ

 ロープウエイのガイドさんが弘法大使さんが修業した山中(舎心獄)を教えてもらい写真を撮ったが、明確に映っていなかった。


 

21 tairyuzi 20.jpg
  本殿  本尊は、虚空蔵菩薩   秘仏




 
21 tairyuzi 30.jpg
  大師堂


    2024-8-24


posted by 速魚 at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月22日

甲浦散歩・かんのうら、 DMVバス



 室戸岬バス営業所よりジオパーク経由で高知の東部海岸を走る甲浦行のバス便がある。 それに乗り終点の甲浦まで行って来た。今は運行していない,旧フェリー乗り場がある。 

 東洋町海の駅から阿波海南文化村行の珍しいデユアル・モード・ビークルバスに乗った。 甲浦で高知県と徳島県に別れる。


kannoura map.jpg
  甲浦周辺地図



   甲浦漁港



 カツオ釣りの少し大きめの漁船が出入りする。乗組員はインドネシア人であろうか、東南アジア系の若者が町で見かけた。

 ヨットの係留にはふさわしいところが見つからなかった。強いて言えば旧フェリー埠頭がどうであろうか?

 

kannoura 05.jpg
  甲浦港図


 江藤新平が佐賀の乱で負けて東京に向かう途中にここで上陸して捕縛されたという。 佐賀に送られ処刑された。



kannoura 10.jpg
  漁港地区 港内





    海の駅東洋町

 ここは徳島からのバスの終点で、23番薬王寺から24番最御崎寺へ向かうお遍路さんが、室戸行のバスに乗り換えるようすが見られた。 売店ではサシミが安くて大きい。買って帰りヨットで食した。



kannourasanpo 18.jpg
  海の駅東洋町



kannourasanpo 20.jpg
   白浜海岸

 夏のナギの時には湾の中央でポンとアンカーを打ってリゾート気分を味わいたいと思う。 シャワー施設が充実している。




   デユアル・モード・ビークル  DMVバス

 珍しい道路と線路を走行するバスに乗ってみた。 普段使いの雰囲気は感じられずに観光用でしょうか。 通勤に利用している人はいるのでしょうか。

 東洋町海の駅で乗車して道路を走り、甲浦駅でチェンジして線路に上がる。阿波海南駅で再びチェンジして道路を走行して阿波海南文化村で下車した。帰りは逆で海の駅で降りた。


 

kannourasanpo30.jpg
  デユアル・モード・ビークル



 

kannourasanpo 32.jpg
  線路走行中



       阿波海南文化村



 DMVの始発駅である。博物館があり刀剣の展示があった。 知らなかったが、このあたりは刀剣造りの産地であったという。

 
kkannourasanpo 40.jpg



 食事するお店がなかったようで。手持ちのおにぎりを食した。


 

kannourasanpo 42.jpg
  展示品




   和奈佐意富曽神社・わなさおうそじんじゃ

 スマホのグーグルマップのお気に入りにこの神社があり。近くの文化村に行ったのでタクシーを呼びここを訪ねた。 地元のドライバーも知らなかった。 マップを便りに着いてみると確かに町内にある規模の神社であった。 それでも格式のある式内社であるという。 家に帰って調べてみても、マークした当人も忘れているし、調べても不明である。 判明次第アップいたします。

 何の所縁であろうか?  スイマセン。

 

kannourasanpo 50.jpg
  鳥居

  祭神に関して諸説あり、「大日本史」には大麻比古神、「特選神名牒」では大麻神と記載されている。(ウイキより)


 

kannourasanpo 55.jpg
  本殿

  これにて甲浦散歩を終える。DMVに再び乗り海の駅東洋町からバスで室戸まで帰った。



    2024-8-21


posted by 速魚 at 08:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月21日

日和佐城

   

 大昔の20代の時に日和佐に来たことがある。当時は日程を消化することに一杯でこの城に行くことはなかった。 ヨットで海から入港する時にお城を見ながら入るのは気分が良いものだ。 九州の平戸城、四国の川之江城なんかは良い例です。

 10年ぶり位で日和佐に入港し、お城にタクシーで向かった。 運転手はもうお城はやっていないと行くのをオススメしない口ぶりであった。 まあ、いいからと行って見た。 閉館中とかで中へはいることはできなかった。 歴史を踏まえて再現された天守ではない。また、耐震に問題在りということで閉館中(敷地内立入禁止)だそうですが、改築するなら研究してオリジナルに近いものになるといいです。 平戸のように櫓や塀も造るともっと良い。


 元亀・天正(1500年代の初め頃)、日和佐の豪族日和佐肥前守が、阿波の南部侵入を目指す土佐の長宗我部勢を防ぐためにこの地に城を築いたと伝える。日和佐肥前守が造った城は、天正十三(1585)年蜂須賀家政が、阿波に入国した際に廃城になったといわれているため、当時の城の形態に関しては、全くわかっていませんが、城の構えは、山城であったと考えられるとか。




hiwasazyo 20.jpg
 日和佐城 


    日和佐 ヨット泊地



      2024-8-20


posted by 速魚 at 03:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月20日

日和佐   ヨット泊地



 




hiwasa map 10.jpg
   室戸・日和佐  周辺図








hiwasa 30.jpg
  赤丸は係留地  位置AからBヘシフトした



 最初は防波堤を過ぎてすぐの位置Aに2日ほど係留した。荒天が予想されたので、巡視船の後ろの位置Bへシフトした。ここはウネリも入らず良い位置であった。 1隻くらいのスペースしかないので写真のように横抱きになる場合もあり。






hiwasa B.jpg
 係留地B





   >日和佐城



     2024-8-20





posted by 速魚 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月19日

お遍路25 23番 薬王寺、 22番 平等寺



 逆打ちでこの日和佐まで来ると残りは4つになった。 しかし、歩くことを避けていた小生でも左足の甲に痛みがでてきた。 なぜか札所は山の中に多い。 坂道や階段を登ることが多いゆえであろう。

 日和佐と由岐の診療所でそこを診察してもらった。 レントゲン技師が不在で撮影できずに痛み止め薬と湿布をもらう。 地方で都会を離れると、病院に行っても、今日は外科医やレントゲン技師がいなくて診療できないなんてこともある。 良いことばかりではないようだ。

 由岐の病院からタクシーで平等寺に向かった。帰りはJR新野駅から日和佐駅までJRを使った。

 

hiwasa map.jpg
  日和佐 周辺図



  23番 薬王寺  


 、神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が創建と伝わる[1]。弘仁6年(815年)には平城上皇の勅命によって空海(弘法大師)が厄除けのため薬師如来像を刻み、伽藍を建立。


 

23 yakuouzi 15.jpg
  瑜祇塔

 日和佐に入港する時にはこの塔は顕著なよい目標になる。


 

23 yakuozi 20.jpg
  本堂    本尊は、厄徐薬師如来  秘仏



 

23 yakuouzi 30.jpg
 大師堂





    22番 平等寺


 空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置した。


 

22 byoudouzi 20.jpg
 本堂   本尊は、薬師如来

 

22 byoudouzi 30.jpg
 大師堂



         2024-8-19


posted by 速魚 at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月18日

室戸岬港、津呂港、 及び 室津港   ヨット泊地

   

  室戸岬港、  ヨット泊地



  安芸を出港して室津か室戸岬か迷ったけれども、室戸岬港に入港した。 室津港は漁船が多く係留余地が少なく室戸岬が正解であった。 買い物などは室津が便利である。そのために、バスでコインランドリーやスーパーに行くことになった。

 

akimuroto map.jpg
  高知・安芸・室戸岬  周辺図


 

murotomisaki 10.jpg
  赤丸は停泊地、 位置AからBへシフトした

  Aの位置に係留したけれど、工事船がここへ停泊するとの張り紙がビットに貼り付けられていたのでBの位置にヨットをシフトした。 出港するまで5泊したけれど、それが来航する気配はなかった。 前の位置の方が停泊中のウネリを避けやすく動揺が少ないようだ。


murotomisaki 20.jpg
 

 



    室戸岬・津呂港



  津呂港は室津港と同じく、土佐藩執政野中兼山により、整備された掘り込み港です。工事に当たり、港口を塞ぐように3つの大きな岩が海中にあったのを、『張扇式の堤』により取り囲み、中の海水を抜いてから大鉄槌やのみで砕いたと伝えられています。
土佐から畿内方面への航路上で風待ちする港として重要な位置付けにここはありました。



murotomisaki 50.jpg
 津呂港,    中央の空きビルはかっての遠洋漁業の司令塔だったという

 

    2024-8-18






   室津  ヨット泊地



murotu 10.jpg
  青丸は候補地、   広いようで適当な係留地は見つからない

 25番津照寺は岸壁からすぐ近くにある。



    2024-8-18


posted by 速魚 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月17日

中岡慎太郎記念館と生家

  


 室戸岬港からバスに乗り奈半利へ着く。 そこから北川村のコミュニテイバスにて記念館に行って来た。 本数が少ないので時刻表には注意が必要である。

nakaokasin 10.jpg
  中岡慎太郎、 北川村周辺図

 中岡慎太郎は龍馬と一緒に暗殺されたけれども、多くを知っているわけではない。

 まとめると、大庄屋の長男として生まれたので帯刀はゆるされたであろうが、農民で郷士でさえないと思う。 土佐勤皇党に入り、それが弾圧されると脱藩し長州へ亡命する。そこに都落ちしていた七卿の衛士となる。禁門の変で負傷する。 下関戦争で攘夷を捨て開国論へ転じる。竜馬と共に薩長同盟を締結させた。竜馬とともに脱藩を許される。板垣退助や谷干城とともに薩土倒幕挙兵の密約を結ぶ。大政奉還の建白を推進していく薩土盟約の仲介する。陸援隊を組織す。薩土盟約解消。大政奉還成立。竜馬と暗殺される。享年30。



nakaokasin 20.jpg
  記念館



 
nakaokasin 30.jpg
  記念館前に立つ像





nakasimasin 35.jpg
  松林寺

 生家近くの松林寺で学ぶ、また山越えし苦労して麓の塾へ通ったと云う。



nakaokasin 40.jpg
  奈半利川の山間の誕生地





    中岡慎太郎の生家



 天保9年4月13日(1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれた。

 記念館の近くに少し下ったところにある。



nakaokasin 50.jpg
 生家

 大庄屋といえども見てみると豪壮な家ではない。 山間の農家であったので貧しかったのであろう。



nakaokasin 55.jpg
  内部



          2024-8-17


posted by 速魚 at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月16日

高知 吉良川の街並み




  室戸岬港からのお遍路寺26番、25番、24番と一緒に吉良川の街並み保存地区へ行ってきました。

 西海岸の奈半利から室戸岬、東海岸の室戸岬から甲浦は鉄道の路線がないのでバス便になる。

 

kirakawa map.jpg
  吉良川から室戸岬


 重要伝統的建造物保存地区になっている。 備長炭で財を成して明治から大正にかけてこのような建造物が建てられたという。


kirakawa 15.jpg
   案内板




kirakawa 30.jpg
  街並み1



 

kirakawa 38.jpg
  台風から守るための「いしくろ」の塀



 

kirakawa 35.jpg
  多雨の地ゆえに土佐漆喰壁を守る水切り瓦(小屋根)が幾重にも設置されている



 

kirakawa40.jpg
 ここも水切り瓦が見られる



     2024-8-15


posted by 速魚 at 13:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月15日

お遍路24 26番金剛頂寺、25番津照寺、24番最御崎寺



 

murotomisaki map.jpg
  室戸岬  周辺図



   26番 金剛頂寺



 大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。



 

26 konngoutyouzi 20.jpg
 本堂、  本尊は、薬師如来



 

26 kongoutyouzi 30.jpg
  大師堂


 

26 kongoutyouzi 40.jpg
  「一粒万倍の釜」

 弘法大師が、三合三勺(495 g)のお米を入れて炊いたところ、万倍にも増え、飢えた人々を救ったという。



   25番 津照寺


  室津の港からすぐのところにある。


 大同2年(807年)に空海がこの地を巡錫した際、山の形が宝珠に似ておりこの地が霊地であると感得し、宝珠に合わせ、一刀三礼して延命地蔵菩薩を刻み堂宇を建立し開創したという。

 

25 sinshouzi 15.jpg
 鐘楼門   竜宮城みたいである


 

25 sinshouzi 20.jpg
 本堂   本尊は、楫取延命地蔵菩薩。 秘仏



 

25 sinshouzi 30.jpg
 大師堂





  24番 最御崎寺・ほつみさきじ

 空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。


 

24 hotumisakizi 15.jpg
  仁王門




 

24 hotuminami 40.jpg
 鐘石   叩くと極楽へ届く

 





 

24 hotumisaki 20.jpg
  本堂、  本尊は、虚空蔵菩薩です。 秘仏



 

24 hotumisaki 40.jpg
  多宝塔



      2024-8-15



posted by 速魚 at 17:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月14日

龍馬姉夫婦のお墓



 27番神峯寺へ参詣を終えた帰りに安田のまちへ行くことになった。 ここは勘違いで、後に行くことになる吉良川の歴史的町並みの事だと思っていた。 安田のまちなみ交流館を訪れたけれど近くの街並みは古いものが残っていなかった。 近くに龍馬の姉の千鶴の嫁いだ高松順蔵とのお墓があったので行くことにした。

 

27 ryomaane haka.jpg
  安田 周辺図



 高松順蔵は1807(文化4)年に郷士の長男として生まれた。 8歳で郷士職を継ぎ、江戸で学問を学び、剣術を極めます。
また書や篆刻を学び、和歌をたしなむ文化人でした。
 坂本龍馬の長姉・千鶴の夫で、若き日の龍馬の思想形成に大きな影響を与えました。 私塾には中岡慎太郎、石田英吉らがいました。 

 

sakamotonao.jpg
 坂本直 1842−1898

 順蔵の長男の高松直は土佐勤皇党に属し、龍馬の紹介で勝海舟の海軍操練所に学び、龍馬と同じように脱藩し海援隊に入った。明治4年に龍馬の家督を相続して坂本直となる。晩年はキリスト教徒として弟の直寛(なおひろ)に厄介になる。

  

ryoma ane 10.jpg
 こじんまりした夫婦の墓




       2024-8-14

posted by 速魚 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月13日

土佐・安芸   ヨット泊地

   



 高知を出て奈半利に行く予定であったが、機関が途中で冷却水異常の警報が鳴り、エンジンを止めて予備の2馬力船外機と帆走にて安芸へ行くことになる。



akimuroto map.jpg
高知・安芸・室戸  周辺図


 

aki 10.jpg
  赤丸は停泊地 、 赤星印は錨泊地


  港内に入り赤星印の位置で錨泊して冷却水ポンプを分解して、インペラーを交換した。

 

aki 20.jpg
   赤矢印の岸壁に係留した。


 最寄りの駅は球場前駅である。 買い物は安芸駅まで行かないと充分ではない。



     2024-8-13


posted by 速魚 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

お遍路23 27番神峰寺・こうのみねじ

 安芸から「くろしお鉄道」に乗り唐浜駅で下車、そこからタクシーにて神峯寺を参詣した。 「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる屈指の難所としここへは麓からの急峻な遍路道を登るしか行きつけなかったが、住職らの努力により車で行けるように整備された。



aki map.jpg
  安芸 周辺図


27番 神峰寺



 神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し「観音堂」と名付けたとされている。


 

27 kounominezi 20.jpg
  本堂     本尊は、十一面観世音菩薩

 

27 kounominezi 30.jpg
  大師堂



   2024-8-13


posted by 速魚 at 08:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月11日

高知湾でインペラ破損


  

inpera 10.jpg
   高知湾での冷却水異常地点



 昨春と秋に2回とも冷却水のトラブルに巻き込まれている。春にホンダワラの巻き込みがあるので充分な注意をして航行してきた。

今年は幸いにも、潜ってそれを取り除いたのは愛南の1回だけで少量であった。 

 高知ヨットクラブを出て香南の沖にさしかかると冷却水の警報が鳴った。機関を止めて、ホンダの2馬力をセットしてあるので10分ほどでエンジンがかかった。 購入して6年余り初めて予備機関として使用した。スロットルを強くして途中で燃料切れになるのを恐れてジブと一緒に2ノット位で走る。 奈半利へが今日の予定であったが、土佐安芸へ入港予定を変更した。  



aki 10.jpg
  赤星印で錨泊して修理


 機帆走で入港して錨泊。 冷却ポンプを取り外して、キングストンへのパイプをくわえて強く吹いてみる。 ゴボゴボと小さい音がするようなので吸水口のツマリではないようだ。 ヤンマー2GMは冷却水ポンプを機関から取り外さないとインペラーの確認ができない。 分解するとインペラの羽根のひとつが折れていた。 インペラを交換してポンプを取り付けた。 これで室戸岬港と日和佐港までは航行できた。 どっこい、日和佐港から徳島ケンチョピアに向かう際に岸壁を離れる前にエンジンの白煙がスゴイ。出港を中止して点検すると、冷却水ポンプを駆動するファンベルトが外れていた。 安芸での修理がまずくてポンプの取り付けボルトの締め付けが緩かったのであろう、固く締めて出港することが出来た。 まだまだ、排煙が多い?ように思う気になります。



    2024-8-11


posted by 速魚 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月09日

高知歴史散歩、 龍馬生家


 
 はりやま橋のバス停で下車、レンタサイクルを借りるべく近くを探したが、JR高知駅に行くことになる。スマホ使用のものは見つかったが、老人には使いこなせずに断念したので。 下図のように歴史的なところを自転車で徘徊した。 

 

kotisanpo all map.jpg
  高知歴史散歩 地図



 

kotisanpo 10.jpg
  はりまや橋

 日本三大がっかり地点であるというが、高校の修学旅行ですでに見ていたので驚くことはなかった。

 

    龍馬の生家

 坂本龍馬の家は郷士であったのでお城から遠いところにあるのかと思いきや意外と近くであった。 お城の南側の電車筋にある。 現在は病院が建っていた。


kotisanpo 20 ryoma.jpg
  龍馬の生家   現在は上町病院



kotisanpo kondo.jpg
  近藤長次郎邸跡碑  近所で遊び友達だったことが分かる

 長崎でお墓を訪ねたが長次郎の邸跡に行く。 龍馬の家の近くであったが道路わきにあり見つけられずに近くで尋ねた。



kotisanpo bukeyasiki.jpg
  大川筋 武家屋敷資料館

  土佐藩の武士,旧手嶋家の住宅で当時の武家の建築様式を残している城下では唯一の建造物です。 武家屋敷がもっと残っていそうですが、下屋敷位しか武家屋敷風の建物がないようです。

 

kotisanpo simoyasiki.jpg
  旧山内家下屋敷長屋展示館

 

kotisanpo simoyasiki2.jpg
  展示館内にあった夕顔丸の模型




kotisanpo taketi.jpg
  武智瑞山殉節の地

 この付近に、武士の牢屋である揚屋(あがりや)があった。武市瑞山が当時切腹したこの付近になる。



kotisanpo nonaka.jpg
 野中兼山邸跡、 ほとんど城中というような追手門前にある

  野中兼山は、土佐藩の2代藩主と3代藩主に仕えた家老。新田開発や土木事業で功績がある一方、領民に対して過酷な賦役を行い、晩年に失脚している。 



kotisanpo itagaki2.jpg
  板垣退助誕生地

  板垣は中岡慎太郎と共に西郷らに会って、武力討伐の薩土密約を結び、戊辰の役では土佐藩の立役者となった。 



kotisanpo goto.jpg
 後藤象二郎生誕地

 日本キリスト教団土佐教会、聖泉幼稚園の門前に後藤象二郎先生誕生之地の碑がある。坂本龍馬とは慶応3(1867)年長崎で逢い、時局を論じてからは龍馬の策も受け入れ、東洋暗殺、勤王党の断罪という旧怨を越えて行動を共にするようになった。龍馬と船中八策をまとめ、大政奉還建白では容堂の許可もとりつけ、将軍慶喜への進言にも成功した。


 

kotisanpo hukuoka.jpg
 福岡孝弟先生誕生地碑

  藩主の側役となり公武合体運動に尽力した。また坂本龍馬の海援隊などと提携し、藩営商社開成館を通じて殖産興業策を推進した。明治維新後には越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した。


 

kotisanpo ueki.jpg
植木枝盛生誕地

 自由民権運動に加わった理論的指導者の植木枝盛の生誕地に建つ碑。枝盛が構想した「東洋大日本国国憲按」は、最も民主的、急進的な内容であった。「自由は土佐の山間より出づ」は枝盛の残した言葉として有



 

kotisanpo yosidatoyo.jpg
  吉田東洋受難の碑

 吉田東洋は、文化13年(1816)生まれ、長宗我部の名将吉田正重より出ているといわれる。学才に優れ、郡奉行・船奉行を経て十五代藩主山内容堂に抜擢され、参政の職についた。長浜に鶴田塾(小林塾)を開いて、後藤象二郎・板垣退助・岩崎弥太郎・福岡孝弟らを教えた。文久2年(1862)4月、外出先から帰宅する途中で土佐勤王党の党員の手にかかり、暗殺された。



  

kotisanpo rutisha.jpg
 立志社

  立志社は、明治7(1874)年4月10日、帯屋町の旧兵舎跡で発会式をあげ、その後このあたりにあった旧町会所跡を山内家から買い取って本拠地とした。 高知に戻った板垣は、板垣より先に帰郷して失業士族の生活救済、その子弟の教育機関としての学校の設立準備を進めていた片岡健吉・林有造らと協議し、同年に愛国公党によって建白された民撰議院の開設を期待する政治思想を折り込んだ結社として発足することとなった。


  長州の萩と比べて、高知は石碑が残るばかりで面白味が欠ける印象を持った。 萩の前原一誠宅などは現在も建物があり、表札があり縁者が住まれているようで見学は出来ないけれど納得感があった。



       2024-8-9


posted by 速魚 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月07日

高知城



  山内一豊が土佐一国24万2千石を与えられて浦戸城に入った。一豊は関ヶ原の戦いでの罪人とされ、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(旧織田秀信家老)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められた。一豊と同郷近江の出身の百々は石垣技術に優れた近江穴太衆を配下に持ち、築城技術に優れていたと伝わる。6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ねた。

  想像していたよりもこじんまりした印象を受けた。外様ゆえに遠慮したのかもしれない。 天守と言い本丸御殿っと言い現存しているので一度は見ておくお城と云えよう。


kotizyo 10.jpg
   高知城図



kotizyo 20.jpg
  追手門




kotizyo 30.jpg
  詰門


 
kotizyo 60.jpg
  雨の多いところゆえに石垣を守るための雨樋




kotizyo 35.jpg
   天守、   4重6階、 重文

  享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に復元されたもの。




kotizyo 38.jpg
  天守から本丸を覗く



 

kotizyo 40.jpg
  懐徳館・本丸御殿   書院の間



 

kotizyo 48.jpg
  黒鉄門





kotizyo 50.jpg
   搦手門



     2024-8-7

posted by 速魚 at 07:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月06日

お遍路22 28番大日寺、29番国分寺、30番善楽寺、31番竹林寺、32番禅師峰寺、

   

koti east map.jpg
   高知市東 マップ

  土佐久礼より浦戸湾にある高知ヨットクラブのゲストバースを使わせてもらう。 そこを拠点にして31番、30番、29番、28番、32番と順にお遍路をした。


  31番 竹林寺

  牧野植物園の隣に竹林寺はある。

 神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 – 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。




31 tikurinnzi 15.jpg
  五重塔


 

31 tikurinzi 30.jpg
  本堂   本尊は、文殊菩薩




   28番 大日寺

 土佐くろしお鉄道「のいち」駅より2kmであるが、御免駅にてタッチの差で乗り遅れた。次発まで2時間余あるのでタクシーを呼ぶ。

 天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したという。弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。



 

28 dainitizi 15.jpg
 山門


 

28 dainitizi 20.jpg
  本堂  本尊は、大日如来  秘仏


 



  29番 国分寺



 御免駅よりタクシーで往復しました。

 国分寺は、奈良時代に聖武天皇が国分寺の建立の勅願により創建されたお寺です。有名な土佐日記の著者紀貫之が国司として4年間滞在した場所としても知られるお寺です。


29 kokubunzi 15.jpg
   仁王門




 

29 kokubunzi 20.jpg
  本堂    本尊は、千手観世音菩薩   秘仏



  

29 kokubunnzi 30.jpg
  大師堂


 

29 kokubunzi 50.jpg
  大師堂の横には、禁酒の効果があるとされる酒断地蔵尊

 ビール好きさんにお札をお土産に買いました。



    30番 善楽寺


 牧野植物園前でタクシーに来てもらいここへ行く。帰りは読み方がわからない薊野(あぞうの)駅より御免駅までJRで行く。土佐の地名は馴染みのないものが多いです。ちなみに隣駅の土佐一宮駅は(とさいっくえき)と呼ぶのだそうです。

 大同5年(810年)空海(弘法大師)が高鴨大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。


 

30 zenrakuzi 20.jpg
  本堂  本尊は、阿弥陀如来です   秘仏




   32番 禅師峰寺・ぜんじぶじ

  聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、空海(弘法大師)はここを霊地と感得し虚空蔵求聞持法の護摩を修法、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として祀り、山の姿が補陀落山の八葉の蓮台に似ていることから八葉山、求聞持法を修したことから求聞持院禅師峰寺と寺名を定めたという。

 土佐藩主山内一豊以来、歴代藩主の信仰を受けており、参勤交代で浦戸湾を出航する際には航海の無事を祈願したという。


 

32zenzibuzi 10.jpg
 十一面観世音菩薩像



 

32zrnzibuzi 20.jpg
  本堂 本尊は、十一面観世音菩薩  絶対秘仏



 

32 zenbuzi 30.jpg
  大師堂



 

32 zenbuzibu 10.jpg
 境内から眺める高知湾



           2024-8-6


posted by 速魚 at 08:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月04日

高知ヨットクラブ  ヨット泊地

 

kotiyachtclub map.jpg
  高知ヨットクラブ  周辺図



 土佐久礼から高知ヨットクラブのゲストバースにてお世話になることになった。 その途中で36番青龍寺に行くべき近くの竜崎の船溜まりに係留するつもりであった。 前日にそこの水深が浅いことに気が付いて取りやめてクラブに直行した。



kotiyachtclub 15.jpg
  赤丸は係留地

 ゲストバースにつけるまで、担当の方からヨットに携帯の電話をもらい、安全のための適宜指示をいただいた。 また、翌日はクラブの会長さんから、荒天で増し舫いのアドヴァイスをもらうことができた。 他にも何から何まで大変お世話になりありがとうございました。


kotiyachtclub 20.jpg
  横抱きして係留



    2024-8-4


posted by 速魚 at 11:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月02日

お遍路21  36番清龍寺、35番清瀧寺、34番種間寺、33番雪蹊寺、

  

  ヨットで久礼に停泊しました。翌朝から動き、土佐久礼駅より特急で伊野駅まで行き、そこからタクシーにて35番、36番、34番、33番札所を廻ってきました。最後は桂浜で下車して龍馬像と龍馬記念館を見る。 大昔の高校の修学旅行で桂浜には来たが、もう覚えはありません。路線バスにて高知駅へ行き、JRで久礼に帰る。

 36番青龍寺には近くの船溜まりにヨットを着けて訪れる予定でしたが、タクシーのドライバーが間違えてそこへ連れて行ってくれました。港を実際に陸から確認すると、水深が浅くヨットを着けられそうもありませんでした。 座礁を免れたということでしょう。 35番と36番は同名の「せいりゅうじ」で龍の漢字がサンズイがつくかつかないかの違いですので、運転手が間違えても仕方がないところです。そのことは結果的に幸運であったというべきです。



koti west map.jpg
  高知市西部地図



  36番 清龍寺・しょうりゅじ

 弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという.




36 seiryuzi 35.jpg
  三重塔



36 seirtyzi 20.jpg
 本堂  本尊は、波切不動明王




36 seiryuzi 30.jpg
 大師堂

 



   35番 清瀧寺 ・きよたきじ

 養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。

 平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。



35 kiyotakizi 30.jpeg
 本尊は、薬師如来



35 kyotakizi 30.png
  大師堂



  34番 種間寺・たねまじ 


 用明天皇在位(585年 - 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。その後、弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したという。
 



33 tanemazi 20.jpg
  本堂はコンクリート造、 本尊は、薬師如来


33 tanemazi 30.jpg
  大師堂




  33番 雪蹊寺 

 空海(弘法大師)の開基で、創建当初は真言宗に属し、「少林山高福寺」と称したという。鎌倉時代に仏師運慶と長男の湛慶が来山して「慶運寺」と改めたという。
 なお、『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、天正年間(1573年 – 1593年)の後期に月峰和尚が住職となり、土佐国の戦国大名長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)の長宗我部元親の病没後、当寺は長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と称した。

 

33 sekkeizi 20.jpg
   本堂、  本尊は、薬師如来です。



33 sekkeizi 30.jpg
   大師堂



     2024-8-2


posted by 速魚 at 07:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2024年08月01日

窪川散歩

  


kubokawa map.jpg
 

 土佐くろしお鉄道は中村―宿毛、御免―奈半利と分断して高知県の西部と東部を運行している。 37番岩本寺へ行くのに、土佐くろしお鉄道の宿毛・中村線、土佐佐賀より窪川往復を乗車した。 後で気が付いたのであるが地図にあるようにこの線はループした路線があるようだ。ほぼトンネルということで乗っていてもその事実を知らなければ気が付かない。また窪川駅は宇和島へ行く予土線の接続駅でもある。



kubokawa 10.jpg
  予土線、 宇和島行き、  新幹線を模したユニークな車両



kubokawa 50.jpg
  窪川周辺図

 37番岩本寺の参詣を終えて、観光案内所にて街並みでも見て廻ろうとレンタサイクルを借りた。 谷干城の誕生地を訪ねるべくグーグルマップに従い予土線と川岸沿って30分も走った。 とても着きそうもないので、民家を訪ねていた業者に不安になりそこを尋ねた。谷干城は川向うの国道・県道381を戻るようである。これだからグーグルマップは注意して使わなくてはならない。 若井大橋を渡るときに眼下に若井沈下橋を見る。 この川は四万十川の上流であった。



kubokawa 55.jpg
  四万十川と若井沈下橋



 

kubokawa 80.jpg
  陸軍中将・谷干城像、  戊辰戦争で活躍し、 熊本城で西郷軍を足止めした。



 

kubokawa 85.jpg
  谷干城 生誕地

 mac窪川店の駐車場の一角にある。



 

kubokawa 65.jpg
  旧都築半平別邸  

 1822年(文政5年)土佐藩はこの地方の開発のため、身分や職業の制限を撤回して開墾者を募集した。それに芸西村和食の都築家の次男の半平が窪川に移住して新田開発に取り組んだ。その後、半平は酒造業や水産業などの実業家として成功を収めた、



kubokawa 70.jpg
  茂串城・窪川城 案内板

  1500年頃鎌倉から来た山内氏が窪川氏を名乗る。長曾我部氏の配下となり文禄の役で戦死し断絶した。 岩本寺の奥の山に城は有るのであるが登り口が分からずに行くのを断念した。



      2024-8-1


posted by 速魚 at 08:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記