2015年04月22日

零戦に寄せる思い

          落合純子


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 昨年八月「零戦を作ろう」という、かなりインパクトのあるCMが繰り返えしテレビから流れた。
 日本海軍の象徴「零戦」。正式には「零式艦上戦闘機」という。旧日本海軍が日中戦争から太平洋戦争全期にわたって使用し、いくつかの型があるが大戦初期の零戦が最も輝いていた時代の二一型を金属製スケールモデルとして再現しようというのである。
 早速企画した出版社に問い会せてみると、読者の熱い希望に応えて計画に踏切ったという。実機の一六分の一のスケール、週刊で一〇〇号までというから二年はかかる。
 この模型を孫(三才・男児)に作ってやろうかな、という夫の一言が事の始りとなった。
昭和一桁生まれの夫は、零戦に対する関心も知識もかなりある。一方私はある事情から零戦に寄せる思いは深い。
 栄光のヒーローか、それとも悲運のヒーローだったのか。連戦連勝の緒戦から、終盤の劣勢と特攻の悲劇までを味わったこの零戦については、然るべき多くの人が語りつくしている。今更私ごときが語ったところで何の意味もないが、それ以前に、一〇〇年かかっても自分ではなし得ないような無謀な企てをする程私は愚かではない。
 そこで毎度のことではあるが超個人的な立場から、この零戦に寄せる深い思いを綴ってみたい。しかし力量不足と記憶の瞬味さ、更にそのことを証言してくれる身近な人たちがみな故人となってしまった今、時系列に沿って整然と並べることは不可能だが、そこは読んで下さる方のご賢察に期待し、また零戦に興味のある方には独自の研究を深めて頂ければ望外の幸せである。が、いくら個人的な立場からとはいえ、テーマが零戦である以上それについて略述する必要はある。
 零戦は1937年から三菱重工が堀越二郎を設計主務者として開発を行い、三九年初飛行、以後海軍により試験改良が行われ、四〇年(皇紀二六〇〇年)正式採用になり,皇紀の末尾数字をとって零式とした。旧日本海軍の中で最大の10430機が生産されたが、二一型は全幅12.0M、全長8.7M,940馬力の空冷エンジン、最大時速509km(高度5000m)。極限までの期待の軽量化設計にこだわる海軍の厳しい要請に、天才設計技師・堀越二郎が見事に応えた。
 真珠湾攻撃の初め、フィリピン進攻など破竹の快進撃を支え、ゼロを見たら戦わず逃げろ、と連合軍パイロットに指示するほど圧倒的優勢を誇ったが、その後のアメリカが優れた戦闘機を多数投入したことから形勢は逆転、最後は爆弾を装備し特攻機として使用され、航空劣性を挽回できぬまま終戦を迎えるという悲劇的な結末となる。
 零戦といえば堀越次郎、堀越二郎といえば零戦。その堀越二郎は明治36年、群馬県多野郡美登里村に生まれた。美登里村は50年前に、近隣の五村と共に旧藤岡町と合併して現在は藤岡市となっているが、この美登里村こそ私が愛してやまない私のふるさとなのである。そして私の父もこの村で明治36年に生まれた。つまり堀越二郎と父はこの美登里小学校で6年間をともに過ごしたことになる。
 話は少し飛ぶが、私が小学生高学年から中学生の頃、家庭内で時々「ジロウさん」「ゼロセン」という言葉を耳にしたものだ。父が祖母や母・兄に話す会話の中に登場した言葉だったが、ゼロセンの正体は不明のまま。
 しかしジロウさんなる人物がただのネズミではないらしいことは、父の話の様子から察知した。
そして父の自慢は「同級生の中でサルマタをはいていたのは、ジロウさんとボクだけだった」というものだった。当時私は揮というものの存在を知らず、他の人達は何もはいていなくて冬は寒くなかったかしらと、長いこと思っていたので、気がついた時はひとりで赤面したものだった。ジロウさんは我家にも何度か遊びに来たということだが、その辺りの詳しいことは聞いていない。
 話は戻って、小学校の頃からジロウさんの頭脳はバツグンだったらしい。小学校を終えた二人・堀越二郎と不肖落合賢一 (ここに父の名を記す不遜は許して頂くとして)は、村の期待を背にサルマタをはいて藤岡中学校(旧制) へと進む。
 人には持って生まれた器というものがある、というのが私の持論なのだが、これは運命そのもので、それを努力で越えようにも当然のことながら限りがある。中学までは一緒だった二人だが、その先は右と左へと大きく別れてゆく。
 とんでもない頭脳を天から授かったジロウさんは、一高・東京帝国大学(それも難関の工学部航空学科)へと進み、一方父は群馬大学の前身である群馬師範へ。
 一高・東大を共に首席で卒業したジロウさんは三菱内燃機梶i現在の三菱重工)に入社し、名古屋航空機製作所に勤務。そして零戦を初め、雷電・列風その他数々の戦闘機の設計主務者として、日本の近代史にその名を残す活躍ぶりは周知の通り。
 ところで私は終戦の前年、つまり昭和一九年に小学校に入学した。戦局もかなり厳しくなっていた頃だったがそんなことは知るよしもなく、「太郎さんも花子さんも同じこと/心は立派な兵隊さん/がんばりましょう勝つまでは」と両手に日の丸の小旗を持って元気に踊ったものだが、私は今だにそのメロディも振りも正確に憶えている。
  同級生の中に疎開児童が何人かいたが、翌年の三月、三学期もあと十日で終わるという時にT少年がやって来た。小学校は細長い村の中心にあって、Tの家と私の家は南北の両端にわかれていたのでT家の様子は直接伺い知ることは出来なかったが、先生や級友の話を総合すると、仕事の都合で父親を東京に残し母親とTを含む六人きょうだいとお手伝いさんの八名で父親の郷里である当地に疎開してきたのだという。母親の出自は相当なもので、お手伝いさんは母親の輿入れの際に里からついて来たねえやさんだということだった。
 Tは背が高く端正な顔立ちで、服装も垢抜けていることから、我々土着の子とは一線を画し、幼心にも良家の子弟だということはわかった。勿論成績も優秀で、なんであんなことを知っているのかと、不思議に思うこともしばしばだった。
 その一方で同級生の中に、美土里小学校開校以来ではないかと言われる程の悪ガキUがいた。校長・教頭共に長い教師生活の中でも初めてだという程の悪童ぶりで我々一二〇人の同級生は一人残らず彼の被害に遭っている。 Uの悪行の一端をあげれば、授業中であっても教室の中を走りまわり、他のクラスにも勝手に出入りする。暴力をふるって弱い者いじめはする、好きな時に学校にやって来て好きな時に帰ってしまう、注意する若い女教師などは追いかけまわして泣かせてしまう。そこでUの机は教壇に立つ先生の横に置かれたりもしたが、後向きに腰掛けてニヤニヤしながら授業の邪魔をするので、逆効果。私は彼がまともにランドセルを背負った姿を見たことがない。自分の気に入ったものだけを薄きたない風呂敷に包んで腰に巻きつけ、いつも走ってやって来る。 私は入学当初からUのいじめに遭っていた。家が同じ方向にあったため、登下校中の路上で私のランドセルを引っ張ったりつついたりする。学校の廊下では、オットットと言いな がらよろけた振りをして体をぶつけてきたかと思えば、後から突然つきとばして、ポットだ、ポットだという(ポットというのは方言で、うっかりとか偶然というような意味)。私はUがこわくて仕方なかった。そして更に不運だったのは彼が妙に早熟だったことである。いつの頃からかUは丁と私の仲が怪しいと言い出した。多くの級友がそうであったように私もTに好感は持っていたが、そうした感情は全く芽生えていなかった。Uは私の顔さえみれば一日中そんなことを言い、トイレにはヒワイな落書きをする。
  あまりのひどさに父が学校に申し出て、担任は勿論、校長・教頭も動いてくれたが、Uの行動は全く改善されなかった。Uの父親も時々呼び出されていたようだが、これがまたUとは似ても似つかない律気そうな人で、我子ながらどうにもならなかったらしい。親の力にも限界があるのだとその時思い、今では更にそう思っている。
 そうこうしているうちに終戦となった。私たちが小学二年の八月、あの暑い日の詔勅は今も確かな重みと共に耳に残っている。
 単なる終戦ではなく敗戦という形で終わったことで、我家の生活環境は一変した。勿論詳細は後年知ったことだが、連合軍の占頷下、1946年「自作農創設特別措置法」が公布され、四七年から五〇年にかけて実施された農地改革によって、我家は五十町歩の田畑の殆どを失い裸同然となった。
 全国の旧地主の中には自殺する者も相次いだということで、その時の父の呆然とした姿は幼心にも鮮明に刻印されている。不在地主は認められず、僅か二町歩の土地を死守するために両親は共に教職を辞し、末っ子の私も含め家族総出で俄百姓に従事したあの何年かは辛いもので、特に田舎の生活に不慣れな母の寿命を縮める遠因となった。こうして私は二度目の母を失うことになる。
 しかしこの敗戦が、一地方のささやかな地主などとは桁ちがいの重圧をT一家にもたらした実情を知ったのは、その時から六十余年も後のことであった。
 Uのいじめはずっと続いていた。しかしそれを上回る幸運が訪れた。終戦の翌年のA先生とのめぐり会いである。先生のことは本欄で何度も触れたが、私たちは先生を母とも姉とも慕い、昨年先生が亡くなるまでの戦後六十三年を先生と共に歩いた(先生の葬儀は皮肉にも私たちの同窓会の様を呈したのだった)。
 私は異常な程先生を慕い、三・四・五・六年と、四年間お世話になった。年に一度クラスがえがあったが、私の担任は決まってA先生。私の我儒から親の七光りを利用したことは確かだが、Uのこともあって学校側も配慮してくれたということらしい。女学校を卒業したばかりの一八才で教師になった先生は、持ち上げ、持ち上げで、結局二十一才の若さで六年生を受持たされる異例の事態となり、他のクラスのベテラン教師の中でかなりの負担を強いられたわけだが、先生は頑張り抜いてくれた。
 先生はUにも随分心をかけたが彼には通じなかったのだろうか。現在と違って時には教師の鉄拳が通用した時代で、Uは何度となく男性教師にボコボにされたが、ある時彼が私のことを憎からず思っていると白状したことで、根本的な解決は不可能だと見送られ、いわば対症療法のような形でその後も何度もボコボコにされていた。
 Uの根気のよさにはホトホト閉口したが、Tもよくよくうんざりしたらしく、必然的に私に背を向けるようになる。Tの気持ちもわからぬではないが私自身は一言も言ってないのにと、二人がなんとも怨めしかった。そんなマイナス要因がありながら、学校と名のつく場ではこの小学校時代が一番楽しかったと今でも思えるのは、A先生の存在以外には全く考えられない。 こうしてTとは何一ついい想い出を作れないまま、六年生終了と共にT一家が東京に戻ったことで、もう二度と会うこともない遠い人となった。
 そして私たちはそのまま一二〇人体制で中学生になった。勿論Tの姿はなく、これでUにあれこれ言われる筋合いはなくなったと思ったが、それはとんでもない早計だとすぐに判明した。
 今度は、Tがいなくなって寂しいだろうと、私の顔さえ見ればその都度からむ。さすがに手を出したりはしなくなったので先生に訴えるわけにもいかず、まして担任は無神経そうな兄ちゃんで相談にもならない。他の男子生徒は次の標的になることを恐れて、私に寄りつこうとしない。そんなことは親にも言えない年頃でもあり、A先生の庇護のもとを離れて私は初めて強い挫折感を味わった。
 仮にTがいたとしても所詮中学生、私を庇ってくれることなどあり得ず、もっと泥沼化し互いに憎しみ合ったにちがいない。幸いTはいない。そんな中で私の心に微妙な変化が生じ始めた。Tを恋しく思う気持ちが芽生えたのだ。これが私の初恋である。 相手不在の極めて変則的な初恋ではあったが、それだけに私の王子様は思いのままに理想化され、Tの実像とはかなり乖離していたと思う。当然のことながらTは全く預り知らぬことであり、私も口にしたことはない。
 一年もするとUもさすがにTのことは言わなくなったが、相変わらずカンシの目は続いた。小・中の九年間で私が学校を休んだのは三日だけ。健康だけが取柄のUは殆ど欠席はなかったと思う。従って丸九年間、私はみっちり彼にいじめられ続け、中学卒業でようやく縁が切れた。
 Tが堀越技師の長男であることを知ったのはこの頃だと思うが判然としない。幼かったTよりも当時のTの両親のことを熟知していたA先生から、二郎氏が授業参観などで美土里小学校を何度か訪れていたことを後になって聞いたが、零戦の真価を全く認識していなかった私たちの記憶にのこっていよう筈もなかった。
 Tは東京へ行ってからもA先生との交流は続いていたのでその後のTの様子を先生が折に触れて話してくれた。父親の母校である東大を卒業して某一流企業に入社したこと。才色兼備の奥さんと幸せに暮らしていること、そして任地先のアメリカやベルギーから届く絵葉書を見せて貰ったりもしたが、私にとってはもう遠い過去の人となっていた。
 結婚後は零戦のことがマスコミで話題になる度に夫から講義?を受けて、零戦に対する知識を深めていった。
 昭和五十六年十二月十一日、父が他界した。七十八才だった。農地改革という時代の波に翻弄され、二人の妻に先立たれ、晩年は脳卒中によって半身の自由を奪われたが、継母(父にとっては三人目の妻)のこれ以上はないという程の手厚い介護に恵まれたことで、父の人生は幸せであったと総括している。継母から父の死の一報を受けた時、私はまず安堵の胸を撫で下ろし、継母に手を合わせた。しかし親が死んでいい筈がない。まして生母の顔を知らない私にとっては父が総てであった。ああ、これで私もみなしごになっちゃった、とつぶやいた私に、夫は、きょうだいも子供もいる四十四才のおばさんのことは世間ではみなしごとは言わないんじゃないの、と言ったが、私は断じてみなしごであり、ことの外寒さが身に沁む越年となった。
 明けて五十七年一月十一日、堀越技師の訃報を新聞で知った。奇しくも父の死からちょうど一ケ月後のことであった。喪主は長男・雅郎氏、とあった。久しぶりに見るTの名前に、ああ、Tはこの世に現存しているのだと一瞬思ったのも無理からぬことで、別れてから三十二年の日が過ぎていた。ジロウさんの魂はあの澄んだ美土里村の空に還ったろうか、そして一足先に出掛けてしまった父は、ジロウさんを迎えることが出来たろうか。 それから二十六年後、思いがけずTと再会する日が訪れた。一昨年の同窓会(祝古希)にTが初めて顔をみせたのだ。実に五十八年ぶりの再会である。街ですれちがったのであればまず互いに気づかなかったと思うが、一堂に会すれば一目でTとわかる。 父親ゆずりの長身はそのまま、十二才の少年は堀越技師の長男にふさわしい風格ある初老の紳士と化していた。一方私はといえば、おばさん度一〇〇%、エンジン全開で積年の思いを彼にぶつけた。
 小学生の頃あなたに冷たくされて怨めしかったこと、中学生になってもUにいじめられてあなたを恋しく思ったこと、堀越技師のご長男とも存じませんでご無礼しましたこと、父から開いたジロウさんのこと(少し迷ったがサルマタの件も)、そして、お父様を超えられませんでしたね、と要らぬことまで言った (世界の堀越を超えるには、一体何をすればいいというのだ!)
 終始静かな笑みを浮かべながら耳を傾けていたTは遠い目をして、私に冷たくしたことは全く記憶していないと言う。私は拍子抜けしたが、続く彼の話は信じ難いものだった。 戦後の逆風の中で二郎氏は心身を病み、廃人同様の日々があったこと、そんな姿をみて敢えて父と同じ道は選ばなかったこと、それでも後半は東京大学や防衛大学などいくつかの教授や講師を務めて平穏な晩年であったこと。
 しかし彼は父の栄光については一言も触れなかった。それに反して何かと自慢たらしい私はこの件に関しても、我が郷土が世界に誇る偉人・・・などと無責任な認識しかなかった。改めて零戦に関する資料を集めた。事は私が考えていた程単純なものではなかったと思い知らされた。
 防弾を施さずパイロットの命を軽視した設計思想の主務者として堀越技師は世間の非難をあびた。緻密で融通のきかない学者肌の技師はそんな世評に敏感に反応し、病に臥すほど疲労困懲したという。軍事技術の開発に従事した人達は、理不尽で非合理な要求を突きつけられ、現場で深刻な矛盾をかかえ込むことになる。その責任はどこにあるのか。
 作家の前田孝則氏は「技術者たちの敗戦」の中で次のように言っている。  「万が一にも日本が勝利していたり、あるいは零戦がまだ華々しい活躍を演じていた太平洋戦争の前半期で停戦、和平へと持ち込まれていたならば、堀越はまちがいなく救国の技術者として、日本の一大英雄としてまつりあげられたにちがいない。日本の敗戦が彼の運命を大きく左右したともいえよう」
 続いて堀越自身の著書「零戦」から引く。 「私の幼い夢は道路からでも飛び立てるような小型の航空機、汽船に代わって世界をつなぐ交通機関となる豪華輸送機、極地や山岳を探険するに便利な型式の航空機などにあったが、現実はそれに反して軍用機のみに没頭した」
  「思えば当時の日本は、もし望んだなら、互いに侵さず侵されざる理想の文化国家を築き上げ得る環境と実力に恵まれていたのではなかろうか。しかるにそれを一朝にして失い、自らを泥沼の境遇に投ずるとともに、近隣の人々に償い得ないような惨渦を及ばす愚をあえてした」。
 東京帝大航空学科を代表する教授として数多くのエリートを送り出し、また流体力学の権威として欧米にも知られる守屋富次郎は、教え子の中で誰がもっとも優秀だったと問われて、やはり堀越君だろうかね、と答えたという。そんな頭脳を今に生かすことが出来たら、と思う反面、航空界の創成期に持てる力を存分に発揮し、斯界に大きく貢献できたことは幸運であったとも考えたい。堀越技師の胸中は測る術もないが、ふるさとの空で待った父は、ジロウさんお疲れさまでした、と万感を込めて迎えただろうと、私は勝手に考えている。
 Uのことは思い出すのもいまいましいが、彼がいなかったら零戦に対する思いもかなり単調なものとして終わっていたことは確かだ。振り返ってみればこの一連の流れに於いては、彼の存在も重要な構成要因の一つであることは認めざるを得ない。
 Uとは中学卒業後一度だけ会ったことがある。水上温泉で開催された同窓会に珍しく彼が顔を出したのだ。その日私はUが出席することを知らなかった。先に会場入りしていた私は、入り口に設けられた受付で彼が、A先生と私に会いに来たと言っていると伝え開いて、一瞬凍りついた。子供の時とは事情が違う、彼の思いが再燃したらどうしようと。
 しかし彼も家庭を持ち子供もいることからその心配は全くないと、彼の近況を知る友の一人から聞いてホッとしたが、互いに、お久しぶりですと挨拶を交わしただけで、私はなるべく目を合わせないよう努めた。彼もさすがにバツの悪そうな顔をして、私に話しかけることもなかった。時は流れて、その時私たちは五十才になっていた。それにしても、どう聶眉目に見ても美人とは縁遠い私のどこがそれ程お気に召したのか、一度訊いてみたいものだが、もう会うことはない。
 模型の制作は順調に進んで四月十日現在三十二号まで届き、完成像が予想出来るまでの姿になった。内部の骨組み、エンジン、コクピットなど、細部にわたって実根を忠実に再現、パ’‐ツ総数七〇〇点以上・・・と謳っているだけに、かなり精巧なもので、夫は時には拡大鏡を片手に奮闘している。
 間もなく四才になる孫が時々やって来て、幼いなりにも何かを理解しているらしく、いつものヤンチャぶりはどこへやら、ジロセン、ジロセンとつぶやきながら、神妙な顔で覗きこんでいる。男子である以上この子もいつかこの伝説の名機が、かつて世界の空を制したことを知り、興味を持つにちがいない。
 残念ながらこの先何年この子をみることができるのか心許ない私たちだが、ジーとバーが思いを込めた「ゼロセン」を、戦争の悲惨さと併せて語り継いでくれることを希い、同時に、再びこの子らが銃を揺らなければならない日が来ないことを心から願ってやまない。
 末尾に、平成十五年に届いたA先生からの年賀状を掲載させて頂いた。文中の私への評価はかなり的外れであることは重々承知の上だが、Tと私の名前が並んでいる先生からのものは、もうこれだけしか手許に残っていないのでやむを得なかった。
 父が去って二十九年、こちらは諦らめがつくとしても、A先生にみて頂けない心残りは筆紙に尽くし難い。
 この稿を書くに当たり、東京在住のT、いや雅郎氏の了解を得た。私の申し出に何の注文もつけずに快諾してくれたばかりか、父上の著書や写真など貴重な資料を送ってくた。
夫人にもご協力頂いた。
 お二人に改めて感謝の意を伝えたい。


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   A先生の年賀状

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   2015-4-22


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posted by 速魚 at 01:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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