2015年04月29日

ドミトリー・ドンスコイ

 軍国少年の”海と空”のものがたり その1   大幡 


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 ”海と空”は昭和7年創刊の、文字通り艦船と航空機を主題とするミリタリー誌で、当時、満州事変以降風雲急を告げ、シナ事変を経て第2次大戦に突入する時期に可成りレベルも高く,成年層に支持された雑誌である。

 ドミトリー・ドンスコイはバルチック艦隊に編入された装甲巡洋艦であり、その艦名の由来は、1380年クリコボの戦いで始めてタタール軍を破って、ロシア史上の一大英雄として讃えられるドミトリー・ドンスコイ(モスクワ大公)である。

 さて、本題は”海と空”誌上に紹介された日本海海戦の一挿話であり、所は、バルチック艦隊をむかえ撃とうと、鎮海湾にたむろす一艦の艦内である。
 「敵を知り己を知らば百戦あやうからず」の教えがあるが、これから立ち向かうロシア艦隊のそれぞれを認識するために、個々の艦形を示すシルエットをかかげて,之は何艦かと水兵たちに問うていた。
 「アリョール」「ボロジノ」辺りはともかく、「オスラービア」「シーソヴェリスキー」「ドミトリー。ドンスコイ」ともなると、当時の水兵レベルにとっては,舌をかみそうな上、憶えにくい名前である。そこで、語呂の似た日本語に置き換えることにして「ドミトリー・ドンスコイ」を「ゴミ取りゴン助」とした。
 その他にそれぞれふさわしいあだ名を付けたことになっているが、資料を紛失した今は、「ゴン助」以外は全く憶がない。話の趣は、戦いが始まりそれぞれのあだ名が、いみじくも、その艦のなりゆきを暗示したことである。
 「ゴン助」は沈没する僚艦の水兵をひろい集め、最後に蔚山沖で、村上艦隊に捕捉され、「ニコライ1世」「アリヨール」「アブラクシン」「セニャーウイン」等と共に、28日午後10時に降伏したと記憶していたが、 この辺りを確認する為一誌をひもとくと、「ドミトリー・ドンスコイ」は28日夜半沈没とある。エッ!集めたゴミ共々かつ乗組員も一諸に、あわれなこと、助けたのは無駄だったのかと大きな疑問が生じた。
 そこで今回、いろいろと関係書を拾い読みすると、次々に「どうしてそうなるの」「そんなことないよ」と思う事柄に出会うことになった。
 小生の記憶違いかもしれないが、いくつかとりあげてみよう。正誤の程は読者の判決を期待しながら。


○バルテイック艦隊は20ノットで対馬へ向かって北上しつつ.........改めて記載箇所を探したが所在不明!
○秋山真之が「司令塔の中に入ってください」..........東郷はかぶりをふった......司令塔はそれを囲んでいるぶ厚い装甲14インチとある。(坂の上の雲6巻292頁)
14インチといえば36センチである、こんなことをしてはトップヘビーとなって転覆しやすくなる。後世の諸戦艦においても聞いたことがない。
○下瀬火薬を詰めこみ伊集院信管つめこんで細長かった.......旅順艦隊の連中は「鞄・チェダモン」とあだ名をつけ..........目撃すると........薪がクルクルと空中でまわりながら飛んでくる.........6-314頁。まさか、旋条を施された砲弾は射線方向にしか旋回しようがない。 まだいろいろあるが、あら探しは後にして先に進もう。

シルエットで艦名を探索するように、バルチック艦隊における索敵風景に(6-256頁)三隊の巡洋艦隊が左舷にあらわれた.............「鎮遠がいるな」..............「松島・厳島・橋立がいます........」とある。この風影付図-1のとうり。資料と記述がピッタリ合った。



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ここで取り上げるのは「鎮遠」である。多少艦艇史をかじった人なら知らないはずはない。「鎮遠}は清国海軍の主力艦であり、かの、黄海海戦(日清戦争)の唱歌にある「まだ沈まずや「定遠}はの兄弟艦である。「定遠」はたしかに沈んだが「鎮遠」は生き残って、今、バルチッキ艦隊の目の前に現われた。しかも、日本艦隊の一隻として。これには訳がある。事のなりゆきは次の通りである。

日清戦争の結果「鎮遠」「高陛」の2隻は日本海軍の手にわたり、旧名のまま就役することになった。世界にはままあることで、くしくも、ロシア艦隊にも「レトヴィザン」があり、スエーデン艦が捕獲されてそのままの名前で、ロシア海軍に就役して。日露開戦の直前新鋭艦にその名が受け継がれ,さらにくしくも、我が国に分捕られて「肥前」となった。この話「海と空」第3巻61頁、すべての資料を廃棄した筈、この話との再会は別の項にゆずる。
 そろそろ本題の「ゴン助」に戻ろう。明治37年5月27日午後1時55分、Z旗があがり、東郷ターンによって火蓋が切られた。しばらく「ゴン助」の記述がない、ようやく現れた(6−386頁)正に名前の通り(ゴミ取り)である。
 戦いが始まって、たちまち、旗艦「スワーロフ」之の一弾により、ロジェスト・ウインスキーは重傷を負い,乗艦も沈没をまぬがれず、駆逐艦「ベドーウイ」に移乗、さらに、この艦も痛手をおい再移乗のはめになった。そこへ、装甲された6200トン17ノットの巡洋艦「ゴン助」と駆逐艦「ベドーウイ」が現れた。どうしたことかロ・ウインスキーは駆逐艦「ベドーウイ」に移ると「ゴン助」はふられてしまった。役立たずめ!それっきり記述が現れない、何をしているんだ。
 ようやく見つかった、しかも、戦いは済んで28日午前10時蔚山沖で、先の4艦が村上艦隊に降伏する現場に居合わせていた。しかも「ゴン助」その名にふさわしくなく、優速を利かして逃亡を企てたのみか、行きがけの駄賃とばかりに打ちまくり、「浪速」「音羽」にそれぞれ1弾を命中させたが、衆寡敵せず多くの命中断を受け、もはやという状況になり夕闇迫り、鬱陵島沖にて、乗員全てが上陸,その后、キングストン弁を開いて水没した。健げなり「ゴン助」とは申し訳ない。
 余談だが、半藤一利・日露戦争史第3巻で忘れてしまった諸々のあだ名にめぐりあった。列挙しよう。


 クニャージ・スワロフ     故郷(くに)の老爺座ろう
 アレクサンドル3世      呆(あき)れた三太
 オスラービア          押すとピシャー
 アリヨール           蟻寄る
 ボロジノ             ボロ出ろ
 ドミトリー・ドンスコイ     塵取り権助

 更に、訓練風景の中に「呆(あき)れた三太」に命中。つぎの照準「押すとピシャー」。下士官たちにはこの日本語訳(?)評判がよかったのは事実とある。結構役に立ったのかな。
 しめくくりに司馬さんの名誉のためにも一筆加えたい。
 歴史を課題とした物書きは、多くの資料に取り囲まれて、個人的な思い入れの強い日記・戦記の記述に、愛着を感じあえて誇張気味を承知の上で採用したものだろう。「そうに違いない」。
 又、半藤氏の参考資料に「海と空」はなかった。
 かなり前になるが、思い立って国会図書館に照会したが全く所蔵されていなかった。でも有るところには有るんだよ。それはどこ、それは今度!

    2015-4-29


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posted by 速魚 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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