2015年09月12日

明石元二郎



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寺内正毅あて明石元二郎書翰 (芙蓉書房) 尚友倶楽部編を購入して読みました? ほとんど漢文調の文語文で書かれている落花流水を理解することができませんでした。それは彼が日露戦争中に対露工作を自ら語っている秘書です。

 爺爺には大正8年に亡くなる明石元二郎の原文が読めません、その実力がない。  歴史の一次資料に当たっている研究者の方々には頭がさがります。田舎の歴史好き爺さんは所詮その程度と、この年になって認識させられました。つい一〇〇年まえの書簡が理解できないのですから。

 そこで恥ずかしいながら新人物往来社の現代訳付きの明石元二郎大佐を買いました。それによりますと、レーニンに会ったと言われていますが、具体的にレーニンの名前は載っていません。スイスで会った事実はあるかもしれませんが。フィンランド人のシリヤクスを通じてロシアの秘密結社の不平分子と接触して、資金提供・武器供与をします。それでロシアの国内が混乱したのは事実です。満州への一部ロシア軍団の増援を阻止できたこともあるようです。
 
 太平洋戦争のときには、米国で何らの諜報成果をだしたこともないし、やろうともしなかった軍部指導者に比べれば、維新志士で明治の指導層になったエラサがわかります。
 明石元二郎は諜報工作を終わったあとに、その残りをちゃんと返金しています。資金と使途は誰にもわからないなかで、りっぱな態度です。 諜報将校は石光真清のようにその後の栄達はないのが普通ですが、明石は大将にまで昇進します。最後は台湾総督になりそこに葬ってくれというほど統治に尽くしました。

 大戦後に蒋介石が台湾に追い落とされて、金門島の戦いに勝利して台湾に残ることができましたが、その時に、明石の息子さんが台湾救援のために根本博将軍を台湾に密入国させます。国民党軍顧問となった根本博さんが、その勝利に多大な貢献をします。明石元二郎はそれ程に、子息を動かすだけの思い入れが台湾にあったのでしょう。

 元治元年  1864  福岡藩で誕生
 明治9年  1876  陸軍幼年学校に入学 13歳
 明治16年 1883  陸軍士官学校 旧陸士6期卒 20歳
 明治22年 1889  陸軍大学 5期卒  26歳
 明治27年 1894 ドイツ留学 31歳
 明治34年 1901 仏公使館付武官 38歳
 明治35年 1902 ロシア公使館付武官 39歳
 明治36年 1903 陸軍歩兵大佐  40歳
             貿易商に偽装して旅順へ
 明治37年 1904 日露戦争 ジュネーブでレーニンに会う
 明治38年 1905 日露講和条約
 明治43年 1910 寺内正毅韓国総督の下で憲兵司令官
 大正4年  1915 第6師団長
 大正7年  1918 台湾総督 陸軍大将
 大正8年  1919 死亡 55歳 

          2015-9-12 
  

   石光真清
   http://hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#石光の年賦
   杉原千畝
   http://hayame2.sakura.ne.jp/details1024.html#杉原千畝
   情報庁の創設
   http://hayame2.sakura.ne.jp/new1003.html#情報庁



  

posted by 速魚 at 04:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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