2015年09月18日

ミッドウエイ 2   大幡


 8月中旬の朝、ねぼけ眼でテレビのスイッチを入れる。澤地久子の語るミッドウエイ海戦における日米双方戦死者3,419人の話である。 これを表にすると、


           搭乗員   乗艦員    合計  
  日本       121    2936     3057
  アメリカ     208     154      362
                          3419

 女史は、戦場で倒れた1人1人の陰に秘められた女性に光を当て、独特の戦記物で一時代を築いたが、徹底した実態調査に裏付けされ、それで多くの読者の支持を得たのであろう。

 番組の中で、戦死者3419名(日米双方)のすべてを調べ、個別ファイルを整理した大きな書架が紹介される。 1980−81年の1年余をかけ、資料整理にコンピューターを駆使し、まだPCのよく普及しない時期、プログラム作りから始め、銀行の負債が7千万円を越える時もあったという。

 さて、表の数字をたどっていくと多くの事が判明する。先ず、搭乗員の数だが、日米の比がほぼ1対2であるに対して、空母の喪失4対1との逆比例は、ドーントレスの出現前に、如何に多くの米軍機が撃墜されたか、また、ゼロ戦による防御が有効であったか、惜しむらくは低空に集中しすぎ、上空の配備が手薄であったかを示す。

 又、乗艦員の数を見ると

         戦死者    喪失艦   1隻当たり
 日本      2936       5      587
 アメリカ     154       2       77

 戦死者の比が20対1となる。いかにすさまじい敗戦であったか、少し立ち入って一艦当たりをみると、8対1であり、空母3隻の轟沈を如実に物語っている。

           sawatihisae midway.jpg     

 澤地著「家族の樹・ミッドウエイ海戦・終章」を見ると、日本の死者の中には海上を漂流し、友軍の姿を見せながら見捨てられた多くの人が居る。一方、米軍に助けられたものも居る。さきの、ミッドウエイ、J・フォードでふれた如く、2週間以上の精密な探索活動に比べ、敗軍の情景が哀れである。

 女史はアメリカの個々の家族を訪ね、アーリントン墓地のH地区を訪れている。ここは遺骨の還らなかった400余の人が集められている。その中に、ミッドウエイに没したレイモンド・サルザロス、右真横にその息子が居る、いずれも航空兵である。息子はベトナムに没した。墓碑(マーカー)に次のように刻まれているい。


  レイモンド・サルザロス  1913-1942  (29歳)
    同     JR   1942-1966  (24歳)
                 注(  )は小生加記

 父の没年と息子の誕生が同年である。息子の顔を見ることがなかったし、息子は親の年を越えることはなかったのか、すさまじい家族の歴史である。

 女史は、親子2代にわたる戦死者について、日本は数百万の戦死者がいるが、只の1人として親子2代ということは全くないと強調して、平和憲法に触れたが、小生としては憲法がためでなく、東西冷戦という僥倖あってとのみ考える。

 後日談だが、息子の消息はベトナムとの平和協定の成立で、遺骨が帰った為父親とは別の区画に移ることになったという、親子再びの別離である。

 父はハワイ、ヒッカム飛行場を出撃したB-17に搭乗し未帰還となった。果たしてゼロ戦の餌食となったのか疑問が残る。


            2015-9-18


   ミッドウエイ トリビア  大幡
   http://hayame2.sakura.ne.jp/99_blank.html#ミッドウエイ トリビア
   ドミトリードンスコイ
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   ウクライナの歴史
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posted by 速魚 at 04:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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