2015年10月22日

 タンネンベルク殲滅戦と虚像ヒンデンブルグ

                 大幡

                               
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           ヒンデンブルグ 

第1次世界大戦当初、ドイツ東部戦線でロシア第1軍レンネンカンプの突出により、ドイツ第8方面軍が壊走して戦線が崩壊する危機が生じ、ドイツ参謀長小モルトケは軍団長プリットウイッツを解任、西部戦線より2個軍を振り向けると共に、代役として退役中のヒンデンブルグ(H)に加え、参謀長ルーデンドルフ(L)を差し向けた。

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   ルーデンドルフ

 H・Lコンビは敗走する戦線を立て直し、露レンネンカンプの進撃もここまでと見なし、薄い防衛線で対処、残る全軍でサムソーノフの露第2軍に対応、知り尽くした地形を利用して各個撃破し、西部戦線からの援軍到着前に、露第2軍を包囲殲滅し鮮やかな戦果をあげ、ヒンデンブルグは再召集の途上で作戦を思いついた等、数々の伝説を生み国民的英雄として、戦後大統領にまでかつぎあげられた。


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 余談だが、後々にしぶしぶではあるがヒットラーを首相に指名するという、芳しくない運命が待ち受けていた。

 このような伝説に、敗走する方面軍をどうやって、しかも短時日にまとめあげたのか長い間疑問としていたが、雑誌歴史群像98年36号タンネンブルク殲滅戦の記事により氷解した。その実情を以下に列挙する。


    ロシア側では

・ 苦境に陥入った同盟国フランスの強い要請があって、動員予定を繰り上げて攻撃態勢に入った。

・ 露レンネンカンプは1個軍団を壊走させたが、独フランソワ軍団の動きにまどわされ、第2軍との連携作戦をとらなかった。

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   レンネンカンプ  ロシア北西戦線第1軍司令官

・ 本来、ロシア軍は後退しての焦土作戦を、ナポレオン以来の伝統とし、敵国に深く侵入する場合の補給体制を殆ど持っていなかった。

・ 露サムソーノフの第2軍はより一層深刻であった。既存の2個軍団が沼沢地深く突出し、残る新編成の2個軍団は小銃も充分にいきわたらないまま、バラバラに先の軍団を追いかけた。ここへ病気休養後のサムソーノフが新任され、殆どの幹部が初見という状態であった。軍をまとめるのに手一杯で、作戦を立てる余裕等全くなかった。

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   サムソーノフ ロシア第2軍司令官

・ ロシア軍はわずかなトラックしか持たず、突出した2軍団は、終末、ドイツ軍との遭遇時には2日間全く食事をとっていなかった。
・ ロシア軍は通信力も貧弱で、一部では傍聴可能な無線が使用され、暗号員も不足して平文で通信し、作戦がドイツ軍に筒抜けであった。

 一方 ドイツ側では

・ 独第8方面軍軍の主力が露レンネンカンプ軍により撃破されたが、25q下がった線で踏みとどまって戦線を再構築した。
・ 一部の独フランソワ軍は待機命令を無視して、ロシア軍の後方に突出し、その補給線を寸断し露レンネンカンプに後方の不安感を与え、更なる追撃を思い止まらせた。
・ 独第8方面軍団長プリットウイッツは、露第2軍が南方に現れるとの報に包囲されるのではとパニックを起こし、ホフマン参謀の反対を押し切り、ヴィスラ河までの後退を参謀本部に直訴した。

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                      独第8方面軍 プリットウィッツ

・ 独参謀長小モルトケは前線の軍団長毎に直接問い合わせ、それほどの状況ではないと確信、大胆で強い決断力のあるリーダーとしてルーデンドルフと、大軍を統括するのにふさわしい貴族フォンの称号のあるヒンデンブルグを起用して、プリットウイッツを解任した。
・ ホフマンはH・L2人の着任前に戦線を後退整備し、ロシア第1と2軍の連携不十分を見越して各個撃破のため、先ず第2軍に主力振り向ける準備をした。

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       ホフマン 独第8方面軍参謀

・ ここで又してもフランソワ軍団は待機命令に反して第2軍の後方深く前進した。

 このような状況にH・Lコンビが着任、ホフマンの作戦を承認し、発令した。 正にタナボタ式に成果を得たように見えるが、実際決断するには深い思考と勇気ある決断力が必要で、その実力を伴ってのことであろう。

 この作戦の結果は、ロシア第2軍の20万の損耗率は75%に達し、第1軍も半ば近い損耗を受け国境の彼方に後退し、以後ロシア軍は一方的に敗退を重ね、やがて革命により第1次大戦の戦列を離れることになった。
 しかし、タンネンベルクの戦いは、ドイツにとって戦術的大勝利であったが、2個軍を引き抜かれた西部戦線では勝機を逸しやがて全面的な敗戦につながり、戦略的には大きな敗因となったと云える。

 雑誌歴史群像の前に、ソルジェニツインの1914年8月でタンネルベン戦に出会っていたが、そこでサムソーノフ第2軍が一方的に敗走する様が微に入り細を穿って書かれるだけで、ドイツ側の記述や、レンネルカンプのその後も殆ど触れていない。 ノーベル賞に輝く大作家だが月ごとにロシア史を描くのだというには、少々片手落ちの歴史ではないか、月を冠してのその後の著作にも出会っていない。小生の浅学故かもしれないが疑問が残る。

 しかし、第1次大戦、東部戦線の中央部。対オーストリア戦線について歴史群像に伴せてポーランド史でかなりの知見を得た。望外の幸せである。


           2015-10-22
posted by 速魚 at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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