「中々奇物、他人未(いま)だ深くは取らず、僕独りこれを愛す」 松陰談

1843-1939
安政4年・1857に有吉熊次郎に誘われて14歳で松下村塾に入る。勉強嫌いであったが、松陰からは愛されて高杉晋作宛の手紙にめんどうをよくみてやってくれと書いている。
塾が閉じた後で長州の軍艦にのり江戸に行く。久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に加わる。 しかし、政治運動には向かないと自覚した。それで脱藩し密航して上海に逃げた。また藩命により米国に留学した。その後イギリスに行き、グラスゴーで造船所で働きながら船つくりを学ぶ。手先だけでなく学問も船つくりには必要だと感じて、昼間働きながら夜学に行き学びました。3年たちまだ不足で米国のボストンに渡り、働きながら学びました。明治6年に帰国して日本の造船業を起こし、長崎造船所の初代の局長になる、日本郵船の社長をも務めた。
松下村塾の保存事業に尽くします。
幕末期に留学した人は才能・能力の高かったが故でしたが、天野清三郎は実務をこなしながら、必要な学問・理論を夜学に通うなどして学んで帰国しました。机上の学問のみでは、明治の貢献には役立たなかったでしょう。もちろん志のない人では尚更です。
1857・安政4 松下村塾に入る
1858・安政5 11月下旬に閉塾
1860・万延元年 丙辰丸の江戸行に参加
1863・文久3 奇兵隊に入る
1864・元治元年
1867・慶応3 藩命により兵学修養のため長崎派遣,英米国留学
1873・明治6 帰国、 工部省に入る
明治12 東洋1の立神ドック完成
明治16 日本最大の木造船小菅丸完成、 長崎造船所初代局長
明治24 49歳で官を退職し、日本郵船社長を勤める。
明治25 松下村塾の保存事業に尽くす。
1939・昭和14 死亡
2015-11-29
松下村塾生のその後
http://hayame2.sakura.ne.jp/details1018.html#松下村塾の教育
留魂録 吉田松陰
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犬塚是重 上海特務機関長の3年
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