2015年12月09日

B-29誕生物語とB-15,B17 大幡


   ローマは1日にして成らずというのが、ボーイング社は今日世界の旅客機の大半を占める巨大なメーカーに成長したが、その飛躍の最大の成因は4000機と云われるB-29である。

 B-29の前にはB-17がその前にはB-15があり、更にさかのぼると、1916年太平洋岸シアトルで、ウイリアム・ボーイングとコンラッド・ウエスターヴェルトの2人が、水上飛行艇による初の沿岸航空便を成功させたことに始まり、1928年航空機設計者として名を成したチャンス・ヴォートを加え、ボーイング航空輸送会社を設立した。その後、多くの同業者を合併吸収したが、独占禁止法により解体され、ボーイングは全株式を放出、製造部門はシアトルに集約して、現在のボーイング社となった。  

  (余談だが、) チャンス・ヴォートは1931年’昭和6年)航空機メーカーを創立、この会社からグラマンF6Fと並んで、ゼロ戦の強敵となった、F4Uコルセアが生み出された。


    B-15.jpg
    B−15  試作1機のみ




   さて、B−15だが、この機体は試作のみに終わったが、「映画テストパイロット」の主題となり、レイ・ミランド、ヴェロニカ・レイク主演で戦前に作られ、戦後、本邦初公開時池袋の映画館で見た。物語はテスト飛行に失敗して機体が失われるが、主人公が奇跡的に生還するというあらすじであり、細かいことは全く覚えていない。

  その機体はB-17より一回り大きく、分厚く広い主翼の4発機で、見るからに鈍重で成功作とは云えない、しかし、之がB-17に活かされ、ボ−イング社が多発機の世界躍進のキッカケになったのは間違いない。

  ヨーロッパ戦線のイギリスには、アブロ・ランカスターとショ−ト・スターリング・ハリファクスという2つの4発爆撃機があり、アメリカ参戦までは大いに活躍したがその後、多数のB-17が貸与され、両機を押しのけてB-17がイギリス空軍の主役となった。

  B-17まことに頑丈である。フライング・フォートレスその名前どうり欧州戦線で最も多く活躍した爆撃機である。尾翼の半分をもがれたり機首のほとんどを失っても帰着する等多くの戦例がある。


   
   B17 trable 01.png

    ザックリと後部が切り裂かれている



   B17 trable 03.png

    機首部分が破損している


   映画「メンフィスビルの鐘」に登場、まざまざとその勇姿と奇跡の生還を見せつける。又、そのフライング・フォートレスという名称は、この頑丈さではなく、洋上はるか進出する沿岸砲台という意味である。しかも、多くの機体が悪意ある「ウイドウメーカー」「マーダー」等と冠せられるなか、B-17に限り「クイーン」とまで呼ばれた。
 この頑丈さがB-29に引き継がれた。


   b29 001.png


    B-29はB-17が完成後まもなく1938年ごろから構想されて、もちろん、対日戦など毛頭なかった。米陸軍航空隊も、ヨーロッパに台頭したナチス政権をにらんでだが、ハッキリした構想を描けないまま、巨額になる4発機に対して、双発機を多く揃えた方が有利との考え方もあった。急迫するヨーロッパ情勢に押されて、将来の爆撃機としての試案を求めることになった。

  ボーイングの外グラマン・ロキード・コンソリデーテッドの各社が応じた。他社の双発機に対してボーイングは4発機で応じた。ヨーロッパ戦線の考察から、防衛装甲・防御火器の強化・自動防漏タンク等追加仕様が要求され、4発機の余裕からコンソリデーテッドB-32Xと並んでB-29が試作されることになった。しかも旅客機に於ける与圧機能の実績から、B-29が主役、B-32XはB-29が失敗した時の控えに止まった。

 (余談だが)控えのコンソリデーテッドB-32Xについて、その要目、写真を見たことがない、全て計画のみの存在なのか小生にとって一切不明である。


     B-32.jpg
        B-32 ドミネーター  コンベア社115機生産


  B-17・29のシルエット図を見て分かるが、その細い主翼から察せられるように、翼面荷重は337kg/uに対し、B-17のそれは166s/uで、ほぼ2倍である。従って高速が得られる反面、離着陸が困難になる。その対策として、翼面の20%にあたるフォ−ル・フラップで対応した。エンジンもプロペラも破格の大きさであり、与圧室により成層圏飛行も容易である。入念な模型実験等により筋金入りとなり、1941年3機が試作発注れ、完成予定は42年8月とされた。




    b29 002.png
    B-29とB-17

 当時、ボーイング社はB-17の他ノースアメリカンB-25の生産分担まで求められているなか、完成には程遠い試作段階にも拘わらず、250機30億ドル量産が発注された。ここで12月8日の開戦をを迎え、更に250機が追加発注された。しかも、試作機を屋内で全組み立てする能力さえ無かった。それ程B-29は大きかったが、たちまち量産工場が立ち上がる程アメリカの工業力が巨大であった。

  この工業力の奥深さを、戦前アメリカを見て回った日本の軍関係者は大きいとは認識していたとしても、ここまでとは産業人も含めて見通せなかったし、又試作段階で500機を発注する軍首脳の洞察力・決断力は並々のものではない。工業力の差よりも人間力の差の方が大きかったのではないか。

 追記すると、B-29は累計4000機を越えたが、ボ−イング社はヨーロッパ戦線向けのB-17の多量生産を並行して行っていたので、全てボ−イング社のみではなく、マーテイン社・ライト社等も加わってのことである。ヨーロッパ戦線の進展もあり、B-29は対日戦用となり、昭和19年6月19日、成都発八幡製鉄所初爆撃となった。


          2015-12-9


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posted by 速魚 at 06:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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