2016年02月27日

第2次大戦中の航空機の生産とその低下の真の原因


 大戦中の陸軍と海軍は一国に2つの軍隊組織で戦ったようなもので、本格的な調整ができませんでした。大きな戦略を持って敵に臨むこともありませんでした。
 航空機の生産は調整できないゆえにアルミの量を1/2ずつ分け合うという形で終戦まで続きました。 戦中の生産力の低下は本土空襲に原因があると思われがちですが、潜水艦による商船の撃沈・壊滅にその原因があります。 今では商船乗組員の徴用の話が浮かび上がってきました。先の戦争より学ばなければなりません。


  以下はgye阿部隆史さんよりの転載です。


 1943年9月以降で(航空機生産)伸び率が低下したのは様々な要因による。
主立った要因を列挙してみよう。

1.米軍の戦略爆撃による生産力の低下。
2.米潜水艦の跳梁による資源輸入の減少。
3.熟練工員の徴兵などによる人的資源の枯渇。

それでは次に米潜水艦の跳梁について考えてみよう。
米潜水艦による商船の被害は開戦から1943年2月まで1回の例外を除き月10万t未満で推移していた。
しかし1943年3月から激増し始め6月までは常に10万tを越える被害を受けた。
7、8月はなんとか10万t未満となったものの9月からは再び10万tを越え11月にはとうとう20万tを越えるに至った。
更に44年となると20万t以上は当たり前になり10月は30万t以上を記録する。
ただし11月は20万t以上、12月は10万以上に戻った。
そして翌45年1月には10万t未満となり終戦まで10万tを越える事はなかった。

 だがここで喜んではいけない。
商船の被害が減ったのは「殆どの商船が沈み尽くしてしまったから」なのである。
これでは航空機生産数を増やそうとしても増やせる訳がない。
米潜水艦による商船被害のピークは44年10月で以降は減少しているから44年10月以前に発生した伸び率の鈍化は米潜水艦の跳梁による影響が大と考えられる。
まあ、何にせよ航空機工場が出来上がっても資源の流入が断たれれば生産活動は止まる。
即ち米の日本本土空襲は国民士気の阻喪は達成出来ても言わば無用の殺生であった。
前述したが核兵器以外でもっとも多くの日本人の生命を奪った東京下町空襲が実施された45年3月の日本海軍実用機生産数は45年中で一番多い。

  参考)
  死者3000名以上の日本本土空襲(核兵器を除く)を列記する。

 3月10日東京下町(死者約8〜10万名)
 3月13日大阪(約3100名)
 3月17日神戸(約2600名)
 4月13日東京城北(約2400名)
 5月25日東京山手(約3600名)
 5月29日横浜(約8千から1万名)
 6月 5日神戸(約3200名)
 6月 9日名古屋(約2000名)
 6月17日鹿児島(約2300名)
 6月18日浜松(約2400名)
 6月19日静岡(約2000名)
 7月 1日呉(約2000名)
 8月 1日富山(約2100名)
 8月 7日豊川(約2400名

B29を大量生産するより、もっと早くもっと多くの潜水艦を前線に投入していれば日本はもっと困った状況に追い込まれていたであろう。

なお、僕は必ずしも「戦略爆撃機は民間人を大量殺傷する兵器」で「潜水艦は人道的兵器」と考えている訳ではない。
焼死が餓死に変わるだけかも知れないとも思っている。
だが、国民が餓死に直面する危機となれば何か打開策を実行したと当時の政治指導層と日本人に期待もしているのだ。
これからの政治指導層と日本人にもね


     2016-2-27



posted by 速魚 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/174237600
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック