2016年03月03日

  B-29 東京焼尽-3月10日 内田百聞、  大幡



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 終戦後撮影された両国一帯、円形建物は国技館、右上の川は隅田川

  内田百聞によれば、昭和17年4月18日のドウ−リトル空襲を除いて、本物の空襲警報が初めて鳴ったのは、昭和19年11月1日とある。東京と限定すればこの通りであるが、日本全土ということになると如何なものか。
 それは、昭和19年6月16日、成都を基地としたB-29の47機が、北九州の八幡製鉄所を目標としたのが、本土初空襲である。


 昭和19年アメリカ軍は太平洋戦域の主導権を握り、南方地域を放置して、日本の本土攻撃に集中する態勢にあった。そこでヨ−ロッパ戦線は、B-17・25にまかせB-29は日本専用として、如何に早く日本本土を爆撃するか、至上命令である。

 そこで、インドを基地とし成都を前進基地とするル−トと、マリアナ諸島を占領しての直接ル−トの、2つの作戦が展開された。先ず、多くのB-29がアメリカ本土から、西回りのオ−ストラリア経由には、充分な中継地がなく、東回りで地球を2/3周しての、イギリスから、欧州戦線を迂回してエジプト経由インドに進出することになった。

 当時、B-29は量産初期不良の塊のような機体で、途中多くが出火炎上、撃落・不時着して19年4月2日、ようやく30機がインドに到着し、4月一杯かけて100機程になった。しかも、インドから成都への進出も、ヒマヤラ越え、夏からの日本出撃用の燃料・弾薬・その他機材すべてをB-29で搬送しなければならなかった。直接爆撃行の6倍ほどの輸送任務が待ち構えていた。

 余談だが、6月5日バンコックへ向け98機が飛びたった、B-29の初陣である。しかし悪天候と故障に阻まれて、77機が投弾できたが、戦火確認の結果有効弾は16-8発に過ぎなかった。

 6月18日68機が基地を出撃した。目標の八幡製鉄を襲ったのはその内の47機合計90トンの爆弾を投下されたが、製鉄所はほぼ無傷であった。一方B-29はレ−ダ−に探知され、少数の迎撃機と高射砲にみまわれ6機に損傷を受けたが機体の喪失は無かった。続いて7月8日長崎・佐世保・門司再び八幡と、19日満州鞍山まで足を伸ばした。8月20日97機が出撃、1機が高射砲に3機が迎撃機により撃墜された。中々成果の上がらぬ司令官を更迭、ドイツ本土爆撃を指揮していたカ−チス・ルメイの登場となる。

 ここで、マリアナル−トの出撃となり、昭和19年1月1日の帝都空襲となる。暫らくは昼間・精密爆撃にこだわり、成果のあがらぬ爆撃が続いたが、カ-テイス・ルメイの夜間爆撃への方針転換により、昭和20年3月10日を迎えるこになった。

 百聞先生によれば、3月10日土曜日に十五夜、10時30分ごろ警報が鳴る。零時を過ぎて130機襲来、いつもの8千メ−トルの高度から、2-3千メ−トルに下りてきて、やがて神田方面に(九段方面からみて)火の手があがり、大正12年の震災時のような入道雲が現れ、高射砲の打ち出す曳光弾が花火のように飛びかい、B-29の翼には地上の火の手等が反射して、赤くなったりまた角度の違いから青くなったりした、火の手は家の近くの九段まで迫り、表を焼け出された人々が列になって通った。火の手の明かりで顔までハッキリと見え、みんな平気な様子で話しながら歩いて行った。

 その頃、小生中学3年生、当夜堀際の桐の木に登って、火事見物よろしく東の空を眺めていた。住居は淀橋区(新宿区)椎名町4丁目番地は忘れた。当日火災の中心は向島・深川区で、百聞先生よりかなり離れての見物である。小生の見立てでは、B公*は1000M位の低空で、鋲打ちされた継目が見え、長方形の弾倉が黒い棺桶のように見え、その中に焼夷弾をかつえ、赤・青の航空灯をちらつかせて、東の方向本所へと飛んでいった。百聞先生、反射して青くと言っているが、航空灯の見間違えであろう。この方面なら小生のほうが確かである。また、モロトフのパン篭よろしく、収束された焼夷弾が、百メ-トルほどで散開して、それぞれの単体が帯状の布を引き、これに着火して花火の様だった。この下で炎に巻き込まれ一晩に10万人ほど犠牲者がでたとは、空にも思わず余り危機感も敵怖じでもなく、木の上に居た。

  注) * B-29に対する市井の呼び名

 当時、他の家族を疎開させ、親父との2人活しであったが、東の方本所は元々の住居が仕事の根拠地であり、取引先の殆どが深川・城東方面にあり、親父にしてみればどれ程の心痛であったか、まことに不謹慎な話である。
 その後、下請けの松下鉄工所一家全滅や、高橋木型店の一族にも不明者がでたが、いずれも親交がなく顔も思いだせない。幸いにも両国の家は戦火をまぬがれた。



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 国技館の下にあった著者の家 焼け残る

 余談だが、上の写真では片ずけけられた後で、直後は焼け死んだ人々が街のいたるところにゴロゴロしていたのは想像にかたくない。
 近所(東両国)の諏訪さんは、山梨に疎開させた息子に、生涯めったにないことだからと、自転車の荷台に乗せて見せに来たという、当時軍による統制が厳しく、汽車のキップが手に入らなかったからである。小生にも経験がある。 それは、小学1年の頃郷里三重県磯部村に預けられていた折(疎開ではない)村の神路川が氾濫し、祖母の総領息子のマゴに見せてやれとのことで叔父の自転車の荷台に乗せられたのを憶えている。
 又、3月10日の2-3日過ぎ、勤労動員先を仲間の2-3人で抜け出し、現場を見に行こうと東十条駅に行ったが、キップが手に入らず断念した。しかし通勤用の定期で薩摩守を気めこめばよかったものを、そこまで悪知恵が働かなかったのか。

 戦火は続き、B-29の跳梁はますます激しくなる。





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        東京空襲の人的被害

参考)

 死者3000名以上の日本本土空襲(核兵器を除く)を列記する。

 3月10日東京下町(死者約8〜10万名)
 3月13日大阪(約3100名)
 3月17日神戸(約2600名)
 4月13日東京城北(約2400名)
 5月25日東京山手(約3600名)
 5月29日横浜(約8千から1万名)
 6月 5日神戸(約3200名)
 6月 9日名古屋(約2000名)
 6月17日鹿児島(約2300名)
 6月18日浜松(約2400名)
 6月19日静岡(約2000名)
 7月 1日呉(約2000名)
 8月 1日富山(約2100名)
 8月 7日豊川(約2400名


                    2016-3-3


  B-29・勤労動員・伝単  大幡 
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  ゼロ戦に寄せる思い  落合
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  いよいよ来た! 戦時船員徴用
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posted by 速魚 at 15:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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