秀吉子飼いの7本槍であるが、賤ヶ岳の戦功で3000石−5000石をいずれも受ける。その後に大名になれなかったのは平野長泰のみである。秀吉の死後は家康についた武将が多かった。
福島正則 1561-1624
母が秀吉の叔母であったので秀吉の小姓として仕える。初めは200石である。山崎の戦いで500石になる。賤ヶ岳で5000石を得る、四国・九州平定に従い、今治11万石、清州24万石、関原後広島50万石、広島城の修理に関して幕府ににらまれて、 秀忠により4万5千石に厳封、死後取りつぶし、子の正利が3112石の旗本となる。
加藤清正 1562-1611
母が秀吉の遠縁であったので、秀吉の小姓となり170石。賤ヶ岳の戦功で3000石を得る。九州平定に従い、佐々成政に代わり肥後半国19万5000石を得る。朝鮮の役では活躍を見せる。秀吉の死後は家康に接近する。荘内の藍において家康の怒りを買い、関ケ原では肥後に事実上の謹慎で留まるが、その間に黒田如水と九州の西軍勢力を破った。戦後に肥後半石を得て52万石の大名となる。清正死後改易となる。
加藤嘉明 1563-1631
三河で生まれ、三河一向一揆で父が家康に背き、流浪する。父が秀吉に仕え300石を得る。養子羽柴秀勝の小姓となるが、主人より先に初陣をした。ねねに叱責されたが、秀吉の300石で直臣となる。賤ヶ岳の戦功により3000石を得る。四国平定で淡路津名に1万5千石志智城主になる。文禄の役で戦功をあげ伊予国正木で増封され6万石になる。
慶長の役で10万石になる。秀吉亡き後は武断派として石田三成と対立する。関ケ原の戦いでも武功をあげ20万石になる。伊予松山城の築城を開始。大阪冬・夏の陣で武功をあげ、会津藩に43万5500石に移封となる。死後家老との事件で減封・改易となる。
脇坂安治 1554-1626
近江の長浜に生まれる。浅井に仕えたが、滅亡後は織田に属す。光秀の与力となる。秀吉の家臣となり150石。賤ヶ岳の戦功により3000石を得る。小牧長久手の戦いで1万石を与えられる。2万石、3万石と加増。水軍衆の指揮に務める。九州・小田原・朝鮮と従軍した。朝鮮での戦功により淡路で3千石加増される。関ケ原ではやむなく西軍に属したが戦闘前に家康と通じていたことより本領安堵される。伊予大洲53500石に加増される、
信濃飯田、播磨龍野と転封され明治まで続く。
平野長泰 1559-1628
尾張津島の出で若くして秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦功で5000石、関ケ原では東軍に属し秀忠に仕えた。大坂の陣では豊臣方で合流しようとしたができず、7本槍で唯一大名になれなかった。
糠谷武則 1562-1607
播磨の生まれ、黒田孝高の推挙により秀吉の小姓となる。賤ヶ岳の戦功により3000石、秀吉の直轄地1万石の代官となる。朝鮮出兵で6000石加増、関ケ原で西軍に属すす。晩年には諸説あり不明。
片桐且元 1556-1615
浅井家の国人領主の子として生まれ、浅井家滅亡とともに秀吉に仕える。賤ヶ岳の戦功により3000石、摂津茨木1万石、関ケ原では石田三成につくが、豊臣・徳川の調停にあたる。大坂の陣では家康に従属し、大阪城の砲撃で戦功をあげる。子孫が絶え断絶。弟が1万1千国で明治までのこる。
2016-3-15
清須会議と丹羽長秀・三法師
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