今治をヨットで訪ねた折には、来島城には残念にも行くことができませんでした。
松山堀江にもやいを取ることになり、鹿島城に行ってきました。
鹿島城で活躍した得居通幸・とくいみちゆき・1557-1594の時代を概観してみよう。村上海賊の3つのうち村上来島海賊は古くから河野氏に属していたが、秀吉の中国攻めの際に秀吉の調略によりそれに従った。それで、河野氏は毛利氏と共に来島村上氏を攻めて、村上通総は来島城を脱して秀吉のもとに逃れた。兄であったが庶流ゆえに嫡男の通総に譲った得居通幸はこの鹿島城に籠り守りぬいた。毛利氏と秀吉が和議を結んだことから容認される。秀吉の四国攻めでは先方を果たす。朝鮮の役で死亡する。

村上水軍の戦いの図

鹿島城跡 現伊予北条市沖合

鹿島城 案内

来島通総 肖像
わずかに石垣が残るところがあるだけです。主郭も2の段も小さなものです。でも急峻な崖で成るこの城は落とすのに困難であろうと思われます。井戸が必ずあるはずですが、見当たりませんでした。こんな小島で頑張った得居氏はたいしたものです。
今は野生の鹿をまじかに目にすることができるのみです。

2の段 鹿がうろついています

残っている石垣か?
島の歴史も古く神功皇后がこの島に立ち寄り眺めた岩や髪を洗ったという岩の伝説が残っています。

神功皇后の御野見立ちの巌 昇って見ると素晴らしい瀬戸内海が
2016-12-8
村上来島海賊
http://hayame.net/custom21.html#spb-bookmark-9