四境の役・150周年と言われてピンと来る方は少ないと思われます。このことを記述したパンフレットを僧月性の記念館で目にしました。それで周防大島・屋代島にある久賀を訪れました。
1866年の第2次長州戦争の時に、長州藩は小倉・石州・芸州・大島と四か所の国境で幕府と戦いました。その四境の役で周防大島での戦いが大島口での戦いになります。先の大河ドラマの文の中で高杉晋作が幕府の軍艦を奇襲して砲撃する場面を思い出される人がいるのではないでしょうか。その戦争です。 長州の海軍は防府にあったようで、この周防大島にはありません。 爺は大島口の戦いは防府あたりの戦闘だとカン違いしていました。
地図を見ていただければ周防大島・屋代島は瀬戸内の大事な拠点となる位置にあるのが分かります。ここは長州藩で四国の松山や本州の広島を押さえる位置にあります。それで幕府兵と松山藩兵により最初に攻撃されて大島は占領されました。
高杉晋作の丙寅丸による奇襲が成功して、といっても被害は軽微であったようですが、幕府海軍への再攻撃の懸念や薩摩の加担の恐れなどで、その後の幕府軍の動きが後手に回る結果になる。長州は世良修蔵による第二奇兵隊の働きで見事に大島を奪還した。

妙円寺のある遠崎村より対岸の笠佐島に上陸して反撃を開始、

妙円寺から見た笠佐島・上陸地点 門の奥にある島

大洲鉄然 1834-1902
月性に学び、第2奇兵隊と新武隊に貢献、維新後は西本願寺で活躍、廃仏毀釈に抵抗する。
久賀の覚法寺に生まれた大洲鉄然が藩に占領を通報した。


大洲鉄然の生誕した覚法寺
琴石山の斥侯により、岩国方面に煙が上がっているとの通報を受けて笠佐島に上陸させる。

琴石山

伊藤惣兵衛(藤屋)・久賀 ここに集まって会議をしたという。
酒屋はそれゆえ幕府軍の放火をまぬがれた。

艦砲射撃で穴の開いた村田邸・久賀 不発弾がここにあり。

明治維新100年記念公園・久賀
久賀は本土との橋がかかるまでは大島の玄関口であり、最も大きな栄えたまちであった。
2016-12-14
世良修蔵
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