2016年12月28日

世良修蔵



serashuuzou 01.jpg
1835-1868

世良修蔵が第2次長州戦争での四境戦争・大島口の戦いで、見事に第二奇兵隊を率いて周防大島を幕府軍から奪還しました。彼が軍略を考え、その指導指揮無しでは、数に劣る長州軍では大島解放をなしえなかったでしょう。この戦いに勝利したことにより、第二次長州戦争の全体的な長州勝利の先駆けとなった。

 世良修蔵と言えば、奥州戦争のときに、居丈高な態度をとり、遊女と居たところを暗殺された悪い人物程度の認識で、大河ドラマ的なイメ−ジしか持ち合わせませんでした。 また、大島口の活躍にも無知であったので、唐突に薩摩の大山格之助と共に世良修蔵が実質的な奥州鎮撫部隊の指揮官として登場したのも疑問でした。
 わずか五七〇名の兵しか持たなかった、持たせることができなかった新政府の方針は、奥州の諸藩兵を会津と戦わせることでした。 品川弥次郎などはその困難さを理解して先に指名されそうになった参謀を辞退しました。 会津藩は恭順策を新政府が受け入れないと見越して、着々と参戦準備をしていました。 その困難な状況で、彼が非妥協的な態度をとることになった。 彼だけが悪者にされて歴史に残ってしまったというのが事実でしょう。 その能力から明治の山県有朋に並ぶ元勲になったでしょう。

 略歴
 彼は長州・周防大島に生まれ、藩校明倫館や月性さんの清狂草堂などに学ぶ。阿月にあった浦靱負が開設した私塾・克己堂で教鞭をとる。浦家の家臣となり世良家を受け継ぐ。赤禰武人に誘われて奇兵隊に入り、第二奇兵隊軍監となる。赤禰武人の事件で内応を疑われて謹慎。復帰して周防大島を解放した。京都で薩摩藩との折衝にあたる。鳥羽伏見の戦いで八幡山の幕府陣地を突破して活躍。奥州鎮撫総督府の参謀となり福島で暗殺された・


serashuuzou 02.jpg
訪れた、 阿月・柳井市にある世良修蔵宅跡


 歴史庵から世良修蔵の大島解放作戦
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/bakutyouwar/oshima.htm

 敬天愛人による世良修蔵暗殺事件の周辺
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/theme13a.htm

   
  2016-12-28

  世良修蔵の法要が150年ぶりに福島で行われた。
  維新再考より    

  2018-5-6




posted by 速魚 at 12:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/178196772
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック