2016年12月29日

赤禰武人



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 1836-1866

 明治の元勲伊藤博文が塙忠宝(国学者)と加藤甲次朗(歌人)を、誤解により暗殺したといわれています。 敵対する勢力には吉田松陰や久坂玄瑞らも同様に排除しようとしました。幕末以来に、新選組を含めてどちらの側にいても、排除する手段として暗殺が行われてきたといってもよいでしょう。その悪しき伝統が戦前戦後にまで続きます。

  最近では明治の偉業をこの暗殺者がなした業として否定する意見も聞かれます。会津の人間も許されて明治になって貢献した歴史もあることから、一面的にとらえてはなりません。

 阿月・柳井市を訪ねたときに、赤禰武人はここの克己堂で教鞭をとっていました。屋敷跡の石碑もあります。しかしその墓もあるということで山道を探りましたが、整備されてはおらず、見つけることはできませんでした。いまだに地元でも裏切り者の汚名ははれていないのでしょうか? 
 彼は攘夷戦である下関戦争で最後まで戦ったという記録がア−ネスト・サトウの文にあるといいます。 山県有朋には、その戦いで最初に逃げたとかも言われて、その後に幕府と通じた疑いをはらせませんでした。山県有朋とは確執があったらしく、明治になってからの復権も彼が執拗に妨げたと言われています。晋作は死ぬ間際に赤禰武人のことを悔やむ。

 幕府側についた人間でも明治になって政府側で活躍した人はいます。赤禰武人もせめて蟄居で殺さずにおいてくれれば相当の活躍をしたでしょう。
 敵対勢力の生存まで奪うことはやめたいものです。続いていますが。


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訪れた阿月にある屋敷跡

略歴
 長州柱島で生誕、15歳で月性の清狂草堂、浦靱負の郷校である克己堂で学ぶ。短期間であるが松下村塾に学ぶ。梅田雲浜の望南塾、安政の大獄で雲浜が逮捕されると同じく捕らわれる。釈放され藩より謹慎処分。謹慎を解かれると高杉晋作らと英国公使館焼き討ちに加わる。攘夷戦の下関戦争に加わる。奇兵隊の第3代総督に就任。第1次長州戦争後に俗論派と諸隊との融和を図る政策で高杉と対立する。功山寺挙兵で晋作が藩論を統一。裏切りの嫌疑を受けて処刑された。

   2016-12-29



posted by 速魚 at 02:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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