2017年01月07日

佐久間大学


   高校のクラブに同姓の同級生がいました。その時は佐久間氏に縁続きと聞いた覚えがありますが、卒業以来会ってないので、確かめようのない話です。
 第2次長州戦争・大島口の戦いにおいて、佐久間大学が松山藩士として出兵した。その周防大島の清水峠の戦いで、敗走する松山藩兵の中、少数の手勢を率いて、第2奇兵隊の前に立ちふさがい獅子奮迅の戦いで戦死した。 信長に追放された佐久間信盛の子孫といいます。 あの追放された佐久間氏がこんなところで登場したので、興味をもち調べました。

 佐久間氏は桓武平氏、三浦氏の流れをくみ、鎌倉幕府に仕えていたが、承久の乱の功績により、千葉県勝浦市御宿と名古屋市昭和区御器所(ごきそ)を賜りそこに子孫が定住した。織田信長の時代となり尾張佐久間氏は盛重と信盛が重臣として仕える。

 盛重は桶狭間の戦いで丸根砦陥落で戦死した。その系統で柴田勝家についた佐久間盛政は賤ヶ岳の戦いで奮戦したが死亡。この盛重系統で信濃飯山藩3万石、信濃長沼藩1万8千石となるも断絶した。養子は旗本として残った模様。

 追放された信盛は、その子・信栄が父死亡したあとで赦される。織田信忠と信雄に仕え、信雄改易後に茶人として秀吉に仕える。大坂の陣後は徳川秀忠に仕え3000石を与えられる。信栄には2男7女があり、息子2人は先立たれた。弟の信実が継ぎ関ケ原で東軍に従軍、上総に1000石をもらうが兄より先に死亡。養子をむかえ旗本として存続した。 松山藩の佐久間氏は娘の家系でしょうか? 不明です。 佐久間象山も縁続きといいますがこれも不明です。



      2016-1-7

  四境の役・大島口の戦いと久賀(くか)の町
  http://hayame.sblo.jp/article/178033934.html



posted by 速魚 at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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