大幡
昭和11年ナチス政権下で、第11回ベルリン大会が開催された。この大会にからんで、ハッキリした二つの記憶がある。
小生、故あって三重県志摩郡磯部村にあずけられていた、小学校2〜3年のころ、父親から送られてきたマンガ本「江戸っ子健ちゃん」に、ベルリン大会が登場する。4コマ漫画である、先ず、暗闇の町屋の屋内「前畑ガンバレ」の声援が激しく流れる、 平泳ぎで独ゲネンゲルとの対戦である。次に、家人がラジオの音がうるさく近所迷惑でしょと。声を小さくする。 すると隣近所の窓が開いて、声を上げろ聞こえないぞと怒声が上がる。(この4コマだけハッキリ記憶している)当時ラジオの普及し始めで、全戸に行きわたっていなかった世相を示している。いま1つは、村社(むらこそ)とフィンランド勢との1万米のデッドヒートである。

余談だが、江戸っ子健ちゃんに脇役として、アラクマさんというひげの小父さん(寄宿している大学生というところ)と、従兄弟ぐらいにあたる坊や、アラクマさんの学帽を顔半分かくれる位にかぶって登場するフクちゃんが、大ブレークしてその後健ちゃんの影が薄くなってしまった。当時、河田水泡の「のらくろ」と「フクちゃん」が、マンガ界を二分する勢いであった。

さて、当の「ベルリン大会」、レニ・リーヘンシュタール(女史)監督により、陸上「民族の祭典」水泳「美の祭典」として世界に紹介され、ヒットラーの盛名を挙げたが、東京に戻って小学生5年の頃、日・独・伊三国同盟もあって文部省推薦となり、クラス単位で映画館で見た。
ベルリン大会多くの話題のなかで、特筆すべきはトラックで力走するオーエンス、撮るのはレニ女史、迫力を求めて是非とも地上すれすれのアングルをと、恐るべきことにトッラクに穴を掘り、そこにカメラを据え付けたとのこと、これも、ヒットラーの絶大な支持があってのとであるが、(実際にどの様なシーンであったか覚えていない)この知見半世紀たって判明する。


レニ・リーヘンシュタール(女史)監督
女史のこのような権威には次のような事情がある、彼女は女優でありながら、山岳映画の監督として名を上げ、このドキュメンタリーの才をヒットラーに見込まれ、1934年ナチスニュールンベルク党大会の記録映画をまかされ、高く掲げられてはためく党旗の合間から、行進する隊列を見下ろすシーンが、それまでにはない斬新なものとして世界の賞賛を受けた。続いてのベルリン大会である。しかし敗戦とともに、ナチとしての激しい社会の指弾を跳ね返して、すさまじい人生を送ったが省略する。
最近「栄光のランナー」を見た、主人公はオーエンスである、100・200・走り幅跳びと順調に、3つの金メタルを取得する、ヒットラーは金メタル選手を招いて小宴を設けていたが、1人、黒人のオーエンスは無視されていた。マインカンプに強調したように、優秀なアーリヤ人を劣等の黒人・オーエンスが、しかもドイツ人ロングを征服したのだ、どれ程腹立たしいと思ったか想像を絶する。この辺りマインカンプを読んだが覚えが無い、特に日本人関連は翻訳時に削除されたらしい。
トラックに戻る、競り合うオーエンスとロング、最後の跳躍に際して、ロングは相手のくせを知っていたので、踏み切り板に目印となる白布を添えて新記録の手助けをし、しかも、表彰式のあと、オーエンスと肩を組んでトラックを一周し、互いの健闘を観衆にアピールしたのである。ナチの人口政策をあざ笑うかのようであった。
さて、小生の記憶によると、オーエンスは4つの金メタルを取ったはずだが、オーエンスの出番が終わったという流れである、どうしたことかと思っていると、800リレーが残っていた。しかしオーエンスの名はない、これまでかという所に異変が起こる、2人のメンバー変更が告げられ、ともにユダヤ系で、代わりにオーエンスが登場する、勿論アメリカの勝利である。めでたく4つ目の金メタルを手にする、記憶に間違いはなかった。
このレースには醜い裏話がある、アメリカではベルリン大会には参加すべきではないという世論が高く、最後の評決は58:56の二票差であり、これを導くため招致派のリーダーのブランデージがナチと裏取引きし、オリンピック期間中のユダヤ排斥運動を抑えることの代償として、ユダヤ系選手を除外することにしたのである。
戦後、ナチに手を貸したのではないかと、バッシングを受けたが、数十年にわたりアメリカ・アマチュアスポーツ界にリーダーとしての地位を保持した。
映画に戻る、競技の終わったオーエンスにレニから、もう一度跳んでくれとの要請があった、彼は観衆が居なくては実録にならないと強く断ったが、レニのどうしてもオーエンスの素晴らしい跳躍ポーズをとの熱意に応え、跳んだ見事に空中高く、オーエンスだけのシーンである、フイールドに穴を掘り地上すれすれに据えたカメラによって。やはり穴を掘ったとの記憶に間違いは無かった。

余談だが、この「民族の祭典」会期中5〜60台のカメラと、数百人で撮られて膨大なフイルム量である。これをほぼ一年かけて、レニ一人で編集した、ゲッペルス等がどれほど急がせたことか、誰一人寄せ付けず作業したという、絶大なヒットラーの支持なしにはありえないことである。
映画の出来は素晴らしく世界を駆け巡り、昭和15年9月28日三国同盟成立、同年12月14日「民族の祭典」次に「美の祭典」と、全国一斉に封切りとなった。

因果は廻るというが、200米平泳ぎの前畑・ゲネンゲル、走り幅跳びのオーエンス・ロング、共にお互いの健闘を称え、次の再会を約したが、次は無かった(東京大会辞退のため)。半世紀たって、有志により、ゲネンゲル・前畑は東京で再会した。オーエンスは永くアメリカ競技界に地位を得たが、ロングには苛烈な戦線が待ち構え、命をまっとう出来なかった。

ヘルシンキとの係わりであるが、ベルリン大会一万米での、村社(むらこそ)とサルミーネン・アスコラ・イソホロの残念なデッドヒートがあるが、これは他項にゆずる。
12回東京大会の辞退に伴い代替会場としてヘルシンキが決められた、しかし、それもソ・フィン戦争により消滅した。その次の13回ロンドンも第2次大戦のため中止、戦争が終わって14回ロンドン大会となったが、敗戦国日本は参加できず、次の15回がヘルシンキとなり、これに日本が戦後初参加し、水泳の古橋・橋爪が大活躍して、多年のうっぷんをはらしてくれた。とにかく因果はぐるぐる廻った
。
2017-1-15