大幡
昭和11年ナチス政権下のベルリ大会の映画「民族の祭典」を見た、昭和15年街の映画館でクラス全員で見た。前項でふれたフインランド勢と村社(むらこそ)のデッドヒートの影に1つの話しがある。それは最後の1周先頭にたったサルミーネン・アスコラ・イソホロの前に1人のランナーが居る周回おくれである。彼は近ずく3人の気配に内側の走路を空ける、3人に続いて村社も先を行く、レースはフインランド勢の1〜3位村社4位残るランナーもゴールする、しかしさきほどの彼残り1周である。ひたすら懸命に走る、走路を空ける行為もあってか満場の観衆スタンデイングオベイションで応える、感激である、その彼は日本人と認識していたが、そのご調べてみたが関連記事が見つからない、 名前も分からない幻なのか。

ベルリン大会が終わった、次は東京大会である。昭和11年当時わが国は壮大な計画をたてていた。その頃のオリンピックは夏冬同時に1国で開催することが原則であり、東京は両大会に併せて万博もと企んでいた。その会場として月島4号地、今の晴海が当てられることになっていた。昭和15年頃この地は方形に整地されていたが、何もない荒地のまま放置されていた。
格好の野球場である、草野球のチームがテンデに集まり、早いもの勝ちでゲームを楽しんでいた。殆どの成年チームに伍して、小学5〜6年の我々も相手チームを探して遠征した。ゲームのさ中、客を求めて玄米パンの売り子が自転車に物をのせ「玄米パンのほやほやー」とやってきた、うろ覚えだがほかほかと温かかった。両国から月島まで帰りの電車賃玄米パンに消えて、歩いて帰ったのも楽しい思い出である。
昭和10年オリンピック誘致が始まった、2月オスロ総会に日本は只1人杉村陽太郎が乗り込んだ。12の候補地はローマ・東京・ヘルシンキの3都市に絞られていた、ローマに対して、当時日・独・伊3国同盟の機運がめばえ、ヒットラーを介してムッソリーニの辞退をとりつけ、同年7月の総会が開かれ、決選投票の結果36:27で東京に決まった。

満州事変に始まる日本の大陸進出について、世界で物議をかもしていたが、ナチ程には認識されていなかった。決定の報に東京では万歳の嵐、徹宵の祝賀会、明けて日の丸と五輪旗の乱舞、色々の記念行事が続いた。
しかし不吉な予兆がしのび寄っていた。万博である、万博は世界博覧会協定により、6年毎と決められていた、そして、前回は1935年ブリュッセルで開催され昭和15年(1940)は条約に適合しない、当時この条約に入っていない我国は開催するのは勝手だが加盟国は参加出来ない、万国という振れ込みは成立しないし、意味がない。
このような基本的な条件を、当時の関係者が全く知らなかったとは少々疑問が生じる、一説によると昭和15年が皇紀2600年に当たり、これの行事としてオリンピック・博覧会として計画されたと言はれる。世界平和・万国協調の理念として、しかるに軍部の独走により、昭和12年日支事変が起こり支那大陸に戦線が拡がり、想像以上の戦費の増大と、世界の反対気運の拡がりにより、昭和13年1月返上となった。

ここで先祖がえりして、皇紀2600年行事が前面に出てきた。 「金鵄輝く日本の 栄えある光身にうけて〜〜紀元は2600年 ああ一億の底力」 記念歌である、歌詞は一部欠けるがメロデイーは今でも口ずさめる。そうして、事変下にもかかわらず、というよりむしろ統制経済下、国威発揚・国民精神高揚のためとして、色々の設備が準備され、その最たるものが天孫降臨の地・日向(宮崎県)に建てられた八紘一宇の碑である。戦争中小額紙幣に使われ、しかも現存している。何故か占領軍のメガネをのがれて。
今一つ、11年ベルリン大会ではラジオの世界同時放送が初めて行われ、前畑ガンバレにつながったが、当時わが国では八木英次等によるテレビ放送の研究が進み、何らかの形でオリンピックえの参加が試みられていた。「イ」の字が幻の様に浮かぶだけであったが、奇しくもこの八木アンテナが電探として我国を苦しめることになった。

200m平泳ぎで金メダル 前畑秀子さん
2017-1-16