2017年01月19日

巨人ー洲崎・後楽園・ドーム球場

  
                              大幡

 プロ野球との初体験の記憶は後楽園球場に始まる。左翼外野席に大飛球が飛んできた、打者はスタルヒンである。昭和15〜6年のことであり、当時、巨人軍は将来のファン養成策として、外野席を子供に無料開放していた。連れは居なかった、省線電車で両国から水道橋、小学5〜6年生、それほどの冒険ではない。とにかく球が飛んできた、当時テレビもなくニュース映画に取り上げられるはずも無い、映像とて目に焼きついている。

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洲崎球場


 プロ野球は昭和11年洲崎球場に始まるはずが、第一試合は早稲田の安部球場で行はれた、この一試合のみ。突貫工事もあって木製スタンドながら、新設の洲崎球場がしばらく専用となった。近くに汽車会社と色街・洲崎パラダイスがあり、すぐ南側が東京湾である。そしてこの土地東京ガスからの借地であった。同年築地市場が開場し、今この市場、豊洲の東京ガス跡地えの移転で騒ぎとなっている、なんのしがらみだろうか。
 当時プロ野球は職業野球といはれ、水商売のように思われた時期であったが、阪神の影浦・巨人の沢村等により、伝統といはれる巨人・阪神戦がここで生まれる。12年8月15日巨人対名古屋金鯱戦4回、満潮になった海水が巨人のベンチに流れ込んだ。文字通りの洲崎であり、この試合川上哲治のデビュー戦でもあった。沢村二度目のノーヒット・ノーラン試合が終わったと同時に、球場全体から大歓声が起こり、グランドに座布団が舞った、まるで国技館のように、スタンドが硬い杉板のためである。とにかくプロ野球として多くのファンをつかみ、その発祥の聖地といったところか、しかし余り使い勝手がよくなかった。


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 昭和12年水道橋駅、神田川をへだてた北側の元砲兵工廠跡地に、鉄筋コンクリートの後楽園球場が完成すると、洲崎は余り使われることこなく、戦時中金属回収もあって、跡形も無く消滅した。昭和25〜6年ごろ縁あって訪れたが、いくつかの鉄工所があったが、まばらに建屋が散在するだけの原っぱであった。


 後楽園に移ってプロ野球は一層発展したが、戦の影が忍びより暗黒の時代を迎えた。太平洋戦争となり、敵性語ということでベースボールと呼ぶこと等が禁止され、ストライクを「よし」ボールを「だめ」などと言い換えるとともに、スタルヒンも「須田」と改名され、 当時巨人の外野手「呉」(台湾出身)も萩原と名乗らされた。因みにポリドールが大東亜音盤、キングレコードが富士音盤と名を変えた。


 話が代り、昭和17〜8年中学3年頃の先生に朝鮮出身の「金」先生が居た、われわれはコンさんと呼んでいた。黒板に書く字が実に見事で、修身を担当していた、かの地で創始改名が大騒ぎされたが、本土ではそれ程強制されなかったと思はれる、公式の場では憚られるが、一般では大目に見られていたのであろう、この先生、終戦とともに姿をくらました。


 余談だが、小生、動員先の工場でいたずらをして、全員集合の場で手ひどい平手打ちをコンさんから食った。差別についてもこういう一面があったと証言しておこう。


 戦争は終わったが沢村の姿は見られなかった、台湾沖で海没したとのことてある、また、須田はスタルヒンに戻ったが、改名時の冷遇もあって、巨人のマウンドを踏むことなく、金星等のチームで数年活躍したが、まもなく交通事故死した。とにかく再開された後楽園に足を運んだ。
 アルプススタンドから川崎徳治の入団式、平山の復員、千葉のピッチャー等多くの思い出がある。コチコチのジャイアンツファンに成長したのかな、水原の留守家族慰安の催しがあったが、ニュース映画に大きく取り上げられたので、実体験かあやしい。


 22年大学に進んだ、当時六大学の聖地神宮球場が、占領軍に接収され、春のリーグ戦のゲームが後楽園で行われた、多分早慶戦である、一塁側、外野寄りの入り口で同クラスの末吉がモギリをやっていた、「ヤー」と声をかけて入場した、当時の早稲田のピッチャーは岡本・荒川(宗)の全盛期で、入学したての末吉野球部の場外担当だったかな。さきの荒川、ワンちゃんのコーチで有名な荒川博とは別人である。
 小生プロ野球の方が気になり、六大学には足が向かなかったが、彼に会って転向、後楽園から足が遠のいた。そして神宮球場が接収されていたので、各大学の練習球場を転々とし、神宮球場は米軍兵士の草野球の場であった。なにかのハズミで彼らのナイターを見る機会があった、青々と広がるフィールドが眼に焼きついている、観覧席が開放されていたのであろう。
 さきの末吉だが、日鉄八幡での社会人の実績を買われて入学、秋から投手陣の一角を占め、2年以降卒業まで主戦投手の座を占め、卒業後毎日軍に入り、軟投ながら好投手として活躍し、そのご記者に転向したという。在校中2年目、校庭で講義に出られない彼から、小論文を代わりに提出することを頼まれた、小生の顔を認識していたのだ。
 この頃の早稲田、同じ学年に広岡・宮原(卒業後日本鋼管に入り実業団屈指のキャチャー)翌年に荒川博等がいて、天下が続いたが、末吉等の卒業とともに、長島・杉浦を擁して、猛練習で鳴らした砂押監督の率いる立教の天下が来た。小生、卒業後は六大学とは無縁になった、とはいっても早慶戦だけは大関心事だがキップの入手は絶望、30年代になっては、優勝した早稲田の神宮から母校までの行進を見ようと、新宿に出張って待ち構えた。学生の一部は行進を途中でスッポラかして、飲み屋街にくりだす、先輩のイキの掛かった店での只のみである、小生、後輩に振舞うほどの金は無い、先輩面などとんでもない、一人楽しく酒を味わった。


 余談だが、慶応優勝の時、彼等は銀座に繰り出す、一度見にいったことがある、6丁目交詢社あたりのクラブ風の店、数人が肩を組んで、ケオー・ケイオーと叫びながら入ってくるや、ピアノを取り巻き一人の演奏につれて合唱し始めた、スマートである。
 小学校の同窓会で慶応卒の相沢が、ダークダックスに引っ掛けて、学位をとったのは音楽部ではないと冗談を発したが、先ほどの彼等まさに音楽部かと思えた。
 さらに時移り、昭和の終わり頃学園祭を覗いたとき、大隈講堂の前で「秋の早慶戦いかがですか」と声が掛かった、「えっ早慶戦入れるの」と応えたが、ときすでにプロ野球におされて、早慶戦といえど観客動員の時代になっていた。


 後楽園スタンドに戻ろう、昭和22年頃「金で買える全て」All that can buy money、中世の裁判劇が上映された、暗い堂于右側に裸の階段があった、他の全ては忘却の彼方、只映画館は後楽園左翼側アルプススタンドの裏側、大きな斜面の空間を利用したものである。
 当時、東京は未だ一面の焼け野原で、焼け残ったビルの空間色々と利用されたが、上野松坂屋6Fで、グレゴリーペック主演の「王国の鍵」Key of kingdomを見た、満員のため右側の壁に沿っての立ち見である、ペックの顔がやけに長かったのを覚えている。日本橋の白木屋には後のソニー・東京通信工業が入っていた。

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後楽園球場改築前


 時移り、その後の後楽園球場老朽化が進み、隣りあわせの競輪場に建て替えとなった。ここは開催の合間は斜めのバンクに取り外し式の打席が設けられた、打ち放しのゴルフ練習場でもあった、余り知られていないと思う。やがて東京ドーム球場が完成したが、小生ここで野球を見たことが無い、入場したのはストーブリーグ時の、見本市・蘭やキルト展などの記憶しかない。球場の名称について「ドーム」の他に「ビッグエッグ」等の裏話があるが省略する。

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東京ド−ム移築後


 予談だが、ドームは薄い膜を空気圧で卵のように膨らませたもので、膜を補強するロープの他には鉄骨は一切ない、従って、ドームの出入り口はすべて空気の漏れないような回転ドアとなっている、その出入りに際しては、航空機を利用した多くの人が感じるように、僅かに耳に違和感が生じる、0.1気圧に満たないがゲームの有無にかかわらず、絶えずコンプレッサーが動いている。
 そして、球場の跡地の大部分は遊園地に当てられ、在来の施設を加えて豪勢なドリームランドに生まれ変わった、又南側にあったタクシー会社の駐車場は、神田川に面して高層ホテルが建てられた。
 原っぱの洲崎球場跡や汽車会社、色街パラダイスも消えうせ、高層マンション群が聳え立ち、多くの倉庫が連なり工業地帯の面影は全く無い。東京は激しく姿を変え発展し続けてきた、「巨人軍は永遠なり」と誰かが言ったが、東京よ永遠なれ、日本よ益々たくましくあれと祈るや切であり、そして老生やがて消え行くのみ。


2017-1-19






posted by 速魚 at 06:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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