2017年01月22日

幕末の四兄弟




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左から、松平定敬・桑名藩、松平容保・会津藩、一橋茂栄・一橋家、徳川慶勝・尾張藩

 明治11年に撮った写真が上載のものです。有名な会津藩主松平容保をはじめいずれも幕末に活躍した。 その父は美濃高須藩主の松平義建(よしたつ)である。彼は、父・義和(よしなり)が水戸藩のは部屋住みであったが高須藩に養子として入った。高須藩は尾張藩の連枝の藩で水戸藩や一橋家ともうごっちゃまぜであります。義建は10男を成しており詳細は

 長男:源之助 1820年生、夭折
 次男:慶勝 尾張藩尾張徳川家養子
 三男:武成 浜田藩越智松平家養子
 四男:整三郎 1826年生、夭折
 五男:茂栄 高須藩主(義比)→尾張藩主(茂徳)→一橋徳川家養子(茂栄)
 六男:某 戊辰戦争で切腹
 七男:容保 会津藩会津松平家養子
 八男:定敬 桑名藩久松松平家養子
 九男:鐡丸 1849年生、夭折
 十男:義勇 高須藩主

 1. 徳川慶勝
 尾張14代藩主になり尊王攘夷を主張して安政の大獄で隠居謹慎を命じられる。弟の茂徳が15代藩主となった。桜田門外の変により復権し弟が隠居して、実子の義宜が16代藩主となり、慶勝は実権をにぎる。第1次長州征討の総督となる。内乱による外国干渉を慶勝は大いに危惧することから長州への寛大な処置をとった。長州への再征にも反対する。 鳥羽伏見の戦いのあと、500もの朝廷への帰順を誓約する書面を送りそれを受け取る。そのことで朝廷軍は江戸上洛を戦争することなく成し遂げる。明治への態勢を決めた最大の功労者といえるが、あまり知られていないようだ。

 2. 徳川茂徳(もちなが)茂栄(もちはる)
  高須藩11代藩主となる。兄慶勝の隠居謹慎で尾張15代藩主となった。兄慶勝の子を養子としていたので、隠居後はその義宜が16代藩主となる。15代将軍慶喜に代わって一橋家当主を継承して茂栄(もちはる)となった。徳川一族の総代的な役割で新政府と交渉にあたる。

 3. 松平容保 
 義和の子に、義建・高須藩主と容敬(かたたか)会津藩主がいた。義建の子容保と容敬の娘を結婚させ、養嗣子とした。会津藩9代藩主となる。京都守護職になった、これ以降幕末で活躍する。

 4. 松平定敬(さだあき)
 桑名藩主松平 定猷(まつだいら さだみち)の娘の婿養子となる。1863年京都所司代になった。禁門の変では兄容保と協力して京都を守る。鳥羽伏見の戦い後は謹慎した。藩論が恭順になり、桑名への帰国がかなわず、飛び地の柏崎にうつる。その後、会津で兄容保と再会し仙台より榎本の艦隊で函館へ渡った。函館戦争終結後上海に渡るが、逃亡を断念して明治2年に降伏して5年に赦される。西南戦争では元藩士を率いて遠征した。

          2017-1-22

 





posted by 速魚 at 19:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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