
2月5日の昼のテレビ番組で肥沼信次さんの戦後の独での医療活動の記録を放映していました。番組の途中から見たので、慌てて録画をする、何でこんな時間に良い番組をやるのだろうとつぶやきながらです。 カミさんが全録で見られると言われ、はたと気が付きました。アマゾンで買った6チャンネルの番組を全録画できるレコ−ダ−を、今日午前中にサポ−トに電話して、その設定が終わり、録画できるようになったばかり。忘れていました。さっそくそれで見れなかった部分の番組を見る。
肥沼信次はアインシュタインにあこがれて、ベルリンのフンボルト大学に行きます。そこは森鴎外や北里茂三郎の留学した名門大学です、放射線の研究をして教授になる寸前までいきましたが、ドイツ敗戦ベルリン陥落前に、日本大使引き上げの時に、同行帰国せずに近郊のヴイリ−ツエンに避難しました。その地で敗戦の混乱の中に、発疹チフスやコレラが蔓延していました。彼は占領ソ連軍より伝染病医療センタ−の所長を命ぜられました。薬も人材も設備も無いなかで、彼は寝食も惜しんで奮闘し、ついには半年後には自分もチフスにかかり亡くなりました。

現地にあるお墓
彼の事績は冷戦のなかでの東ドイツに属したので、89年まで知られることは少なかった。番組取材は当時の看護婦さんや患者で生きておられる方の証言が聞かれ、時期的に高齢になっておられるので、最後の良い機会であったと思われます。 現地では彼は名誉市民に選び、語り継がれており、福島も震災の折には見舞金が送られてきました。
2017-5-6