
榎本武揚は下級武士に生まれて長崎の海軍伝習所に学ぶ。函館奉行の従者として蝦夷地を見る機会があった。幕府よりオランダに留学生として派遣されて、機械学・砲術・造船学・化学などを学んだ。デンマ−クとプロシア・オ−ストリアの戦争があり、観戦武官として両軍を観戦する。その戦いが英国の仲介で和平となり、戦争は武力だけでは解決せず、外交や国際法での解決があることを知る。それで海律全書を重視するようになる。
開陽丸の竣工とともにオランダより1867年に廻航して帰国する。すぐにそれを率いて戊辰戦争に参加した。将軍慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れて、下船中の榎本を残したまま江戸に逃げ帰る。ほどなく大政奉還して明治の世になった。榎本の艦隊は半数の4隻を維新政府に引き渡すことになり、残り4隻で幕府の残兵を乗せ蝦夷地に渡る。国際法の知識を活用して、米仏に蝦夷共和国を認めさせる。しかし追ってきた新政府軍に敗れた。榎本は海律全書を黒田清隆に降伏前に託す。黒田は榎本助命に坊主になってみせるほど懸命になり助けた。桂などの長州人は目先の感情で惜しい人を抹殺してきたが、最後は西郷隆盛の決断で助命された。

坊主になって助命した黒田清隆
新政府の要請を断ってきたが、蝦夷地の開発ならと4等書記で政府につとめるようになる。現場実務で活躍し外交畑で千島樺太交換条約、天津条約、大津事件後の対応、足尾鉱毒事件の対処などで活躍した。 当時は富国強兵は当たり前の政策でしたが、戦争はそればかりでないと考える人は、榎本だけであった。
日清戦争では東郷平八郎が中国兵の乗船した英国船を沈めたが、国際法にのっとった処置であったので、問題にならなかった事件がありました。これも榎本の海事国際法を海軍に熟知させた影響であろう。最後に黒田清隆が先に亡くなったのだが、その葬儀委員長は榎本が務めた。
年表
1836 享保7年 御徒目付榎本武規の次男として誕生
1851 嘉永4年 昌平坂学問所入学」、 53年卒業 成績丙
1854 安政元年 函館奉行堀利煕の従者として函館・樺太に行く
1857 安政4年 長崎海軍伝習所2期生として入学、58年修了
1862 文久2年 オランダ留学に出発、 63年ロッテルダム到着
1863 文久3年 観戦武官として赤松則良と共にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争をみる
1867 慶応3年 軍艦開陽丸でオランダより廻航して帰国
軍艦開陽丸

9月 軍艦頭となる。 年末に幕府艦隊を率いて大阪湾に移動。
1868 鳥羽伏見の戦い(1/3-6日)敗戦後に富士山丸にて負傷兵や新選組を積んで江戸に帰る。
5月 徳川宗家が70万石減封決定、
8月 抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて 江戸を脱出
10月 五稜郭を占領した。
12月 蝦夷共和国総裁に選挙(入札)によりなる
投票結果
「投票」総数856票の内訳は、以下の通りであったという
榎本釜次郎 156
松平太郎 120
永井玄蕃 116
大鳥圭介 86
松岡四郎次郎 82
土方歳三 73
松平越中 55
春日左衛門 43
関広右衛門 38
牧野備後 35]
板倉伊賀 26
小笠原佐渡 25
対馬章 1
1869 明治2年 5月 五稜郭を開城し降伏
1872 明治5年 3月放免 開拓使に任官
1875 明治8年 駐露特命全権大使として千島樺太交換条約を締結
1880 明治13年 海軍卿に就任、
1884 明治17年 天津条約締結に貢献
1885 明治18年 第1次伊藤内閣で逓信大臣 以後各大臣を歴任
1891 明治24年 大津事件で、青木周蔵外務大臣の引責辞任で外務大臣就任
1897 明治30年 足尾鉱毒事件の責任をとり辞任
1908 明治41年 73歳で死亡
2017-3-22
幕末4兄弟
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僧月性
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