
1824-1869
愛媛県宇和島に昨年行きました。そこでは大村益次郎やシ−ボルトの娘イネのことが展示されていました。 大好きな司馬さんの「花神」も若いころ読みましたが、彼と宇和島のことが思い出されません。その本で、調べてみようと本棚を探しましたが見つからず、どこに行ってしまったのでしょう。 最近に、テレビで彼のことを取り上げた番組を見ましたので、自分なりに調べてみました。なぜ題名が花神なのかさえ思い出せませんけれど。
大村益次郎は長州の村医者の長男に生まれ、成長して適塾で蘭学を学び塾頭になりました。いったんは村に帰り医者をやります。当時蘭学の盛んな宇和島伊達藩に行きます。そこで蒸気船をつくり、江戸で幕府の講武所教授になります。翻訳では彼の右にでるものはいなかったといいます。西洋兵学も読むことによって身につけました。 彼は幕府の方針に疑問を感じ、長州でその後は働きます。長州での軍政の改新をした力を用いて、四境戦争において、二〇倍にもなる戦力の幕府軍を打ち破り、倒幕への道筋をつけました。彼は官軍の事実上の総参謀をつとめ戊辰戦争に勝利して維新の功労者となる。その後の軍の近代化の確立をめざすが、特権を失った士族の不満者に暗殺されてしまう。
長州では武士は役に立たないと奇兵隊や諸隊が設立されていました。幕府との戦いが必須のなかで藩士・武士の改革が必須のものとなります。武士は子飼いのお伴を連れてその個人的な功績・光明を見せることによる戦いを八〇〇年も続けてきました。 大村は近代化するため、そのお伴・奉公人を石高により藩に差し出させて兵として訓練しました。武士は今まで持っていた自尊心や栄光を捨てて、下に見ていた徒・足軽のような戦いを余儀なくさせるようなものですから、大変だったでしょう。藩主の命ということでやりとげます。ここに日本での武士・もののふの伝統は一新され時代が変わる歴史的なこととになります。先祖伝来の甲冑をうりはらいミニエ−銃を買えと藩士に指導した。
薩摩は下級武士が指導しましたが藩士としての行動でしたので、明治になってからその気分を捨てるのに西南戦争までひきずることになる。 改革者の大村を殺すことに加担した疑いをもたれることにもなる。大村は維新後に今後注意するのは西であると発言している。
大村益次郎の改革
1.近代兵制に改革、 武士の終焉、 諸隊の整理統合して藩の統制下に。
1.最新の近代兵器を装備する。ミニエ−銃 有効射程は二倍になる
2.散兵戦術を指導 自分の判断で攻撃して身を守る戦術、 士気がたかくないと成立しないが。
3.民心を掌握した戦い方
第二次長州征伐・四境戦争により長州が幕府に勝利し、関ケ原の戦い的な意味を持ち、一年後に
徳川幕府は滅亡した。 独学で西洋軍学を学んで戦略戦術を実践した、大村なくしては明治の偉業はな かったでしょう。
彼の言葉に「今求められる士とは、散兵となり、指令となり、斥候ととなり、方略智謀を用い、それらを導き指導して己が武器となし得る学問を修めた者のみが士だと説く。然れども当今諸士は小銃短剣(銃剣つき小銃)の使用を持って士の武術と心得ている」 これは宇和島藩にいた1853年のことである。1856年にペリ-が来て、幕府諸藩は幕府歩兵を銃化していく。ただ洋銃を扱えるだけでは役に立たないと提言していた。幕府軍は四境戦争や鳥羽伏見の戦いでは洋式銃の装備した兵力では維新軍より上回っていた。大村のいうとおりに幕府軍は敗北したのである。
年表
1824 周防の国に村医の村田孝益の長男として生まれる
1842 防府の梅田塾で医学や蘭学を学ぶ
1843 豊後日田 広瀬淡窓の咸宜園で学ぶ
1846 緒方洪庵の適塾で学ぶ、長崎の奥山静淑に2年遊学するも塾頭になる

1850 帰郷して開業する
1853 ペリ−来航、宇和島の二宮敬作を訪ねる。低い禄高で雇われたが100石どりへ改められた
1854-55 長崎に行き、軍艦製造の研究をする。日本で2番目の蒸気船製造。 村田蔵六に改名
1856 私塾鳩居堂を開く、幕府の蕃書調所教授方手伝い、幕府講武所教授になる
1860 長州藩士となる
1863 萩へ帰国
1864 兵学校教授方、製鉄所建設にかかわる。四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外国人応接掛に任命される。4か月で士官育成をめざすカリキュラムを組む。長州兵を促成栽培。
1865 高杉晋作の耕三寺挙兵で保守派を打倒、100石取りの上士となり大村益次郎永敏と改名、奇兵隊の指導をする。
藩主の命を借りて軍政の近代化を実行
1866 幕府第2次長州征伐の号令、
5月 大組御譜代になる、農相階級の兵士を再編、藩士を再編、隊の指揮官に戦術の教育
6月 石州口の実戦指揮
7月 薩摩藩の協力でミニエ−銃4300丁、ゲベ−ル銃3000丁購入。浜田城陥落させる。
1867 薩摩の倒幕の働きがけに慎重論をとなえる。 掛助役に左遷される。
1868 大政奉還、 明治新政府の軍防事務局判事として朝臣となる、御親兵を訓練し近代国軍の基礎をつくる。
東京に来て彰義隊の討伐など治安回復に貢献する。事実上の新政府軍総司令官として指揮をとる。
1869 戊辰戦争の功績により1500賜る、藩兵を中心とする大久保らの意見と徴兵令による政府直属の軍隊を創成しようとする 大村の意見が分かれた。大村は辞表を提出するが他に人材なく兵部大輔(次官)に就任。長州藩士神代直人ら8人に襲われ死亡。
2017-3-25、8-24
奇兵隊
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大島口の戦い
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