
日本軍のシベリア出兵のときに、ポ−ランドの子供たちを救出したことは世間に知られてきましたが、まだ世に知られていないも他のものがありました。
ロシア革命後のペトログラ−で生活に困窮していた親たちが、夏の期間に一時的にシベリアへ子供たちを疎開させます。ところが内戦が勃発してそのウラルの地に子供たちが孤立してしまいました。その事実を知った米国の赤十字社が立ち上がり、その要請により日本船陽明丸が傭船される。その船は無事太平洋横断しパナマ運河を抜け、大西洋を横断してフィンランドまで送り届け、無事に八〇〇名の子供たちが親元に帰ったという忘れられていた事実が、北室さんの追及によりその詳細が明らかになりました。
安部さんとプ−チンさんが北方領土交渉の前に、このことが両国に衆知されていたら、少しは良くなっていたかもしれません。

ウラルからウラジオストックまで救出された子供たちは、シベリアに出兵した各国が撤兵したあとで、残ったシベリア派遣日本軍と赤軍との戦闘が懸念された。米国を含めていろんな船会社に傭船を依頼したが、断られて陽明丸が引き受けることになった。 船会社社長の勝田銀次郎が快く引き受け、船長・茅原基治は子供たちに慕われて無事送り届けることができた。
北室さんは、ロシアで行っていた個展で、子供たちの子孫より船長に感謝をしたいと、日本での船長さんの捜索の依頼を受ける。奇跡的に茅原船長の手記と共に子孫を見つけた。 また、日本が関わったことには秘密があるゆえに記録が消されたのではないかとも述べられています。
このような隠れた偉業がみつかると、関係のない現代の日本人でも少しは胸を張れるか? 後世の人間ですが、船主の勝田さんと船長の茅原さん、乗組員の皆さんに感謝いたします。元船乗りとしては誇らしい思いです。
2017-5-2
追補 陽明丸の時代の大洋航法

陽明丸

子供たちの行動図 1918-1920年
第1次世界大戦の頃は海軍船は石炭から石油に船舶燃料は変換されていました。 陽明丸のような貨物船は、日露戦争の時と同じで石炭を使用して航行していたとわかりました。 船長の茅原基治さんの「露西亜小児輸送記」によりますと、日本の寄港地・室蘭よりサンフランシスコまで太平洋を横断しました。夏の時期の北太平洋は霧の多発が起きる季節です。 陽明丸もサンフランシスコ到着の前日まで天測による位置決定ができていません。 今のようにGPSが容易にできる時代ではないので、それまでは海図に針路と航程を記入した推測位置で航行することになります。問題は時間の経過とともにどんどん誤差が拡大していきます。陽明丸は2週間ほどで到着していますが、実位置(天測による)と推測位置との誤差はどれくらいあったのかは記されていませんので不明です。100マイルあってもおかしくないでしょう。 ランドフォ−ルというのは大洋航行中に初めて陸地(ランド)を視認したことを言います。 経験の有るかたなら大きな感動的な出来事です。
筆者は70−80年代に船乗りでしたが、私の時代はこの当時と比べてレ−ダ−を備えていたくらいで、大洋航行中は天測によっていました。 ランドフォ−ルはレ−ダ−によりましたので、陽明丸にくらべれば安全で楽なものになっています。 陽明丸の航程を記録するには、もちろん今のようなスピ−ドログは存在せず、4時間おきに砂時計を利用して、抵抗物にロ−プをつけて、その流されていくロ−プの長さで船速を測ったと思われます。 少し進歩してスクリュ−タイプのものになっていたかもしれません。 陽明丸は1929年7月に大船渡市沖で座礁沈没しているので、このころの霧中航法はいかに難しいものであったかと思われます。

国会図書館にもない貴重な現存1冊
2017-5-3
追補2 救出に活躍した4人の男たち