2017年06月02日

カルト・ケイト 〜カナダ生まれの気骨ある女傑 佐野による

 西部女傑列伝5   第1回:カルト・ケイト  
 
 西部史には時代が生んだヒーローやマスコミ、ダイム小説が創り上げた虚構の人物が、本物の英雄と渾然一体となって存在する。
ここに登場するのは、ダイム小説の諸説やセンセーショナルなマスコミとはまったく無縁だった闘士で、ただ、大牧場主の横暴から自分の小さな農園を守ろうと、憤然と立ち向かった女性、エラ・ワトソン、人呼んでカトル・ケイト(Cattle Kate)である。
カトル・ケイトこそは西部の真の女傑と呼ぶに相応しいガッツと行動力を掛け値なしに持っていたと思う。そのために悲劇的な最後を遂げることになったのだが…。
今でもそうだが、大資本に立ち向かうのは大変なことだが、西部開拓時代は直接的な武力、暴力を伴ったので、自分の命を賭けなければならない行動だった。
広大な土地と資本を独占している牧畜男爵を大いに悩ませ、目の上のタンコブのような存在となったカトル・ケイトはカナダ、オンタリオ州でエレン・リディー・ワトソン(Ellen "Ella" Liddy Watson)として生まれた。1860年の7月のことだ。父親はスコットランドのレクシャーに1836年に生まれたトマス・ルイス・ワトソン(Thomas Lewis Watson)、母親はアイルランド、ドロモーレ生まれで、ワトソンより5歳若いフランシス・クローズ(Francis Close)だが、その当時としては珍しく"デキちゃった婚"で、彼が結婚したのは、カトル・ケイトが生まれた後だった。そんなところから、ワトソンがケイトの父親ではなく、乳飲み子を抱えたフランシスと結婚したとも言われている。
だが、実情は少々異なると思える。というのは、スコットランド生まれの父親はピューリタンで、母親はアイルランドの生粋のカトリック、この宗教の違いが二人の結婚を阻んでいたと考えるのが自然だろう。両方の家族は互いに異教徒との結婚に大反対したとしても驚くに当たらない。それが結婚を遅らせ、デキちゃった婚になったのだと思う。
ケイトを身篭った時、母親のフランシスは18歳にもなっていなかったし、ワトソンも22歳をようやく越えたばかりだった。当時のカナダの法律では、18歳になると、親の承諾なしに、本人の意思だけで結婚できることになっていたので、フランシスが18歳になるのを待って、婚姻届を出した…と想像する。
最近、ワトソン家の古い聖書が見つかり、そこの書き込みによると、ケイトは結婚まで母親の叔父、アンドリュー・クローズの元に預けられていたと判った。
このアウトローシリーズで混乱を避けるため、エレン・リンディー・ワトソンをカトル・ケイト(牛のケイト)と彼女の生涯を通して呼ぶことにしたが、もちろんカトル・ケイトは渾名で、リサーチャーによると、生前、彼女をカトル・ケイトと呼ぶことはなかったと言っている。家族や友人たちはフラニィーと呼んでいた。母親のニックネームもフラニィーだから、混乱するが、続々と生まれてくる妹、弟たちにとってはケイトは第二の母親的存在だったことだろう。
この夫婦の結びつきの強さは恒常でなく、しかもセッセと子造りに励みに励み、総計17人も子供を造っているのだ。
開拓者に無償の土地を与えるホーステッドシステムはリンカーン大統領が1862年に始め、土地の良し悪しに当たり外れがあるにしろ160エーカー(約65万u)内外の西部辺境の土地がタダで貰えた。それに呼応するように同様のシステムをヴィクトリア女王も打ち出し、属領だったカナダで始めたが、ワトソンの父親の時代には、安いお金で政府から借りる方式に変わっていた。
父親のワトソンはかなりの教養を持った人物で、子供たちの教育に熱心だった。もちろんド田舎のワンルームのカントリースクールへ通っていたのだが、そんな学校で学んだとはいえ、ケイトの読み書きの能力は高かった。生涯スコットランド・アクセントが抜けなかったのはスコットランド系の勤勉な両親に厳しく躾けられた結果だろう。
ケイトは骨太で大柄な娘だった。身長はおよそ175、6センチ、体重はその時で75、6キロあったと思われる。その大きな体の上に顎の張った大きい四角い顔が乗り、目は濃いブルーで髪は真っ直ぐな茶色だった。人の身体つきと人格は一致しないことも多く、筋肉マンの大男が意外と小心者だったり、か弱そうに見える小さな女性が意外な気骨を持っていたりするのだが、ケイトの場合は図体の大きさがそのまま彼女の気骨、性格を現していた。普段は優しく、思いやりに溢れていても、怒らせたら大変なことになると思わせるものがあった。
いつ頃からケイトに西部に対する憧憬が生まれ、乗馬を始めたのか分からないが、ケイトがカナダにいた時から、すでに優れた乗馬技術を身に付けていた。ケイトはいつも、跨って乗るオトコ式の鞍で馬を駆っていた。ベラ・スターのような女式の横乗りサドルは決して使わなかった。ケイトは14、5歳で、すでに男勝りの体格になり、家の中での仕事より、牧童たちと牛を追い回す表仕事を好んでいた。一方、ケイトは家事でも母親を助け、良くこなした。母親は続々と生まれてくる赤子の育児に忙しく、ケイトが台所を受け持っていた。辺境の開拓地に生きる者の、老若男女を問わず、タフネスぶりを見せ付けられる思いがする。

-…つづく 第2回 カルト・ケイト

  2017-6-2

  西部女傑列伝4 パ−ル・ハ−ト




posted by 速魚 at 10:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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