2017年06月03日

ギガント・ メッサシュミット・マンシュタイン    大幡  


  Bf-109で知られるメッサーシュミット社では、あまり多発機を見かけない。ところが、昭和17年頃の航空朝日に一葉の写真が載っていた。6発の高翼単葉機であり、戦後今日までこの一枚しか見かけなかった。その要目にいたっては一切不明のままであったが、ある日旧じゅんく堂大宮支店の雑誌コーナーで「S A」なるミリタリー誌を取り上げパラパラと見ると、突然まごうかたなくギガントMe323が大きく鎮座しているではないか、余りの奇遇にあわてたのか一旦は書棚に戻したが、数日たってあらためて購入した。

 当初の小型機による空挺部隊が、戦車や大口径の火砲を擁する部隊に遭遇すればひとたまりもない、そこでギガントが兵員200人か4号戦車など重量機材を航送するグライダーとして構想された。1941年Me321とJu322(ユンカース)の2機が試作され、Ju322は初飛行の時、事故で不時着など不具合が多くMe321が採用され、量産されたがクレタ島での大被害から、心ならずも当初の構想から外れて、専ら物資の輸送、特に孤立した部隊への補給作戦に投入された。

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  写真 ハインケルHe111Z


この巨大機を曳航するために、ハインケルHe111を2機、横に繋いでその繋ぎ目にいま1個のエンジンを設け、都合5発機として開発された、しかし、曳航するため飛行場の制約等があり、なかなかうまくいかなかった。そこで、グライダー自身にエンジンをと左右に3発ずつ計6発としてMe323が開発された。
全長28.5m翼幅55m、機体は殆どが鋼管と木製の骨組みで羽布貼り、広大な貨物室には観音開きの大型ドアを備え、重量物の積み込みのため低床とし、不整地での離着陸を考慮して独立懸架式10個の車輪を備えている。巨体にもかかわらず胴体の大部分が羽布貼りで、人員輸送時に兵員が指で穴を孔ける事から、厳重な注意事項が登場した。


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 上写真2枚 メッサーシュミットMe323


 半世紀ぶりの邂逅に重ねての対面が生じた、吹上図書館での「マンシュタイン伝記」である。クリミア攻略ハリコフ戦と寡兵もって奇跡と言える勝利を得た将軍も、時移りナチス頽勢のなか処を代えて、クリミアに立て篭もることになった。残された兵力を点検するなかに数機のギガントがあった。名将とはいえ只のグライダー、どれほどの戦力になったのか、改めてこの辺りを調べようと、さきの伝記を照会したところ所蔵されていない。読者の引き合いが少ないので、処分されたのであろう。哀れをもよおす。

 余談だが名将の為ふれておきたいことがある。それは、ドイツの名だたる将帥、なかでも、ロンメル、ルントシュテットを差し置いて、英米の将星達の尊敬と頌栄を一身に集めたのがマンシュタインである。それに、スターリングラードの悲劇生んだヒットラーの死守命令を、始めて覆したのも彼である。 
 
 そもそもグライダーはスポーツから始まり、一説によるとドイツ軍部による密かな航空兵養成策ともいはれるが、空挺作戦が盛んに研究され、パラシュート降下に伴う兵員の分散と戦力低下に対してグライダーがとりあげられ、少数の空挺隊の兵員と小火器の輸送用として開発され、1941年5月ドイツのグライダー部隊はベルギーのエベン・エマール要塞に奇襲攻撃を加え大成功したが、翌41年5月のクレタ島で作戦こそ成功したが、制空権のないまま大被害を被り、以後ドイツ軍は大規模な空挺作戦を発動しなかった。
そしてクリミヤのギガントMe323、孤立したマンシュタインに補給物資を運んだまではよいが、心許ない制空権下、傷病兵の送還もままならず、いたずらにヤクー17の餌食になったのではないか、たよりない小生の妄想だが。


 ギガント、ドイツ語で Gigant 英語で Giant である。



       2017-6-3
posted by 速魚 at 07:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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