2017年06月05日

亀沢町・思い違いの数々勝小吉と割下水 


大幡

  「本所菊川町・勝小吉と同じ所者(ところもの)だい」とながい間菊川生まれと思い込んでいた、ある時、戸籍抄本を見ると緑町1−10番地とある。調べてみると、小吉も両国(現在の墨田区東両国)生まれである、「本所菊川〜〜」の思い込みはどこから来たのか全くわからない。
 昭和11年、緑小学校に入学、一年一学期は亀沢町(二丁目あたり)で過ごした、当時の担任を大石先生と思い込んでいたが、残されていた答案資料から川井先生と判明した。どうしたことかこの一学期のみ資料が残っている、母「つる」は父と結婚するまで、郷里三重県志摩郡磯辺村・尋常小学校の代用教員であったとのこと、教員としての資質からか、資料の保存に気が回ったと思はれる。
 図画の時間に、近くの線路を後ろ向きに走る蒸気機関車、煙が機関車の頭方向に流れていて、後ろ向きに走っている書き方を、よく見ていると先生に褒められた。その証となる絵が有ると思い込んでいたが、どうしたことかこれも資料にない。褒められた記憶はあまりにも鮮明である、とにかく思い違いの連続である。


 余談だが、近くの線路、総武線が両国駅貨物操車場に引き込まれる線路であり、鋼製の桁が枕木を井桁に組んで支えられていた。昭和11年頃のことである、この仮設工事の風景戦後しばらく続いた、戦時統制令の影響を受けたのであろう。


 昭和11年夏休みになって、母の発病(肺結核)で療養のため、郷里恵利愿に一緒に行くことになった。「たに」祖母さんが迎えにきて、東京駅始発鳥羽行きの夜行列車に乗り込んだ、向かいのホームを行き交う長い車列の窓明かりを覚えている、三等車の差し向かいの座席に板を渡し、そこに母が横になっていた、寝台車を用意できなかったのか、涙のにじむ思い出である。


 話しかわって勝小吉だが、彼の「酔夢独言」によると、俸禄外の稼ぎの場が専ら亀沢町であった。彼は記紀春秋とは全く無縁の人で、一応役に付くための挨拶回りをしたが、むしろ役につかなかったことが、彼にとって幸いであったと思う。刀の目利き喧嘩の仲裁、亀沢町が桧舞台であったが、小生にとっては一学期だけの場に過ぎなかった。
 亀沢町の大通り「割り下水」と呼ばれ、墨田城東の町工場を後背地として、中古機械や工具鋼材商の一大集結地である、小吉の刀の目利きと縁があるのかな、かなり無理のある話だが、どちらも思い違いとは無縁で酔夢でもない。
 割り下水、その名の由来は大通りの中程を割る下水からきている、下水といっても雨水除けで、小魚が泳いでいたといはれる。墨田区内に今一本の割り下水が向島寄りに有ったが、近代になって暗渠になり、亀沢町のみ割り下水の名前が残った。
 昭和年代を通して商・工業地として大いに繁盛したが、戦後しばらく1丁目の辺り、メリヤス製品の集積地であった。二丁目には最近葛飾北斎館が出来、賑わいを呼んでいるが、数年前、北斎の手書きの絵が見られるとのツアーが有り、牛に惹かれてではないがバスに乗せられて小布施・善光寺と廻ってきたが、絵は勿論のこと当時に復元された建物群が、それなりの風情で江戸時代の小布施を忍ばせてくれ、善光寺は改修工事の素屋根に覆われていた。

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 写真―善光寺素山門 

 先日、平成の「北斎館」に隣あわせのブロックに立ったとき、小学校一年の記憶が甦って来た、建物は戦災で失われて無いが、路地の様子がピッタリであり、このブロックの裏に総武線が走っている、毎日のように機関車を見ていたのかな、しばし感慨にふけった。

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写真―北斎館(A)

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住居跡(B)

 北斎といえば、版画類において世界で最も有名で、一度見たら忘れられないといはれる「富岳三十六景・神奈川沖波裏」、数年前上野の北斎展に足を運んだがやはりこの絵しか覚えていない。この巨大な波を実験水槽でおこし、その先端を1000/1のシャッタースピードで捉えると、全く絵のとおりヒトデがたの波頭が現れた、北斎にはこれが見えたのだ。比べるべくも無いが、小生には機関車の煙の流れと、半世紀後の路地の見分けぐらいしか出来ない。

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絵―富岳三十六景・神奈川沖浪裏

割り下水と交差する三つ目通りから四丁目にかけて、新古とり混ぜて色いろの工作機械(殆どがベルト掛け)や、標準のクランク・プレスなどを扱う機械商、鋼材・機械部品店などの集積地として栄え、20年代後半親父の手伝いをして、太丸(棒鋼)の藤田商事・型鋼の殿畑・鋼板(中厚板)の青柳シャーリング・機械ボルトの成島・スプリングの木島・伝導工具の「山中シャフト」等に出入りしたが、平成になってこの地を訪れてみると、成島・木島を除いて殆どの店や、道端に並べられた鋼材や大きな鋳物が全く見られない。またその名も「北斎通り」となり、産業地の面影を秘そめ、日本の工業力の源、中小鉄工所が求める色々の機材どこに行ったのか、この分野、大田区が今でもよく取り上げられる。城東地区の鉄工所壊滅したのかな、思い違いでないのを祈るや切である。

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写真―藤田商事 (C)

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木島スプリング(D)

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成島ボルト(E) 

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山中しャフト  (F)

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森田鋼板 (G)

 先日 、風景を撮りに行った時、二丁目の藤田商事は中層のビルになり、何の関連も無い店が入っている、しかし成島ボルト・木島スプリングと、ぽつりぽつりとかっての面影が残っている、三丁目の山中シジャフト何の痕跡も無い、これに反して森田鋼板昔のままである、これらをカメラに収めた。

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 亀沢町―地図
       亀沢町 一丁目   二丁目    三丁目   四丁目 



  (A)北斎館 (C)藤田商事   (E)成島ボルト  
            (B)住居跡 (D)木島スプリング(F)山中シャフト跡 (G)森田鋼板




      2017-6-5





posted by 速魚 at 05:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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