和木を訪ねて
第2次長州征伐の戦いで、四境の役のひとつ大島口の戦いはここで書きました。この戦いで大島より撤退した幕府歩兵2個大隊は芸備口の戦いに参戦した。4つの方面の戦いでこの芸州口の戦いが主戦場であった。
1. 大島口の戦い 1866年6月7日−6月17日 幕府軍2万vs長州軍千人 世良修蔵の指揮
2. 芸州口の戦い 同年 6月13日−6月19日 幕府軍5万vs長州軍2千人 引き分け
3. 石州口の戦い 同年 6月15日−6月17日 幕府軍3万vs長州軍千人 大村益次郎指揮
4. 小倉口の戦い 同年 6月17日−8月1日 幕府軍5万vs長州軍千人 高杉晋作指揮
広島城に集結した幕府軍は、彦根藩、高田藩、紀伊藩、与板藩など3万の軍勢に達していました。赤揃えの彦根藩が先鋒として小瀬川の大和橋付近に布陣した。
JR和木駅から徒歩10分くらいで小瀬川にかかる大和橋に行ける。この小瀬川は安芸の国と周防の国との国境をなすものである。ここで彦根藩の使者・竹原七朗平が川を渡っているところを長州に銃撃され戦死した。その渡河地点に石碑がある。

竹原七朗平の石碑と渡河場所

現在の大和橋 大竹側から和木の長州川を望む
その銃撃とともに戦闘が開始された。川辺にある小高い山に瀬田八幡宮があり、絶好の砲撃ポイントであり、ここから大砲が打たれました。
この神社は平清盛のころには海岸が迫り柏崎といわれ彼の歌碑がある。

大和橋を望む、砲撃には良い拠点

彦根藩兵は長州兵の少数ながらも最新のミニエ−銃で攻撃され敗走した。 この小瀬川より幕府軍の侵入を妨げたことにより、ここに封境の地の石碑が建つ。

ミニエ−銃 命中率や射程が優れていた。

封境之地の石碑 対岸は現在の大竹市
長州軍は玖波まで進軍してそこで戦線は膠着して、9月2日に勝海舟を派遣して宮島の大願寺で停戦した。

厳島神社の隣にある大願寺
蜂が峰総合公園には四境の役・芸州口の戦いが展示されていた。 お約束のように今回もまた、そこへ行くまでの山登りとなった。
午前中はバス1便しかなく、時間をよく調べていくことが必要です。

和木町歴史資料館 2階展示室
2017-6-6