2017年06月07日

本所菊川町と2・26事件そして高橋是清  


大幡

人生、最初の記憶は本所菊川町、父の勤めていた岩田商会の同僚、東郷さん一家との同居に始まる。昭和11年2月26日朝早く降り積もった雪を、長靴で道路脇の下水孔に踏み込んだのを鮮明に覚えている、後で2・26事件朝のことと知る。小学校入学前の事として、近くの市場で母親とはぐれて泣いたり、錦糸町の白木屋で「是わうまい」(ふりかけ)をねだったことなどがあり、少ない記憶のなかで、雪が取り分けのことである。      因みに、先の白木家今は無いが、かって錦糸町駅前交差点の南西角に、城東電車の駅ビルが有り、そこに入店していた。また城東電車は錦糸町を始発として、亀戸・大島・小名木川・境川・葛西を経て由門前仲町に至る、文字どおり城東区(深川区と合併され現江東区)唯一の足の路面電車であったが、戦時統制令で、東京市電に吸収されさらに都電となった。途中の境川から葛西橋までの支線があり、三和鋼器・砂町工場えの足として昭和30年代おおいにお世話になった。

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 写真 錦糸町交差点右上隅白木家

 2・26事件では多くの人が殺害されたが、詳しい記憶は全く無い、幼児に分かる筈が無い。全て後年の学習によるもので身近なものではなかった。

 時が流れ平成になって、青山のドイツ文化会館にしばしば訪れるようになったが、東京メトロ青山一丁目下車、青山通りを赤坂にむかい左手に東宮御所の森が続き、右手のカナダ大使館に隣接して、一寸した公園の前面を進みその角を右に折れ、そのまま公園に沿って150mほど進むと、左手にドイツ文化会館がある。色々な公報活動の一つに、年数回本邦未公開のドイツ映画の上映があり、このための往来であった。

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 写真 ドイツ文化会館

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是清の坐像

 あるとき何気なく公園の裏手から足をふみいれた、奥まったところに高橋是清の坐像があり、広々とした平地に針葉樹の高木が整然と並び、一角が和風庭園とされ、総体で2千坪の規模である。案内板に2・26事件の高橋是清邸との表示があった。「風が吹けば桶屋が儲かる」に近いが「雪が降って是清」という訳である。彼にこの大きな邸を構える財力、どこから生まれたのか暫く疑問であった。
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 写真 和風庭園

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案内板

 思い立って彼の伝記を調べてみた。少年期アメリカに渡っての奴隷生活にはじまり、奴隷と言っても、日本の丁稚小僧にあたるのではないか、とにかく屋根と口つきの2年で英語をマスター出来たのである。アメリカ南部の綿つみや鉄道工事のタコ部屋とは思えない。帰国して順風満帆ではない、事業の挫折七転び八起き波乱万丈であった。
36歳の時南米ペルーの鉱山に出資したが、現地に行ってみるとすでに廃坑になっていた、ようは騙されて全財産を失いかけたが、かなりの出資金を取り戻したので、経済能力には優れていたのであろう。
39歳転機がやってきた、日銀入行である。難工時途中の日銀新館の工事主任として、大きな予算オーバー・工期の遅れを、大理石からレンガへの設計変更により乗り切きって手腕を認められた、明治25−6年頃であった。
明治37年12月、戦費調達のためイギリスに渡り、目標の1000万ポンド(現3500億円)に対し、およそ13倍4兆5000億円の調達に成功するなど、抜群の問題解決能力を発揮したが、この私邸を構えられたとは思えない。
又大正2年山本権兵衛内閣の大蔵大臣に始まり、大正10年内閣総理大臣にまで上り詰め、72歳で政界を引退するまで、資産を構えるほどの事業活動が見えない。隠遁生活1年あまり、昭和2年日本を襲った金融恐慌が再び彼を必要とした。
田中儀一内閣の大蔵大臣として、銀行の取り付け騒ぎを収めるため、3日間の休業を定めその間に、紙幣の大増刷を行った、最高札を2倍の200円とし、裏面を白紙のままサイズも切り詰め、全国の銀行に山積みして際限なしの引き出しに応じられる態勢を整えた。これには、大暴動に至るかと思はれたさしもの群衆も平静を取り戻したのか、開業時には平穏な朝を迎えられた。因みにこの裏面白紙の紙幣はあくまで見せ金である、沈静化するとともに急速に回収され、市中に出回ったのは限られ、大変希少なものとなり現存すれば、500万〜1千万の値が付くとも言われる。
世界大恐慌が再び日本をいや是清をゆさぶる、犬養内閣の大蔵大臣として、76歳の老躯、病勝ちにも拘らず5度目の大役であり、日本初めての赤字国債である。国家予算を1.5倍に引き上げ、道路・公共事業を全国に広げ、重化学工業を振興、昭和7年には経済成長もプラスに転じ、世界に先駆けて恐慌を脱した、積極財政であり、後年「日本のケインズ」と言われるが、ケインズ経済学誕生まえのことである、むしろその元祖と言っても良いのではないか。
因みに、アメリカはその後もフーバー、ルーズベルトと不況が続き、第二次大戦への参戦でようやく脱したのである。

 余談だが、20年前バブルがはじけた時、第二の是清が現れたなら、GDPの2倍を超える赤字国債を積み上げることなく、隆盛とは言えなくも中国にGDP2位の座を明け渡す日が、はるか先の事になったであろう。
さて、是清最大の活躍の場はこれからである。とにかく赤字国債には副作用を伴い、インフレを招いて国家財政の破綻に至る恐れがある。しかし、当時軍部は昭和6年の満州事変、更にワシントン条約をたてにして、益々の軍備増強に赤字国債を引き当てようとした。
昭和10年11月の予算会議、川島義之陸軍大臣の主張に是清は「一体軍部はアメリカとロシヤの両面作戦をする積もりなのか。米国と戦ってニューヨーク・ワシントンを占領出来ると思うのか、またロシヤと戦ってモスクワまで行けるつもりなのか、国防というものは攻め込まれないように、守りに足るだけでいいのだ。大体軍部は常識に欠けている、その常識を欠いた幹部が政治にまでくちばしを入れるのは言語道断、国家の災いと言うべきである」と言い放った。
その3ケ月後、2・26事件の凶弾に倒れる、その傍らの愛用の机上に、フルベッキから贈られた座右の黒皮表紙のファミリーバイブルが置いてあったと言う。是清83歳、浜口雄幸・井上準之助・団琢磨・犬養毅とテロの時代が続き、第二次大戦の敗北という大きな犠牲があったが、今日世界はテロという全く新しい戦争の時代を見るにつけ、わが国は一歩先の道を進んでいるのであろうか、但し、一国平和主義とは全く別のことだが。
波乱万丈の人生である。謎は解けないが、凄まじい人生にただただ感じ入るばかりである。膨張する軍事予算の抑制に立ちはだかり、事半ばで2・26事件の凶弾に倒れ、さぞかし無念なことであろう。しかも、その後のわが国の多くの指導者が事に当たって、凶弾の災厄が脳裏をよぎり、時の流れに逆らおうとしてためらいを生じたという。2・26事件の後世に及ぼした災い如何程か計り知れない。そして、時代の大きなターニングポイントであった。

 さて、菊川町に因んで今ひとつの思いがある、勝小吉(海舟の父親)がこの地に生まれ「本所菊川、所ものだい」と下町キップを誇る台詞があるが、小生も同じ「所もの」だと長らく思い込んでいた、調べてみると、小吉は本所松坂町、現在の墨田区東両国3丁目辺りの生まれである、また、小生抄本によると本所区緑町1−2生まれとある、長年の妄想が吹っ飛んでしまったが、東両国2丁目では学業時代の大半を過ごした、小吉との縁いくらかあるかな。しかし菊川町には雪以外何もなくなってしまった。
 当時に戻って、小生まもなく小学校入学、幼児期からの転機であり、 しかも、入学したのは堅川を隔て隣町の緑小学校で、ひと月ほどの間に、一家は菊川町を離れて亀沢町に転居していた。


2017-6-7




posted by 速魚 at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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