2017年06月10日

東両国 その1 両国国技館・双葉山69連勝そして宮城野部屋                

大幡

 小学校三年生学期末、担任の前田長左衛門先生が、転校する小生に「算数で100点満点の大幡が東京に帰ることになった」と、級友の前で別れを惜しんでくれた。
 4年生の1学期を本所区東両国の江東(えひがし)小学校でむかえ、「信組」に編入された。当時1学年は男女それぞれ忠・孝・信の6クラスのところ、この年は人数が少なく信組に限り男女共学で、都会の生活が始まった。
 北側少し離れて省線電車の両国駅と、前面1ブロック先が市電通り、行き交う電車自動車の騒音にド肝をぬかれ、しばらくは夜寝付かれなかった。よくしたもので数日すると全く気にならなくなった。
 都会の音は煩わしいだけでなく心地よい音もある。大通りの向こう側が国技館である、場所になると朝早くから乾いた櫓太鼓の音で目が覚める。そして夕刻、最後の横綱の取り組みが終わると、それなりのどよめきが流れ、高らかに櫓太鼓が鳴り、やがてテンデンバラバラと低くなって、夜の帳りのなかに人々は散ってゆく。
 ところがある日夕方、トテツもない大歓声とともに太鼓がなった、近くに居た大人が「双葉山負けたぞ」と騒ぎになった。当時双葉山が連勝中で、70連勝間違いなしと思われていた、その日、安芸の海の奇襲にあって連勝が途絶え、時に、昭和14年春場所4日目のことである。
 この歓声を実際に聞いたと思いこんで居たが、資料をたどっていくと春場所は1月で、小生まだ磯辺小学校3年3学期で、田舎にいたのである、繰り返される大人の話がすりこまれ、いつの間にか実際に聞いたと思い込ませるほどの大事件であった。

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写真―A

 改めて双葉山の記録をたどってみよう、連勝は昭和11年1月春場所、前頭3枚目の7日目から始まり、同年夏場所全勝、12、13年の春・夏場所の全勝と66連勝しての、14年の春場所である。小生が緑小学校1年入学、三重県磯辺小学校3年との長い間並行して続けられていたのであり、途絶えたのは江東小学校転入前である。なにがしかの因縁を勝手に感じても良いのではないか、まして地元のこと相撲が大好きになった。

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双葉山連勝記録―B

 この3年での69勝とはと疑念が生ずるだろうが、当時は年2場所昭和11年は1場所11日、12年夏から13日となり、15日制となったのはさらに後のことである。そしてこの年月、今の6場所制に置き換えると270連勝に相当するのである。この長い年月怪我一つ無く勝ち続けたのは奇跡と言えることである。
 古く、江戸時代の川柳に「1年を20日で暮らすいい男」とあるが、晴天10日では場所ごとの優劣判定に差し支え、奇数の11日から13、さらに興行成績上から、今日の日曜からの15日制となったのである。足掛け4年の69連勝、今日の6場所90日に比べとてつもない偉業ではあるが、しかし、他の1面もある、当時大相撲は東西2陣営に分かれ全力士の勝星の優劣を競うことになっていた、従って、自陣営同士の取り組みが無かった、自陣営の上位強豪力士との取り組みが無い分、相手側の下位力士との分有利であったが。
 このような制度にかかわるのか、昭和10年ごろ、天竜事件と言う騒動があり、半数近くの力士が大阪に去り、協会分裂となった。紆余曲折して和解のなった力士が、出羽の海部屋に集まり、分家すじの春日野部屋を合わせると、半数近くを占めることになった。そこで、同部屋同士の組み合わせを避けるため、東西制となったのではないか、あくまで小生の憶測ではあるが、当時はそれなりの合理性があり、面白かった。そして、場所が終わると、優勝側が楽隊に続いて、オープンカーに横綱と優勝旗をのせ、そのあとに優勝側の力士が徒歩で続き、国技館から所属部屋えと街頭行進を行うのである。実際にオープンカーに乗った羽黒山と旗手の輝登を覚えている、昭和14〜5年頃のことである。因みに旗手は関脇以下の最優秀力士ときめられている。
 東両国2丁目の我が家の右隣が宮城野部屋であり、右に少し離れて羽黒山の住まいがあり、その所属する立浪部屋は3丁目とはいえ角を左折してすぐである。関取が身近な上、稽古が終わって砂だらけの力士が、目の前の朝日湯に駆けこむのが日常であった。
 戦争が始まった、いや空襲が、3月10日がやってきた。我が家のブッロクを残して、立浪部屋も含め周囲一面灰燼に帰した、国技館にも火が入り屋根の一部がむき出しになった。しかし、戦火に打ちひしがれた国民を鼓舞しようと、昭和20年応急措置を施し、11月秋場所として晴天10日、この場所に限り進駐軍の要望で直径16尺(4・8メートル)として大相撲が開かれた。さあ次場所と言う時、無残にも占領軍よりメモリアルホールとして接収されてしまった、

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写真―C

暫くは小屋がけで川向こうの浜町公園、代々木の神宮外園と晴天興業が続いたが、協会の努力により、蔵前に土浦にあった航空隊の格納庫の鉄骨を利用して、国技館を建てることにになった、途中見に行くと、隅田川に並行して大きな鉄骨が2列立っていて、その間に3角の梁が渡される大きな空間が目に浮かんだが、ふと、ツェペッリン(飛行船)が来航し、屋外に係留された時の支点になった風景を思い出した、昭和29年蔵前国技館が完成した。
 しかし、地の利と急ごしらえで使い勝手の悪さと、元の両国に帰ろうとの機運から、JRの操車場と、舟運のため隅田川から引き込まれた舟溜まりを埋め立てた地に、目がつけられ現在の国技館が再建された、そうして両国国技館となり、栃錦の尽力が大きかったと聞く。が、その地籍は墨田区横網町であり、元の東両国住民としてはいささか違和感があるが、横網(よこあみ)を横綱と勘違いする人もあり、まあいいかなと思う。
 さて、お隣の宮城野部屋、横綱の鳳(おおとり)が引退して興した部屋だが、初めは横網から始まったと記録にあるが、その後のいきさつは全く分からないが、我が家の左隣が宮城野部屋であったことは間違いない。幕内力士が1人、十両が1人の小部屋で土俵も無く、立浪部屋に出稽古していた、日時がはっきりしないが、そこの幕内力士が本場所で負け続け、10日目を過ぎてようやく1勝して「夜道が暗いので提灯が欲しかった」と、世間を笑わせたラジオ放送を覚えている。
 祥細を調べようと最近相撲博物館を訪れた、快く調べてくれた、親方の鳳が病弱で千葉印旛沼の方に転居し、また、キレイな娘さんが居るなど、かすかな記憶と資料がピッタリ一致した。しかし、当該する力士名が「福の里」だがスッキリしない、福の里とすると昭和27〜8年のことであるが、ラジオの時代である漢字2文字の力士と言う事で、立浪部屋に「緑国」と言う関取がいる、色々調べてもらったが納得できない、諦める事にした、小生のおぼつかない記憶では、とにかく宮城野部屋の力士であった。
戦争中の疎開騒ぎもあってか、部屋は留守中に色々な人が住みつき、ここに部屋が再興されることは
なかった。



                      2017-6-10


         
posted by 速魚 at 08:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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