大幡
昭和18年頃、2歳上の姉「和子」が勤労動員先の話として、両国国技館の大鉄傘下、桟敷を取りはらった大空間で、風船爆弾本体の和紙貼り合わせ作業について語ってくれた。かなり大きなものと想像した。この貼り合わせの接着剤として、コンニャク糊が使用され、アメリカで回収された風船爆弾の本体が、何で出来ているか分からなかったといはれる。とにかくオレゴン州で、原因不明の山火事が度々有り、プルトニューム抽出工場が一時的に操業停止したという。
この風船に水素ガスを入れて放流し、成層圏の偏西風(時速200キロの)に乗り、夜間温度が冷えて高度が落ちると、砂嚢の一部を落とし浮揚して高度を維持する、この時限装置を操作して大陸到達のころあいをみはらかって残る砂を全て落とし、着地と同時に携行する爆薬が点火、それなりの爆発に伴う焼夷効果を狙ったが、全くの運次第、対費用効果がゼロに近い兵器で、何が何でもアメリカ本土に衝撃をとの思いから生まれたものである。
後年、大宮碁会所の同好会「千住会」が催す、茨城県日立市鵜の岬温泉での会に参加、翌日対戦がすんで散会後、単身県北五浦(いずら)海岸の六角堂を訪れた。岡倉天心・横山大観などの修行の場で、崖を降りて海面近くに据えられた小さな祠(ほこら)である。

写真―六角堂

天心記念館
きれいに舗装された常磐線大津港駅までの帰り道、中ほどに差し掛かると、風船爆弾・放流基地跡という標識に出くわす、思いがけない邂逅であったが、荒涼とした只の野原、ここで約9300発の風船が放たれたのか、2年かけてとはいえ、少々手狭ではとの疑念が生じたが、さらに奥まで入ることなく通り過ぎた、風船がアメリカであまり気にも留められなかったように。しかし、後に地図上で調べるとかなり広大な地域と推察され、立ち入らなかったのが少々残念である。
余談だが、先ほどの六角堂、3・11大震災の津波で流失、海を漂うのがテレビに流れたが、しばらくして再建されたとの事である。
戦争が終わって殆どの工場が休止し、てきれいな水が隅田川に戻ってきた。昭和23年ごろ、川向こうの浜町河岸でボラが釣れた、エサは干潮時に現れた川底のドロを掘り返してのゴカイである。とにかく1尺余り、吊り上げて大騒ぎをした。この浜町河岸、都電が通っていたが、焼け跡のガレキ置き場となって、数メートルの山になっていた。当時中心部の銀座裏等の堀が、ガレキ処分場として埋め立てられた。復興を急ぎ、引き当てる予算も無く、行政の見逃しも有ったのであろう。
ようやく世の中も落ち着いてきて、花火の再開が期待されるなか、地元の新田組が、見物用の桟敷を独占すると言う条件でと聞いているが、ガレキを取り除き花火大会となり、尺玉やスターマインが夜空に乱舞した。成層圏を行く風船爆弾と違って、わずか2〜300メートルだが、空中に大花輪が甦った。我が家はそのすぐ傍であり、2階の物干しは絶好の場所であり、わずかな縁を頼りに色々な人がやってきたが、これも昭和35年までのことである。父の事業の失敗により、不渡りの穴埋めに2棟の家と地べたが処分され、転居を余儀なくされた。
話し変わって左隣の宮城野部屋、本来旅館のような造りで我が家のすぐ左隣、正面左側が洋館風の2階で、中央が玄関その右手板塀の中小さな庭のある和風総2階、かなりの奥行きが有るが、土俵の余地は全くない。その洋風2階が植木家である、老年の父がカザリ職をしていて、その製品を娘の「ますみ」さんが、帝国ホテルに納入していると聞いた。一方、年長の息子「等」やはりと思わせる野太い声で、ご存知どおりの風貌、なかなかの男前でその上如才ない、あるとき、小生と同学年の大村・本田の3人に、ハーモニカのバンドを結成し、夏祭りの余興に出ようと声をかけてきた。彼は色々なハーモニカを持ち合わせていて、大村・本田にはリズムとメロディを、小生には比較的易しいとベースを当ててきた、先の2人はそれなりの素養があり、何とか格好が付いた。
大村の兄貴はアコーデオンの名手でNHKに呼ばれるほどで、本人もタンゴに入れ込んで、特にアルゼンチンタンゴでは誰がどうの、当時人気の藤沢蘭子では物足らないとほざき。又、本田はジャズに造詣が深く、イーストコースト・ウエストコーストやれジャムセッションと口角泡を飛ばすほか、ラジオの組み立てに長け、当時日本橋白木屋にいた東京通信工業(後のソニー)に製品を納め、かなりの小遣いを稼いでいたが、後に、当時を振り返り「卒業後に来ないか」と声をかけられたが、見送ってしまいもし入っていたら、どんな人生だったかと述懐した。
さて、小生全くのオンチどうにも様にならず、この話オジャン、もし楽才がありコンボが成立し、等さんと付き合いが続いていたら、どんなスーダラ人生になったやら、想像するだけで楽しい。
余談だが、等さんの父親、三重県松坂近辺の寺の住職だったが、檀家との折り合いが悪く寺を追われたと、世間に言われていたが、住職からカザリ職えの転向どんな人生だったのか、とにかく、三重県から東両国、多少の縁が引き寄せたのかな。さて、「等」本人大変義理堅く、大村とはその後も交流が続き、千葉県幕張の転居先まで、近くの興業帰りに寄るからと電話してきたが、残念なことに来訪が無く、仲間が船で帰ろうと言うことで果たせなく、再度申し訳けないとの電話があったという。
風船爆弾も、花火も空中に飛び散り、3人も幕張・青梅そして鴻巣と散りじりになり、2〜3度再会を果たしたが、近年は両人とも「両国まで出て行くのはどうかなと」と言う始末である。それに引き換え、先日、相撲博物館を訪れたわが身の生命力、そのありがたさをかみ締める毎日である。
2017-6-12