2017年06月15日

毛利元就の調略 厳島の合戦における

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折敷畑の合戦後の毛利氏周辺図

 毛利元就の厳島の合戦における勝利は、奇襲といえども天運が味方したものではない。厳島に陶氏の本軍を誘引して、元就はそこでしか勝てない状況に持ち込んだことで、軍勢の劣る毛利は勝利できました。

 毛利の調略
1. 尼子氏へ
 
尼子氏の柱石ともいわれた新宮党の国久と誠久親子を誅殺させて取り除く。陶氏と尼子氏は折敷畑の合戦に連携して毛利を討つ計画があった。毛利は尼子に敵対する三村氏を支援して尼子への牽制に成功する。
2. 少弐氏へ
 少弐氏へ肥前から豊前と筑前への攻撃を促す。
3.来島水軍へ
 村上通康と婚姻関係を結び来島村上氏の水軍勢力を力にすることができた。

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4.陶氏へ内通工作
  陶氏家臣の江良房栄へ内応工作しそれを発覚させることにより討たせた。

5. 偽装内通
 桜尾城主の桂元澄の内通の文書を陶氏に送る。

 以上のような様々な調略で、元就は南北西方と周りの領国に手を打ちましたが、それだけでは陶氏に勝てるわけではありません。兵力が少ない毛利氏にとって敵の兵力を分散させ、その虚ををついてこちらの兵力を集中して勝つしか手段がないわけです。 それゆえに、「厳島を取られたら毛利には勝ち目はない」という虚報をわざと知らせます。見事に陶軍の厳島への誘引が成功して、本土側を侵攻する部隊と厳島に押し寄せた主力に分断させた。
 また少数の軍が大軍に勝ためには敵の大将を討ち取るしかありません。暴風雨を押して夜陰に厳島に上陸した毛利軍は山越えの奇襲作戦で陶軍を混乱させ、島ゆえに逃げ場のない大将陶晴賢を討ち取りました。 宮尾城で足止めしていた陶軍を後詰め決戦の戦術となり打ち破りました。

 元就は味方を鼓舞するために、この戦いでも包ヶ浦に上陸した時に、獣道から下りてきた鹿を見つけて、「天命が幸運の鹿でわが軍を導く」とか博奕尾の山頂に来た時は「もう博奕に勝ったようなものだ」とか細やかに発言した逸話が伝わっています。吉田郡山の山間部の地方豪族から中国の大大名になった元就ですので、知略にはすごいものがあります。子供たちにはそれは受け継がれなくて関ケ原に敗れて2か国の大名になってしまいます。

    2017-6-15




 

posted by 速魚 at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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