
中津城 (コンクリ−ト製模擬天守 萩城天守がモデルという)
ヨットで中津を訪ねるプランでしたが、あいにく上関・山口県を出港したとたんに濃霧におおわれて、港に引き返すハメになりました。霧が晴れて9時ごろに再出港する。入港時間の関係で行き先を変更して大分県・ムサシのマリ−ナへ(大分空港近く)行く。翌日レンタカ−で中津に行ってきました。

中津川(山国川)を天守から望む
中津城は黒田 官兵衛(如水)が築城した。山国川の河口にある平城であるが堀に海水を引き込み海への交通に配慮した城である。大阪へは早舟で3日で行けたという。

城割図
その後細川氏がこの地を領したことにより改築されて、石垣に黒田と細川の跡が残る。

石垣にある黒田と細川の継ぎ目 左が黒田で右が細川
細川氏の次は幕府譜代の小笠原氏から奥平氏になり幕末まで続く。
黒田如水の息子長政は如水が熊本の一揆成敗で留守の間に敵対していた城井氏をだまし討ちした。その家臣も待機していたお寺で斬殺された。その後寺の壁を塗り変えても赤くにじむので、赤壁にしてしまったという。

赤壁合元寺
家康と握手を重ねたという長政に、その時の左手が何をしていたのかと問い詰めた如水の逸話があるという。
秀吉も如水にわずか12万石しか与えなかった。石田三成にも20万石の両雄であった、両者ともその2−3倍の領地を秀吉が与えていたなら歴史も変わり、豊臣家は残ったであろうにと思います。 息子の長政は関ケ原の働きで筑前52万石になりこの地を去った。
奥平氏になり蘭学が盛んになり解体新書の翻訳なり、福沢諭吉らが輩出した。行かなかったが福沢記念館もある。
2017-7-29